06 小賢しい青年が、時代遅れの少女に出会う
時計の部品は全て蓋の方にあり、言わば時計が櫃の蓋となっている状態だった。
時計部分を押し上げた内部は素っ気ない木の箱となっており、その大きな箱の中に一人の少女が仰向けに横たわっていた。
形こそ時代遅れで質素であるものの、一目で高級な生地で作られていると分かる薄黄色のドレスが箱の中に広がっている。鳩尾の上で組まれたほっそりした手は白く、労働を知らないことが察せられた。
箱の中に広がり渦を巻く艶やかな長い髪は黒に見えたが、目を凝らせば濃紺だと分かる。その髪に縁取られた小さな顔――その形は非常に整っていた。
綺麗な曲線を描く眉。すっと伸びた鼻筋の見事さは彫り抜いたかのよう。小さな桜桃色の唇は僅かに開いてあどけない。頬に影を落とす睫は長く、しかしその閉じられた目元は強張り、全体に穏やかな寝顔の中で唯一の厳しさを見せていた。
アトルはもちろん、その美しさに度肝を抜かれたこともあって、身動きも儘ならなかった。しかし彼女の容姿は驚きの半分を占めていたに過ぎない。
残りの半分の驚きは、彼女の年齢に起因していた。
その少女は、どう見ても十六歳には達しているように見えた。もしかすると十七かも知れない。
激しく動揺して、アトルは意味もなく周囲を窺った。
まずい、そう思った。小さな子供ならば、場合によってはオヤジたちに可愛がられる可能性もある。しかしそれが、妙齢の女子となればどうか。「可愛がる」という単語の意味が変わってくる。そもそも戦力にならないそんな女子を置いておくことの不利益の方が大きい――確実に放り出される。
アトルはあわあわしながら少女を窺ったが、そこではたと気付いた。
――目が覚めていない。今なら色々と無かったことにして、蓋を閉めてさようなら、と事を運べる。
半ば反射的に蓋を戻そうとして、アトルは少女の周囲に薄く膜が張られていることに気付いた。膜というよりは泡のようなものかも知れない。恐らくこれが少女をあらゆる衝撃から守っていたのだろう。念動系の高等魔術だ。これは精神系魔術と張り合える難易度だったはずだ。
一般的には精神系の魔術が最も難しいとされてはいるが、例外もある。
精神系の魔術と張り合う難易度の魔術もあるし、精神系の魔術を超える難易度の魔術も存在する――念動系の、空間を操る転移の魔術と、元素系魔術の、時を操る魔術だ。
――時を操る方が、まさに今、この少女が眠り続けている原因と推察される魔術である。どこの国の近衛も驚くような超高等魔術の大盤振る舞いである。
いや、今はそんなことはどうでもいいのだ、さっさとこの蓋を戻そう、と我に返り、アトルは両手で蓋を引き下ろそうとした。だが、そうは問屋が卸さなかったようだ。
まるでその瞬間を狙い澄ましたかのように、宿を衝撃が襲ったのだ。
「――っ、撃たれた!?」
念動系の魔術を撃ち込まれたか、あるいは砲弾を土台に喰らったか。
そんな衝撃に、物理的に宿が揺れた。重い櫃は堪えてくれたが、積み上げられた箱の類が大きな音を立てて落下した。宿の中の全員が体勢を崩しただろうと思う、そしてアトルも例外ではなかった。
蓋を両手で持ったまま前につんのめる。思わず瞑った目を開ければ、少女の顔が目の前だ。
一瞬ぽかんとしてしまったのは、その顔が余りにも綺麗だったからと、そしてこの衝撃にも全く反応しない少女の異常さゆえだ。
こんなにも深く眠っている。
呼吸はしている、それは間違いない。しかし目を覚ますことなく昏々と、無防備に眠り続けている。
数秒が流れ、アトルは慌てて身を引いた。
衝撃が続けて襲ってくることは無かったが、比較的治安のいい準シャッハレイにおいて、こんな襲撃があるのは珍しいことだ。そしてアトルには心当たりがある――大盤振る舞いされている追手たちだ。
オヤジたちの誰かが様子を見に来るかも知れない――そう思い、アトルは今度こそ蓋を閉めようとした。しかし、ふとその手を止める。今度は外部からの要因ではない、自分の意思で手を止めたのだ。
もし、自分がここでこの蓋を閉めたら、この少女はまたずっと眠り続けることになる。明後日にはアトルたちの手を離れ、どこかの運送屋の手に渡ることになる。
「――レー……シア?」
アトルは何とはなしに声に出した。
直後、無音で、まるでそれが自然の摂理であるというかのように無造作に、少女を覆っていた泡が消えた。
「…………」
目が点になるアトル。明らかに名前を呼んだことが引き金だが、これは困る。救いは少女の目がまだ覚めていないことだが、このままではこの子は全身打撲確実の運命だ。
そもそも、手紙を書いたサラリスとかいう人物は、どうすればこの少女の目が覚めるのかを記していない。それでこの子を助けてなど、明らかに無茶だ。
アトルは周囲をおろおろと見回して、何か少女を包めるものを捜す。緩衝材があれば、まさか死んだりはしないだろう。シーツの類は、緩衝材として用いるには数が足りない。丸めて何枚か押し込まなくてはならないからだ。
そしてその結果適当なものが見付からず、アトルは微妙に冷や汗を滲ませながら少女を見下ろした。
少女は身動きもせずに横たわっている。
傾国と呼ばれるに相応しい美貌は、彼女が目を開けて何らかの表情を浮かべればどんなに華やぐことだろう。――ここでこの蓋を閉じてしまえば、彼女は一生このまま――意識も自由も無く、眠り続けるのだろうか。
目を覚まさせたいのか、このままでいさせたいのか、自分でも分からないまま、ただこの少女が明後日には手を離れるということが少しだけ惜しく感じられて、アトルは思わず手を伸ばして恐る恐る少女の頬に触れた。
温かさと柔らかさを指先に感じた、その瞬間、少女の目が開いた。
氷を思わせる薄青い色の虹彩の、大きな目。その視線が一瞬宙を泳いで、直後少女が動いた。
事態に呆然として身動きも出来ないアトルの腕を思い切り振り払う。そしてそのまま、箱の縁に手を掛けてもがくようにして起き上がった。その表情に、紛れもない恐怖と混乱が浮かんでいた。
「何があったの!? 私は――」
叫ぶようにそう言ったところで少女の目がアトルの顔を捉え、少女は口をぱくぱくさせた。
「あ――あなた誰」
悲鳴を上げようとしたものの、そのための息さえ驚きで失って、結果出た声、というような低い声だった。
アトルが何と答えたものかと迷っている間に、少女は勝手に結論付けたらしい、目を細めながら言った。
「代理の宝士? それにしては格好が変だけど……。ジェルトはどうしたの?」
意味が分からん、というのがアトルの感想だった。しかし少女はそれに頓着することもなく、今度はさっき振り払ったアトルの腕を握って、縋るように言っていた。
「ね、ねえ、サラリスはどこ? さっきここに――ううん、どこにいるのか分からないけど、でも――。とにかく会いたい、サラリスは? どこにいるの?」
サラリス、間違いなく手紙の書き手だ。
アトルは頭の中を整理した。
まず、自分はこの少女の目を覚まさせてしまった。つまりこの状況で、あの手紙の指示にはある程度従うべきだろう。つまり、自分は手紙のことは知らないし、この少女の名前も知らない、そして――
「悪い。誰だ、それは?」
――サラリスという人物のことも一切知らない。
即答したアトルに少女は絶句した。数秒間呆気に取られた後、呆然と言葉を紡ぐ。
「……サラリスを……知らない?」
「ああ」
「私のことは……?」
「初対面だな、もちろん」
「どうして?」
事実を述べたところで理由を問われ、アトルは面食らった。
「どうして、って――逆に訊くが、何で知ってなきゃならない?」
その瞬間の少女の顔は、見事という他なかった。呆れと混乱と恐怖と、その三つが見事にせめぎ合う表情のまま、少女は小さな声で言った。
「……だって、ここのところ、市井の話題は私たち一色だったでしょう……?」
事態に怯えて声が小さくなったとしても、自分が話題になるという気恥ずかしさは一切なかったらしいと分かる口調だった。
アトルは眉を寄せた。
「悪いが本当に知らない。――俺はアトル。きみ、名前は?」
少女は気味の悪いものを見るようにアトルを見て、アトルは既に知っているその名前を口にした。
「レーシア。ねえ、本当に知らない?」
「知らない」
レーシアはしばし何かを考えていたが、はたと顔を上げると尋ねた。
「ここ、どこ?」
は、と面食らったアトルに、レーシアは言葉を重ねる。
「だってそうでしょ、私たちのことを知らないなんておかしいもの。よく見たら知らない部屋だし、ここ、セゼレラじゃないんでしょう。すっごい辺境の国なんでしょ? だからでしょ? ――私誘拐されたんだ!」
でしょ? でしょ? と畳みかけた後にはっと気付いたように叫び、レーシアはアトルを指差して目を見開きながら声を高くした。
「誘拐犯!」
頭が痛くなってきた。アトルは蟀谷を押さえ、掌を相手に向けた。
「待て。落ち着け。俺はこの時計を運び出すよう依頼を受けてそうした団体の、その一員ってだけだぞ。何が誘拐だ」
未だに時計の中にすっぽりと収まっているレーシアがぽかんと口を開け、それから唇を尖らせて懐疑的な眼差しを向けてきた。
「……じゃあ、ここはどこなの」
「ここはジフィリーア王国のシャッハレイのすぐ外の――準シャッハレイだ」
即答したアトルに、またレーシアは目を瞠る。
「うそ、ジフィリーアの人が私たちのことを知らないの? 隣なのに……」
「隣?」
アトルは語尾を上げた。
手紙の中にもあり、さっきこの少女も口に出した「セゼレラ」。聞き覚えは一切ないが、地名らしい。
職業柄、アトルは土地には詳しい。知らない土地名の方が少ないはずだが、セゼレラという地名は知らない。
ジフィリーアは西を海に接し、東を宝国と、その宝国をジフィリーアとで包むようにして広がるルルセット王国、南をリアテード皇国、北をヤルセク王国とその廃墟に接している。
ジフィリーアを含む周辺国は漏れなく百年戦争に参戦した国であり、ヤルセクはその被害が大きく、未だに国土の三分の一が廃墟と化したままで、難民問題に喘いでいる。
つまり、ジフィリーア王国の隣にセゼレラという場所は存在しない。
「隣って何のことだ」
「え? ジフィリーアはセゼレラの隣の国だと思ったけど、違った?」
きょとんとした顔のレーシアは、首を傾げて言い放った。
「セゼレラはあらゆる国の中で最高の影響力を持っているはずだけれど」
アトルは眉を顰め、思い当たって声を上げた。
「まさか――宝国のことか?」
レーシアは、何が「まさか」なのか分からないようだった。
「ええ、そうも呼ばれるみたい。セゼレラ宝国よ。この戦争が終わるまで、私たちはセゼレラにいることになってるの」
「戦争?」
アトルは反復してみせた。
現在、国家間の戦争はこのアシャト大陸で起こっていない。百年戦争で摩耗した国力が、戦争を起こすことを許容しないのだ。
こいつは本当に百年前の人間だぞと身構えるアトルの正面で、レーシアは可愛らしく小首を傾げた。
「うん。戦争、起こってるでしょう?」
アトルは一呼吸の間を置いて、告げた。
「いいや、起こってない」
「……え?」
レーシアは綺麗な薄青い目を見開き、その一音を発した後しばし固まった。硬直する彼女に、アトルは慎重な声音で重ねて告げる。
「念のために言うが、今はアシャト歴でいうと四百十二年だ」
一拍の間があった。
それから徐々にレーシアの目が見開かれ、彼女は強張った笑みを浮かべた。
「そんな、そんな、まさか。何言ってるの、だって……」
レーシアは震える両手を固く組み合わせた。
「今はアシャト歴三百二年でしょう……?」
アトルは息を詰め、それから敢えて平淡な声で言った。
「つまりきみは、百年以上前の人ということだな」