3: リハビリ
患者の訓練が始まった。
「医者や看護師には見えないな」
それが患者の第一声だった。
「医者や看護師じゃないからな」
「それで大丈夫なのか?」
「それはあんたしだいだ」
もうその必要もないのだが、患者はまだベッドに横になっていた。俺はその横にパイプ椅子を広げて座った
「それで、デバイスは?」
俺がどこにでもありそうなスレートを二枚持っただけで入ったことが気になったのだろう。
「まだその段階じゃない」
「炭素基体微細回路素子の回路誘導は終ったんだろ? 訓練ってのはデバイスを使う訓練じゃないのか?」
どう答えたものかと思う。俺は医者の言葉のままに訓練をしていた。医者を信頼していたし、医者の言葉も信頼していた。なにより、炭素基体微細回路素子を埋込むということがどういうことなのかを知らなかった。
「いいか? 炭素基体微細回路素子を埋め込んだことで、あんたの脳はこれまでのあんたの脳とは別物になっている。まずはあんた自身の脳の新しい使い方を身に付けなきゃならない」
「新しい……」
「そうだ。まずはこれを見てくれ」
そう言い、俺はスレートに動画を表示させた。フェレットが、キッチン・シンクとその周りを、ときどき見上げながら歩き周っていた。それから何日が時間が飛んだが、床からキッチン・シンクに登るのに、その脇にあるプラスチックの棚と壁を使い、壁に背を当てながら棚を這い上がりっていく様子だった。
「それで?」
患者はそう言った。
「あんただったら、キッチン・シンクに登るのにどうやる?」
「計画を立てるだろうな」
「その計画はどうやって立てる?」
「……考えて」
「どうやって考える?」
そこで患者は言葉につまった。
「あぁしてこうしてって……」
「それをどうやって考える?」
また患者は言葉につまった。
「言葉でだろう?」
助け船を出した。
「まぁ、そうだろうな」
「じゃぁ聞くが、このフェレットは言葉で考えて、計画を立てたか?」
「いや、それはないだろう」
「なぜ?」
「そりゃ、フェレットって言葉を使わないだろ?」
「だけど、このフェレットは欲求があり、計画を立てて、実行しているように思えるな?」
「あぁ」
「脳の新しい使い方ってのは、こういう動物の脳の使い方に似ていると思え。考えない。すくなくとも言葉では考えない。そういう脳の使い方だ」
「は! そんなのは簡単だろ?」
「簡単ならいいけどな。一週間、1+1=2を、考えずに計算する訓練をしろ。いいか、言葉を使わずにsuccessorの定義から始めて、1+1=2だ。successorの定義については好きに資料を見ていいし、好きに簡単にしていい。だが、計算するときには、successorの定義に従え。ただしそれを言葉にするな」
「わかったよ、successorってのは知らないが。どうせ1+1=2だ」
俺はスレートの一枚をベッドに放り出し、うなずいて椅子から立った。三歩ベッドから離れてから言った。
「オムニスに、脳の倍速機能があっただろ」
「は? あぁ、そうらしいな」
「あれは脳内で言語化される前の状態を読み出し、ちょっと手を加えて脳に戻してやってたんだ」
「へぇ」
「簡単に言うぞ。その脳の倍速機能を、おまえの生身の脳だけでやると思え。倍速化には炭素基体微細回路素子は関与しない。現在、倍速化技術はあるわけだから、炭素基体微細回路素子を使うなら、やろうと思えばオムニスの倍速化より速くできる。ただし、脳の中身を監視・盗聴されてもかまわないってんならって条件がつくがな」
患者は渡した方のスレートで、フェレットの動画を見ていた。
「わかったよ。このフェレットよりはうまくやるさ」
「おまえに、それができるようになればいいがな」
俺は軽く笑いながら病室を出た。
二日後、また患者のところへと足を向けた。
「なぁ、あんた」
「できたか?」
「いや…… これ、必要なのか?」
「あぁ、必要だ」
「だけど…… 1+1=2って馬鹿にしてたが…… 難しいぞ」
「そうか」
それは予想できたことだった。1+1=2の背後にある数論は面倒なものだからだ。
「よし、じゃぁかけ算でやってみろ。8かける1、8かける2ってな。ただし、暗算はするな。あくまで足し算でやれ。その足し算も一々意識的な計算はするな。言葉にして計算はするな。絶対にだ。いいか、絶対にだぞ。計算そのものは脳のどこかでかってにやらせろ」
一週間後、患者のところへ行った。
「できたか?」
「あぁ。なんとか」
「なら1+1=2に戻れ」
「あんなの無理だって」
「形式化されているから楽なはずだがな」
「あれが楽なのか?」
「あぁ。かなり楽だ。とはいえ、まぁ今月中はそれにかかるだろうし、かけろ」
「わかったよ。だけど、もしできなかったら?」
「そん時は退院だな。ここにいてもしかたがない」
「手術の責任はとらないのかよ?」
どう答えたらいいかと考えた。
「手術は成功しているだろう。これはリハビリだ。とくに、新らしい器官をうまく使えるようになるためのな」
「炭素基体微細回路素子を使うのと、どう関係するのかわからないんだが」
「そうかもな。今の状態でも炭素基体微細回路素子は使えるからな」
「じゃぁ、なんでこんなことをやらなきゃならないだよ!」
こんなことに付き合う義理もないとも思う。
「あんたが薬で廃人になりたくなかったら、やっておけ。これが済んだら、デバイスに接続する訓練をさせてやる」
「わかったよ。もう一度successorの勉強から始めることにするよ」
患者は納得したふうでもなかったが、それでもスレートの操作を始めた。俺は静かに病室から出た。
二週間後、また病室に足を運んだ。
「どうだ?」
患者は、なにかが腑に落ちないという表情で俺を見た。
「かろうじて、1+1=2は計算できるようになった…… と思う。いまいち自信はないが」
「いまいち自信はないってのはいい傾向だな。それで?」
「successorの計算は知っている。1+1=2の計算も、とりあえずできる。だけどな、実際にどうsuccessorの計算をして1+1=2の結果を出したのか、わからないんだ」
「それを自覚できるのはいい傾向だ。次はsuccessorの処理のところどころを憶えながら、やってみろ」
「憶えろって、どうやって? 考えずに考えているんだぞ。途中は残りゃしない」
「だから、その途中を残せって言っているんだ」
「どうやって?」
そう言えば俺はそれをとくに意識したことがない。だが、まぁ俺が訓練を受けていた時には、こんな感じのことを想像したか。
「途中ですこしイメージが固まりかける時があるだろう? 言葉になるすこし前って言えばいいかな」
患者はうなずいていた。
「その固まりかけのイメージをな、後頭部にでも流し込むか、後頭部が勝手に持っていく感じでやってみろ」
患者は目をつむって顔を上に向けた。後頭部に流しこむイメージでも作っているのだろう。
これから二週間、この訓練に費す。
俺が医者から受けた訓練に比べれば、ずいぶんましなはずだ。医者は毎日俺のところに来ていたが、最初の「動物は考えているか?」以後は、「ヒュー」だの、「パッ」だの、そんな言葉での説明だった。だが、俺にとっては「動物は考えているか?」という言葉の印象が強かった。連中はやっている。どうにかしてやっている。人間は言葉に依存しすぎているだけだ。そう思って訓練していた。