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第一話


 実に八年ぶりの帰国だった。

 飯田一郎は、大手石油開発会社の探鉱駐在員として中東での生活をつづけていた。

 貧富と寒暖の差が激しいことで有名なその国へ向かうことになったのは、入社して三年が経った頃だ。家族や友人たちは治安の悪さを危惧したが、元々海外志向の強かった飯田には、未知の文化が広がる世界へ向かってこそ『漢』だという感覚のようなものが、どこかにあったのかもしれない……。

 彼には、当時付き合っていた彼女がいた。同じ大学に通っていた女性で、卒業後も交際は順調に続いていた。だから海外生活の決定を期に、高級ホテルのディナーに誘ってプロポーズしたのも、当然のことと言えただろう。

 しかし予想に反し、彼女の反応は芳しくなかった。結論から言えば、結婚自体はしたいが、日本での仕事にして欲しいと言われてしまったのだ。

 その瞬間、自分の中にあった暖炉のような暖かい愛の熱が、氷水をかけたかのごとく急速に冷めていったのを、飯田は今でも覚えている。もし仮に、ここでその条件を呑んで結婚したとしても、その後、幾度と無く訪れるであろう妥協と諦めの日々を考えると、自分は結婚には向いていないのかもしれないと直感的に思ってしまった。

 二人は、大学進学を理由にそれぞれの片田舎から引っ越してきた上京組であったが、彼女は飯田とは違い、巨人のように聳え立つビル群や、アスファルトへ響く雑多な靴音の協奏曲に憧れは持っても、異国の風土、文化に触れてみたいという願望までは持ち合わせていなかったのだ。

 とはいえ、交際相手が石油開発系の会社に入社したということは、海外に向かう可能性が少なからずあるというのも充分に分かっていたはずである。だからこそ、外国は嫌だという理由など、到底納得いくものではなかったが、結局、結婚話は破談となり、飯田は五年以上付き合った彼女と別れて、独り身で海を渡ることになった。


 飯田の仕事は、荒廃したような大地の地層を調べ、そこから新たな原油の埋蔵地を探し当てることだった。

 世界の油は、戦後オイルショックの時代に数十年で底をつくと言われていたが、それから約半世紀経った今でも、その数値は変わるどころか、むしろ増えてすらいる状態だった。

 これは一見、不思議かつ矛盾とも思えるのだが、原因は幾つかあるとされている。例えば、原油採掘の技術が格段に進歩した事。大規模な戦争、紛争が少なくなったこと。自然エネルギーの活用が進み始めたことなどが挙げられるだろう。

 かくして、現在でも世界の各地から発掘される原油は、最終的に巨大な大型タンカーで海を渡り、先進国日本へと運ばれている。精製は現地でされることもあるが、最近では技術力のある日本国内のほうが多かったりする。精製された油はガソリンになったり灯油になったりして、血液のように日本のあらゆる産業、経済を日々動かしているのだ。

 日本には世界トップクラスの高度な技術があるが、それを駆使するには多くの場合、エネルギー、つまり『油』が必要になる。それが無ければ、大多数の工場は立ち行かなくなるし、重機も勿論、動かせない。重機が無ければ、見上げるほどの高層建築物も建てられないから、セレブや芸能人たちが日々ネットにアップしているような、夜景をバックにした優美な写真なんかも、当然成り立たないのだ。


 飯田が帰国を決めたのは、数多の人の手を経由しているそれらの『油』が、八年間で日本全体をどこまで成長、変化させてきたのかを見たくなったからだ。決して、日本自体に郷愁の念のようなものがあったわけではない。

 そもそも、自分にとっての故郷は、自分が決めればいいというのが飯田の考えであった。

 出生地=故郷という考え方は押し付けであり、今までの思い出、印象などを総合して、最もマッチしている場所を自分の中に設定するべきなのではないだろうか。そういう意味で飯田の故郷は、幼少期を過ごした殺風景な片田舎でも、憧れを持って飛び込んだ煩雑とした都会でも無く、言語や文化の全てが異なる、その中東の地であると感じていた。

 飯田の転任した国では、時間にルーズなんて普通のことだ。バスは予定通り来ないし、ハエの飛び交う飲食店では頼んだものと違うメニューが運ばれてくることもよくある。しかしそれが当たり前になっているから、誰も怒ったりはしない。国民全体が悪気無くやっていれば、それが国の常識となり、文化となり、個性となる。公共のかしこまったルールなんてあってないようなものだから、そういう意味では自由で気楽なのだった。

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