第3話
瞳を開いたのは、まだ朝もそう時の経ってない頃だった。多様な感情を宿したままの睡
眠は浅く、掛け時計で確認すると3時間ほどしか眠っていなかった。
昨日、どうにもやりきれない思いを抱えていた隼人は、福岡結愛にそれを安らげてもら
った。彼女の内にある温かさに触れたことで、隼人はグラついた心内を緩められた。
彼女に名前を聞いたのは微かな望みだった。もしも彼女が美月だったら、そんな淡く可
能性の低い希望に賭けたが無理だった。
その希望が叶っていたら、どんなに嬉しいことだったろう。ここぞの場面で出た逆転打、
試合なら観客の盛り上がりは説明するまでもない。
ただ現実はそう思い通りに事を運ばせてはくれなかった。よくよく考えてみれば、福岡
結愛と美月じゃあ人間が違いすぎるわけだし。こちらに都合のいいように、彼女と美月を
無理やりに合わせてしまおうとしたのだろう。
フウッ、そう息をつくと、昨日の下手な思考もいくらか吐き出せた気がした。
隣の部屋にある、トイレの洗面所で顔を洗い流すと体の膜にこびりつく嫌な自分の膜も
落とせた気がした。無論に全部が全部をとはいかないが、隼人の中で自分なりに気持ちの
整理をつけることが出来た。
学生といえど22歳だ、我が通らないからといって子供のようにその場で泣き叫ぶよう
なことはしない。自分は自分だけで生きてるわけじゃない、周りの多くの人間と生きてる
んだ。自分の我だけのために、周りの一切を無視するほどバカにもなれなかったし。
部屋に戻ると、携帯の着信メールがあった。福岡結愛からだった、初めての彼女からの
メールに多少の心のまごつきを憶える。
昨夜の帰り際、隼人の方から彼女にアドレスを訊ねた。わずか2日のうちに4回も顔を
合わせ、その4回目は彼女を求めて行っていた。彼女の存在をもっと近づけたい、もっと
知ってみたいと思っていた。
そうして訊ねると、彼女は顔を歪めることもなくスッと自分の携帯を差し出した。その
アドレスとナンバーを記録し、こちらのも教える。
隼人は今日の昼頃にでも送ろうかと考えていたが、彼女の方から先にメールが来たこと
は意外だった。着信時間は5時45分、えらい早い時間だなと単純に思う。
「おっす、隼人。こっちはさっき起きたところ、そっちは多分寝てるんだろうね。
店の仕入れがあるから、毎日5時半に起きなきゃいけないんだよ。こればっかりは慣れ
ないよ、これから冬場になってくると余計に辛いんだ。いつまでも布団にくるまってたい
けど、そうもいかないからね。爺ちゃんと婆ちゃんに無理させられないから、私が頑張ん
ないと。
隼人は学生なんだよね、どういう勉強してるの? 私は中卒だったから、学生やってる
同年代を見ると羨ましくなったりもする。まっ、よくもそんなに飽きずに勉強なんかやっ
てられんなぁ、とも思うけど。
そろそろ朝ごはんだから、ここらへんで止めにしとくよ。
そういえば、隼人って呼ぶことにしといたからよろしく」
なるほど、早い時間なのは市場の仕事があるからなのか。
昨日の彼女の働いている姿が浮かぶ、隼人の前では見せていない柔な姿。自分には尖っ
てるところを出してくるが、おそらくあの仕事をしている時の彼女も本物なのだろう。優
しく気の遣いのいい女の子、涼しげで悲しみを帯びた瞳をする女の子、どちらも彼女なの
だろう。
昨日の隼人の不安定だったことにはメールは触れてなかった。彼女の気の遣いなのだろ
う、昨日もそれについて突かれることはなかった。何を知ることもなく、ただ自分の体を
抱きしめてくれた。それに救われたのは事実だった、あの温もりは心内の不定さを宥める
力を持っていたから。
彼女の体は自分に合っていて、そこに素直に身を委ねていた。
☆
シャワーで汗を流してから、リビングに行くと母親の悦子の姿があった。
「おはよう、隼人」
「あぁ、おはよう」
「朝食、もう食べる?」
「うん、よろしく」
悦子がそう隼人の分の朝食の用意を始めると、父親の一之介がリビングに姿を見せた。
既にどこそのブランドもののスーツを身につけ、あとは家を出るだけというぐあいだ。
オーブントースターのぜんまいばねの戻る音、電気ケトルを沸かす音がする部屋に一瞬
にして緊張感が包む。
この展開はむしろ予測していた、望んだといっても間違いではない。昨日は嫌な空気感
のままで終わりになっていたから。あのまま家の中で疎遠な関係になるのは好ましいとは
思ってない。だから、まだ父親のいそうなこの時間に朝食を摂りに来たのだ。
「おはよう、隼人」
「あぁ、おはよう」
2人が交わしたのは挨拶だけだった。それでよかった、無理くり関係を修復するほど隼
人も大人にはなりきれてなかったから。なんとか一歩だけでも距離を詰めれればいい、そ
れぐらいが妥当だと思っていた。0と1は大きく違う、だからこれでいい。
「昨日のこと、ゆっくり考えてくれていいからね」
キッチンにいる悦子からの言葉だった。
「うん、分かってる」
返事は緩めにする、昨日なら棘のあるものになってただろうけれど今日は心内も戻って
いた。
「今すぐ進士さんに返事しなきゃいけないわけじゃないから」
うん、そう隼人は答える。
隼人は両親を許すことに決めた、それは2人の願いを聞き入れることを決めたわけでは
なく。隼人は分かっている、この両親だって祖父母によって結びつけられた政略による結
婚だったことを。
もしかしたら、2人にとってはこれは望んでいた結婚ではなかったかもしれない。それ
でも周囲の意向に応えて結婚し、それによって隼人はこうして生を受けることになった。
それはもちろん感謝すべきことであり、この2人が結ばれてなければ無いことだった。
だから、隼人も頭ごなしに否定はしないでおこうと思った。両親も伊崎の会社の良化を
と考えた上での行動で、それを投げやりに踏み潰すような親不孝をするのは心が痛む。
なんにしても、隼人には目の前に拡がる社会への道が果てしない白世界に思えて仕方な
かった。
大学には1限目の授業の開始時間より早めに着いた。
駐車場に停めたCBR600RRのバイクに不安定に跨りながら、隼人は携帯を手に考
え込む。頭を悩ませていたのは、進士真奈美への返信メールだった。昨日の昼過ぎに受信
してから、ずいぶんと長い時間が経っていたから。
昨日はこっちもそれどころじゃなかったし、正直なところ返信すること自体が頭から離
れていた。彼女は今もあのメールでのまま、心内を乱したままでいることだろう。彼女の
性格を知っていれば無謀ともいえるかもしれない、進士真奈美はえらい淋しがりやだから。
独りぼっちにされることが何より苦手で、心身のコントロールの効かせ方が他人より下手
だった。昔は一緒に遊んだりしてて、長い間独りきりにすると泣き出してしまうことはざ
らだったし。早く解放してあげないといけない、それを出来るのは他の誰でもない自分だ。
「真奈美、おはよう。結構悩んでるみたいだったけど、昨日は眠れたかな。
俺も昨日の夜に聞かされて・・・・・・ただただ、ビックリした。正直、ビックリした
のと一緒に頭にも来た。そんな人の一生にかかわることを他人に勝手に決められる、って
ことに。
頭の中で親を何度と冒涜してた、そんなことしても何も変わらないって分かってるけど。
昨日はそんな感じで自暴しちゃってメールを返せなかった、ごめん。多分、真奈美も俺
と同じ気持ちに陥ってたはずなのに。分かってやれるはずの俺が救ってあげなくて、単な
る自己陶酔になっていたんだ。
真奈美はそんなに思い詰めることなんかない、俺のことで苦しまなくていい。俺たちに
は全く非なんかない、だから自分が悪いことしてるように思わないでほしい。
それに、嫌いになんかなるわけないだろ。俺が嫌いになることもないし、お前が嫌われ
ることだってないよ。不安にならなくていいから、今回のことはゆっくり考えていこう」
誤った箇所はないかと見直してから送信のボタンを押した。この手のメールになると、
微妙な言葉遣いや言葉の裏に潜んだ意味合いが相手に伝わって傷つけてしまうこともある。
妹のような存在である真奈美に対して、そんな下手な言葉は出てこないだろうが一応に。
隼人はその場で15分ほど時間を潰す、何をするということもなく。15分が過ぎると
真奈美の授業が終わり、携帯の着信を確認するはずだ。そこに自分からのメールがあれば、
すぐにでも開封して返信を打ってくるだろう。隼人もその返信が気になったので、授業に
は向かわずにそこで着信を待った。
着信がきたのは25分後で、もう返信はないのだろうかとも思い始めていた時だった。
向こうも授業間の休み時間いっぱいを使って、隼人と同じように語弊はないかと気にして
打ったものなのだろう。
「隼人お兄ちゃん、おはよう。メールありがとう、返事くれただけで嬉しいよ。もしかし
てだけど・・・・・・嫌われちゃったのかな、って思ったりしてたから。
そうだよね、お兄ちゃんも私と同じように悩んでるんだよね。お兄ちゃんこそ、私のこ
とで苦しんだりしないでね。そうなることが私は心苦しい、胸の中のもどかしさが止まら
なくなる。
お兄ちゃんの言うとおり、このことはゆっくり考えてこうね。私は、お兄ちゃんからこ
うやって元気づけてもらえただけで充分だから。
ただ、周りの誰にも相談できないのがちょっとキツいけど・・・・・・。両親にもした
くないし、頼れるのは隼人お兄ちゃんぐらいだよ。
結局、私はいっつもお兄ちゃんに寄り掛かってばっかだね。窮屈だったら言ってね、直
すようにするから」
隼人は俯き、一つ鼻で息をつく。何をしたわけでもない自分や真奈美がこうして胸を痛
ませていることに。
それでも前を見ないとならない、やってくる現実に感情は複雑になっていく。
「お前、どうしたんだよ」
海斗からの言葉だった。
講義堂での授業は静観した空気がはびこっている。教授の言論に学生は耳を傾け、必要
があればメモを取っていく。なんだか馬鹿馬鹿しくなってくる、この授業が自分の未来に
何をもたらしてくれるんだろう。おそらく何も効果はないだろう、学生たちもそれを分か
って授業を受けている。
それじゃあ、この集団は一体何をしたいというんだ。ただ単位を取るために効果もない
授業を受ける、それが人生にどれだけの意味になるんだ。
そんな卑屈に浸ってるうち、授業を放棄するようにふてっていた。
「別に、気分が乗らないだけ」
こんな馬鹿馬鹿しいことやってられるか、そう思うと気分はこれでもかと萎えてくる。
あとでノート写させて、と言い、隼人は背凭れに身を預けて目をつむった。
☆
それから数日、隼人は感情をうまく整理できないままに日々を過ごしていた。進士真奈
美にああ言っておきながら、自分自身は不器用に生きることしか出来なかった。
そんな負に追い詰められていくうち、周りも濁って見え、自分もその1人なんだと錯覚
してしまう。一度嵌ると抜け出すのは難しかった、負は負を呼び込んで離してくれようと
しない。
こんな悪循環に飲まれると、彼女にたまらなく会いたくなる。彼女と一緒にいれば、こ
んな苦味から一時だけとしても逃れられそうだったから。
あの日、体を寄せ合った日から福岡結愛とはまだ会っていない。出会って2日目の男女
としては近づきすぎた感もあり、速めすぎたアクセルを緩めるように直接顔を合わせるこ
とをしなかった。その代わり、メールでの交流は日に1回を続け、それによって彼女との
繋がりを維持していた。
この日は海斗と啓史と森に行く約束をしていた。
毎度のように、近くのディスカウントショップに立ち寄って食料を買い込み、最寄り駅
のレンタサイクルでスポーツバイクを発車させ、寒気のある北風を正面から受けながら、
誰もいない道路の中央を、曲がりくねったカーブの坂道を駆けていく。
土で出来た安定感のない道を抜け、10mほどのトンネルの先にある森の世界が出迎え
てくれる。国境を越えた子供たちだけの国、大人になりきれない自分たちはそのギリギリ
のラインにいるといえた。社会に出ればここに来ることも限られる、最近はそれを実感す
るようになってきた。
森に入ると、適当なところで腰を下ろして買っておいた食料を漁りながら、なんてこと
ない話をしていく。誰に気兼ねする必要もない、夜中にこんなところに来る人間はザラに
しかいない。肝試しに来る近所の学生かカップル、それぐらいだ。
「おいっ、音がしたぞ」
トンネルの方からなにやら声が聞こえる、その音はだんだんと近づいてくる。どうやら
カップルのようだ、いいカモが来た。
「静かにしろ、バレないようにな」
そう海斗が指揮をとるように促すと、隼人と啓史はお馴染みの配置につく。カップルの
足音がトンネルのコンクリートを踏むものから森の土を踏むものへ変わる。そこが狙い目
だった、「いけっ!」と海斗が右手を挙げると一斉に行動を開始する。隼人は落ちている小
石を投げていく、もちろん人に当てたりはしないように。海斗は口笛を巧みに使い、森に
よく合う鳥の鳴き声の真似を響かせる。啓史は近くの木を思いきり揺らし、ガサガサと不
吉な音を流す。夜の暗い森の中では充分すぎるほど不気味なシチュエーションを起こすと、
大抵の人間は気味悪がってそこから立ち去っていく。
その様子を確認し、3人は成功のハイタッチを交わす。中学生ごろからやっている遊び
だったが、今になっても変わらず心を躍らせてくれる。このくだらない時間がたまらなく
愛おしい、この時間がいつまでもどこまでも続いてくれれば、3人はそうまだ大人になる
ことを拒んでいた。
目を覚ますと、太陽はずいぶんと高くに上がっていた。もう昼近くになるのだろうか、
えらく長いこと眠ってしまったようだ。
「おい、啓史、起きろ」
隣にいる啓史を起こしながら、海斗の不在にもすぐ気づいた。左腕の腕時計を見てみる、
午前の11時4分。
携帯を眺めると、海斗からの着信メールを開封する。
「悪いけど、用事があるから先に帰る。起こしちゃなんだから、そのままにして行くから」
1時間前のメールだった、自分で起きて自分で帰ったようだ。
起きてから何をすることもなかったので、隼人も啓史とスポーツバイクで来た道を帰っ
ていく。
レンタサイクルのショップに自転車を返却すると、駅付近から港へ向かった。港市場か
ら溢れる生気はこの時間にもなれば薄まってきていて、隼人は啓史と昼食かどうかも分か
らない朝食を摂って、予定もなく家の方角へ近づけていくだけの歩を進ませていく。
港では福岡結愛のところへ行くことはしなかった。啓史にも海斗にも彼女と交流がある
ことを伝えてなかったし、なんとなく顔を合わせづらくもあったから。
この日は大学の授業もなく、そんなときに彼女に会うことに変な引け目があった。学生
でプラプラしている自分、学校にも行かずに毎日働いている彼女。それなのに世間的な格
付けや富に恵まれているのは自分であり、それが隼人に疑問を抱かせる。生まれながらに
あった幸福が自らを痛める、いっそ彼女のような環境に生まれていればと思う。
「なぁ、俺らって一体何なんだろうな」
啓史が水色の絵の具に白く濁った水を落とし、じんわり拡がったような空を眺めながら
言った。
「どういうこと?」
「歩くべき道が決まっててさ、それの通りに歩いてる俺ら」
溜め息でも織り交ざってそうな言葉は隼人にもよく伝わった。同じ境遇に置かれ、同じ
将来を携え、同じ当惑に迷っている仲間だからこそ。
「さぁな、俺にも分かんねぇよ」
本音だった、今の隼人に確かな自分というものは見えてはいない。掴むにはあまりに定
まらない形ばかりで、踏み込むにはあまりに足取りの悪い面ばかりだった。
「お前、このまま何もしないまま一生終わる気?」
啓史の瞳はいつになく真剣だった。
「・・・・・・そんな気はねぇよ」
隼人も真剣に返答した。道を外れることを好みはしないが、このまま一直線に伸びる道
をそのまま辿る気はない。体のどこかにある反発心がブルッと疼く、自分自身にはやし立
てるように。
「だよな、このまま終わってたまるかっつうんだよ」
啓史の言葉には力があり、その背中からは愁いにも似た深みがあった。何かを押し静め
てるようで、今にも溢れてきそうに思えた。
☆
その頃、海斗は重々しい空気の漂う和室にいた。
大通りから一つ入った路地に建つ、昔ながらの風情が色濃い日本家屋。一般庶民には手
も足も出ないような、個室だけの和室が並ぶ料亭。窓一面から臨める風景には、厳しく手
入れの施されてある芸術品のような庭園が広がっている。目の前の卓に置かれる会席料理
は四季折々の新鮮な素材や旬の食材を使用した値打ちのあるものばかりだ。父親と親交の
ある企業の重役たちと食事をする機会がある際にここの料亭に来たことは何度かあった。
しかし、今日に限っては大きく意味合いが異なっていた。今日は主役が自分、父親も母
親も脇役であって、それは彼が望んだシーンではなかった。
「初めまして、安佐華恵です」
そう眼前の女性はこうべを垂らす。背筋もピンと伸びた姿勢で、一つ一つの所作から品
性の良さが窺える。両親から受けてきた躾や稽古事で培われた学習がしっかり身になって
いるのだろう。
「初めまして、萩野海斗です」
そう海斗もこうべを垂らすと、頭を上げた時に目線がバッチリと合った。彼女はそれを
逸らすことなく、ニコッと微笑みを届けてくる。海斗は笑みを返すことはしなかった、し
ようという考えに行き着かなかった。
海斗には、目の前にシュッと対座している女性の様子がいやに気になっていた。白の蘭
の花を描いたモダンな振袖を無理なくスマートに着こなして、その佇まいはもう何遍とこ
んなシーンを経験しているかのようにフィットしていた。実際に経験してるわけはない。
普通そうであろうし、そうであることを耳にもしていた。
なのに、彼女は変に落ち着いていて、この状況に腹をくくっているように見えた。それ
は22歳の女性にしては不自然で、人為的にそうされてるのかと疑りたくもなった。それ
だけ彼女は彼女として整っており、無理がなかった。
それからの経過はマニュアルに沿ったような、機械的で流動的なものといえた。
食事の席で交わされる会話はお互いの両親が大体を占める。内容は海斗と安佐華恵のこ
となのに、話してるのは本人以外の4人だった。本人間での会話は僅かで、それも親同士
の会話に
「折角なんだから、2人も何か話すことないのか?」
だとか急に外野から入れられたものばかりだ。
正直、そんなことを言われても特に聞くこともない。今日が初対面で、さっき初めて顔
を合わせたばかりなんだから。昨日までに資料で相手の情報は入ってはいたが、それも形
式上のプロフィールでどこまでが本当か疑問だ。嘘を書いてはいないが、海斗の女性遍歴
や好みまで載ってるわけじゃない。それはお互いに言えて、あんなもの人間の良いところ
だけを切り取ったものにすぎない。それを鵜呑みにして、理想的な女性像をつくりあげて
来るような御粗末者でもない。眼前にいる彼女は自分の良質な情報だけでつくられた擬似
的なものなのだ。
実際、彼女からの言葉も機械的なものだった。質問も趣味やら特技やら例に倣ったもの
ばかりだし、彼女自身のそれもテニスやら茶道やら在り来たりな回答だった。
つまらない時間だった、食事には参加してるだけで心はどこか別の方向に向いていた。
父親の笑顔も母親の笑顔も形式的で、自分も同じことをしている。前に座っている相手方
の3人も同じで、それはこちら側に座っている自分たち3人を鏡で映してるように思えた。
そう思うと嫌だった、こんなことをしている自分が。この先、自分はこれを死ぬまで続
けていくのかと溜め息をつきそうになる。
眼前の女性からの視線の変化に気づくこともなく、そう海斗は自我に浸っていた。
その頃、啓史はフラッと道端にある書店に入っていた。行きつけでもなければ、さほど
足を踏み入れたこともない店だ。商店街からも少し外れた、街にあまりに馴染んでいる小
さな店。店主の年齢からも、店の内装からも、もう数十年は営んでいる店であることは分
かりうる。客も近所の小学生が2人いるだけで閑散としていて、大抵の時間はこういう状
態なのだろうと思えた。その小学生たちだって、少年誌を熱心に立ち読みしていて本を買
う気は全く見受けられない。こういう類の店はどうやって利益を得ているのだろう、と不
思議なぐらいだ。
そういえば、前に駄菓子屋の話を聞いたことがある。1つにつき10円から30円の商
品を売り、客層も小学生ぐらいまでの子供しかいなくて何の利益になるんだと思ったが、
店の一角で売られているたばこが意外に効いているらしい。
確かに、10円の駄菓子を30個売るより300円のたばこを1箱売る方が圧倒的に楽
だ。店のサイド商品が活躍することは珍しいことではないが、こと書店に関しては違うか
もしれない。書店には本しかない、こういった街角にポツンとあるような本屋なら尚更だ。
10円の駄菓子はないし、もちろん300円のたばこなんてない。
また逆戻り、どうやって利益を得ているのだろう。
ハッとなる、啓史は2回かぶりを振った。こんなことをしに来たわけじゃない、そう自
分に言い聞かせる。もっと別の、大きなことを仕出かすために来たんだ。
啓史は大きな呼吸を一つする、鼓動は次第に高鳴っていく。こんな緊張は初めてだ、こ
れまで経験がないし、経験なんてする必要もないものだったから。鳴りやめ、といくら胸
の内に送っても聞いてくれやしない。自分の体なのに自分で制御できない、どうしようも
ない感情の中に生まれだすスリル。
右手はするすると伸びていく、手が触れたのは読んだこともない少年漫画だった。タイ
トルが目に入ったが知りもしない、詳しく観察する時間なんてありはしない。ちらりとレ
ジにいる店主に目を向ける、なにやら新聞を読んでいるようだった。小粒の虫を研究する
ように虫めがねを使っている、問題は何一つなかった。
本を手に取ると、流れるようにスッと肩に掛けた小さめのショルダーバッグの前ポケッ
トへと入れる。店主は新聞を眺め、小学生たちは少年誌を眺めている。成功、大成功、心
の中で大きなガッツポーズをし、啓史はニンマリと笑った。
そのまま書店を後にすると、歩く速度を逃げるように速めていく。店主にも小学生たち
にもバレてはいない、捕まえられることはない。それでも相変わらず弾み続けてる鼓動の
音のように、両足は止まることがなかった。警察から逃れる指名手配犯は毎日こんな生活
をしているんだろう、大した強靭さだ。
3分は経ったころ、ようやく心持ちを落ち着けはじめられた。速度を緩めていき、歩を
止めたときにはこの季節には不似合いなほどの汗が流れていた。汗の出る顔を上着の袖で
拭い取ると、バッグの前ポケットに手を遣る。戦利品の確認、成果の確認、新しい自分の
確認、そのために。
やった、やってやったぞ、そう思ったのは束の間だった。
ない。ない。ない。ない。ない。
どうしたんだ、落としたのか、違うところに入れたのか、それともまさか・・・・・・。
その「まさか」に考えが行き着くと、極度の緊張が押し寄せ、拭ったはずの汗がまた噴き
出した。遥かな大空へ離陸した期待が動きを止めて墜落、そんな情景が浮かんだそのとき
だった。
「い〜けないんだ、いけないんだぁ♪」
聞き馴染みのある歌に、啓史は心臓が飛び出そうなほど吃驚する。体が宙に浮かぶぐら
いに反応し、瞳孔は完全に開いていた。
「せ〜んせぇに、言ってやろ〜っ♪」
啓史はゆっくりと後ろを向く。そこには、啓史が盗んだばかりの漫画本を右手に持った
女の子が立っていた。
終わった、そう項垂れそうになる気持ちといったら説明の仕様がない。
「これ、君のでしょ?」
そう、彼女は啓史の方へ近寄って本を差し出す。
「君のっていうか、一応は本屋さんのものなんだろうけど」
やっぱりだ、この子は一部始終を見ている。
「でも君が盗ったんだからさ、君のものってことになるのかな?」
ずいぶん健やかな顔をしている、こっちの気も知らずに。こっちの弱味をガッチリ握っ
てる分、ズケズケと入り込んでくる。
啓史は何も返答しなかった。彼女はフッと口角を上げ、啓史の手を取り、持っていた本
をポンと渡す。
「これはきっと君のものだよ。法律とか分かんないし、所有権だとかどうだっていいけど、
この漫画は確かに君のところにある。だから、君のものでいいんだよ。大丈夫、誰にも言
ったりなんかしないから」
彼女は笑顔のまま、啓史の手を取ったまま、本を渡したままで言う。その微笑みは快活
な印象で溢れ、大きめな瞳には透き通るように惹き込まれる。ただその分、その奥にある
はずの真意が掴みとれない。最初から悪辣な手段で突いてきてくれた方がまだ分かりやす
い。
何がしたいんだ、そう体の中で言葉が木霊していた。
啓史は何も言わぬまま、女の子を無視するように歩き出した。当然なのか、否か、彼女
もきっちりと等間隔で後ろを着いて来る。偶然を装うわけでもなく、探偵のようにこっそ
りつけるわけでもなく、堂々と瑠璃色のスカジャンに両手をつっこんだまま存在を充分に
出して歩いている。
気づいてもらう気、構ってもらう気が満々だ。そんなにされたら、存在を振り払おうと
するのが無理な話だ。
「なぁ、おい」
振り向きざま、啓史は強めに言い捨てる。
「んっ? なぁに?」
そんなことは無頓着な様子で、彼女は一気に啓史の横にまで歩み寄る。
「なんなんだよ、さっきから。俺を脅すんならすりゃいいし、警察に売るんなら勝手にし
ろってんだよ」
半ば自棄で言い放つ。警察行きになんてなれば、どうなるかも分かってる。自分だけで
なく、親にも水下の会社にも傷をつけることになるんだろう。
「そんなことしないよ。さっきも言ったじゃん、誰にも言わないからって。信じてくれた
っていいじゃんか、私そんなに信用なさそうかな?」
彼女も少し強気な口調で言う、大きめの瞳からはその真剣さが窺えた。
「じゃあ、どうして着いてくんだよ」
「どうして、っても・・・・・・」
なんだか、まごまごした様子で彼女は俯く。
「特に理由がないなら、着いて来ないでほしいんだけど」
「うぅん、凄くね、気になったの、君のことが」
追い込まれてるからか、言葉が途切れ途切れになっている。
「だってね、君の感じからして万引きするようには思えないの。結構高そうな洋服着てる
じゃん、私なんか手が出せそうにない感じだし。だから、あそこの店長のお爺ちゃんも油
断しきってたんだと思う。君みたいな身なりの子がウチの本なんか盗むわけがない、って
いう先入観で。多分、私みたいな格好の子だったら、あんなに隙だらけにはなってないよ」
なるほど、啓史は変に納得していた。
「先入観ってね、意外に怖いもんなんだよ。君もそうだよ、さっき私にあっさりバッグか
ら本を抜き取られてたでしょ。盗んだばかりの物がすぐ盗まれるはずがない、っていう勝
手な思い込み。まぁ、私も数々の物を盗んだりしてるから技術の差ってのもあるんだろう
けど」
万引きの常習犯、そんなふうにはとても見えない。令嬢には見えやしないが、顔立ちは
可愛らしいし、人間が曲がってるようには思えない。
「君、万引き初めてでしょ?」
見てたら分かるよ、と彼女は言い足す。
啓史はまだ何も言わない、前にいる女の子の真意はまだ掴めない。
「何かあったんでしょ。何かあって、ムシャクシャしてたんでしょ。正直、漫画本の一冊
ぐらい買うお金は山ほどある。けど、何かに大きくイラついてて、それに見合う解消法を
探してて行き着いた。ダメだとは分かってたけど、今を変えたいと思って衝動的に行動に
移した」
でしょ、と彼女は啓史の顔を覗き込むように言った。
啓史は鼻で息をつく、観念することを決めた。現場を見られてるんだから下手に逆撫で
出来ないし、誰かに今の思いをぶつけたくもあった。
「そうだよ、全部正解だよ」
啓史は漫画本を彼女の方へ突き出す。
「やるよ」
「やるよ、って言われてもいらないよ」
「俺、そんなのいらねぇから」
そう強引に渡されると、彼女は何か閃いたように徐に本を破り出した。そして、不器用
に縦に二つにすると片方を啓史へと返した。
「じゃ、半分こにしよう」
「はっ?」
半分っこってどういうことだ、意味が分からない。そう思ってると、彼女は持っていた
本を空き地に向かって山なりに投げた。
「君も投げなよ」
そう促され、啓史も手にしていた本を空き地へ山なりに投げる。片方だけ持っていても
価値はないし、その本自体が啓史には価値のないものだったし。
啓史の投げた半かけは彼女の投げた半かけの先に落ち、そのうちに彼女からの言葉が届
く。
「どう? スッキリした?」
そういえば、胸の内を埋めていた切事が穏やかになりはじめている。
「これね、私よくやるんだ。なんかムシャクシャすることあったら、適当に万引きして海
とかに力一杯に投げるの。スカッとするよ〜、悪いことすると結構スッキリできるの」
そう、彼女は無邪気な顔をして言う。次第に啓史も心持ちが落ち着いていったのが分か
った。
「ねぇ、これ黙っててあげるから美味しいもの奢ってよ」
「はっ?」
「いいじゃん、ねっ、行こうよ」
彼女は啓史の腕を取って、引っ張るように歩き出す。初めて会うタイプの女の子に戸惑
いながらも、啓史も歩幅を合わせていた。
☆
その夜、何もすることもなく過ごしていると福岡結愛からのメールが届いた。開封して
みると、そこにはあっさりとした一文があった。
「今から会えないかな?」
単純な言葉だったけど、だからこそ裏に何か潜ませたものがあるような気がした。
「どうかしたの?」
こっちも単純にしてみる、向こうの状態が掴めなかったからそうした。
「どうってわけじゃないけど、なんとなく」
隼人にはメールの前半が強がり、後半が本音であると読み取れた。本当は自分に来てほ
しいと思ってる、そう直感で感じれた。行った方がいい、会った方がいい、そう思った。
「いいよ、今から行く」
そう送信すると、隼人はCBR600RRのバイクを走らせた。
彼女との距離が縮まっていくのが嬉しかった。きっと、この会えなかった数日間のうち
に積もっていたものがあったんだろう。だったら自分から会いたいと言えばいいのだけど、
それは隼人には違った。福治美月という存在がある以上、そうするのは違反のような気が
していた。
多分、彼女からその言葉が送られてくるのを自分は待っていたんだろう。
港には、どこからかともなく微かに鳴る音が奥の方から響いてくる。建物の陰からは誰
かが出て来そうな不穏な空気があり、それは何度来ても慣れないものだった。空を見上げ
てみる、雲の掛かった真上の映像は今の晴れない世の中や自分のようにも思える。
福岡結愛はいつもの場所にいて、眼前に広がる景色を眺めていた。なんだか、その先の
海面と同化するように彼女も漂っていた。ゆらゆら、ゆらゆら、漂っていた。
「よぉ」
そう言いながら、隼人は結愛の隣に座った。
「おっす」
久しぶりに彼女の顔を見ると、心が和らいだ。
「どうかした?」
なるべく柔に言う、彼女が話しやすいように。
「どうもしないよ。相変わらずさ、私もここも」
目線を下げてみる、海面には相変わらずゴミやら屑やらがプカプカと浮いている。そし
て、昼間になれば、荒れた海の様子を瞳に映すことができるのだ。
「相変わらず」は悪い言葉だった、元が悪いなら今も悪いまま。
「そっちは?」
「こっちも相変わらずだよ」
悪い意味で言った。元が悪いから今も悪いままの「相変わらず」。
思う、「じゃあ、彼女は」と。
「どうかした?」
また言ってみる、彼女の隠してる本音を聞くために。
結愛が隼人の方を向く、心を見透かされたような気がした。
「どうもしない、って言ったじゃん」
「・・・・・・そうか」
諦めた、言いたくないことなんだろう。
結愛は息をつき、ポケットから取り出したタバコに火をつけた。彼女がタバコを吸うの
は知っていた。隼人が吸わないのも彼女は知っている。
彼女が息をつく度に上がっていく煙と同じように言葉を吐露しはじめる。
「本当は・・・・・・ちょっと参ってる」
本音だった、ちょっと勇気を出した。
「どうかした?」
もう一度言ってみる、今度は彼女からの言葉を引き出しやすくなるように。
結愛は迷った、この胸のわだかまりを隼人に言おうかどうか。言いたい、でも・・・・・・
そう自分の中に押し込めた。
「今日、仕事でヘマしちゃってさ。なんか、変に尖った感じで当たってくる客がいて。初
めは気にしないようにして接客してたんだけど、あまりに理不尽に散らしやがって。この
オレンジは色が悪いとか、このトマトは艶がないとか、いろいろ言ってきてよ。せっかく
爺ちゃんが見定めてきたもんに向かって、と思ったらイラついてきちゃって。いけないと
分かってたんだけど、私も言葉の角が尖ってきて。それに相手が苛立って、また私が苛立
って、って感じでケンカごしになって。結局は爺ちゃんと婆ちゃんに止められて、不完全
燃焼のまんまで終わり。その後、婆ちゃんがそいつにペコペコ頭下げてるの見てさ、爺ち
ゃんには客商売だぞって怒られるし、もう最悪だよ」
本当に言いたかった言葉は隠し、代替の言葉を話した。結愛は大きな溜め息をつき、タ
バコを口にくわえる。
「でもさ、それは向こうが悪いんだろ?」
「もちろん、でも私が嫌なのはそこじゃないんだよ。爺ちゃんと婆ちゃんを悲しませるよ
うなことをした自分が嫌なんだ」
隣の結愛に目を向ける、定まらない瞳がその言葉の真実味を表していた。
「好きなんだな、お爺ちゃんお婆ちゃんが」
「まぁね、親代わりだから」
素直に育ての親を好きと言える結愛を羨ましく思った。隼人は両親を好きかと聞かれれ
ば、疑問に思う。あるいは親じゃない分、彼女はそう言えるのかもしれない。
「なぁ、聞いてもいい?」
「なんだよ」
前から謎に思っていたことを聞いてみる。
「結愛の両親はどうしていないのか、っていうこと」
彼女は少し黙った。
それはそうだろう、予期していたことだ。おそらく、何かしらの事情があるのだろうと
は思っていたから。彼女がここでたまに見せる切な表情には、何か背負った過去がある気
がしていた。
話してくれなくてもいい、と思っていた。それはそれでしょうがないことだから。
ただ、彼女は話してくれた。自分の中にある傷を一つ一つ紡ぎ出すようにゆっくり話し
ていった。
☆
その日の夢も、いつもと違うものだった。
君は扉の前に立っている、茶色の縁だけが象られた透明の扉。その先には何もない、何
も見えない、何もないかどうかも分からない。
丘陵の続いてる地帯には、咲き頃の山桜が伸びている。低地から山を這うように上がっ
てくる風は、桜の花を舞わせ、君の髪もなびかせていく。
春色の花柄のワンピースを着た君はとても綺麗だった。その風貌からして、君は10歳
くらいになったのだろうか。
分かってる、今目の前にいる君が架空のものだということは。僕は10歳の美月を知ら
ない、君とは3〜4歳の頃に離れたはずだ。
あの日、君は僕にさようならも言わずに離れていった。その頃に僕が恋していた彼女の
10歳の想像図、その姿がそこにあった。
もしかしたら、美化させすぎているのかもしれない。
もしかしたら、期待通りの君になっているのかもしれない。
いや、本当はどちらでもいいんだ。君が福治美月であること、それが僕の中では全てな
んだ。
扉の前に佇む君は僕を見つめながら、何を言うこともしない。
どうしてだ、僕のことを忘れてしまったのか。
そうか、君は10歳になった僕のことを把握できていないのか。
「・・・・・・ミツキ・・・・・・」
そう声を掛けると、君はハッとした顔つきを見せ、フッと微笑んだ。
「・・・・・・ハヤト・・・・・・」
気づいてくれた、やっぱり憶えててくれたんだね。そう喜びを体に伝わせていると、君
は右手を中くらいに上げた。
「・・・・・・じゃあね、ハヤト・・・・・・」
そう言って、君は扉の向こうに言ってしまった。
声を掛けることも出来なかった。ただ、呆然と見ていることしか出来なかった。君は独
りで歩くことを選んだのか、僕に追いかけてきてもらうことを望んでるのか。
まだ眼前の事実も読み取れないまま、僕らは再び別々の世界へと離れた。




