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第1話



 瞳を開くと、見慣れた近景が視界に一つ一つと入ってきた。自分で選んだインテリアで

彩った、自分好みのアメリカンに仕上げた部屋。

 「SHOWTIME」と形どられたビッグサイズのファンクなウォールディスプレイ、

「Rock Bar」なんて名前なんか知りもしない店の看板であろうウォールボード、

遊びが格好いいラベルの貼られたレトロなアクセントのウッドボックス、カントリーな古

めかしい造りのガーデンハウスのアンティークオブジェ、ハイウェイ外れのモーテルの並

ぶ近辺にありそうなダイナーのチョークボード、鼻からティッシュの出てる間抜けなモア

イティッシュホルダー、ダウンタウンの路地裏にでも転がってそうなアメリカンゴミバケ

ツ、パステルカラーの傘がインパクトになってるバンカーズランプ、懐かしい洋画のポス

ター画の入ったアートフレイム、アーミーなミリタリーのパラシュートバッグ、どれもこ

れも今いる自分への反逆精神みたいに買い揃えたものばかりだった。

 今の環境に背を向けるように、程遠い国のテイストを憧憬の的としたんだろう。近すぎ

ず、遠すぎず、手の届くぐらいのところに。

 体を起こして大きく背伸びをしてみると、もう夕暮れの時間帯なのが見て取れた。窓外

から差し込んでくる夕陽は、この体に侵食するように僕を取り込む。

 まただ、今日もまたあの夢で目が覚めた。完全な夢じゃないのは分かってる、おぼろげ

だけど自分の中に確かにある事実。遠く淡い記憶、理想が生んだオーバーステイトメント

による夢幻。追い求めても覚めてしまえば虚無感にしかならない、空しさを余すだけのナ

ンセンス。


 陽が沈んでいく、幕が閉じて一つの物語の終わりを告げていくように。どうしようもな

い心の痛みに駆られ、どうにもならない現実に負けていく。

 何度このリフレーンをしただろう、もう数えることも煩わしくなってきた。

 今日も光球が海面に穏やかな色を映している、ホライズンから滲むように拡がってくオ

レンジはそのまま僕の心まで奪い浚ってくようだった。じわじわ、じわじわ、漂ってきて

海岸の波打ち際にある小瓶のように。

 哀愁を帯びた調べが頭の中に流れていく、ループを反復してはペーソスへと誘っていく。

 伝った涙は手のひらに落とした、それを握り締めて悲しみを身体にまた取り込む。

 この悲しみを忘れない、君のことをいつまでも忘れないために。


 いつからか、僕はこの景色を瞳にすると涙を流すようになった。独りで自分の部屋のデ

ッキから眺めて、独りで自己の世界に浸っていく。他の誰かがこの光景を目にしたら目を

疑うだろう、もしくは僕が感動で泣いてるんだと勘違いをするだろう。それは違う、そん

な浅はかなことじゃ僕はもう涙を流せなくなっているから。

 原因は一つしかない、僕は君のことでないと泣けない性情になってしまった。この終わ

っていく物語が僕と君のストーリーのような気がして、夕陽と一緒に君まで消えていって

しまうんじゃないかって懸念に苛まれて流れていくんだ。


 あれから20年近くも時が経った、君が今どこにいるのかは分からない。

 僕らは何者かによって永遠を失った、別れをする時間もなく君は連れ去られてしまった。

 ある日、君は僕の前から忽然といなくなってしまったんだ。

 それを知らされたときは不思議と毅然としていられた、別れというものをうまく理解で

きていなかったこともあって。しばらくすると僕は心が空洞になってしまったようになっ

た、僕にとって君の存在は強すぎたから。別れというものを理解できるようになるほど、

君への想いが溢れてくるんだ。どれだけ周りの人間に優しくされたとしても、そのホロー

が塞がれることはない。

 それは君にしか塞ぐ術のないものだった、もう僕には君がいないといけなくなってしま

ってたんだ。君という羽根がちぎれ、取り残された僕はバランス感覚を失って、ただの方

向音痴になっていた。

 ただ小さかった僕に君を捜すことは不可能だった、残されたのは幼い君の面影ぐらいで

しかなかったし。

 この20年、僕の心の片隅にはいつでも君の小さな記憶がはびこっていた。君の言葉、

君の行動、君の仕草、君の表情、君のいろんな記憶が。

 それに触れようとするたびに切なくなる、涙腺がなくなったように涙が流れていく。

 それでも君を捜すことはしなかった、なぜなら僕らはそれをしなくても必ず自然に引き

寄せあう運命だと信じてたから。僕に君が必要であるように、君にも僕が必要であるんだ

と疑わなかった。砂嵐が遮ってるような視界不良の中で、やじろべえみたいにギリギリに

支え立っている今の僕が無理に動かなくても、そのときが来れば君が僕の前に現れる宿命

にあるんだと。

 フェイトが僕らをやがて結びつけてくれる、それに僕は思いを委ねた。


 気づけば空は暗くなっていた、景観の変化で察することは容易だった。

 頬には最期の一滴が伝った、そこで僕は僕を現実世界に引き戻す。悠遠に非現実な世界

に居続けては、そのうちにアンリアルの居心地の良さを忘れられず永住してしまいそうだ

から。

 そこまでは求めていない、僕はこの実在する世界で君と再会する。だから君との思い出

を必要以上に掘り起こしはしない、君もあの頃とは違っているだろうし。

 出来れば20年前のままの2人で再び出会いたかったけれどそうもいかない、それには

あまりにも時間が経ちすぎている。君も僕と同じ22歳になってる、きっと誰もが羨望す

るような女性になってるんだろう。

 そう考えると、また君との再会を待ち望んでしまうようになる。

 いつだろう、いつ「そのとき」はやってくるんだろう。そう巡らせ、心を苦しめて、躍

らせていく繰り返しだった。


          ☆


 リビングに降りると、母親の悦子の姿があった。エプロンをして、なにやら夕食の準備

をしているようだ。詳細は見取れないが、角型の蒸し器からのスチーム音が耳に届いてい

る。新品と見間違うぐらいに真っ白なエプロンは、ままに彼女の性格を表してる。

 人への思いやりのかたまりで作られたような真っすぐな心を携え、この歪んだ世の中を

生きている。小さい頃からオーバープロテクションなお嬢様育ちをしてきたようで、歪ん

だ世界を見ることなく今にいたっている。貧困や飢餓は映像でしか見たことはないし、人

が人を騙すことが溢れてる現実も局外者として与り知ることもないところにいた。

 それは幸福なようで不幸なのかもしれない、隼人には彼女がその両方であるように思え

る。目にしたくない光景を目にしないし、知らなくていいことも知らずにすむ。ただ知っ

てこその良さもあるはずだ、どん底を経験した人間の方が幸福をより幸福とすることが出

来るはずだから。そんな人間の方が立身出世をして、最終的には勝ち組になっていたりも

する。

 まぁ、彼女に関してはそんな説明はいらないのかもしれない。彼女にとって、一つの恵

まれた家庭の一人の母親でいる今がこの上ない幸せであるから。周りの人間と手を取り合

うことが全てで、小さく狭い世界で満たされた箱入りの裕福者。

「あらっ、どこか出掛けるの?」

 カーキのデニムブルゾン、ブラックのヴィンテージデニム、というよく見かける外着を

着ている隼人を見て悦子は言う。

「うん、海斗と啓史と会ってくる」

「そぉ、いつ帰ってくるの?」

「分からない、朝になるかもしれない」

 なんだ、と悦子は何かを含ませた溜め息混じりの言葉をつく。

「夕食いらないなら前もって言っておいてくれればいいのに」

「さっき電話掛かってきたんだから無理だよ」

「そう・・・・・・なら、今日は1人ね」

「父さんが帰って来るかもしれないじゃん」

「お父さんはどうせ夜遅いわよ、残業やら接待やらで」

 いつものことよ、と言いたげに相好を崩してみせると、隼人もそうした。専業主婦はい

つだって待たされる役割、悦子もそれは分かってる。だから悔し紛れに微々たる反論をし

たっていいじゃない、隼人もそれは分かってるから何も言わずに母親の心情を受け止める。



 夜の街は華やかだった、それが隼人の心に萎縮をさせてしまう。賑やかな声、高らかな

笑い、煌びやかな色、着飾った人や店は蜘蛛の巣を張り巡らすように広がっている。

 そのどれもが嘘をまとった腐敗物だ、腐った内面をカバーアップしただけの。それなの

に、自分の気位を保とうと御高くとまるような勘違いした奴ばかりが多すぎる。擦れ違い

様にぶつかって睨んだ奴、全身を毛皮に包んでケバい化粧をした奴、大勢で溜まってる不

良まがいが集団心理から自分を強いと錯覚してる奴、どいつもこいつもウザってぇ。俺に

関わりのない人間は全部消えてしまえばいい、そうすればこんないらない辟易する群集は

サッパリする。

 人ごみを抜けると、覆われてた張りのようなものがフッと解けて楽になった。鼓動は若

干ドクドク音を立てている、そこに手を添えて落ち着けようとする。

 隼人は多人数の空間が苦手だった、人や物の密集してる場所にいると心臓の高鳴りが増

してしまう。彼は集団に帰属する意識の共有より、2〜3人の通じ合える仲間が合ってい

た。無差別の女性からの黄色い声を浴びるより、1人の通じ合える女性が合っていた。

 気がついたときには体がこの性質になっていた、母親の血を継いでるんだなと思う瞬間

でもあった。自分も悦子と違わず、狭い世界で生きることが適した人間にいつのまにか育

っていたんだろう。木立の中に居を構えるリスみたいに自然の気がたくさんある空気のお

いしい場所を好み、冬眠中の春花みたいに膝を抱いたまま先の保障もない明日を向かえ、

目まぐるしく変わるサイクリングジェネレーションで人知れず闇を駆け抜けてるんだ。

 きっとあの群集の連中からしたら俺こそパラサイトなんだろう、そう考えると何だか笑

えた。俺が邪魔者で、あいつらが正常者、だとしたら世も末だ。逆に面白いかもしれない、

どんな行く末が待っているのか興味が湧いてくる。

 そんな実得のない仮想を浮かべながら、隼人は歩を進ませていく。だんだん人気は少な

くなり、さっきまであれほどあった活気も薄まっている。そこら中に建ち並んでる住宅街

に入ると、心内は次第に落ち着きを取り戻す。足元を照らす光は減り、薄気味悪いぐらい

の夜道のはずなのに体は安定していた。

 隼人はさらに歩を進ませる、周りに浮遊するように流れる音は静けさと化していく。ひ

と月前までは背中を押していた南風が顔をしかめさせる北風に変わり、吹きつけてくる寒

風に身を多少すぼめさせた。


 目的地の港口に入ると、そこはホームのような安息感を与えてくれた。どこの店も倉庫

もシャッターは降りてあり、人気の全くない音の沈んだ中を歩くとスニーカーのシャッシ

ャと地面と擦れる音だけが耳に伝わる。朝から昼にかけての祭りのようなざわめきは夜世

界に沈静され、その正反対といえるほどのギャップが隼人には心地良かった。この広い港

がみんな自分のものになったような錯覚に陥ることが出来て、大きな優越感を違い得られ

た。

「おいっ、隼人!」

 港まで出ると、すぐに萩野海斗を見つけられた。

「おっす、啓史は?」

「まだ来てない、そのうち来るだろ」

 そっか、と返答し、その場に腰を下ろす。港風はより一層に寒気を体に伝え、隼人は身

を縮こませ、着ていたデニムブルゾンの襟の部分を無理に顔のあたりまで上げた。

 辺りを見回してみると、変わりない映えた色彩効果の景観を瞳にとらえる。目の前に広

がる海に伸びている埠頭を照らす青や緑の寒色の色光は心をクールダウンさせてくれ、こ

こから左右に続いてる港の先にあるビル群から放たれている黄やオレンジの暖色の色光は

心をウォームアップもさせてくれた。

 近くにはちらほらと人の姿を見受けられる。友人同士ではしゃいでたり、カップルで夜

景を見つめてたり、不良が溜まってやかましく騒いでたり、ここを多種多様にそれぞれの

思惑で使っている。港もこの時間になれば警備もずいぶんなくなり、それはかえって不良

たちと揉めて変にトラブルを起こさないようにするためでもあった。あの不良グループだ

ってケンカするために来てるわけじゃない、発破さえ掛けなければ危害を及ぼすこともな

い。

「悪ぃ、遅れた」

 気がつくと、水下啓史が来ていた。

「あぁ、全然かまわねぇよ」

 5分の遅刻を詫びている啓史に、フッと隼人は口角を上げてみせる。

 四方八方に広がる景色のように、3人の関係にちっぽけな変化もなかった。初めてお互

いの心の手を取り合った頃と何違わぬ距離感を自然に保っていられる。

 出会いは小学校の1年生のときだった、3人は同じ学校の同じクラスになった。仲良く

なるのにそう時間はいらなかった、互いの存在を引き寄せ合ったと言うと男同士で気持ち

悪いけれど正にそれだった。周りのよく出来た「お坊ちゃん」の中で、3人だけは捻くれ

た面を持っていたから。社会に対してなんて大それたものじゃなく、自分が置かれた場所

に対して。秀才を育て上げるためのエリート学校にいる自分の境遇への屈折、その不定感。

こんなところにいる人間じゃない、もっと低いグレードでいいんだ。裕福でなくてもいい、

質素でもいい、不自由が多少ある生活ぐらいで。

 逆に、安定しすぎた生活が3人を不安定にさせてしまっていた。あれが欲しいと言えば

買ってもらえ、あれが食べたいと言えば作ってもらえ、あそこに行きたいと言えば連れて

ってもらえる。大草原に放し飼いにされた動物のような自由が窮屈で仕方なくなってくる。

何でも叶う、何をしてもいい、その世界に置かれるには3人はまだまだいとけなかった。

 肩身の狭い者同士、不十分さを補い合うように近くにいることを必要とした。


 隼人と海斗と啓史は港を離れると、近くのディスカウントショップに立ち寄って食料を

買い込む。お菓子やペットボトルの飲料水など、小腹がへったときのための食料として。

 最寄り駅まで歩くと、あらかじめレンタサイクルで用意しておいたスポーツバイクに跨

って発車させる。気配の薄まった夜道に狭小感はなく、気詰まりのなさで心内は伸び伸び

としていた。港ほどでないにしても寒気のある北風を正面から受けながら、誰もいない道

路の中央を車線を辿るように駆けていく。曲がりくねったカーブの坂道では速度制限の標

識に反発するようにペダルを漕いで、スピードを上げたままカーブを攻略していく。失敗

でもしようもんなら軽傷じゃ済まなさそうだけど、あいにくそういった惨劇に見舞われた

経験はなかった。こういった類のものは怖がることが負の要素を生むものであって、3人

のようにヘラヘラしながらスリルを求めて突っこんでいく人間は案外に大丈夫だったりす

るものだ。いい大人からすれば「そんな幼稚なことをして何が面白いんだ」と嘲るものだ

ろうけど、そんなことは構わない。

 どうせあと半年も経ったら出来なくなることだ、大学を卒業するまでのあと半年。それ

が過ぎれば、決められたレールの上を走るそれぞれの未来が待ってる。だから、それまで

は好き勝手しようと大目に見てほしい。時間を気にすることもなく、立場を気にすること

もなく、伊崎隼人の自由を謳歌させてほしい。


 最後の一軒家を通ると、あとは土で出来た安定感のない道がしばらく続く。道の脇には

雑草や名前も知りえない小さい木が無造作に伸びている。

 1分もしないうちにトンネルが見えてくる、トンネルといっても国道にあるような立派

なものに比べればお粗末様としか言いようがないものだ。10mほどのトンネルはその先

にある森への入口となるもので、正直誰が何の目的で作ったのかは皆目見当もつかない。

森へ遊びに来た子供たちには、急な雨天時の雨宿り、夏の快晴時の日陰のポイントとして

重宝されている。しかし、大雨になるとトンネルのコンクリートの隙間からポタポタ雨の

雫が垂れてくるのが欠陥点だ。こういう閉じられた場所での雨漏りの音は予想以上に響き、

薄ら気味の悪いこと甚だしい。そのうち幽霊でも出て来そうな居心地の悪さは、どうにも

嫌なものだった。

 トンネルを抜ければ、あとは森の世界が出迎えてくれる。トンネルがある分、そこは一

つの遮断された世界に思えた。静まった安らかな中、風にそよぐ木の葉のサササッと鳴る

音。それは心地のいいもので、木霊が森の中を泳いでるようにも聞こえる。瞳を閉じて頭

の中を空っぽにすれば、自分もそこで一緒に泳いでるようにも感じれた。

 ここには大人はそうは来ない、隼人たちの両親のような大人なら尚更。ここは子供たち

だけの特別な場所だった、ただの森が何故だか小さな子供の国のようだった。国境を越え

た自分たちだけの国、そう思うと自由が手に入ったようで嬉しかった。

 だからここには小さい頃から数えきれなほど訪れた、家にいるよりも憩いがあったから。

海斗と啓史も同じ気持ちだった、よく3人でここを訪れては特別な時間を過ごした。

 森に入ると、適当なところで腰を下ろして買っておいた食料を広げる。それを漁りなが

ら、なんてことない話をしていく。誰に気兼ねする必要もない、夜中にこんなところに来

る人間はザラにしかいない。肝試しに来る近所の学生かカップル、それぐらいだ。隼人た

ちにとっての子供の国は、夜には世間的に絶好の肝試しポイントになっているらしい。別

に何がいるわけじゃない、昼間は近所の子供たちが遊んでるんだし。スリルが欲しいだけ

だろう、ならばと手を貸してあげることもある。誰かが森に来ようとすれば、隼人たちが

お化け役を買って出るのだ。程よく驚かせてあげれば、向こうも尻尾をまいて逃げていく。

隼人たちも森に侵入されることがないし、向こうもスリルを得られるのだから一石二鳥だ。

 そんなくだらない時間がたまらなく愛おしい、残り少ないものと感じればありふれたも

のが輝いていく。木々のざわめきがウインド・チャイムをグリッサンドするように流れ星

や風鈴の涼やかな音に聞こえ、草におりる夜露が飛沫をあげて煌き舞うようなプリズムに

見え、湿度の高い空気が地中海の澄んだ青空の下で深呼吸するような自然性あふれるフレ

グランスに感じられる。

 この時間がいつまでもどこまでも続いてくれれば、現実と理想の狭間で22歳の青二才

たちは揺れていた。


 夜のしじまが明けていく、太陽が姿を見せ始めると静寂は次第に消えていく。

 陽の光に照らされて隼人は目を覚ます、そこで自分が寝てしまっていたことに気づく。

一体いつからと思ってると、他の2人の寝顔も視界に入ってきた。

 2〜3時間は食料をつまみながら喋っていただろうか、誰からともなく順に堕ちていっ

たようだ。

「おい、海斗、啓史、朝だぞ起きろ」

 そう肩を揺すると、2人とも瞳を開いた。

 左腕の腕時計を見てみる、午前の5時58分。

 ふわぁっ、3人とも時間差で大きくあくびをすると重い体を起こす。

 スポーツバイクに跨ると、ここまで来た道をそのままで帰っていく。レンタサイクルの

ショップに自転車を返却すると、駅付近から再び待ち合わせ場所だった港へ向かった。

 港市場からは外からでも分かる生気に満ち溢れ、それは近づくほど感じ取れた。市場で

は競りが続いており、軒を連ねるように並ぶ各店舗が鎬を削るよう大声で客人に呼びかけ

ている。ここで待ち合わせをした数時間前とは正反対の状況を隼人はうまく飲み込めなか

った。海斗も啓史も同じように、自分と正反対の人間を「自分」として繕うことが出来な

かった。

 社会に出れば、不自由な環境、不都合な現実、そんなことがいくらでも待っている。笑

いたくないときに笑わなければならないし、下げたくない頭を下げなければならない。

 それが3人は苦手だ、人間として損をしてると言われようがしょうがない。もっと感じ

たままの感情を出すのが人間の本来あるべき姿、そんな古臭い考え方しか出来なかった。


 ドカッ! 

 得意でない空気感に下を向いたまま歩いてると、大きな衝撃に跳ね飛ばされた。

「痛ってぇ」

 右肩に当たった力によって、隼人は市場の水に濡れた細い道に尻もちをつく。

「大丈夫か、おい」

 すぐに海斗と啓史が近寄ってきて、隼人の腕を引いて起き上がらせてくれた。

 相手方に目を遣ると、モスグリーンのスカジャンとジーンズを着た女の子がまだ痛そう

に道に転げていた。手から着地したようで、傷が出来てないかを確認している。

 隼人は女の子の方へ近寄っていき、

「ごめん、よそ見してた」

と左手を貸そうと差し出すと、それをパンっとはたかれた。

「どこ見て歩いてんだ、てめぇ!」

 女の子の怒声に隼人は身を驚かせる、彼の周囲にそんな汚い言葉を遣う女性はいなかっ

たから。

 その間に女の子は自分で立ち上がり、隼人に舌打ちをしてさっさと歩いてってしまった。

「おいおい、何だよあれ」

 何が起こったのか少し把握しきれずにいると、海斗がそう言った。

「気にすんな、どうせロクな教育受けてないんだよ」

 啓史に行こうぜと促され、隼人はようやく我に戻ることができた。

 ただ、それから市場にある寿司屋で朝食を食べて、家路につくまでも気がかりが残って

いた。右腕に微かにある感触に手をさすると、なぜかデジャヴみたいな懐古感があった。

自分の中に存在する何かしらのキーノートを立ち上げられたような、変な感覚が隼人に轟

いていた。



 自宅に帰ると、リビングには父親の一之介の姿があった。会社に出掛ける手前のようで、

いつものように1着10万円はする高級スーツを身にまとっている。スーツのことは詳し

くないが、イタリアのどこその高級ブランドのものらしい。

「おかえりなさい、隼人」

 キッチンにいた悦子から声が届き、隼人はただいまと返す。

「朝ごはんは?」

「海斗と啓史と食べてきたからいらない」

「そう、これから寝るんでしょ?」

「うん、起こさなくていいから」

 部屋に行こうとすると、一之介に「隼人」と呼び止められた。

「今日、進士さんと夕食を摂ることになってるんだ。20時からの予定だから、お前も時

間を空けておきなさい」

「・・・・・・分かった」

 そう言い、隼人は自分の部屋にそそくさと向かった。

 部屋に入ると、ベッドにそのまま身をあずける。何もない真っ白な天井を見上げながら、

そう遠くない未来の自分をそこに映した。伊崎一之介、父親のあの姿にいずれ行き着くの

だろうと答えは出る。決められたレールが待っていて、それを外れないように進むだけの

未来。

 産まれたときにもう彼の運命は決まっていた、父親の経営する会社の礎となること。周

りの人間からは金持ちでいいなと言われるが、代わってくれるなら代わってもらいたい。

金持ちには金持ちの苦悩がある、それぐらい察してから言ってくれ。プレステージなんか

いらない、全てを放り投げて逃げ出したいと何度も思った。

 その度に自分を留まらせた、自分はここにいなくてはいけないんだと。やがて出逢う恋

先のために、どんな苦い味を耐えてもここにいなければ。



 萩野海斗は自宅に帰ると、すぐにタイミングの悪い間であることを察した。

 玄関口にはこれから仕事に向かう父親の姿があり、その後ろには見送る母親がいた。不

都合さを分かったところでもう遅い、逃げ場なんてなかった。

「また朝帰りか、学生は気楽なもんだな」

 毎日の自身の繁忙とを対比したように、父親は息をつく。ただでさえ3人がいる範囲と

しては狭い空間なのに、重苦しい雰囲気の漂動が加速をさせる。

 こんな空間は早いところ抜け出してしまいたいが、等閑に離れることもできなかった。

この時間が一刻も早く流れ去ってくれれば、と願う海斗の顔は何とも定まりのないものに

なっている。

 さっきまでの隼人や啓史には見せられた解顔は、もうそこにはなかった。

「今日は授業がないんだろ? 後で会社に顔を出しなさい」

「・・・・・・はい」

 返答を聞くと、母親に「行って来る」と言い、父親は会社へ出掛けた。

 昔から威厳のある父親だった、海斗はいつからか笑顔で会話をすることもなくなった。

祖父も厳めしい人だったようで、父親もそれを受け継いだような人間になったらしい。海

斗が小さかった頃には笑った顔を見せたり、一緒に遊んでくれたりもしていたが、今の2

人の関係からすれば全く別の親子の話であるような遠い記憶になっていた。

 次第に優しさを離していった父親と同じように、海斗も父にそれを求めることをしなく

なった。あの頃に戻りたいとも思わない、それだけ2人の距離は開いていた。もはや、「仕

事」という枠組みで最も繋がっている親子関係は寂しいものでしかなかった。

 産まれたときにもう彼の運命も決まっていた、父親の経営する会社の礎となること。逃

げられない未来図から何度も逃げようと思ったが、その度に己を留まらせてきた。そんな

ことをしても、自分に何も残らないのは分かっていたから。がんじがらめの未来だとして

も、それは確かに魅力のあるものだった。一つの会社の社長になり、多くの人間や金銭や

感情を自分の手で動かすことが出来る。普通の人間が血の滲む努力をしても掴めない権利

を生まれながらに手にしていた。支配欲の高い性質を備えた海斗にとって、それを投げて

まで逃げることを選択する理由がなかった。全てを捨てて、自由を得たときに自分に残る

ものはあまりにちっぽけだった。

 海斗はそう現実に打ちひしがれる、会社のバックボーンがなければ自分自身には何の価

値もないんだなと悟って。



 水下啓史は自宅に帰ると、母親が玄関まで出迎えに来てくれた。

「おかえりなさい、啓ちゃん」

 まるで、徹夜明けの仕事から戻ってきた労をねぎらうような保護的な出迎えだ。

「お腹は空いてない? 朝食、取ってあるわよ」

 食べてきたからいいよ、と啓史は答える。

「汗かいたでしょ? お風呂のお湯、溜めておく?」

 寝るから起きてからでいいよ、と啓史は答える。

「寝るなら、何時に起こせばいい?」

 適当に起きるからいいよ、と啓史は答える。

 階段をあがっていき、自分の部屋の扉を閉めると大きな息をつく。

 昔からだった、母親には過保護なくらいに丁寧に育てられてきた。身の回りのことは何

から何までやってくれていたし、家族への愛情には妥協をしない人だった。家庭は母親が

守るもの、それが彼女の標語だ。母親たるもの、共働きに出たり、夜に遊びに出掛けたり、

友人と旅行に行ったり、などは極力避けるべきとしている。余程の理由がないかぎり、彼

女は無闇に家を長時間留守にすることはしない。いつ如何なる時に何事が起きようと、家

族を見捨てたりはしない。最大限の愛情を注ぐこと、それが自分の出来る最大の仕事でも

あった。洗濯や掃除は使用人に任せ、家族のありとあらゆる雑用をして、それを愛情とし

て家族に届ける。そこまで気を回されると窮屈になってしまう、というぐらい。ただ彼女

に一切の悪気はない、だから怪訝に扱うこともしない。

 それでもその状況に委ねていたら、自分が人として未成熟なままになってしまいそうで

怖くなる。何もかも任せてきたせいで、いざという時に何も出来ない人間になってしまう

んじゃないかと。

 海斗とは正反対に近い環境ではあったが、啓史も彼なりの苦悩を持っていた。会社のバ

ックボーンがなければ、自分自身には何の価値もないんだなと悟って。


          ☆


 夜、隼人はグレーのストライプスーツを着て歩き慣れた傾斜の道を上がっていく。傾斜

のてっぺんにある高級イタリアンのレストランでの夕食に向かうため。

 わざわざ傾斜のある道を徒歩で向かっているのには理由がある。道の途中で振り返ると、

ここからは中々に見晴らしのいい夜景を望められるから。多様な電飾が煌く景観は、隼人

の心を和ませてくれた。景色は嘘をつかない、偽りのひしめく世の中で裏切ることをしな

い。

 だから何かムシャクシャしたことがあれば、いつでも彼は景色を眺めてきた。人工的に

つくられたものがほとんどなのに、景趣を感じてしまう自分に違和感を抱きながら。

 左腕の時計を見る、午後19時55分になっていた。名残惜しいように夜景から目を背

けると、歩を進ませていく。

 傾斜のてっぺんのレストランはここから見下ろせる街から隔離されたようにポツンと佇

んでいる。外観は真っ白に塗られているが、内観はイタリアの民家をレストランサイズに

したようなものになっている。白を中心として明淡色で柔らかい印象を放っており、照明

も明るくしすぎてなく、お客に居やすい空間を与えてくれている。伊崎家が御用達にして

いる店で、隼人も小さい頃から数えきれないほど来ているレストランだった。

「おぉ、何やってるんだ、隼人」

 店内には父親の一之介と兄の隼風と、進士真人の姿がすでにあった。

「こんばんは、隼人くんは久しぶりになるね」

 進士真人からの言葉に隼人は「お久しぶりです」と頭を下げる。

 空いていた席に腰をかけると

「お前はいつも時間ギリギリに来るな」

と一之介に指し示されたので、

「ちゃんと時間に来てるんだからいいじゃん」

と隼人は壁に掛けられた時計を指して言った。

「今はまだいいが、ウチの会社で働くようになったら常に時間厳守になる。これまでのよ

うにギリギリで行動していれば、いつかトラブルで遅れることもあるだろう。そうなって

もいいよう、時間に余裕をもって動いてもらわないと困るぞ」

「社会人にとって時間は基本だ、それをわきまえた人間にならないとな」

 一之介と隼風の指摘に、隼人は「ってか、遅れてねぇんだから」と思いながら

「分かってるよ」

と返答しておく。

「まぁいいじゃないですか、まだ隼人くんは学生なんだから今を充分楽しめばいい」

 進士真人からの助け舟に、隼人は「ありがとうございます」と口角を緩めた。


 その後の会食は、4人とも終始にこやかな雰囲気でいられた。

 進士真人のおかげといえる、男親子3人だけならそんな空気にはならないはずだから。

屈託のない彼の朗らかな印象には隼人も好感を持っていたし、

 この日はいつにも増してそれが明瞭になって出されていた気がした。自分に対しても、

質問のようにあれこれを聞いてこられた。なんだろうとも思ったが、半年後には伊崎の会

社の人間になる自分に良い関係を築いていこうとしてくれているんだなと思った。

 一之介は県内に数店舗をかまえるイタリアンレストランチェーンの経営をしている。元

は祖父が40年前にスタートさせた事業だったが、時代を重ねるにつれて日本はこの欧州

のおしゃれな食事に大きく興味をそそぐようになり、それに比例するように仕事自体も軌

道に乗っていくことができた。

 そして、進士真人は外食業界のコンサルティングを主とした事業をしている。それ以外

の業界も含めたショップの経営支援プログラムを展開しており、一之介の会社とは祖父の

時代からの長い付き合いになるお得意さんだ。隼人も小さい頃から名前を耳にしていたし、

パーティーなどの席で幾度と顔を合わせている。娘の真奈美とは年も近いこともあり、大

人の集まる退屈な時間に別所でよく一緒に遊んだりしていた。隼人にとって、大人たちの

交わす表裏のある言葉を耳に入れるのは飽きるものでしかなかったし。

 しかし、その進士真人にそういう気の遣い方をされていることが素直に受け取れない部

分もあった。自分もまたそんな退屈な空間に入っていくのか、そう思うと何かを否定した

くなる。

 何でもいい、何でもいいから何かを否定していないとやりきれなくなりそうだった。外

側で笑ってる自分の膜に対し、内側で葛藤する自分の真実がキンと鳴る頭を抱えていた。

 忘れたくないものがある、憶えたくないものがある、守りたいものがある、そうもがい

てた。



 どことも決めず足を進ませているうち、隼人は慣れた風景の中に紛れていた。さっきま

で瞳にしていたミニチュアの街並みに入ると、なんだか落ち着けた。生まれ育った空間、

見慣れた風物、聞き慣れた奏楽、歩き慣れたコンクリート、その感触がそうさせてくれる。

 会食の後、隼人は独りで帰ることを選択した。車で来ていた一之介と隼風の運転の助手

席で帰ることはせず、往路と同様に歩いていくことにした。一之介の車に乗れば進士真人

との仕事の話でも聞かされるんだろうし、隼風の車に乗ればエリートコースを進むならで

はの苦節の話でも聞かされるんだろう。そんな時間を過ごすなら、感じ慣れた暖風に吹か

れて自分の足で大地を確かめるように歩くほうがマシだ。

 迫ってくる徒爾に背を向けてる自分に気づいてるし、最後の悪あがきと思われてもいい。

ただこのまま自動式の未来に身を置くことをおめおめとするのは間違ってる、と自分の体

のどこかが喚起しているのも事実だった。

 港に着いたのは22時半をまわった頃だった。そこを目的地にしてたわけではないから、

「着いた」という表現は違ってるかもしれない。行き先なんか決めてなかったけれど、足

が自然にここを求めて進んでいた。別にここに何があるわけじゃない、そう思って浮かべ

た自分への嘲笑こそが無意味だった。

 でも後になって振り返ってみればそれは必然であって、僕は赤い糸に引かれるようにそ

こに行ったんだろう。引かれ合った2人は運命で、赤い糸の紡ぎ出す線は奇跡を描いた軌

跡だった。

 見えない力に導かれるように歩いていく、港に出ると見渡すかぎりの湾景の一つのよう

に君はいた。その時の僕にとっては何でもないものだったはずなのに、体のどこかが必要

以上の反応をみせていた。

 何をするでもなく、君はただ港のコンクリートに腰を下ろしたまま瞳に映る景色を眺め

ている。

 そして、僕はそんな君の姿を瞳に映したまま10mほどの距離で立ち尽くしていた。

 心が震えている、琴線に触れて涙が出そうになる。理由は分からない、分からないけれ

ど懐かしいものが胸に込み上げてきた。

 3分ほどその状態を続けてただろうか、異質な空気に気づいたように彼女は隼人の方へ

振り向いた。視線が合うと、明らかに不審そうな瞳を隼人にぶつけていく。

 隼人は彼女に近づいていく、その場を離れることも出来たがそうはしなかった。左隣に

までくるとしゃがみ、右隣の彼女と同じように腰を下ろす。そのまま何も喋らなかった、

冷たくなってく風に吹かれながら瞳の前で微妙に移ろうっていく黒い世界を見ていた。

 隼人の様子に、不審を立てた表情をしていく彼女から言葉は始まった。

「おい」

 隼人は静かに右を向く。

「お前だよ、お前」

 その純度のない言葉に、

「あぁ」

と一間をおいて呟く。

「俺のこと?」

「お前以外いねぇだろうが」

 確かに、と隼人は心の内でうなずいた。港にはちらほら人の姿はあったが、数十mごと

のインターバルがあってどれもの間に壁が立ってるように我関せずの他人感覚しかなかっ

た。

「そうか、俺のことだったんだ」

「はぁっ? 何言ってんだよ、おめぇ」

 イカれた愚人とでも話してるように彼女は怪訝な顔つきを見せている。それがなんだか

面白くて、隼人は笑みを零した。

 性質の片鱗もつかめない左隣の奇異な男に、彼女は心内をまごつかせる。

「何なんだよ、気持ち悪ぃ奴だな」

「大丈夫、俺はまともだから」

「まともでそれなら、救いようがねぇじゃん」

「・・・・・・そうか、言われてみればそうだ」

 また隼人が笑みを零すと、彼女も少しだけ口元を緩めた。

「ところで、誰だっけ?」

 一様に思い出せなくて、彼女はそれを聞いた。

「見たことある顔だけど、思い出せないんだよね。ナンパにしちゃ、手口がダサすぎるか

らナイだろうし」

 彼女の言葉が少し嬉しかった、隼人の顔を記憶していてくれたことだけでも。

「どこで会ったっけ?」

「今日、朝の市場でドカッてぶつかった」

 あぁ、隼人の顔を見て16時間前の記憶を取り戻した彼女はそう顔を何度か縦に振る。

「思い出した、あんときのあん畜生野郎だ」

「思い出してもらえた?」

「思い出したもなにも、あれ結構痛かったんだからな」

「マジで? ゴメンな」

 素直に謝ると、彼女は「いや」と前置きを入れる。

「こっちも余所見してたから、お互い様だよ」

「そう、ならよかった」

 互いの存在が分かると、安心できたようにまた無言の時間が流れる。

 それを苦だとは感じなかった、目の前に大きく広がる景色と空気がそうさせてくれた。

静かに流れる夜の景色と緩やかに漂う夜の空気、いつでも心を穏やかにさせてくれる見え

ない力。今この時間が自分は好きだ、理由なんか探すこともなくそう感じれた。

「ここ、よく来んの?」

 彼女からの言葉だった、隼人の存在を把握できたからか声質はいくらか柔らかくなって

いた。

「結構来る方かな、ここってなんか落ち着くじゃん」

 あぁ、と彼女はこうべを垂らして言う。

「不思議なんだよなぁ、ここにいると心がスッと安らぐんだよね」

 その言葉に、隼人は引っかかった。

「どうして、それが不思議なの?」

 この夜景でいつも心を安らげていた隼人には、彼女がそれを「不思議」といったことが

理解しきれなかった。

「だって、これ見てみなよ」

 そう言い、彼女は顎をクイッと眼前の海へ差し向ける。おそらく、海面に浮かんでいる

木材やゴミのことを示したかったんだろう。

「今は夜だから分かりにくいけど、陽の出てるうちは酷いもんだよ。車から出る排出ガス

だとか、工場地帯から来る焼却排ガスだとか、大気汚染でここの空気もやられてってる。

海も同じさ、ゴミを捨ててく心ない奴らのせいでこの有り様だよ。私が小さい頃はもっと

マシだったのにさ、これからもっと汚くなってくのかと思うと嫌になるよ」

 隼人は心を曇らせた、なにか大切なものを失ってるんだという実感をして。

 目の前で悲鳴をあげているものに気づかないと、そこに確かにあったものが霞んでいく。

やがて悪化が過ぎると我が目を覆って、その事実を無かったことにすらしてしまう。

 悲しい現実だ、利己主義に進んでしまった人間自身がそれを引き起こしてしまったんだ。

「こんな廃れちまった景色なのにさ、それでも心は安らぐんだ。自分の感情が麻痺しちま

ったのかな、って自分を疑ぐるときもあるよ」

 瞳を細めて一つ溜め息をついた彼女の横姿に、隼人はグッとくるものを感じた。これま

でになかった感覚だった、心はまた震えていた。

 ブルッとする心臓の振動は、なんとも心地良いものだった。

 右隣にいる、今日出会ったばかりの口の悪い女の子に特別なものを感応しているのを感

受していた。


          ☆


 その日の夢は、いつもと違うものだった。

 瞳を開くと、前に君が寝転んでいた。寝てるというより、電源をOFFにして機能して

いないロボットのように静かな寝方だった。

 僕らが寝ていたのは形や色の様々な石をセメントで敷き詰めて完成させた部屋で、ゆっ

くりと身を起こすと地につけていた体の部分に砂がくっついていた。

 辺りを見回すと、鉄格子が連なって、壁などで四方を塞がれている西洋の城の中にある

檻のようだった。部屋の上の方にある鉄格子のはまった窓から陽は差し込んでいるが、そ

れ以外の明かりはなく、湿度と気温の高さからすれば変に冷ややかに感じられる。

 そして、君のいる方へ向き直ると、顔を下に向けて息をついた。

 すぐそこにいると思った君との間には、いくつもの鉄格子が隔たりになっていた。

 押したり、引いたり、揺すったり、叩いたりしてみるが、まだ幼く小さな僕にはビクと

もしない。美月、と何度も名前を呼んでも、君には届いてないように寝ることを続けてい

る。

 そこに君がいるのに、そう歯を軋りたくなる思いで悔しむ。

 時間は無情に過ぎていき、部屋の上の方にある窓からくる陽光はなくなった。夜になる

と僅かな星の光だけが差し込み、森の中にいるみたいに冷たく感じられる。外から漏れて

くる音もなく、ここだけが一つの隔離された場所のようで淋しくなった。

 前で寝ている君に目を向ける、気づかないうちに2人の距離が開いているのが分かった。

段々と2人を離す速度が上がっていく、遠のいていく君の姿に胸に込み上げる不安を隼人

は覚える。

 美月、そう口から零れるように出た言葉が君に届く。届いた言葉は君の体にそのまま入

っていき、それが何かのレバーを引いたように君の言葉が届いた。

「・・・・・・ハヤト・・・・・・」

 その一言だけを残し、君は僕の視界から消えていった。

 聞こえるかどうかぐらいの小さな声だった、なのに僕の心にはずっしりと重く圧しかか

った。君からしたら多分ただの寝言なんだろうけど、その言葉は僕の体を大きく打ち奮わ

せた。体つきも大したこといない、精神も整っていない、そんな僕だけど確固たる想いは

築いていた。

 大人になって君と再び会える日が来たら、そのときは・・・・・・どんなことがあって

も君のことを守ってみせる。

 伊崎隼人という、1人の小さな戦士の決意の瞬間だった。



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