第九話
長いフライトを終え、空港のゲートをくぐると、飯田は凝り固まった身体をほぐすように大きく伸びをした。
仄かな香辛料にも似た香りを纏った、その地特有の乾いた空気を吸い込めば、やはり自分の住処はここなのだということを心底実感した。
――まあそれだけでも、収穫があったと言えるのかもしれないな。
土産を頼まれていたことも思い出したが、愚痴話で我慢してもらうことにしよう。
そんなことを考えながら、荷物を受け取り、空港の出入り口にある回転式の自動ドアを抜けようとしたときだった。
肩に手が置かれると同時に、すぐ傍で飯田を呼び止める声がした。
振り返れば、旅行で来たのだろうか……ブロンドの髪におそろいのサングラスをかけている、白人のカップルらしき人物たちがそこに居た。
「……何ですか」
飯田が英語で聞き返すと、男は不快そうな表情で早口の言葉を浴びせかけてきた。
「何、じゃないだろう? 横から割り込むなんて、危ないじゃないか」
どうやら、自分たちが外へ出ようとしたところだったのに、それを飯田が後ろから追い抜いたことに怒っているようだった。
「すまないね。キミたちが通路の真ん中でいちゃいちゃしていて歩くスピードが遅かったからさ……。そもそも、出入り口に順番なんてないだろう?」
「おいおい……レディーファーストの心得がないのか? これだからマナーのなっていないアジア人は……」
男が手を広げ、小馬鹿にしたようなため息をついた瞬間だった。飯田の中で、唐突に何かが爆発した。
「うるせえっ! この国にそんなルールはねえんだよ!」
それは、ほとんど反射的な行為だった。気づいたときには、弾かれたように相手の顔面を殴りつけていたのだ。
サングラスが吹き飛び、驚いた女性の悲鳴が上がる。男が鼻から血を流して倒れ込むと、トラブルに気がついた警備員が駆けつけてきて、飯田はたちまちその身柄を拘束されてしまった。
衆目の中、別室へ連れて行かれた飯田は、詳しく事情を説明したが、警備員たちは呆れたように首を振るばかりだった。
「どんな理由があれ、あなたのやったことは立派な傷害事件です。口論になったからって、突然殴るなんて……やってはいけないことでしょう」
「申し訳ありません……」
このとき、飯田は最悪、逮捕されることを覚悟した。
ところが、そんな彼に言い渡された罰は、思わず耳を疑うほどに予想外のものであった。
「まあ、仕方がありませんね……。こうなった以上、残念なことですが――――これからあなたを、法律の下、強制送還させてもらいます」
「は…………? い、今、なんと?」
「ですから、強制送還ですよ」
「ど、どうしてだ!」
「通常ならば逮捕するところですが、現在、わが国では、牢屋や警察官の数が圧倒的に不足しているのです。そのため、罪を犯した人物が外国人である場合、テロリストや殺人犯などの重大犯罪人以外は、即座に国外退去、強制送還の措置を取るというのが、この国の規則なのです」
「で、でも俺は、この国に八年も住んでいるんだぞ?」
「ですが、パスポートを見れば、あなたの国籍は日本となっていますので……」
「ふざけるな! またあの国に戻れって言うのか? 冗談じゃないっ」
飯田は怒りに任せて暴れたが、警備員は、ただ繰り返すのみだった。
「残念ながら、『ルール』ですので」
……こうして飯田は、すぐさま強制送還の措置を取られることとなった。呆然とするその足元には、ポケットからこぼれ落ちた新品の口紅が、ただ虚しく転がっていたのだった。
――――――――――――――――――――終。
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