#5.1 夜の谷
夜のように暗い谷の底。
そこに暖色系の明かりが漏れる小さな家がある。その中で男は椅子に座り、両手をテーブルの上に置いている。女は立っていて、手持ち無沙汰のように男の様子を伺っていた。
「何か飲みますか」
「ああ、ブラックじゃやないコーヒーでもあれば」
女は小さな台所でお湯を沸かし始め、男は手を組んでモジモジを始めた。男は話の本題に入る前に、どうやってそれを切り出そうかと悩んでいる様子。女の方は、そんなことは先刻承知の上で、余裕で待ち構えている感じだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
男がコーヒーカップに口を付けたところで、男の向かいに座った女の方からいきなり本題に踏み込む。
「私、辞めませんよ、部長」
「今は部長ではなく、タナベだ、マリア君。で……」
「何を言っても聞きませんよ」
マリアは、タナベの言葉を出だしで粉砕する気、満々だ。そうなってくるとタナベは話しづらい。そもそも話している内容が噛み合っているのかさえ怪しくなってくる。
「でも、先方が」
「これは決定事項ですから、相手方は関係ありませんよ」
タナベはマリアの結婚を破談にしようと考えている。逃げた相手の首を捕まえてまですることではない。何よりも上手くいかないのが目に見えている、なら早いほうがいいだろう、という方針だ。
マリアは予定の通り事を進めることを考えている。相手の気持ちがどうのということより、結婚は家どうしの結びつきである。そうであるから当人同士の些細な行き違いなど問題にならない、という考えだ。
「それで上手くいくのかい」
「それは問題ではありません」
タナベにはマリアの強固な態度が理解できない。俺も理解できない。いくら国を巻き込んでいるからといっても、自分達の気持ちの方が優先ではないのか。まして相手が不誠実なことが分かっているのに、それを押し通す意味が分からないぞ、とタナベは深い闇に落ちていく。
部屋の中には暖炉があり、それがオレンジ色に揺らめいてはいるが、そこから熱は出ていない。ただの飾りである。それでも家の煙突からは白い煙が出ている。それが遠くからも見えるように少しだけ明るくなっている。本来なら煙が見えるのはおかしいのだが、なかなか風情があってよろしい。
会話が止まったまま、仕方なしにタナベは少しだけ口を付けたコーヒーを飲もうとカップを手に伸ばすと、それを阻止するかのようにマリアがコーヒーを無言で付け足す。カップの縁一杯、今にも溢れそうである。それを慎重に持ち、吸い込むように一口飲み、カップをテーブルに置く。マリアはその様子を見ているわけではなく、よそ見をしている。タナベにとって、俺はもうここにいない、というマリアからのサインと受け取ったようだ。
ならば、折角入れてくれたコーヒーを飲み干してから出て行こうと思ったタナベがコーヒーに手を伸ばすと、見ていないはずのマリアがまた俊敏な動きでコーヒーを継ぎ足す。それを、少々熱いのを我慢して一気に飲むタナベ。これで任務完了とカップをテーブルに置くと、無情にもカップは振り出しに戻り、満員御礼である。
これは、マリアの真意が分からないタナベが困惑するだけだ。さっさと出て行けなのか、それとも暫くここに『居ろ』とのサインなのか。そんなことは本人に聞いてみればいいではないかと俺は思うが、それを遠慮してしまうタナベだ。このまま考えても埒が明かない、行動あるのみ、とまたコーヒーを飲み干し、今度こそはと席を立とうとするとマリアがコーヒーの入ったポットに手を掛けている。そしてコーヒーカップを持って立ち上がるタナベとポットを手に立つマリアの睨み合いがテーブルを挟んで始まった。さあ、どちらが勝つのだろう。家の煙突からは派手に白い煙が上がっている。まるで二人の熱い戦いを象徴しているかのようだ。
◇
タナベ達のいる小さな家から遠く離れた谷底に舞い降りた冒険団は、人家の灯りと派手な煙で既に先客がいたことを知り、人類未踏の谷底というワクワウが消えてしまった。その谷底をココナの白い猫の目がサーチライト代わりに辺りを照らしている。
大五郎Sは力尽きたようだ。光学迷彩も解け、その姿を現している。無理もない。ココナの白い猫と違い、大五郎Sはまだ子猫だ、許容量が小さい。要充電でコテっと倒れてしまった。
ヒロは顔をくしゃくしゃにしている。怖かったのだろう。以上。
エリカは倒れた大五郎Sを抱え、ヒロに見せに行った。
「なんだよ〜。ああ、さっきはありがとう、助けてくれて」
「当然だ。団長だからな。団員は私が守る」
「団長? そうなのか。……それで辰五郎Sか」
「大五郎Sだ。眠っている。どうしたらいい」
「ああ、充電しないとな」
「分かった」
ココナが何か発見したようだ。
「エリカ。この先に洞窟があるようです」
「先に進みましょう」
ヒロは、既に二人が名前で呼び合っていることを羨ましく思っていた。一体自分は何時その輪から外れたのか、入れそびれたのか。公園で楽しく遊んでいる子供達を遠くで羨ましそうに見ている子供と同じ心境であろう。
◇◇
洞窟の前に立つ冒険団一行。だが、入り口が三つある。一つは普通に入れる。二つ目は子供なら入れる。三つ目は大五郎Sなら入れる。早速、三つ目に向かうエリカ。
(私は、ちっちゃくて可愛い)
いやいや、お前はヒロとそんなに変わらないだろう。ということは、ヒロは園児並か。確かに中身はそうかもしれん。
ココナは一つ目に入っていく。エリカは名残惜しそうに佇んでいる。
「きゃあ」
ココナの悲鳴だ。
「ホギャア」
ココナの悲鳴だ。エリカがココナの肩を叩いた。素早い行動だ。ヒロはどうした。ココナの悲鳴の原因は人の骸骨を見たのと、いきなり肩を叩かれたことによるコンボだ。
「大丈夫。あれはヒロだから」
エリカが口を『ホ』の字にしてココナを安心させる。ついでに、
「出でよ、立て札」
と呪文を唱えた。そこには『ひろのほね』と書いてある。
「そうですね」
勇気を取り戻したココナが納得したようだ。
骸骨になったヒロが二人の後に続く。
エリカとココナは並んで歩いていたが、次第にエリカが前を歩くようになった。どうやら、ワクワク・ドキドキが止まらないようだ。ヒロは付いて来ている。問題ない。
◇◇
冒険団一行に立ち塞がる大きな落とし穴、のような階段が冒険団を誘っている。その先には、まだ道は続くが穴が大き過ぎて迂回することは不可能。黙ってマリアの思惑に従う。
上から滴り落ちる水で階段は滑りやすい。エリカとココナは手を繋いで階段を降りる。ヒロは、時々足を滑られながら、二人を羨ましく思っていた。問題ない。
時折、魑魅魍魎が笑いながら浮遊していくが、害は無さそうだ。先を進もう。
周囲が明るくなり、その先にエスカレーターが登場。さらに下って行く。エスカレーターでも二人は手を繋いだままだ。ヒロはもう、羨ましく思う気力は無いようだ。問題ない。
冒険団一行は地下鉄のホームに到着。
ホームには車両が一両だけ止まっている。当然、これに乗れということだろう。エリカとココナが乗り込み、続いてヒロが乗ろうとすると、それをエリカが静止する。そして上を見ろと合図を送った。
『女性専用車両』
禁断の領域に足を踏み入れたヒロは、慌てて足を引っ込めた。その時、扉が閉まりかけエリカの肩にぶつかった。その勢いで大五郎Sが転げ落ち、それをヒロが受け止めたところで扉は固く閉まった。そして汽笛を鳴らして車両は発車。エリカは手を振ってヒロを置き去りにした。
『冗談だろう』とヒロが大口を開けてエリカ達を見送る。ただ一人残されたヒロはホームのベンチに、力なく座った。その手にはエリカから受け取った大五郎Sがスヤスヤと眠っている。
「大五郎S〜、どうしよう」
自分で考えろ。




