【終末ワイン】 マイプライス・マイバリュー (55,000字)
需要もないけど、シリーズ8作目の短編です。
寿命。人の命の長さ。それを人は知る事が無い。知る事が出来ない。知らないからこそ、明日を未来を信じ、生きていく。自分が明日、死ぬという事がわかっていたら? 死ぬ事が決まっていたとしたら、人はどういう行動を取るだろうか。
5月31日 厚生労働省終末管理局
月末の今日、1カ月毎に実行される『終末通知』の葉書を作成するプログラムが起動した。今月は、7102通の通知葉書が作成された。作成された終末通知葉書は、管理局職員により機械的に郵送の手続きが粛々と行われた。
◇
29歳の山西未紀子は風俗店で働いていた。
自分の名前の一部を入れ替え「キミコ」という源氏名を名乗り、東京の繁華街にあるその店から電車とバスを乗り継いで、2時間程行った郊外にあるワンルームマンションで一人暮らしをしていた。
その世界へは自らが率先して踏み入った訳では無かった。ほんのちょっとの軽い気持ちから歯車が狂い始め、その世界へと流されるようにして足を踏み入れた。
学生時代のキミコは至極普通の女の子で成績も悪くはなかった。
就職か進学を悩んでいた高校3年の時、仲の良い同級生とノリで援助交際を始めてしまった。そしてそれが警察にバレて補導されてしまった。
その後、身元引受人として両親が警察にやって来た。父親は無言のままに蔑んだ目で自分の娘を見つめた。母親は「こんな事をした娘が情けない」と、周囲の目を憚らず、その場で泣き崩れた。
それはその地方で小さく報道された。キミコの援助交際相手として警察に逮捕された男性は40歳を過ぎていた為に実名で報道されたが、キミコは未成年だった為に「県内の高校に通う女子高生」とだけ報道された。
しかしそんな匿名ではあっても学校ではその女子高生はキミコであるとの噂が広まった。一緒に援助交際をしていた同級生は補導されてはいなかったが、キミコといつも一緒に行動していた為に『2人で援助交際をしているんだろう』と噂された。噂は3年生だけに留まらず、2年生、1年生と学年を問わずに噂が広まり、全校生徒がその噂を知る事となった。
噂を聞きつけた学校側はキミコと同級生を密かに呼び出し、噂の真相を問い質した。同級生とキミコは自分達が援助交際をしていた事を認め、学校側に全てを話した。
学校側は補導されたとはいえ内容が内容だけに、例えそれが事実であったとしても、援助交際という『売春行為をした』というレッテルが貼られてしまう事を危惧して敢えて処分はしなかった。
かといって、校内に広まった噂は消える事は無かった。それが事実だっただけに、それを否定する事も出来なかった。
一緒に援助交際をしていた同級生はそんな学校が煩わしくなり、早々に自主退学を選択した。その後を追うようにしてキミコも自主退学した。
高校を退学したキミコは家に引き籠っていた。近所には売春行為で補導された事は未だ知られてはいなかったが、自分と目が合う人達すべてに『あいつは売春婦だ』と見られている気がして、キミコはあまり外を出歩けなくなっていた。
キミコには中学生の妹がいた。特別仲が良かったわけではないが、キミコが売春行為で補導されて以来、会話はおろか、キミコとは目も合わさなくなった。
妹の中学校ではキミコが売春したという事はまだ知られてはいなかったが、それがいざ知られた時に「いじめられないか、高校進学の妨げにならないか」と、自分に災いが降りかからないかを心配する毎日を送っていた。
キミコは同級生と一緒に軽いノリで始めてしまった援助交際と称する売春行為が、ここまで大事になるとは考えてもみなかった。
ただの軽いノリだった。簡単に小遣いを稼げる手段であり、同級生に誘われた時にも、断る事で「ノリが悪い奴」と見られたくないというだけだった。それだけの為に、自分の体を数万円を対価に差し出した。
警察に補導されるまでは援助交際という言葉を軽く考えていた。しかし補導された時に言われた警察官からの『売春』と言う言葉に、自分の行った行為の重さに初めて気が付いた。その結果として高校は自主退学。更には家庭不和を招いてしまった。
父親と妹とは一切の会話が無くなり目も合わしてくれず、キミコの事を見知らぬ居候としか見なくなっていた。母親はちゃんとした食事も用意してくれ洗濯等もしてくれてはいたが、やはり会話は無くなっていた。家族全員から疎まれる存在であるとキミコも分かっていた。キミコは自分の居場所は家には無いと悟った。
『東京で風俗の仕事をしない?』
本来ならキミコが高校を卒業する時期に、早々に自主退学していた同級生からそんな連絡が入った。キミコと同級生は高校を退学してから一度も連絡を取っていなかった。同級生は高校を辞めた後に年上の知り合い女性に誘われ、東京で風俗の仕事をしていた。
キミコは耳を疑った。そういった事をしたが為にお互い高校を辞めるはめになったというのに、今度はそれを仕事としてまた誘うのかと。
同級生はキミコが自分のすぐ後に高校を退学し、今どうしているか分からないといった噂をどこからか聞き付け、キミコに連絡を取った。補導されたのはキミコのヘマだとは思っていたが、そもそも誘ったのは自分でもあったという自責の念を少しだけ感じていた。
「じゃあ、あんた。これからどーすんの? 今いる街で仕事でも探してんの? そもそも実家にも居づらいんじゃないの? しばらくは私と一緒に知り合いの家で居候しながら一緒に働かない? お金が貯まったら居候やめて自分で部屋借りればいいし。家を出る良い切っ掛けと思ってさ」
キミコは同級生からのそんな言葉に返せる言葉が浮かばなかった。確かに今住んでいる家の居心地は悪く居場所は無かった。とはいっても自分がしでかした事が原因なので文句を言う立場でも無かった。
『お父さん、お母さん。色々迷惑掛けてすいませんでした。知り合いから仕事を紹介して貰える事になったので家を出る事にしました。今まで有難うございました』
キミコはそんな書き置きを残し、青いジーンズと援助交際で得たお金で以って購入した薄紫のダウンコートを身に纏い、大きめの鞄に詰め込めるだけの服を詰め、自分が持っている現金と携帯電話を持って、18年間住んだ家を出ていった。
東京の繁華街から少し離れた駅の前、キミコは同級生と待ち合わせしていた。
「おーい、久しぶり。元気? じゃないね。まーしょうがないけど。とりあえず今あたしが居候させて貰ってる家に案内するから付いてきて」
半年前の同級生は多少茶色いボブカットだったが、久しぶりにキミコの目の前に現れた同級生は肩まで伸びた金髪になっていた。ファー付きのフードが付いたカーキ色のダウンコートの下にはグレーのスウェットの上下を身に纏い、白いスニーカーをサンダルのように踵を踏み、手首にはジャラジャラと音が鳴るほどに小物を身につけていた。その同級生の変貌した姿に「何だかヤンキーみたいだな」と、キミコは苦笑いした。
駅前から歩いて15分。同級生は同じようなマンションだらけの街の中、とある10階建てのマンションの中へとキミコを連れだって入って行った。
エレベータに乗り3階の中部屋。その部屋は窓が正面の1方向にしか無く、その窓から見える景色は1車線の道路を挟んでのマンションであり、空を見るにもベランダから顔を覗かせなければ見る事は出来なかった。
8畳程のワンルームにはテレビやテーブル、棚等は一切無く、フローリングにはシーツと掛け布団がぐちゃっとなったままの2つの布団が敷きっ放し。壁際には大きいキャリーケースが2つ立った状態で置いてあり、その周囲に洋服が散乱していた。
部屋の端には食べ終わったカップラーメンの容器や飲み終わったビールの缶、ペットボトルがいくつか転がり、居候させて貰っている同級生が掃除をする事になっていたが、きっちりとはやっていなかった。
「まー。すわんなよ」
同級生は1つの布団の掛け布団を綺麗に敷き直し、その上にドスンと音を立て座り込むと胡坐をかいた。キミコは同級生と向かい合わせに、同じ布団の上にちょこんと正座した。
同級生は自分の携帯電話をキミコに見せた。
「いまあたしそのヘルスで働いてんだけど、同じ店でいい? それとも別の店がいいなら紹介するけど」
携帯電話には風俗ヘルス店のホームページが表示されていた。そのホームページにはでかでかと店の名前と共に、ドレスを身に纏った可愛いらしい金髪の女の子が表示されていた。
「それ、あたし」
「えっ? いや、言われてみればそんな感じもするけど……何か全然感じが違くない?」
「いや、それぐらいのパネマジするっしょ。普通だって。あははは」
「ぱねまじ?」
「パネルマジックってさ。まー写真を加工すんのよ。しわを消して、目を大きくとか、胸を大きく、頬や顎を細くして、ウエストも細くとかね。年行っている人達なんてすげーよ。全然別人じゃんみたいな人、いっぱいいるしね」
「へぇ……」
「まー。こんな仕事、若いうちしか出来ないっしょ。年いったらマニアックな店じゃないと指名なんて取れないからね。こうでもして一見さんでもいいからとにかく指名を取る為の努力って感じかな」
「そーなんだ。でもいつまで続けるの?」
「今はまだ考えてないけどね。ある程度お金が貯まったら、とりあえず一人暮らしして、そっから何か店でも開くかなーって感じ」
キミコと同級生がそんな会話をしていると、ガチャリと玄関ドアが開いた。
「ただいまー。つかれたー。あれ? 誰か来てんの?」
「お疲れっす。先輩、この子が前に話した高校の時のダチです。いいすよね? しばらく居候させてもらって。ちゃんと掃除もしますんで」
「あーいいよー。っていうか、お前掃除してねーじゃんかよ。追い出すぞ」
同級生が先輩と呼んだ女性は、同級生とは別の風俗店で働いている26歳。午後0時に家に帰って来た女性は濃い紫のスーツを身に纏い、ホストクラブからの朝帰りならぬ昼帰りであり、口を開くたび酒の匂いを撒き散らしていた。
同級生同様に金髪の長い髪の女性は、肩に掛けていた鞄を壁際に放り投げると、多少崩れ気味の化粧もそのままに、同級生とキミコが座る布団の隣の布団へと、スーツをきたまま仰向けに寝転んだ。
「は~あ、最近指名が入らなくなってきてさー。あんたらも風俗やるなら指名取れるように頑張んな。あ~あ、何か良い金儲けの話ないかなー」
先輩女性はそう言うと、小さめの鼾をかきながら眠りに就いた。キミコと同級生は横で眠った先輩女性に気遣うように小声で話し始めた。
「とりあえず私と同じ店で働くって事でいい? いいなら店長に今日連れていくって連絡して置くけどどうする?」
「え? 今日から?」
「ん? いつから働くつもりだったの? 居候っていっても私も先輩に3万位は渡してるし。ただで置いてもらうってのはちょっと甘いでしょ」
「……そうだね。……じ、じゃあ今日行くよ」
「おっけー。じゃあ面接の連絡しておくね。とりあえず簡単でいいから履歴書書いといて。用紙はその辺にあるから」
時刻は午後5時を回り、窓の外は暗くなり始めていた。
「せんぱーい。そろそろ起きないと仕事遅れますよお」
「……ん? ああ、もうそんな時間か……面倒だなぁ」
同級生に起こされた先輩女性はだるそうに起き上がるとシャワーを浴びにバスルームへと向かった。そして「じゃあ、そろそろ私も用意するか」と、同級生は着替え始めた。
着替えを終えた同級生がバスルームのドア越しに「じゃあ先輩、いってきまーす」と声を掛けると、キミコと駅前で出会った時に着ていたダウンコートに青いジーンズといった装いに、少し膨れたトートバックを片手に部屋を後にした。キミコは家から持参した大きいバッグを部屋に置いたままに、携帯電話と財布、そして書いたばかりの履歴書を持ち、同級生の後を付いて行った。
「腹減ったでしょ。駅前の牛丼屋でいい?」
駅へと歩いて向かう道中、同級生はそう言って駅前の牛丼屋へとキミコを誘った。店に入った2人はカウンター席に座り、2人とも牛丼並盛、生卵、味噌汁を頼んだ。店には5人程先客がいたが、2人以外に女性客はいなかった。
「あんまり贅沢できないんだよね。食べる所なんて、コンビニかこういう所ばっかりだよ」
「そうなんだ。なんか風俗で働いている人って、贅沢してるイメージあるよね」
「いやいや、そんなの指名で埋まるような一部の売れっ子くらいだよ。私クラスじゃあ指名もそんなに入らないし常連も少ないし、そんなに贅沢できないって。それに水商売にしても風俗にしても入ってきたお金って何だかんだで結構出ていくのも早いっていうしね。実際私もそうだしね」
「ふ~ん。指名取るって大変なの?」
「大変だよお。見た目で選んでくれるなんて最初だけだからね。私から見ても凄い可愛い子が最初だけは人気あったけど、3か月もすれば客が着かなくなって直ぐに辞めてくしね。多いよ、そういう子」
「なんか風俗って、その世界に入れば儲かるイメージあったけど、そういうもんなんだね」
「そうだね。私もやってみて分かった感じだけどね。常連さん増やして指名取れるように頑張るしかないって感じかな。指名が無いって事は、一見さんだけじゃん? それだと安定的に客がつかないから暇になってお店をはしごしていく事になる訳よ。そのままやっていると段々とグレードを落としていくか、都落ちして地方の風俗に行く子とか多いらしいよ? けど地方は東京に比べたら単価が安いみたいだし、身元もすぐにばれそうな気もするから行きたくないんだよねぇ」
キミコと同級生は牛丼を食べ終えると早々に店を出て駅へと向かった。同級生は携帯電話に付いている電子マネー機能で改札を通っていったが、キミコは電子マネーを持っていなかったので、現金で切符を購入してから改札を通っていった。
「あんたもこっちで暮らすんだから、とっとと携帯に電子マネー登録しておいた方がいいよ」
改札を通り過ぎた付近で待っていた同級生がキミコにそう言うと、同級生はホームへと繋がる階段を1人昇り始め、キミコは置いてゆかれまいとその後を小走りに追った。
キミコ達がホームで電車を待っていると反対のホームに電車が到着した。既に帰宅ラッシュが始まり到着した電車には沢山の人が詰め込まれていた。
初めて目にする電車での帰宅ラッシュという光景をキミコが珍しそうに眺めていると、キミコ達が待つホームへと電車が滑り込んできた。2人が乗り込んだ上りの電車は座れるほどでは無いものの、車内で人にぶつからずに移動できる程度には空いていた。
30分程電車に揺られて2人は目的の駅へと到着した。2人が降りた駅は巨大ターミナルと呼ばれる駅でホームは勿論、駅の中も人が溢れかえっていた。キミコは同級生とはぐれない様に、人にぶつからないようにと、スタスタと人混みをすり抜けるようにして歩く同級生の後を小走りを繰り返しつつ追った。
そして駅から暫く歩くと、まさに繁華街といった雰囲気の道へと2人は入って行った。人も多く明らかに怪しい電飾看板が立ち並ぶ道。そこに立ち尽くす人、通り過ぎる人の全てが怪しく見え、1人で歩くにはちょっと怖い気がするなとキミコは感じたが、同級生は毎日のように通っている通勤路という事もあってかずんずんと進んで行く。
駅から歩いて凡そ15分。同級生はとある1件の風俗店の前で足を止めると、キミコに対して振り向きざまに「この店だよ」と言って、そのまま赤と黄色が主体の電飾煌めく店の中へと入り、キミコは多少の不安を感じながらも同級生の後を付いて行った。
まぶしい程に明るい店の奥へと入っていった同級生が『スタッフルーム』と書かれたドアを開けた。
6畳程の窓の無い室内。1方の壁には1メートル四方の穴が開けられ、その前には奥行きの短い細長いカウンターらしき机が置いてあった。その机の前には1人の男性が座り、俯きながら机の上の書類に何やら書き込みをしていた。
壁の穴からは隣の部屋が見えた。14畳程のその部屋は客の待合室になっていて、壁際に置かれたソファには10人程の男性が座っていた。その人達は何ら会話する事無く、皆が俯きながら携帯電話をいじったり、その部屋に置かれているマンガを読んだりしながら、今か今かと自分の順番を待っていた。
スタッフルームのその他の壁には、ファイリングされた書類の束が雑然と並ぶ棚や、女の子の成績が棒線グラフとして書かれた大きな紙と、女の子の上半身を写した沢山の写真が雑然と貼られていた。
部屋の中央には4つの事務机が固まって並んであり、そこには3人の男性がノートパソコンと書類を前に座り、ひっきりなしに掛かってくる電話の応対をしていた。その中の1人に同級生が目を留め、その人が電話を置くのを待った。
「店長、おはようございまーす。この子がさっき連絡した子です」
上着を脱いだスーツ姿の男性。茶色いソフトモヒカンに白いカクカクしたフレームの眼鏡をかけたその人は、受話器を置いた直後に「ふう」と短い息を吐きつつ椅子に背を預け、同級生の隣に立つキミコを下から上へと舐めるように一瞥した。
「ああ、はいはい。じゃあ、とっとと面接しちゃおうか」
「じゃあ、私は待機部屋に行くから。じゃあ又後でね」
同級生はそう言い残して、そのままスタッフルームを後にした。
「じゃあ履歴書見せて」
「……あ、はい。これです」
「ふんふん。18歳になってるし、特に問題なさそうだね。うちはOKだけど、君もこの店で働くって事でいいのかな?」
「あ、はい、お願いします」
「了解。確か君はさっきの子と一緒にエンコーはしてたけど風俗の経験は無しだよね? じゃあ早速練習しようか」
「練習?」
「そうだよ。君がこの店で実際に客にする事を覚えて貰わないと。じゃあ俺に付いて来て」
そういって店長と呼ばれる男性は席を立ち、壁際の棚に置いてあったタオルを2枚とペットボトルらしき小物を手に持ち、そのままスタッフルームを後にし、キミコもその後を追った。
店長が歩いて行く暗がりの廊下には2メートル置き位にドアがいくつもあった。店長はその中の1つのドアを開け、キミコに「じゃあ入って」と言いつつ中へと入って行った。
キミコが案内された部屋は赤く薄暗い照明の点いた4畳程の小部屋。壁際には厚手のビニールで覆われたマットレスだけが置いてあり、反対の壁の隅には小さいテーブルが置かれていた。そして部屋を圧迫するように、簡易的なシャワールームが設置されている部屋だった。
「じゃあ俺の服を丁寧に脱がせて」
「脱がせて?」
「そうだよ。だって客の服を脱がせてから、客に脱がせてもらうって順番だから。時間無いから早くして」
「あ、はいはい」
キミコは店長の勢いに押され、人の服を脱がせるという初めての行為に戸惑いながらも指示に従った。一切恥ずかしがる時間も無いままに、お互いが裸になりシャワーへと向かう。そして洗い方を店長に指示された。そこには恥じらうという時間は一切無かった。
店長はキミコの裸を見ても何ら特別に思う事は無く、ただただ機械的にキミコを指導した。店長は既に何百人と面接をしてきた。女の裸にいちいちどぎまぎするような感覚は既になく、女性を単なる商品としか見ていなかった。
「シャワー終わったら、客の体を拭いてあげてからベッドね」
キミコは店長の指示に対して考える間もなくただただ従った。
「これでひと取りの流れだけど、とりあえず流れは分った? 服を脱がせてシャワー浴びて、ベッドで仕事した後に又シャワー浴びて服を着る。本番行為は無し。強要する客がいたらベッドの横のあのボタンを押してね。そうしたらスタッフがすぐに駆けつけるから。覚えた? 出来る? やれる? それとも帰る?」
「あ、は、はい。大丈夫です」
「じゃ今日から入れる?」
「……わかりました」
キミコは同級生と店長の勢いに押され流され、その日から働き始める事になった。キミコはふと何か1つ失ったように感じた。
キミコは取り立てて可愛くも無く、美人とも言えず、スタイルが良いとも言えなかったが、新人という事で店もプッシュし、その甲斐あってか既に2人の客がついた。
「どう? やっていけそう?」
待機部屋でキミコの隣に座る同級生が聞いてきた。その部屋にはキミコと同世代、若しくは少し上といった5人程の女性が、下着の上に膝上丈のネグリジェという姿で寛いでいた。
「ん? まあ、そうだね。少しは慣れた……かな」
「まあ、お金がやってくると思って頑張るしかないから」
「……そうだね」
そんな会話をしていると、キミコに対して今日3人目の客がついた。同級生は「良かったね」と、笑顔でキミコを送り出した。
待機部屋を出たキミコは、薄暗い廊下の数あるドアの1つを開けて部屋に入り、タオル等の準備を終えると、客が来るのをドアの前で立ったままの状態で待った。
数分後、ドアがノックされると同時にドアが開き、すぐにキミコは頭を下げつつ「キミコです。よろしくお願いいたします」と挨拶をし、客である男性と対面した。
「あ、あの、す、すいません。ちょっと忘れ物をしちゃったので、す、すぐに戻ってきますので」
キミコはそう言って男性を部屋に待たせ、スタッフルームへと駆け込んだ。
「あの店長、ちょっといいですか?」
「どうしたの? 何かあった?」
「あの、ちょっと、今来た客はどうしても駄目なんですけど、他の女の子に代わってもらえないですか?」
「はあ? 何いってんの?」
「ちょっと生理的に受け付けないというか……」
「いやいや、そんな理由で拒否するって仕事なめてんの?」
店長は呆れているかのようだった。
「でも……」
「こっちだって、よほど問題があるなと思う人の入店拒否はするよ? でもさっき入った客は俺も見たけど、あれで出来ませんなんて甘えすぎだって。こっちだって君に対して新人って事でプッシュしてるんだから。マジで頼むよ」
「それは分かっているんですけど……」
「正直に言うけどさ、君の見た目じゃ写真指名は多く取れないと思うからサービスで売って行かないと駄目だと思うよ? こっちだって新人として今売ってあげてるって事、分からない? ここで頑張らないと指名取れないよ? 分かる? 分かったら直ぐに部屋に戻ってよ。客待たせてるんでしょ?」
キミコは店長の言葉に圧倒され、何も言い返せずに客の待つ部屋へと戻っていった。
部屋に戻ったキミコは必死で笑顔を作り、自分を殺すように仕事に集中する事にした。そしてまた1つ、キミコは何かを失った気がした。
キミコが働きだして半年が経過した。同級生もキミコも贅沢が出来るほどでは無く、収入に波はあるものの、平均で考えればそれなりの収入があった。そして2人揃って、同級生の先輩女性のマンションでの居候を辞める事にし、それぞれ自分達でマンションを借りる事にした。
2人がそれぞれ借りたマンションは保証人が必要なマンションだった為、お互いを保証人にした。保証人代行も考えたが余計なお金を毎月払う事になるのを嫌って、お互いを保証人にする事にした。
仕事先へは更に遠い郊外の場所ではあったが、その分、家賃の安いマンションを借りる事が出来た。
先輩女性は2人が出ていくと同時に風俗を辞めた。指名も減り、風俗での限界も感じていた。そこで、以前に同じ風俗店で働いていた人が九州でスナックを開くというので、そこで雇って貰うといって、その街から去って行った。
暫くして、同級生も指名が取れなくなっていき、この店ではもう稼げないとの事で別の店に移っていった。同級生が別の店に移った後、暫くはメール等でキミコと連絡を取ってはいたが、それもだんだんと疎遠となり、数か月もするとほぼ音信不通となっていた。
そんな中、不動産屋からキミコの携帯電話に連絡が入った。同級生が家賃滞納しており連絡が取れないと言う内容だった。
仕方なく不動産屋が同級生の部屋に合鍵で入ると、部屋の中はゴミが散乱している状態だったという。同級生は夜逃げしたらしく、電話も解約したのかさせられたのか分らないが、一切連絡が取れない状態となっていた。
同級生の部屋の保証人になっていたキミコは、同級生が滞納していた家賃は勿論、部屋の掃除代等を払う事になり、数十万の出費を強いられる事になった。
後に、同級生は良くない筋から借金をし、そのお金でホストクラブに入れ込んで返済出来なくなっていたという噂をキミコは耳にした。その後、同級生とは一切連絡が取れないままだった。生きているのか死んでいるのかさえ分からない。キミコが同級生と合う事は2度と無かった。
一時期ではあったが、キミコはサービス重視の客からの人気もあり、店の中で2番の売れっ子になった事があったが、月日が経つにつれ人気が無くなっていった。
次第に常連客も減り、指名が入る事も少なくなり、丸1日客がつかない日も多々あった。新規の客は若くて見た目重視で女の子を選ぶ事も多く、そんな中でキミコが選ばれる事は稀であった。
風俗業界では店を頻繁に変わる事は珍しくないが、キミコは同級生に紹介された初めての風俗店に5年も勤めた。そして客も付かない事からその店を辞める事にしたが、常連もなく、指名も取れないキミコに対して、店側も辞めるというキミコを慰留する事はしなかった。
キミコが次に選んだ店は最初の店より女の子の年齢層が高い店で、最初の店よりは安価な店だった。キミコはまた何か1つ失った気がした。
そして現在、キミコは3店舗目である風俗店で働き続けている。
年齢が上がるほどに自分への対価が減っていく。売れっ子だとしても数年で『価値』『単価』は下がっていく。どれほど可愛く綺麗だとしても見た目だけでは続かない。見た目もスタイルも平均以下だとしても、サービスが良ければある程度人気が出る事もあるが、これも長くは続かないし肉体的にも続けられない。
毎年沢山の女性がこの業界から足を洗うが、理由はどうあれ入ってくる女性も多く、全国にごまんとある風俗店で、客に選んで貰うというシステムの大変さが、年齢を重ねる毎にしみじみと分かってくる。
会社を興す、海外へ勉強に行くといった理由で資金を貯める。そういった割り切った考えを持って風俗で働く女の子も少なくない。そんな前向きな女の子の話を聞くに別の仕事を考えた事もあった。だが高校中退、運転免許すらの資格も持っていないキミコに出来る仕事は少なく、コンビニや工場での軽作業というアルバイトが関の山。それで今のキミコの暮らしを維持する事は難しく、指名が付かないとは言えども単価が高い風俗から足を洗う決断を、キミコは出来なかった。
何の為に生きているのだろうかとボンヤリと考える事も多々あるが、答えが出ないままに月日は流れ続ける。
こうしてずっと生きていくのだろうか。いずれは風俗すらも自分を必要としなくなるのかもしれない。その時の自分の居場所は何処にあるのだろうか。そんな私に生きる価値はあるのだろうか。
店の女の子の中には客と付き合う女性もいた。それが店にばれるとクビになった。中にはお金を持っている客と付き合う事でクビになっても良いという子も居た。キミコはそういう巡り合わせも無く、ただただ仕事に励むしかなかった。
付き合ったところですぐに飽きられ捨てられる。中にはヒモ状態となり風俗へ戻った女の子もいた。そういった女性が後を絶たないしキミコも間近で見てきた。そもそも体目当てに一時的な快楽を求めに来た男性を信じて尽くすという考えがキミコには良く分からなかった。
キミコは家を出て以来、家族とは会っておらず、会おうともしていない。電話等の連絡もお互いに取っていないし、取ろうともしていない。キミコは自分の価値がだんだんと下がっていく事を感じる日々を過ごし、気付けば29歳となっていた。そんなキミコの住むマンションの郵便ポストに『終末通知』の葉書が投函された。
◇
74歳の新島広重は会社を経営している。新島が21歳の時に立ち上げた建設資材を販売する会社は、創業してから50年余りを経た現在の年商は20億を下らない。
25歳で結婚した今の妻とは大口の取引先を通じて結婚に至った。新島からすれば政治結婚とも言えなくもない結婚ではあったが、そんな妻との間に生まれた子供、そして孫をとても可愛いがっていた。
そんな可愛かった孫まで加わっての家族経営といった体制で、非上場ながらも新島個人の資産が数十億に及ぶ程に会社は大きくなっていた。
とはいっても、会社の経営実態としては社長である新島のカリスマ的経営といった状況であり、経営に加わっている子供や孫は、社長の親族と言うだけで役員に就いていた。
新島が贔屓目で見たとしても、子供や孫は人の上に立つ器では無いと思える程ではあったが、そもそもが妻の強い後押しの結果でもあり、家族親族で有るという事が邪魔をしてそれを排除する事は出来なかった。
故に74歳の新島は、経営を子供たちに一切を任す事も出来ず、いまだ自身が第一線で経営せざるを得ない状況でもあった。そんな中、新島の自宅の郵便ポストに『終末通知』が投函された。その宛先には『新島広重様』と記載されていた。
終末通知の葉書を最初に見つけたのは家政婦であった。投函された朝に見つけ、その葉書を最初に渡したのが妻であったが為に、妻は勿論の事、家族親族の知る所となり、妻が発起人となっての家族会議が行われた。
家政婦は新島の家に来るようになってから既に3年近くが経っていたが、来た当初から無愛想な50歳代のぽっちゃりとした人であった。しかし家事全般をきっちりとこなす事から妻からの信任も厚く、そんな家政婦に対して妻も優しく接していた事から、新島よりも妻寄りの人物であった。
新島と妻の二人が住む洋風の大豪邸へと集まった家族親族は、何十畳もある広いリビングルームに集まり、経営会議ならぬ親族会議を始めた。
新島も参加するその会議の内容は、会社に於けるそれぞれの地位に関する物と、遺産の分配方法がメインとなった。
新島亡き後の地位保全と遺産の分配抗争には幼い頃には可愛かった孫も参加し、時には鬼の形相を見せた。そんな様子の会議に新島は言葉にも顔にも出さなかったがひどく落胆した。
そんな会議が行われているのを前に、部屋着であるグレーのスウェットを着た新島は、ソファの上で終末通知の葉書をただ見つめていた。圧着ハガキの終末通知は妻が家政婦から渡された際にすぐに開いていた。
『あなたの終末は 20XX年 7月12日 です』
見開いた葉書の中、新島の目に映るのは大きな文字で記載されたそんな文言で、今日が6月5日なので新島の終末日、新島の命が消える日まで1カ月と数日を意味する日付が記載されていた。
その隣りのページには「終末ケアセンターの問合せ先」という記載があった。そこにはQRコードも併記してあり、新島は自分の携帯電話でそれを読み取った。するとすぐにウェブブラウザが開き、とあるホームページが表示された。
『終末の過ごし方』
そんなタイトルのホームページが開かれた。「今まで通りの生活をするか、安楽死を望むか」と、そんな一見過激に思える文言が記載されたホームページが開かれた。ページの最下部には「安楽死を望むならホームページに記載されている自治体の終末ケアセンターに来てください」とも記載されていた。
安楽死という選択肢があると記載されていたが、どのような方法で安楽死をとは記載されていなかった。終末日は分かっていても、どのように死ぬかまでは分からなかった。突然に苦しんで死ぬのか、寝ている間に息を引き取るのかまでは書いていなかった。
そのホームページ上に『最寄りの終末ケアセンター』と書かれたボタンがあるのに気づいた新島は直ぐにボタンを押した。するとすぐに地図が画面が表示された。
携帯電話のGPS情報から自動検索されたであろうその地図は、新島の家から最寄りの終末ケアセンターまでの道を表示し、自宅から約10キロの場所にあると表示していた。
家族会議はまだまだ終わる気配は無く、目の前で繰り広げられるその光景にうんざりしてきた新島は席を立った。
「そのまま会議は続けてくれ。私は今から終末ケアセンターって所に行って来るから」
新島はそう言い残し、そのままリビングルームから出ていった。家族親族は何も言わずに新島を見送った。家族親族の正直な気持ちとしては、新島の目の前で遺産相続の話もしづらいという気持ちも多少あり、早々に出て行ってくれて助かったというのが皆の気持であった。
リビングを出た新島は、家政婦にタクシーを1台呼んでくれと伝えると2階の寝室へと向かった。
寝室に入った新島はスウェットを脱ぎ棄て、アイロンの掛かった白いワイシャツと淡いベージュのスーツへと着替えた。
数分後、新島の家の前に1台のタクシーが停車した。そのすぐ後、寝室のドアをノックする音が聞こえ、家政婦がドア越しにタクシーが来た事を伝えに来た。
ネクタイは着けないままに、新島は財布と終末通知の葉書を上着の内側ポケットへと入れ、携帯電話を片手に寝室を後にした。
玄関へと向かう途中、新島は曇りガラスで閉ざされたリビングルームの前を通ったが、時折大きい声が聞こえるという中の様子を一切気にせずに、そのまま玄関へと向かった。
新島が高級そうな茶色い革靴を履いたのを家政婦が視認すると、玄関の大きい木製扉を開けながら外に出て、ドアが閉まらないように手で抑えつつ、新島が出て行くのを待った。そして新島が玄関を通ると同時に「行ってらっしゃいませ」と頭を下げた。新島は家政婦に一瞥する事無く「行って来る」と言い残し、家の前で待つタクシーへと乗り込んだ。
「ここに行ってくれ」
新島は終末ケアセンター迄の地図が表示されている携帯電話を運転手に見せた。運転手は「わかりました」と言い、新島の自宅を後にした。
終末ケアセンターまでは30分程で到着した。
新島はタクシー代をクレジットカードで支払おうと運転手にカードを手渡した。だが運転手がタクシーに設置されているカード読取機にカードを通すと、ピーッという音と共に「ERROR」と表示された。
運転手から「そのクレジットカードはエラーとなり使えない」と言われ、新島は財布に入っている他の2枚のカードを運転手に手渡したが、それらのカードも全てエラーとなった。
新島は運転手に対して少しイラッとしたものの、仕方なく1万円札で支払った。新島の財布には小銭入れが無かった為に、1円玉を含むお釣りを上着のポケットにジャラジャラとそのまま入れた。
タクシーを降りた新島の目の前には、もう少し古びていれば史跡とでも言えそうな、総石造りと見紛う3階建ての大きい建物が建っていた。一見、西洋の神殿を思い起こさせるような石柱が建物の周囲をぐるりと囲み、その頭上を屋根瓦で覆うといった和洋折衷の建物。新島はその建物を前に、「終末ケアセンターといった目的の建物とは分からないな」という印象を持った。
歩道に面した玄関は、低めの段差と奥行きの長い5段の階段を上った先にあり、新島が玄関に向かって1段目の階段に足をかけた時、数メートル先の玄関自動ドアを入っていく長く茶色い髪の女性が見えた。新島は女性の後を追うようにして階段を1歩1歩ゆっくりと上った。そして全面ガラスの玄関口までやってくると、両引き戸の自動ドアがゆっくりと開き始めた。
音も無くスーッと開かれた自動ドアを通って中へと入ると、そこから10メートルほど離れた正面の上部に「受付」と書かれたブースが新島の目に留まった。横幅約5メートルといった素っ気無いそのブースには、制服と思しき明るいグレーのブラウスに濃いグレーのリボンタイといった装いの2人の女性が座っていた。
その内の1人は先程新島のすぐ前に入って行った女性と話をしていた。そしてもう1人の女性が新島に気付くと、座ったままの姿勢で新島に向かって軽く頭を下げた。新島はそれに何ら反応する事無く、受付へとまっすぐに向かった。
「終末通知の葉書をもらったんですが」
新島は少し小声ぎみにそう行って、上着の内側ポケットから終末通知の葉書を取りだし、受付の女性に見せた。
「少々お待ち下さい。担当をすぐに呼びます」
受付に座る女性はそう言って、どこかへと電話をかけ始めた。その姿を尻目に、新島は終末通知の葉書を上着の内側ポケットにしまい、終末ケアセンターの建物を手持無沙汰にぼんやりと眺め始めた。すると、新島の横で3メートル程離れた場所に立つ先の女性の姿が目に入った。細身の体に青い細めのジーンズと白いスニーカー。無地でグレーのパーカーを羽織る女性は、両手をパーカーのポケット手に手を入れたまま、ぼんやりと大理石で出来た床を眺めていた。
新島が受付付近で待つ事数分。カツカツと、それが女性のヒールからであろうと容易に推測できる足音が響いてきた。その足音は徐々に受付付近へと近づき、新島の近くで佇んでいた女性の1メートル手前まで来て立ち止まると、その女性に向かって恭しく頭を下げた。
「初めまして。私、井畑晴海と申します。どうぞ宜しくお願い致します」
細身の体に白いシャツと黒いスーツ。長い黒髪を後ろで1本に束ね、のっぺりとした顔に薄化粧の施したその女性は、手に持っていた名刺を女性に向かって両手で差出し、二言三言交わした後に、女性を連れだってその場を去っていった。
更にその数分後、コツコツと、ゆっくりとした足音が響いてきた。その足音は徐々に新島の方へと近づき、新島の1メートル手前まで来て止まると恭しく頭を下げた。
「初めまして。私、井上正継と申します。どうぞ宜しくお願い致します」
整えられたショートヘアに銀縁眼鏡、濃いグレーのスーツとそれより薄いグレーのネクタイを着用し、スーツの上からでもすっきりとした体躯が見て取れる、新島からすれば孫の年代と思しきその男性は、手に持っていた名刺を新島に向かって両手で差出した。
井上は終末通知の件で来た人を担当する終末ケアセンターの職員である事、職務としてはカウンセラーのような立場であると、新島の顔を見ながら説明した。
簡単な自己紹介を言えた井上は「では、こちらへどうぞ」と、新島を先導するように受付横の廊下を歩き始め、新島はその後を追った。
そして新島は、部屋に入った正面が広大な庭を望む全面透明ガラス、残り3面の入口扉を含む壁全面が曇りガラスという、秘匿性も遮音性も感じない10畳程の広さの中に、銀色に鈍く輝くステンレスで出来た長方形のテーブルと、そのテーブルを挟んで3つづつの計6つのステンレス製の椅子が置いてあるという質素で簡素な打合せルームへと案内された。
部屋に入った直後、新島は正面の大きいガラス越しの庭に目を留めた。ガラス越しの向こう側には、綺麗に整備された一面芝生の庭が広がり、3階にも届きそうな高い木が奥も見通せない程に沢山生えていた。そして一面芝生の地面には、多くのベンチとイスがテーブルとセットで置いてあった。
ぼんやりと庭に目を取られていた新島に向かって「そちらにお座りください」と、井上が声を掛けつつ向かいの椅子を手で指し示すと、新島はそれに従い、井上の向かいの椅子へと腰掛け、それを見届けた井上も椅子に腰かけた。
「では最初に顔写真付きの身分証明書となる物と、終末通知の葉書をご確認させて頂いて宜しいでしょうか? 万が一にも別人の方と言う事が無いように、確認が必須となっておりますので」
井上の言葉に、新島は上着の内側ポケットから終末通知の葉書と財布を取りだした。そして終末通知をテーブルの上、井上の方へと向かって差し出し、財布の中から免許証を取り出すと、終末通知の横に並べるようにして井上に差し出した。
差し出された終末通知の葉書と免許証を前に、井上が「拝見させて頂きます」と、一言いって手に取り目視で確認すると、持参していたタブレット端末のカメラで、終末通知の葉書の見開いたページの中に記載されているバーコードを読み取った。
「確認致しました。有難う御座います。それではこちらの施設他について説明させて頂きます」
井上は笑顔でそう言って、終末通知の葉書と免許証を新島に返すと、タブレット端末を新島に見えるように傾けた。そのダブレットの画面上にはグラフデータが表示されていた。
「この終末通知を受け取った方の中で、実に2割近くが悲観して飛び降り等の自殺をしてしまうようです。1割位の方は自暴自棄になり事件を起こすという事例もあるようです。又1割近くの方はこの葉書が届かないか見ていないかのようです。
それ以外の方の多くが、とりあえず終末ケアセンターにお越し頂いて、私達職員とお話させて頂いております。お話をさせて頂いた内訳では、40代位までの方で奥様や小さいお子様がいらっしゃる方は、終末日近くまでご夫婦で過ごし、直近にこちらの施設にきて安楽死を望まれる方が多いですね。ご高齢のご夫婦の方ですと、ご自宅で最期を迎えたいと仰る方が多いですね。
単身者の男性の場合、年齢関係無く、早急に安楽死を選択する方が多いですね。女性の場合ですと、ぎりぎりまで旅行や食事等を経験した後に安楽死をするという傾向でしょうか。それ以外で言えば、経済的に厳しい方は早めに安楽死なさる傾向にありますかね」
淡々と話す井上の言葉を聞きながら、「先程の若い女性もこのような説明を受けているのだろうか」と、新島はふとそんな事を考えていた。
「終末通知を通知されている段階で、クレジットカード等の信用取引は出来なくなっておりますのでご注意ください。今後は現金取引のみとなります。口座引き落としのカードでしたらご利用なれます」
「あ、カードは使えないんですか? それでさっきタクシーが駄目だったのか。まあ停止される理由も今となっては分かるからしょうがないな。それで結局、安楽死ってどのような方法なんですか?」
「一言で言ってしまえば、服毒になります」
「ほう、服毒ですか。なるほど。そうですか」
新島は驚くでもなく、予想の範囲内だなと、落ち着いた様子で言った。
「あっ、毒を服用すると言ってもマンガみたいなドクロマークのついた瓶の毒を飲んで苦しみもがいて亡くなるという事ではありませんよ。苦しんでしまうようでは安楽死とは言えませんからね。では少々お待ち頂けますか?」
井上はそう言って席を立ち、1人部屋を出ていくと建物の奥の方に消えていった。
数分後、片手でも持てそうな程の大きさの木箱を手に、井上が打合せルームへと戻って来た。井上は木箱をテーブルの上に置きつつ椅子に座ると、新島に対して木箱の中が見えるよう傾け「こちらは終末ワインと呼ばれる物です」と言って見せた。
井上が持って来た木箱は高級そうではあるものの、使い古された感じの残る長さ30センチ程の蓋の無い木箱。その箱の中には、中身が入っていない事が傍目で分かる、薄茶色で細長い凝った意匠のある瓶が、青いサテン生地のクッションの中で横になって入れられていた。新島は何も言わずにそれを見つめた。
「こちらが安楽死の為の飲料となります。終末通知を受け取った方が、自ら終末を迎える為に用意された劇薬です。厳重に管理が必要なため、終末ケアセンターでしか提供が出来ません。承諾書に新島様の自筆による署名を頂いた後、当ケアセンター内、且つ職員立会いの下で服用頂けます。といってもこれ自体はサンプルですけどね。本物は本番に時に提供させて頂きます」
「なるほど。それを飲めば楽に死ねるという事ですかね?」
「はい。苦しみは一切ありません。こちらを服用直後、強烈な睡魔が襲ってきます。そのまま眠りにおち、徐々に呼吸数が落ち、長くても30分以内に呼吸が完全停止します。こちらを飲まれた方のほとんどが、良いお顔で亡くなっていかれました。ただ解毒剤も無く、即効性がある物ですので、服用後は後戻りは出来ませんけどね」
新島は自嘲気味に「この期に及んで後戻りする必要も無いでしょう」と、井上を見ながら言った。
その後新島は、当然匿名ではあるものの、自分以外の終末通知を受け取った人達の話を井上から聞かされた。というより一方的に井上が話し続けた。
「何か質問等あれば何でも聞いてください」と、ひとしきり話を終えた井上が笑顔で言ったその言葉に、「いえ。大丈夫です。内容については理解しました。今日はこれで帰る事にします」と言いつつ、新島は席を立った。
新島が席を立ったと同時に井上も席を立つと、すぐさま打合せルームのドアへと駆け寄り、新島の方を向いて「どうぞ」と言いつつドアを開けた。
新島は軽く頭を下げつつ部屋を出ると、そのまま玄関口へと向かった。井上は新島の後を追うようにして玄関口の外まで付いて行った。
「それでは新島様。私はこれにて失礼いたします。尚、こちらで行う安楽死に於きましては、終末を迎えるにあたっての一つの選択肢でしかありませんので、より最善の最後を選択の上、ゆるりとお過ごしください」
玄関口を背に井上は笑顔でそう言いつつ頭を下げ、新島を見送った。
終末ケアセンターを後にした新島は、すぐにタクシーで帰宅しようと思っていたが、家に帰っても未だ親族会議が行われているであろう事からすぐに家に帰る気も失せ、少し歩いてから帰る事にした。
新島がぼんやりと周囲を見ながら歩いていると、とある公園が目に留った。約100メートル四方といったその公園の中には、砂場と動物の形を模した滑り台程度しか遊具は無かった。その他には公園内の周囲に添ってベンチがズラリと並んでいるだけという、子供が遊ぶには少し寂しいとも言える公園であった。
新島は十年以上も昔、こことは別の公園に孫を連れて遊びに行った時の事を思い出していた。その公園にはジャングルジムやブランコといった多数の遊具があった。だが近年になって、子供が怪我をする可能性があるという理由で次々と撤去されていった。それは行政が訴えられる可能性を減らしていくという考えでもあった。
新島自身も経営者であるが故に、その考えについては十二分に理解出来たが、それでもその光景に一抹の寂しさを覚えた。それと同時に、今自宅で親族会議に参加しているであろうその孫の、金や地位に固執する鬼の形相が浮かんだ。そんな事は忘れようとでも言うように、新島は目を瞑って俯き、頭を左右に軽く振った。
新島が公園内を見渡すと、先ほど終末ケアセンターですれ違った長く茶色い髪の女性が、缶コーヒーを片手にベンチに座っている姿が目に留まった。女性は足を投げ出すようにして腰掛け、ただただ遠くを見つめていた。新島はその女性が座るベンチへとおもむろに歩いていった。
「すいません。お隣に座っても宜しいですか?」
「……はっ? あー、どうぞどうぞ」
女性は自分が呆けていた事に気付き、声を掛けてきた新島に対し少し恥ずかしそうに返事をしながら慌てて姿勢を正した。新島は女性との間に2人分の間隔を空けてベンチに腰かけると、顔だけを女性に向けた。
「あの、先ほど、終末ケアセンターで、お会いしましたよね? といっても、私が見かけただけだとは思いますが」
「……えっ、あーそうだったんですか。すいません。気づきませんでした。ちょっと自分の事で精いっぱいだったので……。じゃあ、お爺さんも終末通知を貰ったって事ですか?」
約1メートルという間近で女性の顔を見た新島は、化粧をしていない女性の肌が荒れているなと感じた。
「ええ、私にも届いてしまいました、ははは。まあ70歳も過ぎた爺さんなんで、今更って感じもありますけどね。しかし、あなたはまだお若いのに残念ですね」
「あー、そーですねぇ。まあ、若いといっても29歳ですけどね。これもしょうがないかなって気もします。今まで胸張って言えるような生き方もしてませんでしたし、今もその日暮らしの不安一杯の生活って感じだし。これはこれで良かったのかなと思いますね」
女性は呆けたように言った。とはいえ心の中では「お爺さんと私とを同じ尺度で見ないで欲しい。あなたは十分に生きたでしょ?」と、喉まで出かかったが口にはしなかった。目の前の高齢男性と自分は、もうすぐ無価値な灰になる事では同じである事には変わりないかと。
「失礼ですが、ご家族とかいらっしゃるんですが? あ、すいませんね。プライベートな事を聞いてしまって」
「いえ、別にいいですよ。とりあえず独身で、実家とは縁を切っている、というか切られているとも言えますかね。家出たいようなものですし。まー私が全部悪いんで文句も言えないんですけどね。むしろ私が文句を言われる方ですかね」
「そうですか。御嬢さんの話を聞いたので私もお話しますが……あ、すいませんね。つまらない話かもしれませんが、年寄りの愚痴として聞いて下さい。
一応、私は会社を経営してましてね。それなりの規模まで何とか大きくしたんですよ。社員も百を超えるくらいにまでね。自分の妻、子供、今では孫まで経営に携わっての家族経営ってやつでね。業績も上がっていたし、自分のやり方が正しいと思っていたんですよ。
でもね……。私が終末通知を貰ったら家族会議が始まってね、遺産の話、後継者の話をするんですよ。それも私の目の前で平然と。昔は可愛かった孫も目の色変えてね。何かそういうのを見ていると何か間違っていたんじゃないかと、今更ながらに思うんですよね。もう今更……ですけどね。
何の為に会社を大きくしてきたのかな? 頑張ってきたのかなって。今までは家族の為、社員の為、社会の為と口にしてきたんだけど、そうじゃなかったのかもしれないなって……」
「ふーん。お爺さん、社長さんってやつなんだ? そういえば時計とか身につけてる物も結構高そうな物だね。お金持ちなんだ。すごいじゃん。何か私との価値の違いをまざまざと見せつけられてる感じだなあ。あはは」
「まあ今更ね、こんな物に価値なんか無い気がするけどね」
「いや、お金は大事だよ? その為に私だって苦労してきたし、体張ってきたし」
「お嬢さんは肉体労働で働いていたの? そういえば最近は女性のトラック運転手とかも多いみたいだね」
「え? ああ、まあ。言いにくいんだけど……。まー今更いいか。私ね、風俗で働いてるの。ファッションヘルスって所。お爺さんは知らないかな?」
「ファッションヘルスというのが風俗店だって事くらいは知っていますよ。私は行った事は無いから、よくは知らないですけど。そうですか……風俗店で働いているんですか……」
「ああ、軽蔑されちゃったかな? まー今更どう思われてもいいけどね。あははは」
「いやいや、そんな事はないですよ。何か不快な思いをされたのなら謝ります、失礼しました。でもお金を稼ぐってのは大変な事だからね。反社会的でなければ、どんな仕事でも良いんじゃないですかね」
「そうはいってもねー。あーいうのはさ、お客さんから指名が取れないと1つのお店じゃ長く続かないし稼げないんだよね。なんで次々と店移ってさ、一見さんからまた始めるの。でもって年齢が上がってくると自分の単価が安くなって、価値が下がって行く感じなんだよね。ほーんと、嫌になる」
女性は地面を見つめながら嘆息した。
「失礼だけど、お嬢さんはおいくつ?」
「さっきも言ったじゃん。今29歳」
「あ、失礼。そういえば聞きましたね」
「といっても、年末には三十路だけどね。まあ、未来の無い三十路前の風俗嬢が終末通知を貰ったのも、それはそれで良い事なのかもしれないなって思うよね」
「しかし本当に私からの見た目は若いのに残念だね」
「それはどうも。まあ実際年齢をサバよんでも見る人が見ればすぐにばれちゃうけどね。それで実際に会うと若くないって怒る客もいるし……。やっぱり三十路じゃ見た目が凄く良いとか、スタイルが良いとかじゃないと厳しいよね。お店に飾る写真とかはある程度加工してもらうけど、加工しすぎるとネットで悪口書かれちゃうしさ。それか体がボロボロになるまで過激な事をしてあげるとかさ」
「風俗業界って殆ど知らないけど、そう聞くと大変そうだね」
「そうなんですよ。なんせ最初は見た目で選ばれる訳だしね。かといって見た目だけでも駄目って業界なんだよね。最初は風俗に入れば稼げると思ったけど、全然違うんだよね。ほんと、疲れた……」
女性は再び嘆息した。
「お嬢さんは家出をした結果で風俗業界に入ったようだけど、他の子も似たような感じなのかな?」
「そう言う訳でもないみたいだね。私みたいに家出してとりあえず生活の為に手っ取り早く風俗で稼ぐって子も多いけど、中には学歴は高いけど夢の為に割り切って目標金額を急いで貯めるために風俗で働く子とか、借金の為に仕方なく働く子とか、シングルマザーの子とか色々だよ」
「へぇ。そう聞くと色々な事情があるもんだねぇ」
「ですねぇ。夢の為に割り切って風俗でって聞いた時には私も驚いたな。そんな考えの人もいるんだなって。で、その子は目標額が溜まった時点で風俗を辞めて海外に行ったみたいです」
「すごい人もいるね」
「ほんとですね。まあ、そういう人は稀ですけどね」
「お嬢さんは終末日までどうするの?」
「……ん? ああ、そうですねえ……。この前家賃払ってお金もほとんど無いし、残りの日数を生きるために仕事するっての面倒だから、マンションの私物整理して、すぐに安楽死しようかなーって思ってます」
「そうなんですか」
「お爺さんはどうするの? ああ、お爺さんはお金持ちだから、最後は豪勢に飛行機で世界一周旅行とか行けちゃうって感じ?」
「いやいや。まーお金については、多分大丈夫だけどね。それよりも会社の方が気になるんだよね」
「ええ? 今更、仕事の事なんて気にする必要ある? 奥さんと旅行でも行ってきたら良いんじゃないの?」
「妻とはもう単なる同居人って感じですかね。一緒にどこかに行くという関係でも無いかな? ははは」
「へー、そういう感じなんだ。じゃーお爺さんは終末日まで仕事か。人それぞれだけど、選べるだけ私よりはお爺さんの方が良い最期を迎えられるって感じだね」
女性は嘆息しながら項垂れたと同時に、先程思った事に恥ずかしさを覚えた。目の前の高齢男性はそれなりに努力をして金持ちになったのだろう。そして自分とは異なり、高齢と言われる年齢まで充実した人生を送ってきたのだろうと。それに引き換え自分は何なのだろうかと。何の為に生きてきたのだろうかと。安楽死するその日の為に生きてきたのだろうかと。
新島は女性をみている内にはふと思い付いた。
「あの、お嬢さんさえ良ければですが、残りのお嬢さんの時間を私に頂けませんか?」
「……は? 風俗嬢のプライベートをお金で買うって事? 愛人になれみたいな?」
女性は74歳の新島を少し軽蔑の眼をしながら質問した。
「あーっ! いやっ! そういう話ではなくてですね、一緒に旅行とかに付きあって頂けませんかと言う事なんですよ」
「いやいや、それって同じ事じゃないの?」
「いやいやいや、別に下心とかではなくて、お嬢さんのしている事をして下さいという話では無くて、単純に旅行に付き合って下さいという事です。変な事は一切するつもりはありませんから。だって私はもう74歳ですよ?」
「いや、たまにお爺さんより年上のお客さんとかいるし……」
「……あ。そうなんですか。でも、本当にそういう事じゃなくて……。いや、すいません。失礼な事を言ってしまったようです。申し訳ない」
74歳の新島はそう言って、女性に向かって頭を下げた。本当に下心は無く、ふと思いついた事を口にしただけではあったが、自分が口にした言葉は確かに女性が言う様な意味に取れなくもない事に後悔した。下げた頭も恥ずかしくて上げづらく、その場から直ぐにでも逃げ出したかった。
「本当に失礼しました。では私はこれで」
新島はその場から早々に立ち去ろうと女性と目を合わさないようにベンチから立ち上がり去ろうとした。
「いいよ」
女性の言葉に、新島は立ち止まり振り返った。
「ん? 何がですか?」
新島は女性の言葉は先の失礼な言動を許すという意味かと思った。
「だから、終末日までお爺さんに付き合ってあげるよ。そのかわり旅費とか食事代とか諸々全て出してくれるんでしょうね」
女性は少し意地悪そうな笑顔で新島に聞いた。
「……それは勿論、私が一切を出すけど。……本当にいいんですか?」
「いいよって言ってるじゃん。最後においしい物、死ぬほど食べてから死ぬのもいいかなーってね」
「そ、そうですか。それはありがとうございます。じゃあ、お嬢さん。あらためて、よろしくお願いします」
「キミコでいいよ」
「キミコ……さん?」
「うん、源氏名だけどね。お嬢さんて呼ばれるのも何だか恥ずかしいし」
キミコは本名を明かさなかった。終末通知を貰い、1か月もすれば互いに死ぬ運命とはいえ、初対面の人間に本名を明かすのは怖かった。
「分かりました。じゃあキミコちゃん。よろしく」
新島はキミコが本名を明かさない事に「恐らく自分の事を警戒しているのだろう」と察した。いくら時を同じくして死ぬ運命にあるとはいえ、初対面の人間に本名を教えるのには抵抗があるのだろうと思い、それ以上聞く事はしなかった。
「でも『ちゃん』付けは嫌だな。もう私、三十路なのに」
「でも、私は孫に対しては今でも『ちゃん』て呼ぶけど嫌ですか?」
「んー。まーしょうがないか。じゃー、私もお爺さんって呼ぶのは変だから、私は孫って事にして、お爺ちゃんって呼ぶから」
「お爺ちゃんか。いいですね。ははは」
「言っとくけど、後でお金が足りないなんて言わないでよね? お・じ・い・ちゃん」
キミコは尚も意地悪そうな笑顔で言った。その後キミコと新島は、携帯電話番号とメールアドレスを交換し、後日に会う約束をして別れた。
千葉県郊外の自宅マンションへと戻ったキミコは、ベッドの上へと仰向けに寝転び、食べたい物、行ってみたい場所を携帯電話で検索し始めた。
キミコは18歳で家を出た後、東京の極一部と現在住んでいる千葉県の一部を往復するだけの生活を12年近くも送ってきた。
そんな中、素性は全く分からないものの、かなり高スペックそうなスポンサーが自分の前に現れた。この期に及んでそんな事になるとは夢にも思わず、少しであるが高揚感すら感じていた。
食べる事だけを目的とするなら東京で全て片付くのかな。美味しいお店に高級なお店。結局全てが東京に集まってるらしいし。だったらわざわざ何処かに行く必要は無いけど……。でも折角有望なスポンサーが現れたんだから、本場で食べるってのはありよね。
カニが食べたいな。北海道か、北陸かな?
フグも食べたいな。下関に有名な店があるって聞いた事があるな。
高級な肉も食べたいな。神戸に行って神戸牛かな?
それとも三重に行って松坂牛かな?
そういえば東京に有名な高級焼き肉店があったな。
豪華なフレンチもいいかな。でも行儀作法が面倒そうだから却下かな。
1日1組しか泊まれない高級旅館とかにも泊まってみたいけど予約は取れるかな? とはいえ相手は74歳のお爺ちゃんだから、連れまわすというのも無理があるかなあ。
キミコは大まかに行きたい場所、食べたい物を決めると、大きめの鞄を用意し、お気に入りの服や下着を鞄に詰め込んだ。とはいえ、一緒にいくのは74歳の高齢者。そんな男性と旅行するのに着飾るのも妙な気がした。そしてふと頭を過る。
「あれ? 服もその都度買って貰えばいいから、持っていく事もないのかな?」
キミコはそんな最後の旅行の事を考えている内、知らず知らず笑顔になっていた。
時刻は20時。街灯も少ない閑静な住宅街。その中の1軒の邸宅前にタクシーが停車した。新島は数枚の千円札を運転手に「お釣りはいらないよ」と手渡しタクシーを降りた。
新島はタクシーが去ってゆくのを横目に、目の前に立ちはだかるように建つ、自身の豪邸に目をやった。
400平米を超える敷地に建つ重量鉄骨造りの2階建て。併設されているシャッター付きのガレージには、既に運転しなくなった新島名義の数千万円はするという車が2台止められていた。庭には綺麗に刈り込まれた大小諸々の木々が植栽され、暖色系の門柱灯に薄らと、その大きな家は照らし出されていた。
新島はその光景に何か虚しさを感じていた。それは新島の今までの人生と実績を形どった物であるとも言えたが、今となってはそれが一体何の意味があるだろうかとふと思う。
新島がキミコと別れたのは16時頃であった。本当であれば早く家に帰り、キミコと約束した明日の準備をしたい所であったが、家族会議が行われているであろう家には未だ帰りたくないという事もあり、キミコと別れてからの数時間、ファミリーレストランで一人夕食を兼ねて過ごしていた。
家の前には、敷地に沿って高級車と呼ばれる車が5台ほどが止められていた。新島は俯き嘆息すると、鉄格子状の門扉を開け、5メートル程の玄関までの石畳を足取り重く進み、木製の大きい玄関ドアを開けた。
新島は親族会議も終わっているであろう時間を見計らって帰宅したが、玄関扉を開けた際、広々とした土間には沢山の靴が並べられていた。新島は「やはりまだ居るのか……」と嘆息しつつ上がり込み、そのままリビングルームへと向かった。
案の定リビングの中では家族会議をやっていた。そこでは新島の妻を含む家族親族達が未だに勢揃いし、皆が皆、げっそりとしていて疲れ果てていた。リビングに置かれた低く大きいテーブルの上には出前の寿司桶が6つ置かれ、ほぼ食べ尽くされていた。
「……あら? お帰りなさい。随分と遅かったのね。で、どうでした? ケアセンター? でしたっけ?」
「ああ、いろいろと聞かせてもらったよ」
親族会議メンバーの中で一番高齢である新島の妻は、ぐったりとしながらソファに深く座り、首までソファの背に預けたままに新島に視線だけを送った。
「じゃあ、あなたも今後の事で話したいから時間いいかしら?」
「悪いけど今日はもう疲れたんで、シャワーを浴びたらすぐに寝る事にするよ」
「ちょっと何言ってるのよ。あなたはまだ社長なんだから参加して下さいよ」
「悪いが皆で話し合って決めてくれ。決まったら報告だけ頼むよ」
妻からの家族会議参加の申し出を断って、新島は2階の寝室へと向かった。
キミコと会ってから数時間が経過していた。その間に新島の中で何かが変わった。妻を含む家族を見る目が変わってしまっていた。それは家族や親族を生理的に受け付けないという物に近かった。
新島と妻は寝室を異にしていた。それぞれが20畳程の寝室を持ち、1階にある大きな風呂とは別にシャワーが備え付けられていた。新島はスーツを脱ぎ棄てシャワーを浴び、大雑把にタオルで拭き上げると、早々にパジャマに着替えてベッドに潜り込んだ。
新島の脳裏には会社の今後等は既になく、ただただキミコとの旅行の事しかなく、ベッドの中で一人でニヤけていた。新島は妻以外の女性と付き合った事も無く、女性が接待するような店にも付き合い程度でしか行った事も無かった。浮気もした事も無い新島にとってキミコとの旅行は、人生初にして人生最後の浮気とも言え、人生最後の冒険とも言えた。
キミコとの旅行が楽しみだ。こんなに明日が楽しみな気分なんていつ以来だろう。
翌朝9時。起床した新島はシャワーを浴びた後、バスローブを纏った姿のままダイニングルームへと向かった。その途中、リビングルームに人の気配を感じ、ふと中を覗いた。
リビングルームでは妻と2人の子供、そしてその子供達の妻2人の姿があった。今日は日曜日。昨日も会社は休みであったために子供達は昨晩そのまま家に泊まり、朝から再び会議をしていた。
すると、「ねぇ、お父さん。会社の事なんだけどさ」と、新島に気付いた長男が声を掛けてきた。
「あーその話か。社長はお前に譲るよ。私は完全に引退するから、後の事はお前たちで全部やってくれ。名義変更が必要な物は適当に変えてくれ。私のサインが必要な物があるなら急いで用意してくれ。すぐにサインするから」
新島は笑顔でそう言った。すでに会社の事はどうでもよかった。自身が築き上げた会社に対する思いは、新島自身が呆気無いと思う程に無く、頭の中は残りの時間をキミコと過ごすという事で一杯だった。そんな新島の言葉に、リビングに集う家族全員が呆然としていた。
新島はリビングを後にダイニングルームへと向い、家政婦が用意した目玉焼きと、軽く焦げ目が付いた食パンという朝食を一人で黙々と食べ始めた。
朝食を済ました新島は、30分後位にタクシーを呼ぶよう家政婦に伝えると、2階の寝室へと戻った。そして寝室の壁一面に据え付けられているクローゼットから小さめのキャリーケースを引っぱり出すと、本当は昨晩の内に準備しておくつもりだった旅行の準備に急いで取りかかった。
数日分の下着と服をキャリーケースに詰め込み終えた後、バスローブを脱ぎ棄てスーツに着替えようとした所で新島の手が止まった。これから一緒に旅行するキミコは三十路前とはいえ、74歳の新島からすれば若い女の子である。あまり変な格好はしたくはないが、どういう恰好が良いのかさっぱり分らなかった。
クローゼットの中には昨日同様のスーツばかりしか入っていない。新島は仕事以外で外に出る事は殆ど無く、休みの日にはほぼ家で過ごしていた為、スーツか部屋着かパジャマといった物しか持っていなかった。今更ながらにあまりお洒落に気を使っていなかった事を新島は悔やんだ。
「あれ? 服なんて行く先々でキミコちゃんに選んで貰えば済むのかな?」
ニヤニヤとしながらそんな事を考えつつ、旅行に行く準備を整えた頃、家政婦がタクシーが到着した事を伝えにきた。結局新島は、水色のシャツに黒いスーツという旅行にはそぐわない服を着て、銀色のキャリーケースと小さめのボストンバッグを手に寝室を後にした。
玄関へと向かう途中、新島がリビングルームの前を通ると、中から家族の誰かがあげた怒号が耳に入った。
遺産の分配についての話だろうか?
会社の地位についての話だろうか?
新島は眉を顰つつそのままリビングを素通りし玄関へと向かった。その途中、家政婦とすれ違った。
「旦那さま。そのお荷物はこれから旅行にでも行かれるのですか?」
「ああ。何泊するかわからないが、今から旅行に行ってくるから。あとで家族に伝えておいてくれ」
無愛想な家政婦に新島はそう言って玄関へと向い、シューズボックスから濃い茶色の革靴を出した。新島が靴を履いたのを家政婦が視認すると、玄関の大きい木製扉を開けながら外に出て、ドアが閉まらないように手で扉を抑えつつ新島が出て行くのを待った。そして新島が玄関を通ると同時に「行ってらっしゃいませ」と頭を下げた。新島は家政婦に一瞥する事無く「行って来る」と言い残し、家の前で待つタクシーへと乗り込んだ。
「○○駅まで行ってくれ」
新島はもう帰る事が無いかもしれない我が家を背に、一切振り返る事無く後にした。新島が家を出て行くのを家政婦以外に気付いた者は誰もいなかった。
時刻は午前11時。新島を乗せたタクシーが、とある駅近くの喫茶店の前に停車した。
新島は数枚の千円札を運転手に「お釣りはいらないよ」と手渡しタクシーを降りた。そしてそのまま目の前にある喫茶店の扉を開けた。
カランカランと、扉の上部に付けられた鈴の音と共に、新島よりも少し若い世代の女性が「いらっしゃいませ」と、新島を出迎えた。
「お爺ちゃーん。こっちこっち」
店員が新島に席を案内しようとしたその時、そんな大声が店中に響き渡った。新島が声が聞こえた方向を顔を向けると、店の一番の奥の4人掛けの席に座るキミコの姿が目に留まった。キミコは椅子に座ったままの姿勢で手を大きく振っていた。
ジャズクラシックが流れる店内には10数人の客がいた。新島はその客達からの冷たい視線に晒されながら、キミコの座る席へと俯き加減に早足で向かった。
「おはよう。待たせたかな?」
「あー。全然大丈夫。私が少し早く来ただけだから」
先日会った時のキミコはジーンズにパーカーというカジュアルな服装だったが、今日のキミコはネイビーカラーのワンピースに金色に輝く細いネックレスをしていた。新島はグッと色気を増したキミコに一瞬動揺しながらも、キミコの向かいの席へと腰かけた。それと同時にテーブルの上、キミコの目の前に置かれた食べかけのパスタに目を留めた。今は11時という時間なので、それが朝食なのか昼食なのかどっちなのだろうと見つめていると、その視線にキミコは気が付いた。
「お爺ちゃんも何か食べる? といっても、支払うのはお爺ちゃんなんだけどね」
「ああ。勿論、私が出すよ。お爺ちゃんだしね。ははは。とはいっても朝食は食べたし、昼食にはまだ早いから、コーヒーだけにしておくよ。それで行先は決まったの?」
「とりあえず北海道でカニ食べて、下関でフグ食べて、神戸で肉食べて、富山でカニ食べる。まずはそんな感じかな」
「食べる事ばかりだね。年寄りでも食べれるかな。でも全部おいしそうだね」
「後は行く先々で考えればいいかなってね」
「そうだね。予定なんて今更必要ないね」
「あーでも、服はちょこちょこ買ってね。お爺ちゃん」
喫茶店で暫くの時間を過ごした後、新島とキミコは店を後にすると、「じゃあ行こうか?」と、キミコは駅方面へと歩き出そうとした所で新島が、「その前に銀行に寄りたいんだけどいいかな?」と、反対方向を指さした。
新島とキミコは喫茶店から歩いて数分の銀行へと歩いて向かった。その途中、新島はキミコの荷物に目を留めた。キミコが持っていたのは小さい薄茶色のボストンバッグ1つのみだった。
「キミコちゃんの荷物ってそれだけ? それで足りるの?」
「数日分の下着しか持ってきてないよ。なので最初に服を買ってもらおうかと思ってます。お・じ・い・ちゃん」
「あーはいはい。勿論いいよ。ははは」
銀行に入った新島はキミコを待合席に座らせ、払戻請求書に金額を書き込み、自分名義の通帳と共に窓口に差出した。
そして窓口で待たされる事10分。窓口には帯封の付いた札束30個、3千万円もの現金が並べられた。新島はキャリーケースと共に持ってきていた小さめの黒いボストンバッグの中へと、札束を無造作に放り込んでいった。
新島は終末ケアセンターに行った時の説明の中でクレジットカードは既に利用停止になっていると聞かされていた。終末日までは現金か銀行引き落としのカードしか利用できないと聞かされていた。
今回の旅行で実際にどれくらい使うのかは見当も付かなかったが、3千万あれば足りるだろうと、足りなければまた銀行に来ればいいという考えであった。そんな3千万という大金を下ろしたとしても、新島の通帳にはそれを遥かに上回る数字が残金として記されていた。
キミコは30個の札束を鞄に詰め込むというシュールな光景を、待合席に座りながら口を半開きに見ていた。
「お待たせ。じゃあ行こうか」
「疑ってた訳じゃないけど、お爺ちゃんてマジで金持ちなんだ……。いままでそんな現金見た事無いよ……。正直ちょっと引くくらいだよ」
「いっそ持ち逃げしてもいいよ。ははは」
「いや、持ち逃げするのも面倒だよ。私の鞄には入らないしね。ははは」
新島は鞄に詰め込まれた札束を見せながら笑って言ったが、その言葉は本心でもあった。ほんのひと時ではあるが、久方ぶりの楽しい時間を過ごした。今の新島にとってお金という物には大した意味は無く、3千万なら安い物だろうと。
キミコは待ち合わせの喫茶店に来る前にお金を下ろしていた。いくら高スペックと思しきスポンサーが現れたとはいえ、それを100%信じてはいなかった。もしかしたら待ち合わせの場所にも現れないかもしれない、金持と言うのも嘘かも知れない。そうなら直ぐにでも終末ケアセンターに直行しようと考えていた。故に口座の全てを引き出していた。
とはいえ、キミコの口座には3万円と少ししか入っていなかった。そのほぼ全額を下ろしたといっても、キミコの財布には4万円と数千円しか入っておらず、それが今のキミコのほぼ全てでもあった。
金持ちというのは風俗嬢の間でもよく聞く話ではあったが、キミコはそういった人に会った事も無ければ、3千万円という現金を自分の目で見たのも初めてだった。帯封のついた札束などはドラマでしか見た事も無く、「実際にお金持ちっているんだなあ」と、キミコは不思議そうに鞄の中の札束を見つめた。
新島の会社では購入や支払いの殆どは振り込みであるが、稀に現金でのやりとりもあった。故に帯封の付いた何10個もの札束を目にする事は何ら珍しい事でも無く、それを珍しそうに眺めるキミコが可愛く見えた。
「それじゃあ、行こうか」
「あ、じゃあ、先に服を買いたいんだけど」
銀行を後にした新島とキミコは流しのタクシーを捕まえると、キミコが行きたいという洋服のお店へと向かった。
タクシーが走る事凡そ10分。2人を乗せたタクシーがとある店の前に停車した。新島は2千円程のタクシー代に対して1万円札を運転手に渡し、「お釣りはいいから」と言って2人はタクシーを降りた。
「お釣り貰わなくて良かったの?」
「今更お釣りなんて貰っても荷物になるだけだしね」
訝しげな表情のキミコに新島は笑いながら答えた。そんな2人の目の前には、高級ブランドショップが数件並んで建っていた。キミコは迷わず目の前の鞄専門店へと向かい、新島はその後をついて店に入っていった。
「お爺ちゃんはその辺で待っててよ」
キミコはそう言って、新島を店の入り口付近で待たせた。
新島が手持無沙汰にぼけっと店内を眺めつつ10分程が経過した頃、グレーのボストンバッグを縦にしたようなキャリーケースを手に、キミコが新島の元へと戻ってきた。
「まずこの鞄買ってね。お爺ちゃん」
「ああ、はいはい」
キミコが持ってきた鞄は30万円程の物。2人はレジへと向かい、新島は自分のボストンバッグの中から札束1つを取り出し、その中から30枚の1万円札を「お釣りはいらないから」と店員に渡し、残りの70枚の1万円札をバッグの中へと無造作に放り込んだ。
キミコはすぐに使うからと言って包装を断り、その購入したばかりのキャリーケースを手に新島と2人店を後にした。キミコは店を出るとすぐに並びのブランド店へ新島を誘って入って行った。
先程と同様に新島を店の入り口付近で待たせ、キミコは服の見定めを始めた。新島はほぼ女性服ばかりの店に所在なさげだった。そして服を選んでいるキミコを見つめながら、「これは時間がかかりそうだな」と、いっそ欲しい服が決まるまで近くの喫茶店にでも行ってれば良かったかなと後悔した。
そして30分程が経過した頃、「お爺ちゃん、お待たせ。じゃあ、レジに行こう」と、ようやくキミコが新島の元へと戻ってきた。キミコの後ろには数点の服を持った店員が立っていた。
「合計で72万2千5百円です」
キミコが選んだのは服3点と靴が1足だけだったが、そんな値段だった。新島は結構高いんだなと一瞬思ったが、以前に妻から「洋服や靴はそれくらいの値段はする」と聞いていた事を思い出し、ならば妥当な値段かと、ボストンバッグの中から新たに札束1つを取り出し、その中から73枚の1万円札を「お釣りはいらないから」と店員に渡し、残りの27枚の1万円札は財布の中へとしまった。そもそも今の新島にとっては使い道のないお金でも有り、余れば家族が相続するだけであった。
店員はこの金額を現金で払う人が珍しく、声や顔には出さなかったが内心驚いていた。だがふと新島の鞄の中身がチラリと見えた。そこには、ばらけた1万円札と帯封が付いたままの沢山の札束という光景があり、店員は思わず目を見開くという驚きの表情を出してしまった。
実際には無造作に入れられた札束28個と、ばらけた1万円札が散らばっていただけではあるが、親子以上に年が離れているであろう目の前の2人と、そのかばんの中身のシュールさに、店員は「関わるとヤバイ人達」という印象を持った。
店員がお店の紙袋へと包装箱に入れられた靴を入れようとした時、キミコが「箱とかは結構ですので服も一緒にこの鞄に入れてください」と、先程購入したばかりのキャリーケースに入れるようお願いし、店員は靴は包装箱に一緒に入っていた保存袋に入れてから、服はそのままキャリーケースへと詰め込んでいった。それが終わると、新島が奪うようにしてキミコのキャリーケースを掴み、「じゃあ行こうか」と言って早々に店を後にし、キミコもその後を黙ってついて行った。
新島はこの数十年、女性の鞄を持ってあげるなどした事はなかったが、無意識の内に持ってあげた。とはいえ、新島の左手には自身のキャリーケース、その上に現金の入ったボストンバッグが乗り、更にキミコのキャリーケースを右手にというかなりの大荷物となっていた。
傍から見れば新島の姿は異様でもあった。黒いスーツ姿の高齢男性が2つのキャリーケースを引っ張るというのは、キミコから見ても不自然に感じた。そもそも高齢の新島に鞄を持ってもらうという事にも躊躇したが、何も言わずにキャリーケースを引っ張る新島に甘える事にした。とはいえ、やはり黒いスーツには違和感を感じていた。
「お爺ちゃんはそのままの服で良いの?」
「ん? やっぱり変かな? 元々スーツしか持っていなくてね。どういうのが良いのか分からなくてさ」
「スーツは良いとして、黒いスーツで旅行ってのは……。なんだが私の付き人みたいにしか見えないよ……」
そして新島とキミコは更に別の1軒の店へと入り、今度はキミコの見立てで新島用に薄いベージュの麻のパンツに薄いグレーのジャケットを購入した。キミコはさらに数点の購入を進めたが、新島は「毎日変えるのも面倒だし、数日毎に都度買えばいいから」と、やんわりと断った。キミコは毎日服を変えるつもりであった為に数点を購入したが、新島はシャツと下着さえ変えれば上着やパンツは同じ物のままで良いと思っての事であった。
新島の洋服代は9万円と少しという金額だった。新島は財布から1万円札を10枚取り出し店員に渡し、「お釣りはいいから。あ、それとこのスーツは棄てといて」と、先程まで着ていた30万円程した黒いスーツの廃棄を依頼し、買ったばかりの麻のパンツとジャケット姿で店を後にした。
店を出たすぐ前の道路で新島が流しのタクシーを捕まえると、2つのキャリーケースをタクシーのトランクに入れ、2人は一路空港へと向かった。
2時間程をかけて、新島とキミコが乗ったタクシーが空港に到着した。新島は3万円を超えるタクシー代に、財布から取り出した4枚の1万円札を運転手に「お釣りはいいから」と渡し、タクシーを降りた2人はそれぞれのキャリーケースを手に空港内へと入っていった。
2人は航空会社の窓口へ向かうと、新島が2人分のファーストクラスのチケットを購入した。料金は8万程で、新島は財布の中から8枚の1万円札を取り出し窓口で支払った。流石に空港窓口で「お釣りはいらない」とは言いづらく、ジャラジャラとしたお釣りを貰うと、自身のボストンバッグの中へと無造作に放り込んだ。
2人は飛行機が出るまでの暫しの時間、ファーストクラス専用の空港ラウンジで寛ぎ、定刻通りの飛行機で北海道へと向かった。そして遅延無く2時間弱のフライトを経て、北海道の丘珠空港に到着した2人は早々に空港玄関口を出ると、玄関前に待機していたタクシーに乗り込み、すすきのへと向かった。
タクシーが走る事凡そ30分。2人を乗せたタクシーがすすきのの街へと到着した。新島は3千円弱のタクシー代に対して1万円札を運転手に渡し、「お釣りはいいから」と言って、2人はタクシーを降りた。
タクシーを降りた2人の目の前には、今回の最初の目的であるカニ料理店があった。予約を取らないと入れない人気店と言う事で、キミコは飛行機に乗る前の空港ラウンジから電話で予約を取っていた。
時刻は18時。早速2人はキミコ先導で店の中へと入ると、すぐに駆け寄って来た店員に対し、キミコは予約している事を告げた。
純和風の内装を持つその店は、数人用の個室と多人数用の個室が数階に渡り全15室あるといった店だった。それ以外に、障子で閉ざされた個室が周囲を囲むような20畳程の空間に、申し訳程度に5つのテーブル席があるという造りであった。
障子に阻まれ個室の中の状況は見えないが、5つ程ある4人掛けのテーブル席は1つを除いて既に埋まっていた。店員は空いてるテーブル席へと2人を案内し、新島とキミコは向かい合わせに座った。
数分後、新島とキミコの目の前にコース料理が続々と運ばれてきた。タラバガニの刺身と焼き物、ズワイガニのしゃぶしゃぶ、アワビのステーキといった、その店の一番高額なコースが2人の目の前、テーブル一杯に並べられ、2人は「頂きます」の掛け声と共に、目の前の料理を食べ始めた。
食事を始めてから凡そ1時間。この店の一番高額なコースを選んだ事もあってか、高齢の新島と細身のキミコの2人で食べ切れる量では無く、まだテーブルの上には完食していない皿が乗っていた。
新島にはキミコが無理して食べているように見え、「無理して食べる事無いよ」と言った。小食の新島は食べ残す事に対して特に何とも思っていなかったが、キミコはいくら新島のおごりとはいえ、食べ残すという行為に対して罪悪感を持っていた。最近迄の経済状況を思い返せば、おにぎり1個の値段でもシビアに考え、食べ残すという程に購入する事もなかった。元々自分から食べたいといった手前もあり頑張って箸を口に運んだものの、咀嚼を繰り返すだけで飲み込むには至らなかった。結局、咀嚼したままの状態で「御免なさい」と小声で言った。新島は「別に良いって」と笑い飛ばし、2人は店を後にする事にした。
2人で5万円弱という料金に対して、新島は財布の中から取りだした5枚の1万円札を店員に渡し、「お釣りはここへ」と、レジ横においてある募金箱を指さした。
店を出た2人はすぐに流しのタクシーを見つけて乗り込み、その店から2キロ程の場所にある札幌駅併設のホテルへと向かった。そのホテルも、キミコがカニ料理店を予約する際に同時に予約していた。
2人を乗せたタクシーは凡そ10分程でホテルの車寄せへと到着した。新島は2千円弱のタクシー代に、財布から取り出した1枚の1万円札を運転手に「お釣りはいいから」と言って渡した。
タクシーを降りた2人はそれぞれのキャリーケースを手に、目の前のメインエントランスへと向かった。
全面ガラスのメインエントランスの前に2人が立つと、両引き戸の自動ドアが音も無くスーッと開いた。そのまま中へと入ると、そこには2階程の吹き抜けの明るく広いロビー空間が広がり、その場から10メートルほど離れた右側の壁沿いに、横幅10mといったホテルのフロントがあった。
フロントの中には揃いのスーツを着た4人のスタッフがほぼ等間隔に並び、内3人は客の相手をしている最中だった。残る1人のスタッフが新島とキミコに目を留めると恭しく頭を下げた。新島とキミコはその受付スタッフの元へと向かった。
新島が受付を済ましルームキーを貰おうとすると、スタッフは新島にルームキーを渡さず、いつの間にか新島の横に立っていた別のホテルスタッフにルームキーを渡した。スタッフは上着のポケットに鍵をしまい、「お荷物をお預かりします。ではこちらへ」と、新島とキミコのキャリーケースを手に2人をエレベータへと誘った。
2人はスタッフに先導されエレベータに乗って34階まで上がった。スタッフは2人を先にエレベータから降ろすと、すぐに2人の前に出て廊下を再び先導し歩き始めた。
左右いくつかのドアの前を通り過ぎてふとスタッフが立ち止まった。スタッフは手にしていたキャリーケースを立たせた状態で傍に置き、上着のポケットからルームキーを取り出すと、目の前のドアの鍵穴に差し込みそのまま捻った。
ガチャリと、重厚感のあるしっとりした音がすると、スタッフはルームキーを抜き、内開きのドアを開けそのまま中へ入り、ドアが閉まらないように手で抑えつつ「どうぞ」と、新島とキミコを部屋へ誘った。
新島とキミコが部屋に入ると、スタッフはキャリーケースを手に後に続いて中へと入っていった。スタッフはリビングの壁際へキャリーケースを置くと、「ごゆっくりお過ごしください。それでは失礼いたします」と、頭を下げつつそう言って、静かに部屋を後にした。
キミコが予約したその部屋は1泊15万程のスイートルーム。リビングと寝室が別にあり、寝室にはキングサイズのベッドが2つ横に並んでいた。
新島は2部屋予約してもらうつもりでいたが、キミコが同部屋で良いと言うのでその1部屋しか取っていなかった。新島としては同じ部屋だからといって何をするつもりも無かったか、それでも若い女性と同じ部屋というのは気が引けた。金額を気にしての同部屋かとも思い、「お金の事なら一切気にしないで良いから」とも言ったが、それでもキミコが同部屋で良いというので、それ以上は何も言わなかった。
キミコからすれば新島を完全に信頼していた訳では無かったが、新島が高齢であるという事に多少の安心感もあった事に加え、正直そんな事はどうでも良かった。1泊10万以上もする部屋に泊めさせてもらうという申し訳なさもあった。そうなったらそうなったで仕方が無い、風俗で働く自分が今更清純を気取るつもりも無いし必要も無いと、全てが今更どうでも良いという思いもあった。
時刻は20時になろうとしていた。2人はリビングのテーブルを挟んで向かい合わせに椅子に座った。2人が座った位置からでも、部屋の大きな窓からは札幌の夜景が見えた。
2人はカニ料理店の満腹感は消えてはいなかったものの、新島の提案でルームサービスを取る事にし、それが来る前迄にキミコはシャワーを浴びる事にした。
それから凡そ10分。シャワーを浴び終えたキミコがホテルのバスローブを身に纏い、頭にバスタオルを巻きつけた姿でリビングへと戻ってきた。キミコは完全に化粧を落とした状態だった。元々厚化粧でも無かったために、新島から見ても特段変わっていない印象のキミコに対し何の違和感も抱かなかった。だが、部屋も同じ、化粧も無しというキミコの振る舞いに、自分は男として見られていないのだろうかと、ほんの少しだけ落ち込んだ。キミコからすれば、新島を高齢とはいえ一応男性とは見ていたが、全てが今更であり、わざわざ化粧をして新島の前に出ることも無いというだけであり、新島がそんな事で落ち込むとは考えてもいなかった。どちらかと言えば、同じ部屋に泊まれて光栄でしょ? 素顔がみられて嬉しいでしょ? という気持であった。
キミコが新島の対面のソファに座ると同時にチャイムが鳴った。新島はおもむろにソファから立ち上がり玄関へ向かった。
新島が玄関ドアのドアスコープを覗くと、そこにはホテルスタッフがキャスター付きのワゴンを傍に立っていた。新島がドアを開けると、スタッフは「ルームサービスです。入って宜しいでしょうか?」と尋ね、新島が「どうぞ」と言いつつドアを全開に閉まらないように手で押さえた。スタッフは再び「失礼いたします」と言って、ワゴンを押しながら部屋の中へと入って行った。
リビングのソファにはバスローブ姿のキミコがいたが、スタッフはその姿に一切目もくれずにリビングのテーブル近くにワゴンを置いた。ワゴンの上にはアルミ製のシャンパンクーラーが乗せてあり、その中には2センチ角の沢山の氷に守られるようにして深緑色のシャンパンボトルが斜めに寝ていた。そしてもう1つ、大きいガラス製のフルーツ皿の上には、色彩も鮮やかに多種多様なフルーツが乗っていた。
スタッフがシャンパンクーラーとシャンパングラス、そしてフルーツ皿をテーブルに移し、「お注ぎしますか?」と新島に尋ねた。新島が「よろしく」と言うと、スタッフはシャンパンボトルを手に取りナプキンをボトルの口に被せ、ボトルを左わきに抱えると、右手でボトルの口に被せたナプキン越しにコルク栓をグリグリと抜きにかかった。すると、こもったような「ポンっ」と音を立て栓が開いた。
スタッフはナプキンと共にコルク栓を取るとボトルを右手に持ち替え、テーブルに置かれた2つのシャンパングラスに注ぎ始めた。
スタッフは2つのグラスにシャンパンを満たすと、先程抜いたコルク栓をボトルの口に差し入れ、シャンパンクーラーへと静かにボトルを沈めた。淀みのない一連の行動を終えたスタッフは「ごゆっくり」と頭を下げながら言い、部屋を静かに去っていった。
スタッフが立ち去ったのを見届けた2人は淡い金色のシャンパンが注がれたグラスを手に取り、軽く「チン」と合わせて乾杯した。すると、キミコが窓から見える札幌の夜景に目をやりながら口を開いた。
「お爺ちゃんは『もし女に生まれていたら』って考えた事無い?」
「女に生まれたら? うーん。若い頃に思った事はあったかもしれないけど、覚えてないな」
「私はあるよ。もし男に生まれていたらどうなっていたかなって」
「へー。キミコちゃんは男に生まれてたら、どうなっていたんだろうね」
「だってさ、男の人って1人でやって行けるって感じあるじゃない? 例えホームレスになっても男なら気にせず出来る気がするけど、ホームレスの女の人っていないもんね。いてもネットカフェで暮らしてるとかで路上で寝泊まりしている人はいないだろうしね。私は会社勤めの経験ないから良く知らないけど、女は給料が安いとか昇進出来ないとか、よくニュースでもやっているじゃん。まあ女の人は寿退社するとかあるから腰掛程度に会社にいるみたいに見られているのかもしれないけどさ」
「まあ、そう言われるとそうかもね」
「他にも化粧しないといけないとか、色々気をつけないと同性から嫌われる事もあるんでしょ?」
「う~ん。その辺は私には分からないけどね」
「男はヤル側で、女はヤラレル側って思わない? そういうので女の方が損なんじゃないかなーって思うもん」
「化粧をするかしないかは、その人次第って気もするけど。私は女の人が化粧してもしなくても気にはならないけどね。キミコちゃんは仕事以外でも化粧はするの?」
「しないかな。コンビニに行く時はジャージとか着てすっぴんで行くしね」
「そうなんだ。私の妻はちょっと外に出るだけでも化粧をして洋服を時間かけて選んでいた気がするなあ。男からすればどうでもいいだろって思ってたけど、人によるって事だね」
「だってお爺ちゃんの奥さんって事はお金持ちって事でしょ? だったらちょっとした外出でも気を遣うって事なんじゃないの? 私だってお金持ちだったらコンビニ行くにも最低限の化粧はしてたと思うよ? まあ私はスッピンのジャージ姿で歩く事に慣れちゃってるから今更しないけどね」
「なるほどね。要は慣れって事か」
「それでも女の人の方がやっぱり大変だよ」
「でも一度ジャージ姿やスッピンで外に出てしまえば楽になれるって事でもあるんでしょ?」
「それはそうかもしれないけどさ」
「他に男女の違いって何かある?」
「うーん、やっぱり一番は……私が男だったら高校の頃に援助交際なんかしなかっただろうって事かな」
「援助交際?」
「そう。いわゆる売春だね。私、高校生の時に同級生と一緒に援助交際しててね。それが警察にバレて補導されたの。それが原因で高校を辞めて家を出たの。その後、東京に出てきて風俗で働いてるの。だから男に生まれてたら援助交際なんてしないわけじゃん? だから男だったらなーって思うときあるよね」
「うーん。悪い方向の考えなら、男だったら暴走族とか、より犯罪的な事をしていた可能性もあるから何とも言えないかな。隣の芝生は青く見えるじゃないけどさ、選択しなかった人生をどうこういっても意味がないように、もし男だったらって真面目に考えるのはどうなんだろうね。ははは」
「まーそう言われちゃ、しょうがないけどね。ははは」
キミコは力なく笑った。何を悔いてもしょうがない。例えあの頃に戻ったとしても、また同じことを繰り返すのだろう。それでも、今の記憶を保持してあの頃に戻れたとしたら今頃どんな人生を送っていたのだろうかと考えてしまう。OLとして働いたのだろうか。それとも早々に結婚し子供を授かり、テレビで見るようなママ友達とおしゃべりしながら楽しく生活していたのだろうかと。選択しなかった人生を考えてもしょうがないと言われても、やはり考えてしまっていた。
「じゃあ、死にたいって考えた事ある?」
「う~ん、無いかな。キミコちゃんはあるの?」
「何回もあるよ。高校中退してからずっと風俗で働いててさ、何の為に生きてるんだろってさ。歩道橋なんかを歩いているとさ、時々手すりを超えようなんて思う事もあるんだけどね。その度に痛そうだなとか怖くなって足が竦んじゃうんだよね。もしも手すりを超えられたとして万が一にも生き残ったとしても大怪我はするでしょ? そう思うと出来なくてさ。それでいつもそのまま家に帰って行くの。ほんの少しの勇気があれば出来るとは思うんだけどね。上手く死ねれば直ぐに痛みなんて感じなくなる訳だしさ」
「飛び降りるのを勇気というは違う気もするけどね」
「まあ、そうかもね。他にもさ、店の女の子の中には手首を何度も切った跡がある子とかもいてさ、私も手首をと思う事もあるけど、やっぱり自分で切るのって怖いよね」
「そうだね。そもそもそういった自傷行為ってのは往々にして力が入らないとも言うから自殺の方法として難しいだろうね。手首を切るといっても手首の動脈を切らないと意味が無い訳だし。その動脈を切るには深くえぐる様にしないと無理だろうけど、自分でそこまで深くえぐる様なマネは難しいだろうね。だからその子も何度も薄く切っただけで死には至らないという事なんだろうね。まあ、手首を切って死にたいというより、言葉には出来ない助けを求めているだけなのかもね」
「なるほど、そういう見方も出来るのか……。なあいっそさ、自殺の手伝いをしてくれる施設とかあればいいのにね」
「死にたいんですっていう相談をする場所って事?」
「相談するだけなら今でもあるでしょ? そういうのって生きて行こうよって応援する施設でしょ? 頑張りましょって応援する施設というか団体でしょ? そうじゃくてさ、自殺の支援をしてくれるような施設って事。まあ、今となっては終末通知を貰ったからどうでもいいけどさ、それを貰う前にそういう施設があれば私は利用したかもなあって事。終末ケアセンターみたいに誰でも手軽に安楽死が出来るよみたいな施設があれば良かったなって。意外と需要はあると思うけどなあ」
キミコのそんな話に新島は苦笑いのみで答えた。新島はそこまでして自殺を望む者というのは果たしているのだろうかと思ったが、目の前のキミコはそれを望んでいるようにも見えた。実際、日本での自殺者は年に2万人近くいると聞いた事もあった。実際の数を鑑みれば潜在的に自殺予備軍は沢山いるのだろうと思った。
キミコの場合には生活苦と未来への悲観が理由。新島はキミコの様に明日を心配するほどの厳しい財政状況に陥った事は無い。故にキミコのそんな本心を聞いても完全に理解する事は出来ず、反論したとしても綺麗事としか言えそうになかった。
そしてキミコが言うようにそれなりの需要はあるのだろうが、自殺を寛容する社会などは到底来ないだろうとも思った。そんな事を公に口にすれば社会から叩かれるのは目に見えている。今は2人きりだとしても、それを口にして死について議論するつもりは無かった。自分もキミコも1ヶ月後にはこの世には確実に居ない。そんな状況で死について語るなど何も面白くも無い。出来れば楽しい話だけをしていたいと。
そんな話をしているうちに夜は更けていき、2人ともアルコールが回ってきたところで就寝する事にした。キミコは寝室に入ってホテルのパジャマに着替え、新島はリビングでパジャマに着替えると、2人は同じ寝室の別々のベッドに潜り込んだ。
キミコはベッドに潜ると早々に眠りに就いた。新島は隣のベッドで若い女性が寝ているという事に少しだけドキドキしたが、目を瞑ると早々に睡魔に襲われ、いつのまにか眠りに就いた。
午前9時。新島が目を覚ますと、そこには見慣れない天井があり、一瞬そこが何処だか分からなかった。だがすぐにハッと気付き、顔を横に向け隣のベッドに目をやると、そこで寝ていたはずのキミコの姿は無かった。新島はガバッと布団を剥いで上半身を起こした。すると、微かにシャワーの音が聞こえた。
新島はシャワーの音がする方へ顔を向けた。寝室に隣接するバスルーム。そこを隔てる木製扉をじっと眺めつつシャワーの音を聞いていると、シャワーの音が止んだ。その数分後、バスルームの扉がガチャと開き、バスローブを身につけ、頭にバスタオルを巻いたスッピン状態のキミコが現れた。
「あ、おはよう、お爺ちゃん」
「……ああ、おはよう。キミコちゃん」
キミコはそのままリビングへと向かい、備え付けの小さな冷蔵庫からミネラルウォータのペットボトルを手に取ると、その場でキャップを開けゴクゴクと喉を鳴らしながら飲み始めた。そして「ふう」と一息つくと、ソファに腰かけた。
新島は短く嘆息すると項垂れた。キミコの姿が無かった事で自分が寝ている間に消えたのかと思った。そういう事があるかもしれないという考えが無かったわけでは無い。だがそれならそれで仕方が無いとも考えていたが、キミコのそんな姿を見てホッとしたと同時に、再び睡魔が襲い始めた。
新島は睡魔に逆らうようにしておもむろにベッドから這い出ると、そのままバスルームへと向かった。
バスルームのドアを開けると大理石の床を持つ4畳程の空間があり、正面には大きな鏡を備える洗面所と、多数のタオルが整然と並べられた棚があった。左側には薄いベージュのカーテンで仕切る大きなバスタブ。右側には曇りガラスで遮られたトイレとシャワールームがあった。
新島はパジャマを脱ぎ棄てシャワールームへと入り、目を覚ますために熱めのシャワーを浴びた。
新島は昨晩風呂に入らずに寝てしまったため、自分では気付かない加齢臭を根こそぎ落とすかの様に、ボディーシャンプーを贅沢に使って全身くまなく洗った。
新島がシャワールームから出ると、ブオーっというドライヤーの音が聞こえた。新島が音のする方向に目をやると、そこにはバスローブ姿のまま洗面所の鏡に向かって髪を乾かすキミコの姿があり、新島は鏡越しにキミコと目があった。
新島は「あっ、失礼!」と、シャワールームの中へ再び引っ込むと、キミコは「別に大丈夫だから。出てきてもいいのに」と、笑って言った。
キミコはドライヤーを一旦止め、洗面所に備え付けてある棚から未使用のバスローブとバスタオルを手に取ると、シャワールームの扉を全開に「はい、どうぞ」と、意地悪な笑顔を見せつつバスローブとタオルを新島に差し出した。新島が片手で股間を隠しながら「ありがとう」と言いつつ恥ずかしそうに受け取ると、キミコはニヤニヤしながら扉を閉めた。
キミコは再び洗面所の鏡に向かって髪を乾かし始めた。キミコからすれば男の裸など見慣れた物であり、70歳を超えている新島が、肩をすぼめながら股間を隠して恥ずかしがる姿が妙に可笑しかった。
新島はシャワールームの中で急ぎバスローブを着ると、バスタオルを片手にシャワールームのドアをそっと開け、逃げる様にしてバスルームから出て行った。その様子をキミコは鏡越しに見て1人ニヤついた。
寝室に戻った新島は、顔を隠すかのようにしてバスタオルを頭に被せると、掻き毟る様にバスタオルで頭を拭き始めた。新島は見られる事に慣れている訳では無く、それも若い女性に見られる事が恥ずかしかった。更には、高齢の自分が狼狽える姿をキミコに見られた事で尚更恥ずかしかった。
新島はバスタオルをベッドの上に放り投げると、急ぎ自分のキャリーケースから下着と靴下、それと新しいグレーのシャツを取り出しベッドの上へと放り投げた。そしてクローゼットの中から昨日着ていた薄いベージュの麻のパンツとジャケットを取り出すと、それらもベッドの上へと放り投げ、バスローブを脱ぎ棄てると急ぎ着替え始めた。新島は先程の醜態とも言える恥ずかしさから、キミコが戻ってくる前に着替えを済ましておかなければという焦燥感に駆られていた。
着替えを終えると、下着類と先日着ていたシャツを部屋に備え付けてあったビニール袋に入れ、ゴミ箱へと放り込んだ。そしてキャリーケースとボストンバッグを手にした時、ガチャッとバスルームの扉が開いた。
「あれ? お爺ちゃん、もう着替え終わったの? 随分早いね? チェックアウトって12時じゃなかった?」
「あ、ああ、男の着替えなんてすぐだよ。キミコちゃんは急がないでいいから。ゆっくりで良いからさ」
新島はそう言って寝室を後にし、玄関ドア近くへとキャリーケースを置いた。そしてリビングのソファにドスンと座り、深く溜息をつきながらソファの背に首まで預けると、天井を見つめながら再び深く溜息をついた。キミコが出てくる前に着替えが終わって安堵したと、新島の溜息にはそんな言葉が混じっていた。
キミコはバスローブを脱ぎ捨てると、ボストンバッグの中から新しい下着を取り出しベッドの上に放り投げた。そして裸のままクローゼットを開け、中から昨日購入したばかりのグレーのワンピースを取り出しベットの上に放り投げた。それら新しい下着と新しい服に着替えると、バストンバッグの中から化粧ポーチを取り出し、寝室の書斎机の正面に掛かっている鏡を見ながら化粧を始めた。
暫くして、キャリーケースとボストンバッグを手にしたキミコがリビングへとやってきた。キミコはキャリーケースとボストンバッグをソファの傍らに置くと、新島の向かいのソファへと腰掛けた。新島はキミコの顔を見ようとはせずに、顔を横にテレビに視線を向けたままだった。あからさまに不自然な新島の様子に、キミコは何も言わずにテレビに視線を向けた。キミコには70過ぎのそんな新島が可愛く見えた。
時計の針が午前11時を過ぎた頃、2人は部屋を後に1階のフロントへ向かった。部屋のクローゼットの中にはキミコが昨日着ていたネイビーカラーのワンピースが置いたままだった。キミコはそれを「捨てておいて下さい」というメモと一緒に置いていった。そのワンピースは自分で働いたお金で買ったお気に入りの服ではあったが、ここで捨てて行こうと決めていた。とはいえ、下着類は持参していた中身の見えない厚めのビニール袋へと入れ、ボストンバッグの底へと忍ばせた。全てがもうすぐ終わるとはいえ、流石に下着をそのまま置いて行く勇気は無かった。
新島がフロントスタッフにルームキーを差し出すと、ルームサービスと合わせて30万円弱という宿泊料金が書かれた明細書が提示された。新島はキャリーケースの上に載せていたボストンバッグの中から札束1つを取り出すと、その中から30枚の1万円札をフロントに差し出した。
フロントスタッフは30枚の1万円札を丁寧に数え終えると、お釣りとして数枚の千円札と小銭を新島に渡した。新島はお釣りをボストンバッグに無造作に投げいれると後ろに振り返り、「じゃあ、行こうか」と、新島の数歩後ろに立っているキミコに笑顔で言った。バスルームの醜態から約2時間が経って、ようやく新島はキミコの顔を見る事が出来ていた。
2人はメインエントランスを出ると、正面で客待ちしているタクシーに乗り込み空港へと向かった。
ホテルから凡そ30分。2人を乗せたタクシーが空港に到着した。新島とキミコは航空会社の窓口で東京行きのファーストクラスチケットを2枚購入し、定刻通りの飛行機に乗り北海道を後にした。
2時間程のフライトを経て東京の空港へと到着した2人は、空港から六本木へとタクシーで向かった。
時刻は午後5時。2人を乗せたタクシーがとある高級焼肉店の前に停車した。2人ともに今日はまだ食事を採っていなかった。口にした物と言えば北海道の空港ラウンジで飲んだコーヒー位で、それ以外は何も口にはしていなかった。キミコは昨晩の食べ過ぎという失敗に対し、朝食と昼食を取らないという方法で対応しようと新島に提案した。新島としては朝昼の食事を抜いたからといって食べられる量はそれほど変わらないと分かってはいたが、その提案を苦笑いで承諾した。
店の中へと入った2人が店員の案内で席に着くと、キミコは高額な肉や貝類をテーブルいっぱいに注文した。
「うわっ。この肉、口に入れたらすぐに溶けた。さすが高級肉って感じがする」
「キミコちゃんは東京で仕事してたんなら来た事あるんじゃないの?」
「こんな高級店来た事無いよ。生活するだけで一杯一杯だったし」
「お客さんから誘われるとか無いの?」
「あーそれね。そもそも客が女の子を誘う事は禁止されてたしね。『客に誘われました』って事を店長に言うと、その客は即退店させられて出入り禁止になるの。まあ、中には誘いに乗る子もいたけど店にバレちゃうとクビになっちゃうしね。それだけならまだいい方で、たまに別の店への引き抜きみたいのもあるらしくって。そういうのだと、ちょっとヤバイ事になるらしいしね。っていうか私は誘われた記憶は無いかな」
「出入り禁止って顔を覚えておくの?」
「違う。すぐに写真が出てくるようなポラロイドカメラっていうの? あれで客の顔写真とって店の壁に貼り付けるの」
「うわ、怖いね。でも、店長に言わなくてもバレる事もあるの?」
「店長にチクる子とかいるよ。そもそも女の子同士でも足の引っ張り合いはあるし。誘われて高級な何かを奢って貰ったなんて自慢する子に対して妬む子もいるしね」
「なるほどね。結構、殺伐としてる感じだね」
「多いんじゃないかな。水商売とか風俗ではそう言う事って。まあ風俗に限らず、女同士ってのはそんな物なのかもしれないね」
そんな話をしながら2時間近くの間食べ続けたが、案の定全てを食べ切る事は出来ず、キミコは昨晩同様、咀嚼したままの状態で「御免なさい」と小声で言って、新島は「別に良いって」と笑い飛ばした。そして2人は店を後にし、近くのホテルに泊まる事にした。
ホテルに到着した2人はスイートルームへと案内され、再び2人一緒の部屋に泊まる事になった。
キミコは高層階にあるスイートルームからの夜景には一切眼もくれず、リビングのソファに腰を下ろすと、携帯電話を手にネット検索を始めた。
キミコが検索していたのは1日1組の客しか泊まれないという小さな宿。山口県は離島の高台にあるそれは、コンクリート打ちっ放しの開放感ある平屋建て。それを知ったのはキミコがよく利用する定食屋に置かれたテレビを見ていた時だった。旅行情報番組で映し出されたバルコニーからの景観に目を奪われた。手すりの無いバルコニーから見える物は小さな島と海だけで、極力人工物が目に入らないように設計されていた。
その景観が今でも薄らとキミコの記憶に残っていた。今回の旅行は景観を楽しむつもりは全くなかったが、ふとその景観の事を思い出した。
テレビを見ていた当時は「自分は一生泊まる事は無いだろう」と思いながら見ていた。だが今は新島が一緒である。泊まるなら今しかないと、薄らと記憶に残っていたその宿のホームページを開き予約状況を確認すると、平日を含め数か月先まで予約で埋まっていた。
この時点で2人に残された時間は3週間程であり、数か月先の予約など不可能であった。この時点でその宿に泊まる事は叶わぬ夢となった事が確定した。キミコは気を取り直して他にも同様の景観を味わえそうな旅館等を探して検索してみたが、そういった旅館等は平日を含めて数か月先まで予約で埋まっていた。
キミコは今迄の時間の使い方に後悔を覚えた。今迄のキミコにとって時間とは只々流れて行くだけ物であり、只々生活するために費やすだけの物だった。だが数週間後に終わりを迎えるに今になって、大抵の事は何でも出来そうな新島という人間が目の前に現れた。だが何でも出来そうとは言え時間が足りなかった。
とはいえ、終わりを迎える今だからこそ新島にも会えた訳でもあり、本当であれば今頃は、風俗店の待機室で客が付くのをひたすら待っているはずでもあった。キミコはどちらの人生が幸せなのだろうかと思うと同時に、上手くいかない自分の人生に無言のままに嘲笑すると、俯き目を瞑り、深いため息を付いた。そして気を取り直したかのように顔を上げると、宿を探す事は諦め何か食べたい物は無いかと改めて検索し始めた。
翌日2人は山口県へと向かった。目的は下関にあるフグ料理で有名な店。そして食べ終わるとそのまま下関のホテルへ泊まった。
その翌日、2人は新幹線で神戸へ向かった。神戸では神戸牛を堪能し、そして近くの高級ホテルに泊まった。そして翌日は富山に向かうと北海道に続いて再びカニを食べ、近くの高級ホテルに泊まる。更にその翌日は三重県は松坂に向かい松坂牛を食べる。そして高級ホテルに泊まる。
キミコは食べたい物を見つけるとそれを提供する場所と移動し、堪能しては近くの高級ホテルに泊まるを繰り返していった。名所や景勝地には一切目をくれない為に歩く事は殆ど無いとはいえ、一切の道程を考えずに移動するという旅行は、高齢の新島にはかなりの身体的負担もあったが、文句ひとつ言わずにキミコに付き合った。
刹那的に生きてきたキミコは今の旅行を楽しんではいたが、経営者として計画的に生きてきた新島は、明日の予定を前日の晩に決めるという生活は、そうそう慣れない物でもあった。とはいえ、自分が決める必要も無く、単にお金を出していればいいだけの今回の旅行は楽な物でもあった。
そしてそんな生活を続ける事約3週間。今2人は沖縄にいた。今日の目的は石垣牛。キミコはこれで名のある肉をほぼ制覇した事に満足していた。そしてふと、キミコが自分の脇腹をつまみながら「食べてばっかりだから少し太った気がするなあ」と、独り言のように言った。
キミコは1日着用したら服を捨てていくという事を繰り返してきた為、すぐに洋服が無くなった。その都度大きなターミナル駅へ寄っては、駅併設のブランドショップで服を補充するを繰り返していたが、今キミコが着ている服は、新島と出会った時よりもワンサイズ大きい物。既に以前と同じサイズの服はきつくて入らなくなっていた。
新島はそんなキミコを見ながら「そう? そんな事も無いけどね」と適当な相槌を打ったが、言われてみれば出会った当初より全体的にふくよかになった気がした。とはいえ、新島からすればそんなキミコでも細身に見えた。それよりも、新島が初めてキミコと出会った時と比べて、化粧越しではあるが肌艶が良くなっているように見えた。出会った当初は艶の無かった茶色い長い髪も、今は艶が戻りサラサラしているように見えた。
新島もキミコ同様に1日着用した下着類とシャツをホテルに棄てていき、キミコと同時に補充するを繰り返していたが、服のサイズが変わるほどに体が太ったという事は無かった。とはいえ、キミコと出会った当初よりは腹部が出始め、ベルトの穴を1個ずらした位置にしていた。
「っていうか思いつく物を全部食べたし、もう充分かなあ。そろそろ逝こうかな」
キミコが少し寂しげな笑顔でポツリと言った。
「ん? 逝くって安楽死するって事? もう良いの? まだ終末日まで1週間程あるけど」
「私はもう充分だよ。お爺ちゃんはどこか行きたい場所とかあるの? それなら付き合うけど」
「いや、キミコちゃんと一緒に沢山旅行できたから私も充分だよ」
新島はキミコとの旅行は楽しかったが、3週間毎日あちこちに移動しては食事するという生活に少し疲れを感じていた。と同時に、全てに満足していた。
「じゃあ、逝こうか。お爺ちゃん」
「そうだね。逝こうか」
翌日午前11時。2人は那覇市内のとある定食屋のテーブル席で向かい合って座り、最後となる昼食を食べていた。
2人が食べていたのはゴーヤチャンプル定食。それは「最後の食事はお爺ちゃんが選んでよ」というキミコからの言葉を受けて新島が選んだ物であり、それは至極普通の定食屋での千円にも満たない定食だった。
新島は名前だけは耳していたゴーヤチャンプルを食べた事が無かった。それほど多くは無い物の、新島が住む千葉や隣の東京に於いてそれを提供する店は存在したが、食に対する興味が無かったという事もあってか食べる機会も無かった。とはいえ、今回のキミコとの旅行に於いては一人数万円もするような食事ばかりで食傷気味だったという事もあり、普通の食事に飢えていた。そこで、沖縄に来てからよく見かける「チャンプルー」という言葉で改めてゴーヤチャンプルを思い出し、それを最後に食べたくなった。
2人が入った定食屋は、高齢の夫婦2人が営むカウンター3席に4人掛けのテーブルが3つだけという小さく至極ありふれた店。清潔に保たれてはいる物の、経年劣化よる汚れや炒め物特有の油汚れが全体的に見て取れた。2人以外の客と言えば、カウンター席に常連と思しき2人の高齢男性が、定食をゆっくりと箸でつまんでは口に運んでいるだけだった。
キミコは自分がよく行く定食屋にも似た雰囲気に懐かしさを感じていた。キミコはここ数週間は高級料理といえる物ばかりを食べてはいたが、やはり自分には定食が合うなと、ひとりほくそ笑んだ。
新島もキミコ同様に、清潔感があるとはいえ狭く煤ぼけた定食屋に入るという事は何十年振りだろうかと懐かしさを感じると共に、野菜炒め定食然としたゴーヤチャンプルに、ほっとする味だなと感じていた。
時刻は正午を過ぎ、2人は最後の昼食を食べ終えるとタクシーで那覇空港へと向かい、成田空港までのチケットを購入した。
終末管理法では各都道府県自治体に設置されてる終末ケアセンターであればどこでも安楽死を行う事が出来た。2人の住民票が置いてある千葉県にわざわざ戻る必要もなく、今2人がいる沖縄で安楽死を行う事が可能ではあったが、2人は最初に出会った場所で最期を迎えようと、千葉県の終末ケアセンターに向かう事を昨晩に話し合って決めていた。
そして2人を乗せた飛行機が2時間程のフライトを経て成田空港へと到着した。2人は早々に空港玄関前に待機していたタクシーに乗り込み、最終目的地である千葉県鎌ヶ谷市の終末ケアセンターへと向かった。
暫く高速道路を走行した後、2人を乗せたタクシーが一般道へと降りた。そして一般道を走行中、キミコがのどが渇いたとの事で、新島はタクシー運転手にコンビニに寄るよう言った。
コンビニではなく喫茶店に寄っても良かったが、2人にはそれ程ゆっくりしている時間はなかった。終末ケアセンターの稼働は365日であるが、午前9時から午後5時までと時間が制限されていた為、喫茶店でのんびりしていると間に合いそうもなかった。とはいえ、2人に残された時間はまだ1週間近くあり、今日絶対に安楽死をする必要は無く、単に2人が今日安楽死をすると決めていただけでもあった。
運転手はコンビニを見つけると、タクシーをコンビニ駐車場へと入れ、停車したタクシーからはキミコだけが降りた。
キミコはコンビニでドリップコーヒー2つを購入した。千円にも満たない2人分のコーヒー代に対して自分の財布の中から一万円札をレジに差し出すと、五千円札1枚と千円札が4枚に小銭が少々というお釣りが戻ってきた。キミコは「お釣りはここに入れて」と、レジ横に設置してある募金箱を指さし店員に言った。未成年と思しき女性店員は、自分が丸一日働いて届くかどうかという金額を募金する目の前のキミコに驚いた。店員は見開いた眼で「全部ですか?」とキミコに聞き返し、キミコは「はい」と笑顔で返した。その言葉を受けて、店員はキミコを訝しみながらもお釣りの全額を募金箱へと入れた。キミコは今迄の人生で募金などした事がなかった。新島を真似るつもりで初めてした募金は、九千円を超える金額だった。
キミコの財布には1万円札が3枚と小銭が少しが残るだけとなっていた。とはいえ、キミコにはもうお金という物は一切不要であった。故に高額な募金をするという行動を取った訳ではあったが、晴れ晴れとした気持ちになった。そしてキミコはコーヒー2つを手に店を後にし、駐車場で待つタクシーへと向かった。
タクシーが一路終末ケアセンターを目指している途中、とある駅前を通過した。その駅前では学生服や私服を着た若い男女が募金活動をしていた。それを目にした新島がタクシー運転手に「ちょっと停めてくれ」と言うと、運転手はすぐさまハザードランプを点けてタクシーを道路の端に寄せ停車させた。新島はボストンバッグを手にタクシーを降りると、募金活動をしている駅前に向かって歩いていった。
新島は旅費や服に食事代、それと宿代で2千万円以上を消費していた。それでも新島のボストンバッグの中には、まだ帯の付いたままの百万円の札束が8個と、帯がとれた状態のばらばらの1万円札が十数枚。それと重みを感じる程の小銭が散らばっていた。
そして新島は、横一列に並んで募金活動している人達の中、1人の青年の目の前で立ち止まりボストンバッグを地面に置いた。新島はしゃがんでボストンバッグを開けると、帯のついたままの計8個の札束を取り出し地面に置いた。そしてボストンバッグの中に散らばる一万円札と、沢山の小銭を鷲掴みに取り出し立ち上がり、目の前の青年が持つ募金箱へと丁寧に全部入れた。そして再びしゃがみ込むと、8つの札束を手にして立ち上がり、再び目の前の青年が持つ募金箱の上へとドサッと無言のままに札束を置いた。そして空になったボストンバッグを手に、何も言わずにその場を後にした。
8個もの札束を貰った青年は勿論、募金活動をしていた他の人達は皆、目の前で起きた札束をドサッと置いて行くシュールな光景に声も出せずにしばらく唖然としていた。その様子をキミコはタクシーの中からジッと見ていた。
「お待たせ。じゃあ出して下さい」
「いいの? あんなに募金しちゃって」
「大丈夫だよ。タクシー代はちゃんと残してあるから」
「いや、そうじゃなくて。余ったお金は家族にあげるとかしないでいいのって事」
「それなら全然大丈夫だよ。ははは」
新島のボストンバッグは空になっていた。とはいえ、新島が銀行から下ろしてきた3千万という金額も新島の資産からすればほんの一部であり、新島亡き後に家族が受け取る物は桁違いの遺産。それを相続する事を考えれば大した事は無かった。
「でもあれだけの札束を貰ったほうも怖いと思うけどね」
「なるほど、確かにそうかもね。まあ、後の事は彼らで判断すればいいんじゃないかな。ははは」
新島とキミコが乗るタクシーが終末ケアセンターの前に停車した。新島は3千円と少しのタクシー代に対して1万円札を運転手に渡し「おつりはいいから」と言って2人はタクシーを降りた。そして新島とキミコは2人並んで終末ケアセンターの玄関自動ドアをくぐり受付へと向かった。
「安楽死をお願いしたいのですが」
受付に座る女性に向かって新島がそう言うと、「少々お待ち下さい。担当をすぐに呼びます」と、女性はそう言って、どこかへと電話をかけ始めた。
2人が受付付近で待つ事数分。コツコツと、ゆっくりとした足音が響いて来た。その足音は徐々に2人の方へと近づき、新島の1メートル手前まで来て止まると、2人に向かって恭しく頭を下げた。そこには、先日新島が来た時に応対した終末ケアセンターの職員である井上正継が立っていた。
「あれ? こちらの女性はご親族の方ですか? 以前はお一人でいらしたかと記憶していますが」
「いえ、違います。私もお爺ちゃんと一緒に安楽死をしに来ました。あ、お爺ちゃんと言っても本当のお爺ちゃんではないですけど。一応、他人同士です」
キミコの「他人同士」という説明に新島は少しがっかりしたが、間違ってはいないので否定も出来ないが補足しておく事にした。
「以前こちらに伺った時にこちらの女性を見かけましてね。その後お近づきになりまして、今日一緒に安楽死をしようと言う事なりました。あの、まずかったでしょうか?」
「ああ、そういう事でしたか。いえ問題はありませんよ。では少々お待ち頂けますか? お1人に対して職員も1人付くという運用になっておりますので、もう1人職員を呼んでまいります」
数分後、井上がスーツ姿の女性を伴って戻ってきた。井上が連れて来た女性は、以前にキミコがカウンセリングを受けた井畑晴海だった。そして井上は「では、こちらへどうぞ」と、先日2人が来た時と同様の打合せルームへと案内した。
「では確認させて頂きますが、お2人とも本日安楽死をご希望されるという事で宜しいでしょうか?」
横並びに座る新島とキミコが一瞬顔を見合わせると、「はい、お願いします」と、2人同時に答えた。
「しかしお2人とも終末日までは未だ1週間程残っておりますが、今日がご希望という事でいいのですか?」
そんな井上の問いに対して2人は同時に「はい」と笑顔で答えた。
「分かりました。では最期となる場所についてですが、あちらの庭か当建物の上階にある個室がありますが、どちらが宜しいでしょうか?」
井上は打合せルームから見える庭を手で指し示すと共に、持参していたタブレットで個室の写真を提示した。写真に写る個室からの光景は、ほんの少し高い位置から見る住宅街という何の変哲もない景色だった。
「キミコちゃんが好きな方を選んでいいよ」
「そう? じゃあ庭にしようっかな」
「了解致しました。では準備致しますので、こちらで少々お待ち下さい」
井上はそう言って新島とキミコを部屋に残し、井畑晴海と共に建物の奥の方へ去っていった。
井上達を待っている間、新島は天井を手持無沙汰に見つめていた。キミコは打合せルームのすぐ横に広がる庭を眺めていた。
暫くして、コロコロと軽い音を立てるキャスター付きのワゴンと共に井上達が戻ってきた。
井上が押してきたそのワゴンの上には、一見ブランド品に見える焦げ茶色をメインに金色の装飾が施された万年筆が2本とバインダーに挟まれたA4書類が2つ。そして先日サンプルとして新島が見たのよりも少し幅のある使い古された感じの残る高級そうな木箱が2つ乗せられていた。
その木箱の中には、赤いサテン生地のクッションの上でシャンパングラスと呼ばれる細長いグラスと終末ワインが横に寝かされていた。サンプルの時には空だった細長い薄茶色の意匠のある瓶にはどす黒く見える液体が入り、スクリューキャップできっちりと封じられていた。
「では、参りましょうか」
井上は新島とキミコに向かってそう言うと、2人はおもむろに席を立ち、そのまま打合せルームを出て行った。
ワゴンを押し歩く井上を先頭に新島とキミコが続き、その後ろを井畑晴海が歩いていた。そして打合せルームから30メートル程歩いた所で井上が足を止めた。井上が立ち止まった所には全面ガラスの扉があり、井上が壁に設置された開閉ボタンを押すと両引き戸のガラス扉がゆっくりと開き始め、ドアが完全に開いたところで井上を先頭に4人は庭へと出た。
「お好きな場所へお座りください」
井上が新島とキミコに向かってそう言うと、2人はゆっくりと庭を見渡した。
キミコの目に留ったのは、丸型の白いテーブルを囲むようにして1人用の白い椅子が4つ置いてある場所。キミコは「じゃあ、あそこで」と指さし、井上は「承知いたしました。では参りましょうか」と、再び井上を先頭に4人は歩き出した。井上は芝生の上を書類や万年筆がワゴンの上から落ちない様にとゆっくりと歩き、その後を3人がゆっくりとついて行く。
最後の場所と決めた丸いテーブルの場所に4人が着くと、キミコは建物を背にする椅子へと静かに腰かけた。新島はキミコの向かいの席へと静かに腰掛けた。
井上は空いている椅子の近くにワゴンを置いた。そして井上と井畑晴海の2人は、ワゴンの上のバインダーに挟まれた書類と万年筆をそれぞれ手に取り、テーブルの上、新島とキミコのそれぞれの目の前へとそっと置いた。
「終末ワインを提供するにあたって承諾書に署名が必要となります。こちらが承諾書の書類になりますので御確認頂けますか? 質問や疑問があれば仰って下さい。ご確認頂き、問題等無ければこちらにご署名なさって下さい。ご署名なさって頂いた後、こちらの終末ワインを提供致します」
【終末ワイン摂取承諾書】
このワインを摂取すると、直ちに安楽死を迎える事になります。
あなたがそれを望むのであれば、下記に自筆でご署名をお願いします。
そんな短い文面の承諾書で一番下に署名欄。キミコは承諾書を一瞥しただけでテーブルの上の万年筆を手に取りキャップをはずし、署名欄に名前をささっと書き入れ、書類と万年筆を井畑晴海に手渡した。新島は読むと言うよりは10秒近くの間ただただジッと見つめた後に署名し、書類と万年筆を井上に手渡した。
井上と井畑は手渡された書類の署名が正しく記載されている事を確認した後、担当者欄にそれぞれ署名した。
「確認致しました。ありがとうございました」
井上と井畑が承諾書と万年筆をワゴンの上に戻すと、細長いワイングラスをテーブルの上、新島とキミコの目の前に置いた。そして終末ワインのボトルを手に取り、スクリューキャップの栓を開けた。
井上と井畑はそのまま新島とキミコの目の前に置かれたワイングラスへとそっと注ぎ始め全量を注いだ。全量といっても100ccといった量であり、井上と井畑は注ぎ終わった空のボトルのキャップを締め、再び木箱の中へと戻した。
「ではこちらの終末ワインを提供させて頂きます。また、ご自身でタイミングを計ってお飲み頂きたいのは山々ですが、職員帯同の下でお飲み頂くという事がルールとなっておりますので、私達は少し離れた場所で見させて頂く事を御容赦ください。では」
井上はそう言うと井畑と共に一礼し、ワゴンを押しながら10メートル程離れた場所へと向かった。そしてその場で新島とキミコの方へと向き直り、2人を監視するよう両手を前に組みその場に位置した。
「最後だと言うのに、監視するなんて無粋だな」
「まあまあ、お爺ちゃん。しょうがないんじゃないの?」
キミコの言葉に新島は渋々納得する。とはいえ今のキミコとのやりとりが本当に孫と会話しているみたいだなと、新島は少し嬉しく思った。
既に時刻は17時を目前に、真っ青だった空には赤みを帯びていた。
キミコはテーブルの上、目の前に置かれたワイングラスを見つめながら思う。高校性の時に警察に補導された事で家を出て、それ以来一度も家族と会っていない。暫くは同級生だけが頼りであったがその同級生とも疎遠になり1人ぼっちだと思っていた。だがこの期に及んで74歳の新島と知り合った事で想像もしなかったような数週間を過ごした。
死にたいと強く願った事も無いが、生きたいと強く思った事も無い。明るい未来を全く描く事が出来なかった今までを思えば、最後は何の痛みも無く笑って逝けそうだという今をとても不思議に思った。
そしてキミコはふと思い出す。
音信不通の同級生は今、何処で何をしているのだろうと。同級生と出会わなければ良くも悪くも今の状況は無かったのだろうかと。
家族は今頃何処でどうしているのだろうか。自分を恨んでいるのだろうか、それとも心配してくれているのだろうか。若しくは存在しなかった者として扱われているのだろうかと。
だが思い出した所で今更どうでもいい事であるかと頭から振り払う。あの時こうしていれば等という考えは無意味なのだろうと。きっと何をどうしても今と同じに帰結したのだろうと。今はただ、笑って逝ける最期の時を静かに過ごすだけで良いのだろうと思うと同時に、軽い笑みを浮かべた。
新島はテーブルの上、目の前に置かれたワイングラスを見つめながら思う。自ら会社を立ち上げ大きくし、狭い範囲とはいえ地位と名誉を、そして財を成した。だがその過程に於いて目を逸らしてきた事も多かったのだろうなと少しだけ後悔した。
新島はふと自宅で行われていた家族会議はどうなったのだろうかと思い出した。
新島は家を出る際に携帯電話を家に置いてきた。故に家族も新島も互いに連絡を取る事も出来ない状態だった。そして今そんな事を思い出す自分がバカバカしくて可笑しかった。今となっては全てがどうでも良かった。この世の全てがどうでも良かった。74歳の今まで働き続けた結果が今ここにある。良かったのか悪かったのか、意味があったのかどうかも分からないが、今のこの最期は悪くは無いなと思うと同時に軽い笑みを浮かべた。
どんなに素晴らしい人生を生きたとしても、痛みや苦しみを伴いながら死んで行くのでは納得出来そうにない。そう考えると、最期にどんな気持ちで死んで行く事が出来るかという事は、とても大事な事なのかも知れないと。
新島とキミコは心の中で、目の前にいる人との不思議な縁に感謝した。そして2人が同時に顔を上げると互いの目を真っ直ぐに見つめた。
「それじゃあ、お爺ちゃん。短い間だったけど色々ありがとね。カンパイ!」
「こっちこそ最後までありがとうね。カンパイ」
最後まで互いに本名を知らない2人は互いを見つめながら、それぞれが手にしたワイングラスを軽く合わせて乾杯した。
◇
その後、終末ケアセンターより新島の妻に対して、新島が安楽死により亡くなった事が伝えられた。その際、新島と共に若い女性が居た事は伏せられ、単に安楽死で亡くなった事だけが伝えられた。
そして新島の遺体については妻が引き取り親族のみで荼毘に付された。妻は新島に対して愛情等があったから引き取った訳では無く、遺体の引き取りを拒否すると新島の遺産についての相続権も放棄する事になる為であり、新島が亡くなった事については何ら思う所も無く、涙も出なかった。妻の頭の中には自分と子供、そして孫の事だけしかなかった。
そして新島が一代で起こし大きくしていった会社は新島の妻が会長となり、長男が社長に就いた。次男や孫を含むそれぞれ新島の家族親族はそのまま役員として会社を継いでいった。
しかし、元々社長だった新島がカリスマ的経営で一人経営に近かった事もあり、新たな体制でスタートした会社の幹部である妻や子供たちの経営能力は新島に比べると明らかに見劣りし、業務への理解や交渉力も見劣りする事から部下にも具体的な指示も出来ず、ただただ叱責するばかりであった。そしてそれに嫌気がさした社員が次々と辞めていった。
社員が次々と辞めて行く事で次々と業務が滞り始めると更に叱責だけを繰り返し、更に社員が辞めていくという悪循環を生んだ。それは次々と滞る業務で取引先からの信用を失うと共に資金繰りが悪化するという悪循環に繋がり、みるみるうちに債務だけが増えていった。
そして最後は数億の負債を発生してあっけなく倒産した。新島から相続した莫大な遺産も含め、新島亡きあと妻が1人で住んでいた豪邸も債務返済の為に手放し、妻や子供たちの豪華な暮らしもあっけない程に終焉を迎えた。
新島の墓は自宅からそう遠くない墓地に建つ立派な物であったが、初七日と四十九日以外、誰も参る者はいなかった。
キミコの両親にもキミコが安楽死によって亡くなった事が伝えられた。ここでも新島という高齢男性と一緒であったことは伏せられ、1人で亡くなったと伝えられた。
そしてキミコの遺体は両親が引き取った。といっても遺体を家に引き取った訳では無く、そのまま近くの火葬場へと直接運び、遺骨だけを持って帰っていった。
キミコが家を出ていった後、キミコの家族は元の地より遠くへと引っ越していた。キミコが家を出た後に近所でもキミコが援助交際で補導されたとの噂が広まっていた。キミコの両親はキミコの妹の将来を慮って逃げるようにして街を去り、新しい土地に於いてはキミコは病死したという事にして新しい生活を始めていた。
両親もキミコの事を心配はしていたが、優先して考えるべきは妹の将来であると割り切り、キミコについては何処かで生きているだろうと信じて余り考えないようにして過ごし、女とは言え生きていくだけなら何とかなるだろう位にしか思っていなかった。
そんな折にキミコの悲報を知らされた。それも遠く離れた地での安楽死であると。
両親は妹に気付かれぬように千葉へと赴き、物言わぬ長女の亡骸と十年ぶりの再会を果たした。キミコは穏やかな顔をしていた。笑っているようにすら見えた。その顔を見た瞬間、両親はその場で泣き崩れた。
遺骨を手に自宅へと戻った両親は、妹に見つからないようにキミコの遺骨を自分達の寝室へと隠した。そして数日が経った後、妹に見つからぬようにして自宅から離れた縁もゆかりも無い寺の共同墓へとキミコの遺骨を納骨した。
キミコとは4つ離れた26歳の妹は、自宅から数キロ離れた電子部品の組み立て工場で働いていた。妹はキミコのせいで街を去る事になった事を今でも恨んでいた。自分の人生を変えられてしまったと恨んでいた。そしてよその街へ引っ越した今でも、キミコの事がバレればまた引っ越さなければならないのかもしれないといった恐怖心を常に抱きつつ、新しい土地で極力目立たないように生活していた。そんなストレスの溜まるような生活をしているせいか、時折情緒が不安定な様子も垣間見られた。
両親はそんな妹を心配し、キミコが亡くなった事も既に納骨されている事も隠し続けた。いつか妹が精神的にも安定し、キミコを赦せるようになった時にキミコの事を伝えようと考えていた。今、両親が考えるべき最優先は妹の幸せだけであり、妹に少しでも害になりそうな事は極力遠ざける事だけを考えていた。
とはいえキミコも大事な子供の1人。家族を不遇な目にした原因であるとはいえ、まさか自分達よりも早く、30歳を目前に亡くなるとは思いも寄らなかった。今更ではあるが、家族4人で暮らすという手段は無かったのかと後悔する日々を送ると共に、妹の目を盗んではキミコが眠る共同墓へと参り、キミコに向かって手を合わせる日々を送リ続けた。
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20XX年『終末管理法』制定。
制定されると同時に、厚生労働省には『終末管理局』が新設された。新設された終末管理局の役割は、当局の管理監督の下で、個人に対して、個人の終末日、つまり亡くなる日を通知する、というのが主な役割である。しかし、あくまでも医療行為、健康診断等の膨大な身体情報を基に、本省のコンピュータシステムで計算した物で有る為、事件事故等、不測の事態で亡くなる場合には無意味である。また大病を患っている、持病がある等の場合にも無意味である。この制度は、健康体の人物を対象とした、福祉の一貫として位置づけられている。
個人に終末日を伝える方法は葉書とされた。毎月の月末日に、厚生労働省の本省に設置されているコンピュータシステムで終末日を算出し、同時に終末通知の葉書を作成する。作成後は、即刻、郵便として全国へと発送される。対象期間は、月末日から2か月以内に死亡予測が出た個人宛に発送される。
また、葉書を受領した人達に対する精神ケアの為に、各自治体には『終末ケアセンター』を設置する事も義務付けられた。終末ケアセンターの役割は、通知葉書を受領した人たちへのカウンセリング、そして安楽死の実施という、2つが主な役割とされた。
安楽死の方法は飲料による服毒と定められた。安楽死が目的の為、飲む事によって苦しみを一切伴わず、且つ終末の飲料としても美味しい事も求められた。その要求に対して、飲んだ直後から急激な睡眠作用を誘導、同時に脈拍低下が始まり、数分後に完全な心停止する飲料が開発された。そしてその仕様を邪魔しない味を求めた結果、ぶどうを原料としたワインが開発された。
財政的にも公的支援が図られる事になる。終末日を迎えた時に負債があれば公費で負担する事になった。そのかわり、終末日は保険金融業界にも連携され、クレジットカードは即時利用停止となる。終末日以降はローンも組めず、銀行の現預金か、現金決済のみとされた。
終末日以降の自殺での保険金搾取も考慮し、生命保険も停止という措置がなされる。そのかわり傷病での医療費の負担は公費で全額なされる。資産の相続についても軽減措置がなされ、名義変更が必要な家や車と言った資産については、妻子を優先に自治体のシステムで、自動的に名義変更まで行われる。
遺体の引き取り先が無い、若しくは引き取りを拒否された場合には、自治体により火葬、埋葬まで行われる。その際は、自治体の共同無縁墓地へと埋葬される。これは行旅死亡人と同様の扱いである。
終末を通知された人が、自暴自棄になる事も想定され、人は勿論、社会に対して、破壊衝動に駆られる危険性を考慮の上、終末管理局にてそれらの衝動に駆られそうな危険人物の特定も行われる事になった。これも本省の最新のコンピュータシステムで、過去の実績等(事件事故等)の警察情報をデータベース化し、システムにより人物抽出される。これらを担うのは、終末管理局直轄の部門で『終管Gメン』と呼ばれた。
終管Gメンは、警察庁との情報を含めた密な連携を取り、対象者の監視拘束を行う。そして一度拘束されると、終末日まで拘束される事になる。
それ程の強権を発動する事に対して、賛否は拮抗しているが、終末日の通知は残りの時間を有意義に過ごすという、福祉の一貫であるにも関わらず、個人の身勝手な破壊衝動に対しては、社会の安定を第一に考え、強権を持って抑えるというものである。
終末日を知らせる葉書は『終末通知』と呼ばれた。
そして、安楽死を行う飲料は『終末ワイン』と呼んだ。
2019年 10月27日 3版 誤字含む諸々改稿
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2018年 10月17日 初版