第2話
瞳を開くと、見慣れた近景が視界に一つ一つと入ってきた。自分で選んだインテリアで
彩った、自分好みのアメリカンに仕上げた部屋。
体を起こすと、異様な疲労感に襲われていたことが分かった。額からはツーっと汗が落
ち、背中には着ていたシャツがびっしり付着している。
久しぶりだった、あの夢を見たのは。
君が僕から次第に遠ざかっていく夢、微かに僕の名前を一つだけ残して。完全な夢じゃ
ないのは分かってる、おぼろげだけど自分の中に確かにある事実。
君が僕の前から姿を消した頃、よくあの夢を見ていた。離れてしまった君との現実を夢
にしたかったんだろう、そうやって夢と現実を交換させようと。その夢を見てから目を覚
ませば、またいつものように君がいてくれるんじゃないかって。
そんなことは万に一つも起こらない、幼く知識も教養もない頃の僕にだって分かってた。
分かってるけど、君のいない世界はやっぱり淋しくて仕方なかった。また会える日は必ず
来る、根拠のない確証はあったけど時折訪れる淋しさは打ち消しようがなかった。
そうやって君を望むことで、あの夢を当時は見続けていたんだ。
遠く淡い記憶、理想が生んだオーバーステイトメントによる夢幻。追い求めても覚めて
しまえば虚無感にしかならない、空しさを余すだけのナンセンス。
ただ、結果として何も起こらなかったわけじゃなかった。僕は小さな戦士になると決め
た、君を守るために全力を尽くす戦士。これまでの日々で生じた淋しさを埋めてあげる、
君が僕の名を呼んでくれるなら直ぐに飛んでいく。
君は僕のためにあってくれ、僕は君のためにあるから。
戻った絆は二度と離さない、あの頃の未成熟な僕とはもう違う。
君と会えないことが僕のバイタリティーになっていた、一つ一つとそれは僕の中に増し
ていった。おかげでもう随分とパワーは溜まった、あとは時を迎えるだけだ。
君と引き寄せあう日を待つだけ、それだけだった。
☆
シャワーで汗を流してから、リビングに行くと母親の悦子の姿があった。父親の一之介
は会社に行ったようで、その食べ終わった食器を片づけていた。
「おはよう、隼人」
「あぁ、おはよう」
「朝食、食べるでしょ?」
「うん、よろしく」
悦子は食器の片付けを止め、隼人の分の朝食の用意を始める。
オーブントースターのぜんまいばねの戻る音、電気ケトルを沸かす音がする間に朝刊に
目を通す。見るといっても、なんとなく読み流す程度だ。瞳を泳がせるぐらいで、現代の
社会を詳細に把握して地球のあり方について考えようなんてつもりはない。ニュースなん
て直接的じゃない、今ここにいる自分には間接的といっていい。
数十年後には我が身ということもあるが、そんなことまで考えてやいない。もちろん、
罪のない人間に起こる不幸には胸は痛む。高温地帯などで飢餓で亡くなっていく人たちに
は、隼人の琴線も触れる。ただ、自分で起こした事件や事故でニュースになってる人間に
感情を動かすことはしない。自業自得だ、自分に関わる人間でなければそんなことは一々
気にしやしない。
一社長の息子として、恥のない程度のこととして新聞記事を頭に入れておく。
「はい、出来たわよ」
「あぁ、ありがとう」
知らぬうちに、目の前のテーブルには隼人の朝食が並んでいた。トーストとサラダとコ
ーヒー、これが彼の朝食のメニューだ。彼の部屋のようなアメリカンでもなく、日本人ら
しくもない西洋的なメニュー。本当はここでもアメリカにかぶれたいところだけれど、さ
すがに彼らほどジャンクにはなれない。朝からあんな肉々しいものは受けつけないし、そ
れで日本食に翻ることもしたくない。
だから西洋にかぶれることにした、妥協かと訊かれれば首を縦に振るしかない。そこに
こだわるほどプライドは高くないし、かといって折るような選択もしなかった。こだわる
のはアメリカンじゃなく、オーソドックスに嵌まってしまうことへの反逆精神だった。型
におさまることへの恐怖心、それを振り払うようにやっていた。
「いつも思うけど、それで足りるの?」
「全然、もうこれに慣れてるし」
そう、悦子には息子の西洋かぶれは納得がしきれないようだ。
そんなことは気にせず、隼人はバターを塗ったトースト、シーザードレッシングをかけ
たサラダ、砂糖を2つ加えたコーヒーを口に入れていく。
一之介と悦子は和食を食べるので、悦子は隼人のためだけに毎朝このメニューを用意す
る。本当は全員で和食にした方が作る側にはいいんだろうけど、隼人には変に捻くれた部
分があった。
早く大人になりたいと願いながら、それを拒もうとする自分もいる。その両方が共存し
た体の中はいがみ合うようにもがくように不定にうねっていた。
「母さん、行って来る」
「あら、今日はちょっと早いのね」
「あぁ、寄るところがあるから」
「そう、いってらっしゃい」
いってきます、と返事をして、隼人は玄関扉を閉める。
駐車場にあるCBR600RRのバイクに跨ると、大きなエンジン音を鳴らせて走らせ
ていく。
街道に出ると、さじ加減など関係なしにスピードアップする。大通りを大型バイクで走
るのは何ともいえぬ快感だ、この道を自分で牛耳ってるような錯覚に陥れるぐらいに。
そう思うと、暴走族をやっている奴らの気持ちも分からなくはない。走ることは楽しい
し、デカいバイクになればなるほど高揚感は比例してくる。人様に迷惑をかけるかどうか
の差はあれど、「走りを楽しむ」という根本的なものは変わらないんだろうなと思った。
行き先は昨日の朝と夜と同じだった、市場はまだこの時間でも賑わいをみせていた。軒
を連ねるように並ぶ各店舗が鎬を削るよう大声で客人に呼びかけ、相変わらず隼人はこう
いった人々の込み合った状況をうまく飲み込めなかった。
ただ今日に限っては憂鬱には思わなかった、ここでなければいけない用事があったから
だろう。先にある港に行くため、その通過地点だと思えば幾らか気は楽にすることができ
た。
2〜3分も歩けばここは抜けられる、その当初の予定は変更されることになる。
全くもって考えてなかった誤算だった、隼人は「どうして」と自分の心内に届ける。届
けたところで正解の得られないことは承知の上で、それを発していた。
といっても良い意味での誤算だった、隼人は進路を変えて左に歩き出す。
「おばあちゃん、今日は何にする?」
オーキッドのスカジャンとジーンズを着た女の子が威勢のいい声をあげている。
「んっ、いつものをよろしく」
了解っ、と彼女は警察官の敬礼のポーズをして動き出す。
店内の品物の中から、おばあちゃんの「いつもの」をスーパー袋に一つずつ詰めていき
ながら談笑を続けている。といっても、おばあちゃんのゆったりとした「おじいちゃんと
朝方に市内を散歩して、道端に咲いてた花が綺麗だった」とかいう雑談を彼女が聞いてあ
げているわけだけど。
その時の彼女は別人のようだった、表情を崩しまくって満面の笑みを見せている。昨日
に見た、しかめっ面や涼しげな顔の印象しかなかった隼人にはそれはかなり衝撃的なもの
だった。勝ち気で怖そうな女の子は身を潜め、優しく気の遣いのいい女の子がそこにはい
た。彼女の姿が見えなければ、きっと同一人物だと気づくこともなく通り過ぎているに違
いない。それだけ昨日の彼女とは相違していたけれど、隼人にはそれが明らかに好印象だ
った。
「おばあちゃん、今日はリンゴが良いの来てるよ、艶があって真っ赤っかだよ」
ほらっ、と光沢のあるリンゴを差し出すと、
「じゃあ、2つ貰おうかな」とおばあちゃんが二本指を上げ、
「毎度っ」と彼女が口角をグッと上げてみせる。
おばあちゃんからお金を受け取ると、
「大丈夫? ちょっと重いけど」と2個のリンゴと「いつもの」が入ったスーパー袋を渡
す。
「ありがとうね」と店から去っていくおばあちゃんへ、
「また来てね〜」と手を振って無邪気な笑顔を振り撒いていた。
そんな彼女の様子を見つめながら、気づいたら店内に入っていた。堂々と入ればいいの
に、向こうを向いてる彼女にバレないように何故だかそっとした足取りになっていた。そ
して、なんだか隙のありそうな彼女にちょっかいを出してみたくなった。
「今日はリンゴがおすすめなんですか?」
「あっ、はい、いらっしゃいま・・・・・・」
こっちを振り返った彼女がそれまでの喜面を停止させたのは言うまでもなくだった。隼
人の姿を捉えた彼女は、どう対応していいかを考えたまま固まっている。
そんなに思い通りのリアクションをしてくれるとやりがいがあった、というように隼人
はフフフッと押し殺した笑いを浮かべた。きっと、ここでバカ笑いでもしたら後が怖い気
がしたから。
「なっ・・・・・・なんだよ、お前っ」
明らかに釈然としない顔つきで、彼女は振り絞った強がりを搾り出す。
「客に対して、お前呼ばわりはないんじゃない?」
隼人の言葉に、彼女は返す言葉がなくなる。うっせぇな、と怒鳴ってやりたかったが、
さすがにここでそんなことは言えない。生まれてくる複雑な感情を潰して、隼人のペース
に委ねるしかなかった。
「何なの? 冷やかしなら勘弁なんだけど」
訝しげな目つきをし、せめての反抗をと舌打ちを鳴らす。それをして形勢の優劣が変わ
ることはないけれど、プライドの高さからか、眼前の自分の劣勢にじっとしてるだけでは
いられなかった。
「冷やかしじゃないさ、客だって言ったでしょ」
そうは言われても、彼女にしてみればリンゴを持った冷やかし者にしか見えない。
「じゃあ、何を買いますか?」
ぶっきらぼうな彼女の態度は見ていて面白かった、早く帰って欲しそうなのが全面に表
れていて。
「おすすめは何ですか?」
「リンゴだってば」
さっき言っただろ、とでも言いたげに彼女は返す。重心を片側に傾けながら溜め息をつ
く姿はコンビニで深夜たまに見る若者店員のやる気のなさにピッタリと合う。
「このリンゴを買うと、俺には良いことが待ってるかな?」
「そんなもん、お客さんがどんだけリンゴが好きかによるでしょ」
確かに、と心の中でうなずいた。
リンゴが大量に積まれてる段ボールを見てみる、「松川産・サンふじ」と丁寧とはいえな
い文字が書かれている。
「そんじゃ、これください」
「はい、3つで500円になります」
大根役者のような棒読みで彼女は言う。おそらく、客とはいえ隼人に敬語を使って対応
することが彼女の中で許しがたいんだろう。
「袋に入れますか?」
「いや、いいよ。このままでいい」
そう言うと、隼人は500円を渡して「ありがとう」と去っていった。
隼人は彼女の今までにない一面を目にして嬉しいものがあり、彼女は隼人にそれを見ら
れて体の中のもごもごしたものが晴れずに胸糞悪かった。
港に出た隼人はガヤガヤ騒がしい市場からの雑音を背に受けながら、心の中をスッと冷
静にした。見渡せる景色はいつもと変化のないものだったが、それを眺望する自分の意識
に変化があった。そのせいで、特に大きな意味も持たずに眺めていたものに今日は詮索を
施していった。
視界の中にはたくさんの意味を持ったものが溢れている、そう気づけた。その一つ一つ
の意味になんて、多くの人間が瞳を向けようとはしない。毎日の流される日々の中で、そ
んな細かなものにこだわってる暇なんかなくて。ただ、それに気づいてしまうと、ずいぶ
ん勝手なことをしてきたんだなと思わされる。自分も周りも愚かなもので、それに気がつ
いた自分はまだマシなのかなと思った自分も愚かだった。
この港はいつの間にか汚れていた、綺麗な夜景だと思っていたのは気のせいだった。港
海に寄せられる海面のどんよりした淀み方に生気はなく、そこに浮かぶ多量のゴミがさら
に濁らせている。
自分はこの景色に心を洗わせていたのか、そう思うと空しさが生じた。黒い幕で隠され
ていた真実は整然に象られていた、それを剥ぎ取ってしまえば凄然としたものでしかない
のに。
「どう? 汚れちまっただろ」
後ろからの声に振り向くと、彼女がいた。
隼人の左隣に「よいしょっと」と座り、
「これ、見に来たんでしょ?」と顎をクイッと目の前の海へ差し向ける。
昨日の夜のやり取りから隼人がここに来たことを彼女は悟っていた。
「あぁ、こうやって見てみると、結構なもんなんだな」
「だろ? 年々、こうなっていっちまってるんだよ」
また彼女は瞳を細めて眼前の薄れた景色に視線を向けていた。
その姿に何かを投影している隼人がいた、昨日からあった胸騒ぎだった。
「ところでさ、店はいいの?」
自己の世界に浸りそうになっていた自分にハッとなり、話題を変える。
「ちょっと小休憩、って爺ちゃんと婆ちゃんに頼んできたから大丈夫」
隼人が疑問の表情を見せると、彼女は「あぁ」と続ける。
「あの青果店、爺ちゃんと婆ちゃんとやってるんだ。ほら、さっきも店の奥の方にいただ
ろ?」
隼人は記憶を呼び戻すが、その2人のことは思い出せなかった。
「悪い、見えてなかった」
「そうなんだ・・・・・・まぁ奥の方にいたからな、接客は基本的に私が先頭きってやっ
てるし」
彼女の言葉に、また一つ疑問が浮かぶ。
「っつうか、接客とか出来るんだね」
「どういう意味だよ」
隼人の悪意のある言葉に、彼女は不平な顔色に変わる。
「まぁ、そういう意味と捉えてもらっていいけど」
「お前、マジふざけんなよ」
荒ぐ彼女にお構いなしに、隼人は突っかかっていく。
「あんなふうに笑えるんだね、氷のような冷血な奴かと思ってたのに」
「はぁっ、それ以上言ったら本気でぶっ飛ばすぞ!」
拳を掲げる彼女へ、冗談だからというように隼人が「まぁまぁ」と宥める。
「そんだけ意外だったんだよ、さっきのが」
「私だって笑うっつうの、ってか人を何だと思ってんだよ」
「いや、俺にはあの顔は見せてもらってなかったから」
「そうやって食って掛かってくるからだろ、一々癇に障るんだよ」
ごめんごめん、と怒りの治まらない彼女をまた宥める。
そこから少し間があった、時間を置くことを目的にした故意的な間を。
その間に隼人はさっき買ったリンゴにかぶりつく、リンゴは思ったより美味しかった。
「これ、美味い」
隼人の言葉に彼女は一つ息をつく。ウチのリンゴが美味いのは当たり前だ、と言いたげ
に。
「そろそろ戻る、長いこと休んでらんないし」
そう彼女は腰を上げる、隼人がかじっていたリンゴは半分ほどになっていた。
「お前は? まだ、ここにいるの?」
「俺も行くよ、学校に行かないとなんない」
「お前、学生なの?」
「そう、おかしい?」
「いや・・・・・・よく考えれば、この時間にその格好でここにいるんだから仕事はして
ないんだろうから」
「まぁ、そりゃそうだ」
そう微かに微笑むと、彼女もそうしてくれた。
「じゃあな」と別れると、また2人はそれぞれの時間へと戻っていく。彼女の後ろ姿を瞳
にしながら、隼人はしばらくそこに佇んでいた。
大学に到着したのは、隼人の出席する1限目の授業が始まった時間だった。
だからといって、せくせく急ぐこともしない。大学にもなれば授業に遅刻したからとい
って、取り立ててペナルティがあるわけでもない。高校までのような厳しさはすっぽりと
潜め、折り合いのついた自由な規則だ。
そういう意味では、教える側も教わる側も実にやりやすい。家庭教師が生徒と手を組ん
で、母親にバレないようにサボるような行為の簡易化だろう。熱血漢はいらない、目的を
達成できる程度にやっていればいい。大学までの受験には勉強が筆頭選択肢になるが、そ
の次は違う。その次の就職において勉強はそうならない、企業は勉強の出来る人間を取り
たがるんじゃないから。
だとすれば、大学における勉強に重要性は然程感じられない。卒業できるぐらいに頑張
ればいい、そういう折り合いをつける。
講義堂に入ると、いくつかの顔が隼人に向く。それも一瞬で、隼人の姿を確認すると無
関心といったように顔は前へ向き直る。教授にいたっては、彼を見ることもなく授業を進
めていた。
やっぱりだ、大学なんて閑散したものだ。高校までなら、遅刻した生徒が授業中に教室
に入ってこようものなら、教師からの檄が飛び、それを茶化す生徒たちがいるのが当然の
ことだった。
海斗と啓史は中段の右の方の席に座っていた。隼人もそこまで行き、「おっす」と座ると
ショルダーバッグから取り出した2つのリンゴを「お土産」と2人の前に置く。
「どうしたんだよ、これ」
海斗と啓史が聞いたのも無理はない、普通の大学生は裸のリンゴを持ち歩いたりしてい
ない。特にリンゴが好きというわけでもない隼人からなら尚更、その経緯に興味が湧くの
は当然だろう。
「ちょっとね、青果屋さんに用事があって」
昨日の朝ぶつかった女の子にあれから2回会ってることは隠しておいた。疚しい気持ち
はないが、なんとなくそうした。
「何だよ、用事って」
「別に、大したことじゃない。それ、おすすめらしいから食べてみろって」
海斗と啓史は隼人の言葉に誘導されるようにリンゴを口に運ぶ。隼人がそう言うのなら
結構な味なんじゃないかと思ったが、そこまで美味しいとも感じないものだった。これぐ
らいのものなら彼らは普段から口にしているため、別段何かを感受することもなかった。
「普通じゃん」
「だろ? 普通なんだよ」
海斗と啓史に疑問符が浮かぶ。一体こいつは何が言いたいんだ、と。
「でもさ、一般庶民からしたら、これが絶品の域に入るらしいんだよ。俺らさ、なんだか
んだ良いもん食ってるんだって。ダメだよな、まったく」
結局、隼人が言わんとしてることは読み取れなかった。その答えは隼人にしか分からな
かった、彼はそこに淋しさを込めていた。自分とあの市場にいるような人たちには少なか
らず差があるんだろうな、と。彼らは毎日朝早くから汗水流して働いてるのに、大学生の
自分はバイトもせずに彼らより良い生活をしている。彼らより良いものを食べ、良いもの
を着て、良い毎日を過ごしている。そう考えると、金持ちの優越に埋もれてる自分が嫌に
もなった。
この日は4限目まで授業を受けて大学を後にした。
昼食は海斗と啓史とピザのショップに行き、ガーリックのピザとポテトフライを食べた。
海を見渡せるテラス席で穏やかな風にそよがれ、なんてことない談笑をしながら食べる食
事。さざめく波の音、カモメのおかしな鳴き声、店内から流れるBGM、それらを耳にし
ながら洋々と広がる海を眺めてると彼女の言葉を思い出した。
自分はこんな乾いた世界に嫌気をさしながら結局はたっぷりとそこに浸かっている。自
分だって周りの乾いた大人たちと変わらないんだろうか、自分だけは違うと思い込んだ偽
善者でしかないんだろうか。
そう嫌悪にも似たように陥ってると、ジャケットから伝わる振動を感じた。携帯の着信
を確認すると、進士真奈美からのメールだった。「どうしよう・・・・・・」というタイト
ルが気になり、すぐに開封した。
「隼人お兄ちゃん、こんにちは。
・・・・・・どうしよう、何から書いていいのか分からない。
お兄ちゃんはもう聞いてるのかな? 多分聞いてるよね、私が知ってるんだから。
こうなった事、正直戸惑ってます。どう感情を表現していいか難しくて、学校にいても
全然勉強が手につかないよ。友達にも言えないし、お兄ちゃんはどうしてるのかなって思
って。
お兄ちゃんはどう思ってるのかな、って考えてると軽くパンクしそうになっちゃう。も
し嫌がられてたりしたらどうしよう、これで嫌われたりしたらどうしよう、って。本当は
私どうこうより、お兄ちゃんがどう思ったんだろうって方が気になってるんだと思う。私
のことは私は分かるけど、お兄ちゃんのことは分からないから・・・・・・。
朝から不安でダメになってます、私どうすればいいのかな?」
隼人にはこのメールの意味合いが分からなかった。内容から自分に関わりのある事だと
分かるし、進士真奈美の動揺の加減からその重要度も読み取れる。何か重大といえる事が
自分に起こっている、ただその本筋が全く分かりえることが出来ない。衝動が体の中にう
ごめき、発散も分泌もさせられずにまごついている。
「悪い、用事できちゃったから帰るわ」
居たたまれず立ち上がり、そう海斗と啓史に告げて急ぎ足でバイクに向かう。
CBR600RRで街道をとばしてる間も進士真奈美のメールが気にかかって仕方なか
った。彼女をよく知ってる隼人からすれば、あのメールでの平静の失い方は正常の範囲を
超えていた。詳細までは掴めなかったが、虫の知らせである気がしてならなかった。
☆
夜に差し掛かる頃、啓史と別れた海斗は老舗の料亭にいた。左には厳格な父親、手前の
2つの席には父の経営する会社の役員が座っている。
会社の手綱を握る人間たちの会食の中に海斗はいた。無論、自発的な参加などではなく、
半強制的といえるものだ。20歳になってから、こういった席にしばしば呼ばれるように
なった。将来的に会社を担うことになる海斗に、その蓄えを今から少しずつさせておこう
と。
とはいえ、彼らの交わしている事業の会話の大方は理解できない。まぁ、具体例が飛び
交ってるだけで大した話ではないだろうとは思う。
彼らは革命というほどの事変を引き起こすことはしない。せいぜい、リフォームやリノ
ベーションというぐらいの改革だろう。彼らに限らず、大きな痛手を蒙るリスクを冒して
まで歩を進めるような人間は少ないはずだ。
いつかのライブドアのように、突発的な革命児には穴があったりする。現状をセーブし、
そこに一つずつの利益を求めるのが懸命。それが日本人の典型で、ここにいる彼らもそこ
をとんと外れてはいない。
海斗はそんな大人たちの話に受け答えしながら、体の中は沈静していた。ああだこうだ
と湧き上がる膿の刷新化に語られる会話は雑談のように思える。彼らがそれを真剣に語っ
ていたとしても、海斗にはそう感じられた。べちゃくちゃとねちっこい雑談より、障子を
隔てた向こう側にしなる木板のミシミシという音の方が古風で趣があって良い。夜はもう
しんと寒くなってきていることだろう、この時間になれば如実に肌で感じれる。秋から冬
への境目とはいっても、ほとんど冬といってもいいだろう。
和室は暖かく、それに逆比例するように自分の所望するものはそこにはなかった。この
ままでいいのだろうか、社会が近づく度に彼の中に芽生えていた思いだった。
啓史は自宅に戻ると、自分の部屋の1Pソファに腰掛けてブラウン管に出される映像を
眺めていた。育児に疲れた父母が我が子をロープで殺害したニュースをキャスターが沈痛
な表情で伝えている。啓史には信じがたい世界だった、彼の描く世界観には浮かびもしな
いものだった。無論に彼の両親がそんなことをする人間ではない、というところで。こう
いう親子間の逼迫した悪いニュースを目の当たりにすると、自分の置かれた優遇された環
境が身に沁みる。世の中には今日食べる物にも困ってる子もいれば、親からの虐待に縮こ
む子もいる。
その中で、自分はこんなにも恵まれた家に生まれた。喜びたい心境と同時に、彼らに対
する多少なりの罪悪感もあった。不平等な世界で上に生まれてしまい、正直彼らに合わせ
る顔はない。22年も悠々とぬるま湯に浸かってきた自分、短い一生涯を苦く耐え忍んだ
ブラウン管の向こうにいる子供たち。
この手のニュースを目にする度に胸が痛くなる、自分はこれでいいのかと。そして、両
親からの愛情も啓史にとっては痛みを憶えるものになってくる。多大な愛を受けてること
に申し訳なくなり、素直になれなくなってくる。無償にそれを届けてくれる両親に対して
も素直に受け取れないことが申し訳なくなり、結局は自分の中にチクチクと痛みをつけて
いくことでしか済ませられなかった。
「啓ちゃん、ご飯よ」
コンコン、啓史の部屋の戸をノックする音とともに届けられた。
こんなこと一つ取ってもそうだ、わざわざここまで来なくたって大きめの声で言ってく
れれば分かるのに。それを丁寧にも、この部屋まで来て、戸を柔に2回叩き、小学生あた
りの子にでも言うように告げていく。
もしかしたら、彼らの中では自分はその辺りの年で止まってるような感覚なのかもしれ
ない。そんなの真っ平御免だ、それじゃあいつになってもここを抜け出せない。投げやり
な気になりたくなり、それを実行はできない自分に溜め息が漏れた。
隼人は自分の部屋のデッキから夜空のスクリーンに散らばる星たちを眺めていた。ただ
彼の心内は果てなく拡がる星空とは真逆に悶々とするしかなかった。
急いで帰宅したはいいものの、悦子は買物に出掛けていて家には誰もいなかった。帰っ
てきたところを問い質してみたが、口を割らなかった。一之介が帰ってきたら、彼が全て
を話すことになっているらしく。
そして、隼人は何も解答に進めないままであくせくするだけの時間を過ごしていた。進
士真奈美からのメールに返信できぬまま、何が自分の身に降りかかってるのかをあれこれ
考えるだけの時間を。
「隼人、お父さんが帰って来たわよ」
悦子の声が1階から届く、その言葉をどれだけ待ち侘びたことか。
リビングに続く階段を降りていくと、深麦色のカウチソファに一之介の姿があった。
ガラステーブルを挟んで向かいにある1人掛けのソファに隼人が腰を下ろすと、キッチ
ンで夕食の準備をしていた悦子も手を止めて一之介の隣の席に座った。いつもなら無いは
ずの妙な緊迫感が3人の間にはびこり、それは言葉にせずとも全員が察している。進士真
奈美のメールでの戸惑い様、さらに今まで真相を聞かされることを長引かされたことによ
って隼人には警戒心が宿っていた。
何を言われるんだ、何にしてもすんなりと受け入れられる類の話でないことは分かりう
る。
「今日は大学か?」
一之介の最初の言葉は差し障りのないもので、本気でそれを聞きたくて発したものでは
なかった。
「あぁ、そうだけど」
隼人の返答も適当な言葉だった。
「ちゃんと、授業は受けてるのか?」
次も流れに沿ったような言葉だった。確かに、高校や大学にもなれば内申書の詳しいこ
となんか親に知らせたりはしないが、わざわざこんなときに聞くことでもない。
「ねぇ、話があるんでしょ?」
先に隼人が吹っかける。そんないつでもいい話は今はいらないから、と。
「・・・・・・あぁ、そうだな」
フゥと息をつき、一之介は本題に進むことを表すように座る姿勢を直す。
その隣には、2人に視線を向けたり向けなかったりの悦子がいる。
「進士さんとは、俺の父親の代からの交流でお世話になっている。事業や店舗の拡大を進
めているウチにとって、進士さんは必要不可欠な存在だ。そして、その関係はこれからも
長くに渡って続けていきたいと思っている」
一之介の言葉は本題の核へ向かうための助走に入っていたが、その核をさっさと知りた
い隼人には気が急いてまどろっこしいものだった。
「以前ゆっくりと話す機会もあって、この考えは進士さんも同じ気持ちでとてもありがた
いことだった。だから、双方の関係をより深いものにするために何かお互いに出来ないも
のかと話してたんだ」
もう、隼人の中でなんとなく核を察することは出来ていた。そうか、そういうことか、
昂ぶる感情を抑えることに必死になっていた。
「そこでだ、お前と進士さんのところの真奈美ちゃんが一緒になってくれれば、という話
になったんだ」
ドクン、身体の中で鼓動が一度だけ強く鳴った。
やっぱりか、予想していた通りだったけれど、改めて言葉にして聞くと衝撃があった。
「もちろん、2人がそれをいいと言ってくれればの話だ」
付録みたいに付けられた言葉だった。
2人の気持ちが最優先、とでも言っておけばいいのだろうというのが丸見えだ。どうせ、
この父親の頭の中には2人が結ばれる図しか描かれてないであろうことは簡単に読み取れ
る。会社の継続と引き換えに息子を売る、そんな人間売買人にも見えた。俺が生んだ息子
だ、俺の保有権にいるし、その人権も俺のもの、そうとでも思ってるんだと卑屈になりた
かった。
自然と隼人の瞳は刺すように尖っていた。何かに逆らいたくて、何かに歯向かいたくて
堪らなかった。
「ゆっくり考えてみるといい、いきなり結論を出せる話じゃないだろうからな」
そう言い、一之介は殺伐となりだした空気から抜けるように自分の部屋に向かった。去
り際にポンと肩に手を置かれたのが、隼人にはムカついた。よろしく頼むぞ、とでも言わ
れてるようで。
「ごめんね、急すぎるわよね、こんな話」
一之介がいなくなってから、悦子がようやく口を開いた。
「びっくりしたでしょ?」
当たり前だろ、と言い放ってやりたかったが自分を留める。
「あぁ・・・・・・まぁね」
精一杯だった、これぐらいの言葉しか今は出せなかった。
「でもね、本当に悪い話じゃないと思うの。真奈美ちゃんは良い子だし、それは隼人もよ
く分かってるじゃない。だからね、今回のことは前向きに考えてみて」
宥めてくれてるのは分かったが、同時に一之介の肩をもってるのも分かった。
「そうだね・・・・・・よく考えてみるよ」
そう言い置き、隼人は立ち上がって自分の部屋に向かった。あのまま、妙な空気のリビ
ングにいたくなかったし、両親と喋りたくもなかった。
部屋の戸を静かに閉めると、力なくベッドに倒れこむ。暗いままの部屋にはあるかない
かぐらいの光が入ってくるが、アメリカンに統一されたインテリアは外枠を確認できるほ
どで詳細はつかめなかった。それは今の自分自身にも投影できることで、急に降りかかっ
てきた大事にしばらくは衝動感で頭がこんがらがったままだった。
それが治まってくると、少しずつ思考が循環するようになってきた。ただそれは湧き上
がってくる不合理な状況への怒りだけで、余計に心的な循環を悪くするだけといえた。
まがいなりに父親の姿を見てきた隼人としては父親の思惑も分からなくはないし、進士
真奈美に対して懸念すべき点があるということもない。
それでも納得しきれなかった。納得してやればいいじゃないかという自分と、納得した
ら自分は単なる権限界の玩具にしかならないという自分とが論議を重ねている。隼人は分
かっている、勝手に運命を決められるということに反発をしたいだけなのだろうと。
人生はままごとなんかじゃない、そう自分に叫んでいた。自分の人生は自分で決める、
自分の隣にいるべき人間は自分で決めるんだと。
しんしんと更けていく夜の中、隼人はCBR600RRのバイクを低速で走らせていた。
ゆるゆるとした速度で過ぎていく左右のマンションやら飲食店やらの眺めは瞳に映ってる
だけで、隼人の頭の中はうろうろと漂う思いを定めることもできずにふらつかせていた。
目の前の現実を一時ぐらい手放そうとしても、すぐに戻ってくる繰り返し。
どこにもぶつけられない苦みを抱え、隼人は目的地に向かった。そこを行き先としてな
かった昨日とは違い、今日はここを求めていた。必然だとか偶然だとか関係なく、そこに
行くことを求めていた。運命だとか奇跡だとかも関係なく、彼女に会うことを求めていた。
この気持ちを落ち着けてくれるのは海斗でも啓史でもなく、君だと思ったから。
港に出ると見渡すかぎりの湾景を隈なく瞳で追う。君はそこにいなかった、僕は空しさ
と淋しさの混ざった溜め息をついた。
それから、隼人はただ港のコンクリートに腰を下ろしたまま瞳に映る景色を眺めていっ
た。昨日の彼女の姿を落とすよう、真似るようにそうした。君はどういう景色をその瞳に
捉えていたんだろう、そう思って。
眼前の景観を瞳にしていると悲しくなった、多分自分自身が悲しかっただけなんだと思
う。でも、この時はそんな冷静にはなれていなかった。自分の映した景色は君の映した景
色、自分の抱いた感情は君の抱いた感情、そう解釈していた。昨日の君はこんな感情を抱
えてここにいたのか、そう感じ取っていた。昨日ここにいた君、それを後ろから瞳に映し
ていた僕、その距離感を感じているうちに心は震えていた、琴線に触れて涙が出そうにな
る。理由はまだ分からない、分からないけれど懐かしいものがまた胸に込み上げてきた。
隼人は後ろを振り向く、振り向いた先にあるものは予測がついた。背中に瞳なんかない
けれど、絶対の確信がそこにはあった。10m先に立ち尽くしていた彼女は何とも形容し
がたい表情でこちらを見ている。やがてその足を進ませ、隼人の隣に来ると雑に座り込む。
そこからの時間は不思議だった、お互いに何も話さないままで時は流れていく。目の前
で微妙に移ろう空や緩やかに打つ波や点々と並んだ光、それらは次第に隼人の心を落ち着
けてくれた。いや、そうじゃない。隼人は分かっている、自分が気を休められているのは
景色じゃないことを。
右隣の彼女の方に視線を向けると、彼女もそれに気づいて隼人に視線を向ける。目線は
しっかりと合ったまま、高揚するはずの体は意外なほど静まっていた。そのまま顔を近づ
けていくと、あと少しのところで彼女の体がスッと引いた。
「なっ・・・・・・何すんだよ」
最初の言葉はなんとも弱々しいものだった。小声といっていいぐらい細く、いつもの彼
女の気の入ったものとはかけ離れていた。きっと、いつもの彼女なら「ふざけんな!」と
怒号を飛ばして殴りかかる程度はすると思ったのに。
「何すんだよ、って何もしてないじゃん」
「しようとしただろ、今」
まだ彼女の声は細く、心持ち動揺してる様子も窺える。意図的に外された目線じゃなく、
やり場に困った目線の外し方だった。
「もしかして、こういうの慣れてなかったりする人?」
「はぁっ? ざけんなよ、てめぇ」
怒り声にも、これまでの覇気は感じられない。狼狽する彼女の様子に隼人はフッと笑み
を見せ、当然のように彼女はそれにカチンときた。
「今どきさ、キスぐらいで慌てるなよ」
「慌てる? 慌てるもなにも、なんで私がお前としなきゃいけないんだよ」
からかうほどヒートアップしてくるので、隼人はここらでと押し黙った。彼女と口論す
るつもりはさらさらない、今はそんな気分にはなれなかった。
逆に、いきなり愚弄を止めた隼人に彼女は疑いを抱く。このまま言い争いになる勢いだ
ったのにどうしたんだ、と。
彼女は隼人に向けた瞳を逸らさずにいると、彼の表情は険しくなっていき、瞳には潤い
を帯びていく。1分前とは真逆の顔に変わる隼人を目にし、1分前とは別の動揺が彼女に
込み上げる。
淋しさの集合体みたいだった、放っておいたら固まって塊になってしまいそうだった。
それを瞳にしてるこっちまで侵食してくるくらい、隼人の体から出ていた。
彼女はそっと隼人の体を抱きしめる、そうしてあげたくてたまらなくなった。抱きしめ
た体は冷えていて、その奥にある灯火を消してしまわぬように彼女は両手に力を込める。
彼女にくるまれた隼人はその肩先で満ちてきそうな涙をグッと留めた。涙は流さない、涙
なんて一時の捌け口でしかない。そう思い留める、これまでの人生でも同じようにしてき
た。堪えた感情に蝕まれる中、体を包む体温の心地良さも肌で感じていた。懐かしい温か
さに思えた、自分の感覚違いなのかと疑いたくなるほど。求めていた温もりだった、偽り
にしたくないと強く芽生える。
「・・・・・・名前・・・・・・何だっけ・・・・・・」
すぐ側にあった彼女の耳に小さな声で呟く。
「・・・・・・名前?・・・・・・」
「・・・・・・まだ聞いてなかったから・・・・・・」
次の彼女の言葉まで実質3秒ぐらいだったろう、隼人にはそれが数分に思えるくらい心
臓は急速に波を打つ。福治美月、そう言ってくれ、心の中で過去類をみないほど願った。
「・・・・・・福岡結愛・・・・・・」
答えは期待とは裏腹だった、隼人の心の中はフッと落胆の色をみせた。
「・・・・・・お前は?・・・・・・名前、何っていうの?・・・・・・」
「・・・・・・伊崎隼人・・・・・・」
へぇ、とだけ彼女は言った。
それからは何を言うこともせず、そのままの姿勢を続けた。進むこともせず、拒むこと
もせずに。
彼女の体は隼人にしっくりきた、それは怖いぐらいのことだった。美月以外の女の子に
これだけ嵌ることは危惧すべきことなのに、彼はそこに身を委ねていた。
☆
その日の夢も、いつもと違うものだった。
僕は一面に続く緑地をただ駆けている、幼き日の僕が夢幻の世界でひたすらに。
嬉しいのか、焦ってるのか、どうして走ってるのかは分かりもせず。
意味もなくそうしていると、何かの音が耳に大きさをあげて聞こえてきた。遠く淡いも
のが後ろから追ってくる、やがて自分のところへ来てそっと手を差し伸べる。肩をポンポ
ンと叩かれて、立ち止まって振り向くとそこには君がいた。
「・・・・・・追いついたっ、ハヤト・・・・・・」
僕以上に息切れしながら、君はあどけない笑顔を見せていた。砂糖みたいに、溶けちゃ
いそうで甘々しい笑顔を。
「・・・・・・ミツキ・・・・・・」
僕は君を抱きしめた、愛おしさで僕が壊れそうになって。会いたかった、会いたかった
よ、そう体の中で叫んだ。
「・・・・・・・ハヤト、どうしたの?・・・・・・」
どうしたのもこうしたのもない、そう思ったが言葉にはしない。幼い君に言ってもしょ
うがない、この先に20年も会えないなんて知りもしないんだから。
蠢く感情を制御できぬまま、僕は抱きしめる力を増していく。君をもう失わないよう、
強く強く抱きしめる。22歳の感情をもった幼き日の僕は、その小さな体に仕舞いきれな
い切なさに沁みていた。
自分がどうにかなりそうになる、心は不安定になっていく。震えていく体を抑えるよう
に、君を包む力を込めていく。もうダメだ、そう思った時に君の姿がパッと消えた。シャ
ボン玉のような無数の泡になって、君はどこかに消えてしまった。泡の艶めきには見向き
もせず、僕は辺りを何度も見渡すが君は見つからなかった。がっくりと膝から落ちて切な
さに打ちひしがれると、いつだったかの思いが頭に降ってくる。
「大人になって君と再び会える日が来たら、そのときは・・・・・・どんなことがあって
も君のことを守ってみせる」
そうだ、僕は君を守るために生まれた孤独な戦士なんだ。




