02 〈静〉の宝具
時間は僅かに巻き戻る。
町へ近付くミラレークスの巨大馬車の中で、アジャットが声を荒らげていた。
「町を囲む障壁をどうやって突破するつもりだ!?」
アトルがそれに怒鳴り返す。
「レーシアの協力があればあんなの物の数でもねえだろ!」
「レーシアさんを何だと――」
言い差したディアナに、レーシアがきっぱりと告げた。
「私がそれでいいって言ったの」
三大禁忌の一つ、他の生物の魔力を使用すること――これは、被害者が人間である場合、親告罪となる。つまりレーシアに訴え出る気がなければ、アトルはそれを何度犯したところで罪に問われることはないのだ。
つまり、レーシアがアトルを許している以上、他の人間がその是非について議論する余地は殆どないのだ。
それが分かっているために、ディアナ以下樹国の人間が悔しげに唇を噛んだ。
馬車が障壁に突っ込む。レーシアがアトルの手を取り、アトルはその手を握り返して、三度目となるその術式を起動しようとした。
だがそれより早く、窓の外を見て違和感に気付き、振り放すようにその手を解く。
「――どうしたの?」
目を見開いてレーシアが尋ね、アトルは窓の外を凝視しながら答えた。
「風が中に吹き込んでる。この障壁、多分だが――中に入る分には障害にならねえ!」
障壁の傍に座り込む人々、その髪を、町へと吹き込む風が揺らしていた。
馬車が城壁の瓦礫に乗り上げる形で町に侵入する。やはり、障壁はその侵入を妨げない。そして外部から侵入してきた巨大な異物に、障壁の傍の人々が悲鳴を上げた。
アトルが馬車の扉を開け放ち、レーシアの手を引いて外へ出る。続いてアリサ、アジャット、ミルティアと続き、リーゼガルトも御者台から飛び降りた。樹国の者たちもぞろぞろと降りて来て、町の惨状に息を呑む。
「これは――」
一方で町の人々もまた、馬車の中から他人が出てきたことに声を上げた。
「助けて……!」
「ここから――出してくれ!」
「何か――何か食べる物を……」
町の中には瓦礫が散乱し、馬車では進めない。瓦礫に足を取られるレーシアを支えながら、アトルはそれらの声を無視して町を見渡した。
「オヤジ――っ!」
叫んで、しかし聞こえるはずもないということに思い至り、唇を噛んでレーシアを振り返る。
「悪いけど、走る――」
「サラリス」
アトルの声が聞こえていないかのように、レーシアが唐突に呟いた。
「サラリスの魔力だわ」
アトルは苛々と眉を寄せた。
「だから、それを使ってる奴がここに来てるんだろうが」
レーシアは目を伏せた。
「そっか……サラリスの魔力か」
呟いた声に、今度ばかりはアトルも反応してやる余裕がなかった。
オヤジたちは、母さんたちは、みんなは。
そう思うばかりで、レーシアを支えるために握っている手に必要以上に力が入っていることに気付く余裕もない。
アジャットがさすがに不安げに呟いた。
「グラッドは――」
「行くぞ!」
アトルは怒鳴りつけ、レーシアの手を引いた。小走りにその前に出て、アジャットが指先を振る。
大音響と共に瓦礫の山が粉塵と化して風に舞い上がり、その場の全員が咳き込んだ。だが、行く手の障害物が取り除かれたことに間違いはない。
「アルディ! シェラ! みんなどこ!? 母さん! オヤジ!」
アリサが叫びながら先走ろうとするのを、アトルは慌てて止めた。
「馬鹿が! 魔術師の近くにいろ!」
戦闘の音が町の中央――あるいはそこからやや外れた所から響いてくる。
この町が襲撃を受けたのが十日前であるとすれば、それから十日間にも亘って戦闘が続けられたことになる。
襲撃者が複数人である可能性さえ出てきて、アトルは口の中で悪態を吐いた。
アトルたちは町の端をぐるりと回る形で歩き、それぞれの気に掛かる人々を捜し始めた。だがその間にも、あちこちから悲鳴や啜り泣きが聞こえてくる。
「こんなのおかしいよ……」
余りの惨状にアリサがぽつりと呟く。
その声が僅かに震えていた。
歩き始めて数十分、遂にアトルたちに声が掛けられた。
「――アリサ?」
アリサがはっと立ち止まり、声がした方を向く。
そこはそもそもの発端となった、彼らが貸し切りとしていた宿の残骸、その場所だった。だが、それに気付けた者はアトルたちの中にはいない。それ程に周囲は様変わりしてしまっていた。
だがアジャットは、そもそも彼らと同じ宿にいたグラッドもまた付近にいるのではないかと思い当たったらしく、リーゼガルトにレーシアを見ておくよう耳打ちして、外套を翻してグラッドを捜し始めた。
ミルティアが自分もそれに続こうとしたが、アジャットに首を振られて踏み止まる。やや不満げな様子が見え、それを見たジャディスが苦笑した。
オリアは樹国の生き残りを捜すように首を巡らせたが、アジャットとは違って、レーシアの傍を離れる訳にはいかないという使命感が先に立つのか、動こうとはしなかった。
その一方で、アリサの名を呼んだ者の姿を見て、アリサとアトルが同時に叫ぶ。
「ミーシャ!」
そこに集団で座り込む〈インケルタ〉の者たちを見て、アトルは安堵の余り眩暈を感じた。思わずレーシアの手を離し、そちらへ走り寄る。
「ミーシャ! みんな――みんな無事か?」
息せき切って駆け寄ったアトルの問いに、同じように駆け寄ったアリサを抱き締めて迎え入れながら、ミーシャが冷ややかな声で答えた。
「――そんな訳ないでしょ」
アトルは息を呑み、そこにいる面々を視線でなぞった。
二度三度とそれを繰り返して、胃が落ち込んだかのような心地で呟く。
「待てよ……? ショーン兄とグレイス母さんは……? ここにいないのか……?」
全員分の沈黙が、余りにも重くそれに応えた。
アリサがミーシャから離れ、むしろぽかんとした顔で皆を見回す。
「え? どういうこと?」
シーナが立ち上がり、アリサを抱き寄せてその頭を撫でた。
「アリサ。グレイスとショーンは……」
「違うよね? そんなはずないよね? どこにいるの? 怪我したの? 大丈夫なの?」
アリサはシーナを見上げて縋るように繰り返し尋ねた。
「どこにいるの? 大丈夫なの?」
足から力が抜けて、アトルは思わずそこに座り込んだ。
「……嘘だろ……?」
涙すら出てこなかった。ただただ理不尽だという、荒涼とした感情が拡がっていく。
シーナはアリサをやんわりと抱き締めた。
「アリサ。二人は助からなかったの。分かるね?」
一瞬の、呆然とした表情の後、アリサの絶叫が上がった。
言葉にすらならない、爆発するような悲哀がアリサの喉を焦がして叫び声になる。涙が溢れて声を詰まらせ、それを聞いてアトルの頭にもじわじわと現実が伝わり始めた。
――そうか。もう、会えないのか。
呆然と座り込むアトルに、アレックが近寄ってその頭を軽く叩く。
「――オヤジ」
アレックは乾いた声で呟いた。
「宿が潰れたからな。仕方なかった」
アトルはアレックを見上げ、それからアリサを見て、首を振った。極度の混乱が、因果関係の見極めすらをも困難にした。
「もっとこっちに魔術師がいれば――違う、そもそも町に置いて行ったりしなかったら――」
うわ言のように漏らすアトルに、今度はアレックの拳が優しく落とされた。
「ぐだぐだ抜かすな。みんな悲しいんだ」
アトルは項垂れた。目を閉じて、どこにも持って行きようのない感情が胸の中で暴れて心臓を噛むのを、ただ黙って感じていることしか出来なかった。
「……アトル……」
その姿に、思わずレーシアは声を漏らした。
レーシアはアトルに置いて行かれたまま、その場で佇んでいた。
彼女の傍にはディーンが立っていたが、町の中央で絶え間なく上がる戦闘の音が気になると見えて、ずっと落ち着かない様子を見せていた。
そしてとうとう我慢に限界が訪れ、ディーンは振り返って言った。
「――ディアナ、レーシアさんを見ておいてくれ」
「いいけれど」
ディアナは首を傾げて目を細めた。
「あら、戦いに行くの?」
ディーンは眉を顰める。
「この町に残した中で誰がこの襲撃犯と戦える?
リリファくらいしかいないだろう」
ディアナは微笑を浮かべた。親しい人を喪って慟哭する人間の後ろで、大した神経を見せたことになるが、ディーンは頓着しないし、レーシアは気付かない。
「心配なのね。いいわ、あたくしがレーシアさんの傍にいてよ」
顎を引くようにして頷いて、ディーンは町の中央に向け、念動系の魔術の補助を使いながら一足飛びに進み始めた。
レーシアはそれを見るともなしに見送って、代わって傍に寄ってきたディアナを見上げた。
「――アトルが……」
「仕方のないことです」
声を低めて、ディアナはゆっくりと言った。
「あなたが心を痛める理由はございませんことよ、レーシアさん。あなたには関係のないことでしてよ」
レーシアは俯いた。
「――そう、かな……」
しばらくそうして自分の爪先を見ていて、レーシアは唐突に、はっとしたように顔を上げた。
「そうだ、うっかりしてた」
そう零して、レーシアは恐る恐るアトルに近付いていった。
「あの……えっと、宝具は……?」
言い出しながら、不躾だったかと思い、こちらに背中を向けるアトルをじっと見詰める。
アトルは数拍置いて、目を開けて振り返り、レーシアが前以て言っていたことを思い出した。
――死は、宝具の力で覆すには大き過ぎるのだと。
レーシアもそのことがあるからか、らしくもなく遠慮がちに、気遣うような顔をしている。
その顔に、アトルは荒涼とした心が僅かに救われるのを自覚した。レーシアの薄青い目が、心底からの深い気遣いを湛えて自分を見ていることが、痛いほどに分かったのだ。
「アトル……? ごめん、その、色々いっぱいいっぱいなのに……」
アトルが答えないことで、レーシアが首を竦めて謝罪を並べる。
アトルは瞬きをして我に返り、彼女が何を言ったのか、数拍遅れて理解した。
「あ、ああ――。いや、いいんだ、ありがとな。……頼んでいいか?」
宝具の使用、あるいは封具の使用は、〈器〉にとっての負担も大きい。
しかし、レーシアは力強く頷いた。
「任せて。――どこまで……えっと、町も直した方がいいの?」
レーシアの問いに頷き掛けて、寸前でアトルは首を振った。
「――いや、駄目だ」
瓦礫の隙間には沢山の人がいるのだ。町が修復される過程で、彼らが瓦礫に潰されるような事態はあってはならない。
難しげに眉を寄せ、レーシアは呟く。
「じゃあ、人だけ?」
「そうしてくれ。――出来るか?」
レーシアは首を傾げる。
「宝具は使ったことがあるんだけど、〈静〉のは初めてだから自信はないけど――やってみる。たださすがに、個人個人で区別したりは出来ないから……」
レーシアが申し訳なさそうに眦を下げ、アトルはどこかぼんやりとした頭でその意味を考え、後を引き取った。
「これをやらかした張本人も治されるって訳か?」
「うん……」
レーシアがしゅんとして呟き、もはや何を考える気力もなく、アトルは投げ遣りに答えた。
「もういいよ、なんでも」
その言い方に、レーシアが案じる眼差しをアトルに向けたが、アトルはじっと下を見ていた。
何か声を掛けるべきか、レーシアは逡巡したものの、結局何を言えばいいか分からなかった。
ちょうどこのとき、ディーンがハッセラルトに追い着き、彼に一撃を加えたのだが、距離があるためにレーシアたちにそれは分からない。
レーシアがここにいると知ったハッセラルトが、宝具の起動を仄めかされてなおその場に留まったことも、レーシアたちは知らない。ハッセラルトが、精根尽きたリリファに代わったディーンと黒い肌の老人と、二対一での戦闘に臨んでいることも、そして押され始めて大通りを下り始めていることも、この場にいる彼らには窺い知れないことだった。
レーシアは小さく首を振って、息を吸い込む。目を閉じて集中し、唇を開いた。
「汝の望む一生に 僕が望むことあらで憂し」
彼女の内側で、〈糸〉が騒ぐ。
周囲の人々が――レーシアからすれば無関係な人々が、何事かと彼女を振り返るが、レーシアは頓着しなかった。
「憂ゆ面に離ることこそ望ましかりと
片方に在らむ君を思ふも難しけれ」
レーシアの抑えた控えめな声が、それでも十分に美しく古風な歌を綴る。
そしてまた、完全には収まり切っていない記憶の混乱が――他人の記憶の侵入が始まろうとする。
(ちょっとだけ待って……)
レーシアは念じ、必死になって自らの膨大な魔力を宝具に費やした。宝具の、その余りにも大きな力の顕現を削ぎ、レーシアの望む形に整えるために。
「互に固む因縁の
なでふわろしことやあらむ」
この作業は、サラリスでは出来なかったことだ。レーシアにしか出来ないことだ。
――どうしてサラリスが行っちゃうの?
――ファリシャお姉さんはどこにいるの?
ある日突然、姉とも慕っていた人が消えたことへの寂寥が、宝具に宿る記憶の主とレーシアとの間の共通点となり、二人の境界が薄れていく。
レーシアは拳を握り、掌に爪を立てて辛うじて自我を保つ。
(アトル、アトルがここにいる。――私はレーシアで、ここでやらなきゃいけないことがある――)
――サラリスは、私と二人じゃ、嫌だったのかなぁ……?
――お姉さんは僕のこと、嫌いになっていたのかも知れないね。
もう何もかもどうでもいいと、全てを諦めた少年の記憶と、自分の記憶。薄い一線を守るように、レーシアは息を大きく吸い込む。
「今はただ 思ひ絶えなむとばかりを
偽りなれど 云はまほし」
レーシアが歌い終えた。
そしてその瞬間、世界が変わる。
已に生じた事象を否定するために、宝具が世界に干渉する。レーシアの魔力によってその力を向ける対象を絞られ、しかしそれでなお強烈にその威力を発揮する。
封具が起動されたときとは違う。目に見える変化があった。
まず、レーシアの全身が淡い光に覆われる。その光は薄らと黒く、ただ一瞬で消え失せた。
そしてその力が、今回に限っては恩恵として周囲に揮われた。
――傷を無かったこととする。その重篤さに関わらず、その現実を打ち消すために無理やりに治癒という事象が生じる。
――体力の消耗も無かったこととする。その蓄積された重さに関わらず、その現実を打ち消すために無理やりに宝具の力が体力に換算されて、その消耗を埋め合わせする。
――魔力の磨耗も無かったこととする。どれだけ磨り減っていようとも、その現実を打ち消すために無理やりに宝具の力が魔力に換算されて、その磨耗した分を補填する。
あるべき流れを無視した異様な力が、現実の一部を書き換えていく。
ただレーシアの意思に従って、レーシアの匙加減で。レーシアの集中力によって、その暴力的な力が恩恵に姿を偽って町を覆っていく。
ゼーンが驚いたようにその身を起こした。傷は完治し、跡形もない。
近くでアジャットの安堵の声が聞こえて、彼女がグラッドを見付け、そして彼が回復するのを見守ったということが明らかとなった。
体力も気力も使い切って、ディーンを見送って蹲るリリファが、あっさりと消えた痛みと傷に目を見開く。
町中で、その身体から悉く傷が失せたことに気付いた人々が困惑と安堵の声を上げる。
そしてそれはまた、大通りを下りながら戦い続ける三人にも同じこと。
左腕の裂傷が消えたことに気付き、それどころか疲労さえも失せて、黒い肌の老人がちらりと己の身を見下ろした。
「――これは驚いた」
ディーンもまた、町の様子からそれに気付いて、いっそ呆れたように首を振る。
「どこまでも非常識な人だ」
そしてハッセラルトは、二人の追撃を躱しながらもその場で跳び上がっていた。
「すっげえええ!」
子供のようにそう叫んで、ハッセラルトは満面に笑みを浮かべる。
「これは報告しないとな! すげえ、すげえや!」
彼は胸に下がる碧玉を掴んだ。そこに預けられていた魔力が、些かの磨耗も無かったかの如く宝石の中に眠っていることを確認する。
「おっ、元通り元通り! んじゃ――」
ハッセラルトが身体ごと二人を振り返り、足を止めた。無論、二人はそこに飛び掛かる。だがそれよりも、ハッセラルトの足下に円を描くように風が渦巻く方が早かった。
強烈な風に足を止めた老人が、それを相殺しようとする。だがそれよりも僅かに早く、その風がハッセラルトの身体を宙に舞い上げた。
即座にそれを追う二つの魔術。片や衝撃波、片や火炎。衝撃波がハッセラルトに散らされ、火炎が寸でのところで躱される。
内心ではひやりとしていたのか、ハッセラルトは炎の行方をやや神妙な顔で見送った。だが、すぐにその表情は掻き消える。
ハッセラルトは魔術を念動系に切り替えた。舞い上げられたままに、今度は落下しようとしていた身体が止まり、まるでそこに床があるかのような動きで両足が宙を踏みしめる。
「こっちの方が速いんだよ。じゃあな!」
再び宙に立って、足下に燐光を走らせながら、ハッセラルトが眼下の二人に手を振った。
無邪気な笑顔のままに町を上空から見渡して、いっそう輝かしい笑みを浮かべる。
「見つけた――」
その声に、ただ強いばかりの多幸感が溢れた。青い目を輝かせ、ハッセラルトは宙を蹴る。
「レーシアさま!」
毎日投稿が難しくなりそうです。
毎日投稿だからという理由で見てくださっている方もいらっしゃることでしょうが、
どうか見捨てないでください……!




