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第9話



 瞳を開くと、台風の目にいるような感覚に包まれる。激しく動く周囲をよそにしたよう

に何もない空間にいるようだった。

 変化のなさを装って家を出たが、確実に起こった変化が胸を揺らす。

 大学へは行かず、昨日も訪れた海を見渡せる公園へ足を向かわせた。何の変哲もないベ

ンチに腰を下ろすと、脱力感が体に覆いかぶさる。

 昨日、ここで結愛とキスをした。確証的な快感と失落感、前者は福岡結愛、後者は進士

真奈美。得たものと失ったものがあった。得たものの方が大きかったのも感じていた。

 20年の両想いが実を結んだんだ。真奈美への心苦しさは当然あったが、想いの強さは

歴然といえた。

 真奈美はあの後、逃げるように帰って行った。未だに連絡はない、どれだけ悲しませた

のかも分かっている。

「ごめん」

 唇が離れた後、結愛が最初に言った言葉だった。

「何で、ごめんなわけ?」

 おそらく、真奈美とのことを汲んで言ったのだろう。

 それでも、後悔をするべきことではない。そうだ、これは2人ともが望んだことなんだ。

真奈美には申し訳ないが、行為そのものを申し訳なく思うことはない。

 だから、最後には結愛は笑顔になっていた。久しぶりに彼女のこんな顔を見たなと思っ

た。福岡結愛と福治美月が重なる、美月の笑顔も同じように素敵だった。20年間、頭の

中で数えきれないほど思い返した笑顔だった。


「隼人、おはよう。

 昨日はごめん、私のせいで結婚相手を悲しませちゃって。後で対応するのは隼人だし、

悪かったなぁって思って。

 それでも・・・・・・私は自分の気持ちに裏切りたくない。やっと、こうやって会えた

んだよ。金持ちと貧乏とか、結婚の決まった相手がいるとか、そんなの抜きで隼人と結ば

れたい。

 隼人も同じ気持ちだって信じてる。どうにかしたい、どうすればいいかな」


 結愛からのメールだった。

 彼女も同じ気持ちだった。それが嬉しかった。長い年月においても、2人の想いは揺る

がなかった。

 正直、今すぐにでも彼女と一緒になりたいのが本音だった。だが、そういうわけにはい

かない。通り過ぎなければいけない点はいくつとあった。一筋縄にはいくはずのない点ば

かりだ。

 それでも進まなければならない、2人が結ばれるために。



「起きました?」

 瞳が覚めると、萩野海斗は慣れない空間にいた。照明は薄い赤、BGMは薄いジャズ、

下から来る気持ちのよい感覚はウォーターベッドによるものだった。

 胸元に頭を添えていた安佐華恵は顔を上向きにし、海斗に向けて口角を上げる。2人は

何も身に着けていなかったので、ぴったりと寄せていた彼女の体の感触がこれでもかと伝

わってくる。

 自分がその不慣れな場所にいた理由はすぐに思い返せた。昨日の晩、毎度のように華恵

を食事に誘った。少々値の張る食事をし、親の財布で購入した高級車で夜景の見渡せるポ

イントを巡るドライブをする。何度と繰り返してきたデートコースを終えようとすると、

彼女の口が開いた。

「私、親に嘘ついてきたんです」

「嘘?」

「はい、今日私は友達と遊んでることになってます」

「どうして、またそんな嘘なんか?」

 次の華恵の言葉は車の音量に消されそうなくらい小さく発せられた。

「・・・・・・だって、他に泊まりの口実が思いつかなかったから」

 その後、華恵は前を向いたまま押し黙っていた。その様子に一つの決意が定まると、海

斗も一言も発することはなかった。

 停止の出来ない高速に乗っている時間がやけに長く感じられた。胸の鼓動は早まってい

く、相手もそうであることも分かっている。

「私はそんなにいいお嬢様じゃないですよ」

「どうして?」

「何事にも冷めてるし、金持ちなんてクソ喰らえぐらいの感じですよ」

「それでいいんだよ」

 そう笑うと、彼女も続けて笑った。高速を降りたばかりの路肩に停車された高級車での

初めてのキスはどれだけもの長い時間に及んだ。誰に止められもしないし、いつまででも

続けていたかった。

「海斗さん」

 そう呼ばれると、薄赤い現実世界に意識が戻る。

 華恵は海斗の体にしっかり抱きついたまま、言った。

「お金持ちに生まれたせいか、私、勝手にプライドと敷居を高くしちゃってたんです」

 海斗の胸のあたりに一つ唇をつける。

「こんな自然になれる人、初めてです。今度お見合いするから、って最初に言われた時に

は気分がげんなりしまくってたのに。正直、自分の未来に諦めてたところがあったんです。

どうせ、親の思い描くような都合のいいものでしかないんだろうって。それなのに、海斗

さんに出会えてまた未来が明るく点りました」

 華恵の顔がこちらに向く。

「・・・・・・幸せにしてくださいね・・・・・・」

 海斗がゆっくり頷くと、彼女はにっこりと笑みを浮かべた。



 季節はずれのアイスクリームを食べる秋井佳穂を横から眺める。彼女はアイスは上から

パクパク食べるタイプのようだ。

 その口の動きを見ていると、ふと佳穂の手が止まった。

「ねぇ、啓史くん」

「んっ?」

「Hでもしようか」

 あまりに飛びぬけた発言に水下啓史は瞳を丸くする。

「どういうこと?」

「だってさぁ、私たちって全然進展しないじゃん。急に近づいた関係なのに、そこから一

歩一歩がやたら狭くて。不満ってほどじゃないのよ、別に他の女に手出してるとかじゃな

いし。ゆっくり行くなら、それはそれで構わないと思うし。だけど、何ていうか・・・・・・

次がある、っていう保障が欲しいのね」

「保障?」

「2人の関係にこの先はありますよ、っていう」

 そう言われてもな、と啓史は悩む。

「具体的に、どうすればいいかとかある?」

 少し溶け始めたアイスを食べながら、佳穂は考える。

「私のこと、どう思ってる?」

「啓史くんの中で、私との未来ってどういうふうになってる?」

 立て続けの質問攻勢に啓史は多少怯む。未来なんて、そんな真剣に考えたことはなかっ

たし。

「私とキスしたいと思う?」

 まぁ、と啓史はこうべを垂らす。

「私とエッチしたいと思う?」

 まぁ、と啓史はこうべを垂らす。

「私と結婚したいと思う?」

 まぁ、と啓史はこうべを垂らす。

「その言葉に嘘偽りはない?」

 言葉なく啓史はこうべを垂らす。

 佳穂はその様子にフフッと笑うと、啓史にキスをした。

「ありがとう」

 そう言い、またアイスへ手を伸ばした。


          ☆


「隼人、ちょっと話がある」

 夜、家に帰ってくるなり、父親の一之介から呼ばれた。何の用だろうかと思ったが、と

りあえず話を聞いてみようとした。

 部屋からリビングに続く階段を降りていくと、深麦色のカウチソファに一之介の姿があ

った。ガラステーブルを挟んで向かいにある1人掛けのソファに隼人が腰を下ろすと、一

之介は息をついてから口を開いた。

「今日、進士さんと食事をしてきた。予定はなかったんだが、向こうから話したいことが

あると言われたんだ」

 話したいこと、その予想はついたが隼人は一之介からの言葉を待った。

「お前、お付き合いしてる人がいるらしいな」

 少し小さめの言だった。おそらく、母親の悦子に届かないようにしたのだろう。

 一之介の言いたいことは分かった。お付き合いしてる人、とは福岡結愛を指してるのだ

ろう。

 父親にまで伝わった経路も分かった。真奈美からその親へ伝わり、向こうの親から一之

介へと伝わったということだろう。

「昨日、真奈美ちゃんがお前に会いに行ったのに、早くに帰って来たと思ったら自分の部

屋にこもって泣いていたらしい。今日の朝、真奈美ちゃんの方から進士さんにその事を言

って来たそうだ」

 真奈美の方から、という言葉だけは隼人にとって意外だった。真奈美が自分から隼人に

不利になるような事を吐露しないのではないか、と勝手に思っていたから。

「・・・・・・どういうことだ」

 一之介は言葉を重くして言った。それだけ重要な事であり、こちらの出方を探ってるよ

うでもあった。

「どうもしません。その通りです」

 隼人はそのままを告げた。

 そうか、と一之介は呟いた。

 少しの間が生じ、一之介はどこを探り掘っていくのかを考え、隼人は極力は何を聞かれ

ても答えるつもりでいた。

「まぁ、お前の年頃ならな。そういう子がいたって、おかしくはない。ただ、お前も分か

ってるだろうが、こうして結婚に向けて事が進んでる時にというのが問題だ。進士さんも

真奈美ちゃんも今回の事には前向きでいてくれているというのに、それをこちら側が裏切

った形だ。はっきり言って、結婚を断られても仕方がない」

 一之介は思ったよりも冷静でいるようだった。こうなる事は想定内だった、ということ

なのだろうか。

「すいませんでした」

 隼人は言葉とともに頭を下げた。どっちつかずをしてしまい、二股という行為をしてし

まった己は恥ずべきものだ。

「でっ、その相手の子はどういう子だ」

 一之介はタバコに火をつけ、一つ煙を吐く。

「福岡結愛さん、歳は同じで市場の青果店で働いてます」

 隼人は結愛の存在を素直に明かした。深い部分は彼女のプライベートなので、勝手に言

うつもりはなかったが。

「歳が同じということは大学には行ってないのか」

「確か、高校にも行ってないはずです」

「中卒か、何か事情のある家庭というか?」

「いや、特別といって問題を抱えてるわけじゃなく。親御さんが高齢なので、店を継ぐた

めに早いうちから働いていたそうです」

「そうか、なるほど」

 一之介は息をつき、鼻からも白い煙がのぼっていく。

「それで、お前はどうするんだ」

「その子を取るのか、真奈美ちゃんを取るのか」

 確信をついた質問が来た。

 一之介の中では、きっと言葉とは違ったものがあるのだろう。結愛と真奈美ではなく、

伊崎の会社を取るのかどうか、という。

 進士家との繋がりがもしも無くなるようなことになれば、どうなるのだろう。会社の事

はまだしっかりと把握はしてないが、おそらく大きな打撃にはなるのではないか。これは

自分一人のことではない。だから、こんなにも答えが出せずにいた。

 結愛か真奈美かという質問なら、迷わず結愛を選ぶ。だが、それだけで決めていい立場

にいる人間ではなかった。それは自負していたが、実際その場面に立たされることでより

強い種になっている。

 どうする、どうするんだ・・・・・・。

「・・・・・・もう少し、考える時間をください」

 隼人は再び頭を下げた。

 分かった、と前の方から言葉が聞こえた。

「一生に関わる事だ。悩むだけ悩めばいい。ただ、今回の事はこちらも早くに進士さんに

話をしなければならない。時間は多く取ることは出来ない、分かったな」

 はい、と隼人は返答する。

 それから部屋へ戻るまでの足取りは重く、サンドバッグが倒れるようにズッシリとベッ

ドに倒れこんだ。

 それから、居た堪れない胸の揺らぎと葛藤を繰り返していく。これまでの自分の行動、

今置かれている現状、一つ一つを紡いでいく。行き着く先の候補に何度もかぶりを振る、

どの答えも回答へ結びつけられなかった。どうすることが自分にとっての最善なのか、そ

う悩むうちに何もかもがごちゃごちゃになった。どんなにピースを嵌めていこうにも、パ

ズルはリセットを繰り返すのみだった。

 いつからか考えるのを止めた。答えなんか無いんじゃないか、と思いたかった。


 ベッドにうずくまっていると、携帯の着信音が鳴った。

 もう23時を回っている、真奈美からのメールに身は多少なりに緊張を憶える。


「隼人お兄ちゃん、こんばんは。

 もう、お兄ちゃんに話が行ってるかもしれないけれど・・・・・・昨日の事、お父さん

やお母さんに話しました。

 昨日、あの後に帰って泣きまくってたから心配されて。言おうかどうかは迷ったけど、

言うことに決めました。

 こんな事はしたくないけれど・・・・・・お父さんから小父さんに言ってもらえば、強

引にでも結婚の事は元通りになるんじゃないかって思って。

 他の人の力を借りてまで結婚したいのか、ってことだよね。正直、胸が痛むよ・・・・・・

でも、それ以上に私はお兄ちゃんと一緒になりたい。

 言っとくけど、嫌いになんかならないからね」


 読んでるだけで、隼人は苦しみに駆られた。ここまで、真奈美の気持ちを追い込ませて

しまっている。こんな子じゃないのに、自分が追い詰めてしまった。

 隼人は返信メールではなく、直接電話を掛けた。5秒ほどで真奈美は出る。「もしもし」

という彼女の声もどこか緊張してるように聞こえた。

「今、大丈夫?」

「うん」

「なんていうか・・・・・・ごめん」

 どうして、と真奈美は言う。

「どうして、お兄ちゃんが謝るの」

「いや、あんなふうになったから・・・・・・心配してて」

「お兄ちゃんは悪くないよ、あの人が勝手にしたんでしょ」

 真奈美の言葉は自分自身に言い聞かせてるようだった。隼人は何も手出ししていない、

結愛が全て悪いんだと。

「あの女の人、いつから知り合いなの?」

「いつから・・・・・・1ヶ月半ぐらいかな」

 福治美月との事はややこしくなるから抜きにしておく。

「それぐらいで・・・・・・図々しい。私なんか、小っちゃい頃からずっと一緒なのに」

「真奈美、落ち着いてくれ」

 お兄ちゃんは、と真奈美が叫ぶ。

「お兄ちゃんはどっちを選ぶの。私とあの人。どっちがいいなんて、すぐに分かるでしょ。

私だよ、どう考えたって私に決まってるじゃんか」

 捲くし立てるように真奈美は言い並べる。電話口から息遣いが聞こえる、興奮状態にあ

るのは分かりえた。

 真奈美、と言うと、彼女の方から言を挟む。

「嫌な女、って思ってもいいよ」

「そんなの・・・・・・結婚してから、いくらでも取り返すから。いっぱい、いっぱい、

隼人お兄ちゃんのために尽くすから。だから、今はどう思われても私から離したりなんか

しない」

 そこで、一方的に電話は切れた。彼女の感情の起伏の程度が自分が与えてしまった切事

だと思うと辛くなった。揺れる想いは振り幅を増して、体の幅を突き破りそうになる。


          ☆


 翌日、大学の空き時間に海斗と啓史とタバコを吹かした。隼人も啓史のタバコを拝借し

た。何だか、小玉でも現実に逆らってみたかった。

 真奈美や結愛とのことを話すと、それまでの温和な空気は無かったかのように消え去っ

た。

「そうか・・・・・・」

 2人からの言葉はそれだけだった。彼らも隼人と同じ境遇にいる分、隼人の悩みは手に

取るように分かる。親の選んだ女性を相手としている海斗、自身で選んだ女性を相手とし

ている啓史。どちらの選択肢も踏んでいる2人にとって、どちらがいいかなんて一概には

判断できない。会社を背負わなければならないが、あくまで自分は自分、そこは譲れない。

一方を選択して得るもの、もう一方を選択しなくて失うもの、どちらも重い。どちらもを

得る選択肢があるなら飛びつきたい、そんな不届きな考えもちらついた。

 なぁ、と開口したのは海斗だった。

「よく分かんねぇけどさ、もうこうなったら隼人のやりたいようにすればいいんじゃない

の。このまま悩んでても、これっていう答えには行き着かないと思うんだよ。どちらを選

んだとしても、残るのは幸福と後悔だろ。なら、せめて隼人の好きな方を選べよ。お前の

一生かかってんだから、そんぐらいしたって構わないはずだって」

 まぁな、と啓史も続けて言う。

「俺もよぉ、佳穂のこととか両親に全然言えてねぇんだ。それって、きっとどこかで俺と

あいつの環境の違いを感じてんだろうな。そんなもん関係ねぇ、って思おうとしてんのに

よ。だから、隼人の気持ちもすげぇ分かんだ。だけどさ、このままだと俺ら何も変わんね

ぇじゃん。多分、これがラストチャンスだと思うんだ。だからよ隼人、これまで辿って来

たレールとか無しにしねぇか」

 海斗と啓史の言葉は胸に沁みた。これはきっと彼らが彼ら自身に言っている本音なんだ

ろうな、と思えた。

 そして、それは隼人にも大きく通じるものがあった。ラストチャンス、確かにその通り

だなと思う。卒業まで4ヶ月、その先にあるのは様々な社会のしがらみ。ここで本音を貫

き通すことの意味、その大きさが痛いぐらいに分かった。

 最後の悪あがき、啓史のその言葉に3人は笑い合った。



 夜、福岡結愛は自宅の和室で今日の店の売上金の集計をしていた。

 宗一郎は浴室、節子は台所にいたので、インターホンの音に彼女が対応する。まぁ、市

場の誰かが夕食のお裾分けを持って来てくれたのだろうと玄関を開けると、そこにいたの

は思いもしなかった相手だった。

「今、時間いただけますか」

 あぁ、と結愛は答える。

 節子に出掛ける旨を伝え、進士真奈美と近くの広場へ向かった。広場には小さい池があ

り、それを囲うようにベンチがいくつと並んでいる。

 その中の一つのベンチに2人は腰を掛ける。昼間は子供たちの遊び声がやかましく響く

のに、この時間はひっそりと静まっている。

 進士真奈美の用件は言われずとも分かる、伊崎隼人との関係についてだろう。

「すいませんね、こんな時間に」

「いいよ、それより金持ちのお嬢ちゃんがこんな時間に一人でいいの?」

「今日はお父さんが車を出してくれてますから」

 ふぅん、と結愛は一つ悟った。

「親に言った、ってわけか」

 親づてに隼人にプレッシャーをかけよう、っていう魂胆か。

「いけませんか?」

 いや、と結愛はかぶりを振る。

「いいんじゃない? 私がお嬢ちゃんだったら、そうしてると思うよ」

「一緒にしないでください、あなたと」

 真奈美の言葉に結愛は声を殺して笑った。

「何がおかしいんですか」

「いや、そんなに私のこと嫌いなのかなって思って」

「嫌いです、当たり前でしょ」

 言い捨てるようにすると、真奈美が言を続ける。

「率直に言います、隼人お兄ちゃんに手を出さないでください」

「・・・・・・また、直球だねぇ」

 結愛はポケットから取り出したタバコに火をつける。

「お嬢ちゃん、吸う?」

「吸いません、そんなもの」

「そんなもの、ってことないでしょ」

「信じられません、タバコなんか吸う女性」

「女がタバコ吸っちゃいけないの?」

 法律的には問題ありませんけど、と真奈美はわざと強めに言う。

「将来、子供を産む体に不健康なものを含ませる意味が分からないってことです」

「・・・・・・真面目すぎじゃない? その考え」

「いいんです、放っておいてください」

 あっそう、と結愛はタバコを吹かした。

「どうして、お兄ちゃんはあなたなんかに目移りしたのか理解できません」

「魅力的だったんでしょ、私が」

「違います、物珍しかっただけです」

「そうなの?」

「当然です、慣れればすぐにでも捨てられるのがオチです」

「酷いなぁ、それが本当なら」

 そう言うと、結愛はまた押し殺して笑う。

 この人は何なんだ、と真奈美は疑念を募らせるばかりだった。

「なぁ、本物の家族ってどういう感じ?」

「はっ?」

「お嬢ちゃん、見た感じからして両親に愛されて育てられてきたっぽいじゃん。そうやっ

て、いっぱい愛情受けてきた実感ってどう?」

 真奈美には結愛の言葉の真意がつかめなかった。

「別に・・・・・・実感って言われても」

 だろうね、と結愛は言った。

「実際にそういう状況で育てられた人間って、そんなにそれを感じてない。隼人もお嬢ち

ゃんと同じ意見だったけど、私にはそれが羨ましくてたまんないんだ。親のいない人間に

とって、その当たり前がどれだけの宝物か分かるから。佳穂って友達がいるんだけど、そ

の子は親と関係悪くてケンカばっかしてるらしいんだよ。ただ、それでも私には羨ましい。

本物の家族がいる、ってことが。家宝、って言葉あるだろ。あれって、家族のことだと思

うんだよね。家族が存在してくれることが何よりの宝、ってことなんだよ」

 いつの間にか、結愛の瞳は潤いを帯びていた。

 この話になると熱くなってしまう。いけないいけない、と自分を呼び起こす。

「・・・・・・別に、そんな話されても同情なんてしませんから」

 いけないいけない、と自分を呼び起こしたのは真奈美も同じだった。少なからず、結愛

の話に心を動かされている自分がいた。

「いいんだ、そんなつもりで言ったんじゃないから」

 こんな情に流されちゃいけない、と真奈美は気を引きしめる。一息つき、ハンドバッグ

から取り出した封筒を結愛の方へ差し出した。

「何だよ、これ」

「300万円、入ってます」

「はぁっ、どういう意味だよ」

「お爺さんとお婆さん、高齢で長くは仕事を続けられないそうですね。いろいろとお金が

必要になってくるんじゃないですか?」

 真奈美の言葉の意味合いはすぐに理解できた。

「・・・・・・私と隼人を金で買うのかよ」

「失礼言わないでください、買うのはあなただけです。隼人お兄ちゃんは最初からあなた

なんかに興味はありません。一時の気の迷いです、どうやって暗示に掛けたのかは知りま

せんけど。あなたが現れてからロクなことがありません。結婚の話が宙に浮くし、お兄ち

ゃんはボロボロになるし。あなたは疫病神です、私たちの前からいなくなってください」

「・・・・・・言うねぇ」

 真奈美の言葉は生意気が過ぎて怒りも湧いたが、事実なところもあって結愛を惑わせた。

「お金が足りないなら言ってください、いくらでも足しますから」

 真奈美は立ち上がり、帰ろうとする。

「待てよ、こんなもん受けとるかよ」

「じゃあ、預かっておいてください。受け取るかどうかは次に会う機会に、ってことで。

どうすることが隼人お兄ちゃんにとって良いことか、よく考えてみてください」

 そう言い残し、真奈美は立ち去る。近くに黒のベンツが止めてあり、その助手席に乗り

込む。そういえば、父親に車を出してもらったと言っていたな。

 低速で通り過ぎる車のフロントガラス越しに2人の顔を見れた。

 瞬間、結愛の体に電流に似た衝撃が走った。体中の熱を奪っていくように流れ、結愛は

その場にうずくまった。どうにもならない胸騒ぎに襲われ、やがて霧が晴れるように確か

な形を表した。



 電話越しに結愛が泣いていた。

「・・・・・・隼人ぉ・・・・・・どうしよう・・・・・・」

 彼女が発したのはそれだけだった。あとはただ泣くばかりで、隼人は何も出来ない自分

がいじらしかった。


          ☆


 その日の夢はいつもと違うものだった。

 美月は独りぼっちで当て所もなく彷徨っている。

 隼人はそれを俯瞰で眺めることしか出来なかった。何かしようにも、身体は完全に動く

ことを許されなかった。

「・・・・・・おとうさぁん・・・・・・」

「・・・・・・おかあさぁん・・・・・・」

「・・・・・・ハヤトぉ・・・・・・」

 それだけを繰り返し、美月はただ歩を進めていく。

 やがて彼女は立ち止まり、その場に膝をついて泣き出した。

「・・・・・・おとうさぁん・・・・・・」

「・・・・・・おかあさぁん・・・・・・」

「・・・・・・ハヤトぉ・・・・・・」

 その声は弱々しくなっていく、聞いているのが辛くなるほど。

 ここだよ、僕はここにいる、そう伝えたくてたまらないが出来なかった。今すぐ壁を破

って、君のところへ行きたかった。そうすれば、悲しむ君を救ってあげられる。

 君を守りたい、僕の・・・・・・僕だけの君に。

 この世界に何が起ころうとも絶対的な味方でいること心に誓った。




今作は全10話なので、次回が最終話となります。


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