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13 善性の代償

 斬られた脇腹と、鎌鼬が掠った頬と、槍が刺さった太腿から出血があった。特に太腿の出血には、そこに太い血管が通っていることは知っていたので、下手を打てば失血死も有り得るかと身構えたが、幸いにも浅く刺さっただけのようだった。


「っ()ぇええ……」


 アトルは呻き、かなりざっくりと斬られた脇腹を庇いながら起き上がった。

 衝撃波に弾き飛ばされ、戦線から強制離脱させられたのである。大規模な衝撃波だったから、周囲には同じ理由で吹っ飛ばされた「お仲間」が七人ばかり転がっていた。


「打ち所悪けりゃ気絶してたか――死んでたか――」


 独り言ちながら、衝撃波を喰らった腹を撫でる。血を吐いていないのだから、消化器系の内臓は無事なのだろう。触れると激痛が走ったことから、少なくとも打撲にはなっていると分かる。

 魔術師になって数箇月であることを思えば、アトルの戦い振りは賞賛に値するものだった。少なくとも、リーゼガルトやミルティアといった、他の指定魔術師と肩を並べたのである。

 魔法陣が目まぐるしく展開されている。低く唸るような音が絶えず耳についた。


「戻らねえと――」


 自分に言い聞かせるように呟き、アトルは立ち上がった。

 その背中に誰かがぶつかってくる。


「アトルっ!」


 つんのめったアトルは振り返り、そこに幼馴染みの姿を見て息を漏らし――訝しげな顔をした。


「アリサか。……どうした? 何があった?」


 そう訊いたのは、アリサの菫色の目が涙で曇っていたからだ。


「アリサ……?」


 顔を覗き込むと、アリサの目から新たな涙が溢れ出した。


「オヤジが」


 アトルに抱き付き、しがみ付いて、アリサが嗚咽交じりの声を出した。


「オヤジが死んじゃう――」


 アトルは目を見開いた。周囲の音が遠退いた。


「――は?」


 アリサはアトルの胸を殴り付けた。


「この――馬鹿。捜したのに。呼ん、だのに」


 アトルは殴られるままによろめいて、唖然とした顔でアリサを見た。


「……何の、冗談だ……?」


「冗談!? 冗談だったらどんなにいいだろ!」


 アリサは怒鳴り、顔を覆った。


「ゼーン親父が――血が止まらなくて――」


 心臓の拍動がいやに耳の奥に響いた。

 アトルは無意識にアリサの手を掴み、一言尋ねた。


「どこだ?」





 負傷した者たちがそこらじゅうに倒れている。レーシアを囲む樹国の一団がその只中で戦況を見守っているのが見えたが、今だけはそちらに注意を払えなかった。


 アトルは治癒術を使ったことがない。だが、今はそれすら関係のない次元で問題があった。

 ゼーンの傍に膝を突いたアトルが最初にしたことは、せめて止血をするため、ゼーンの腹に開いた傷口を、念動系の魔術で塞ごうとすることだった。血管を閉じるのは念動系でも治癒の部類であり、アトルにこなす自信はなかったが、皮膚だけでも繋げようとしたのである。

 たとえ魔術が、術者の望んだ結果を招かないとしても、術式を発動させたからには何事かの変化が起こらなくてはおかしい。それなのに、アトルの構成した術式は何の効果ももたらさなかった。


 理解が容赦なく感情を攻め立てた。アトルは吐き気すら催した。


「――嘘だろ」


 毒だ。

 かつてアトルに致命傷を負わせ、今グラッドを苦しめている、念動系の魔術の干渉を無効化する毒。

 その毒が塗られた刃物がゼーンを傷付けたのだ。


 考えろ、考えろ。アトルは必死で自分にそう命令する。

 血を止めなければ手遅れになる。手段は何でもいいはずだ。とにかく今、早急に、ゼーンの身体から失われる血液を止めなければならない。


「――――っ」


 考え付くことは二つあった。


 一つは、傷口を焼くことだ。高温の炎で傷口を炙り、血を止める。だが、これをしてしまうには、ゼーンの傷口の範囲が広過ぎた。

 縦に裂けたその傷口は、斬り付けられた後にもう一度剣を捻じ込まれ、抉られたかのよう。縫うことは出来ないだろう。そして焼いてしまえば、今度はその火傷が命に関わる傷となる。

 かつて準シャッハレイで、アジャットたちもまた、恐らくは同じ理由でアトルの傷を焼こうとはしなかったのだろう。肺が焼けては元も子もないからだ。


 そしてもう一つは、傷口を氷漬けにすることだ。

 代謝が落ちれば出血は和らぐ。血管を凍らせてしまえば出血はなくなる。懸念されるのは凍死や細胞の壊死だが、今ここで確実な「死」に瀕していることを思えばまだましなはずだ。


 アトルは呼吸を整え、手を傷口に翳した。

 小さな魔法陣が青白くその掌の下で煌めき、一瞬で傷口が凍り付いた。思わず安堵の息を吐こうとしたアトルは、しかし次の瞬間に固まった。


「――なんで」


 術式が溶かされる。念動系の魔術に対してのもの程ではないが、毒が魔術を無効化しようとしている。傷口を覆った氷が水蒸気に還されようとしている。


「なんでだ、なんで――ッ」


 アジャットたちの話では、この毒は念動系の魔術のみを無効化するのではないのか。他の属性の魔術に対しても、まだ効力を持つのか。それとも治癒の方向へ働く魔術を、悉く無効化していくのか。

 アトルが生み出した氷が霧になって風に流れた。もう一度同じことを繰り返す。今度は傷口が凍り付くことさえなかった。顕現しない術式に、魔力が空しく吸い取られる。


 頭ががんがんと痛む。

 なぜ、あれ程に人の犠牲を厭うデイザルトの部下がこんな毒を使っているのだ。

 アトルのただならぬ様子に周囲のアリサたちも固唾を呑む。

 ゼーンの顔色は既に土気色を呈し、意識もない。


「――なんでこんなことになった」


 呟くようなアトルの問い掛けに、傍にいたアリサとレアル、ミーシャ、デリックとラッカーが視線を交差させる。


「見えない鞭みたいな、あれに当たったの」


 ミーシャがややあって答えた。


「それで倒れてるところを刺されて、取り敢えず私たちでここまで引っ張っては来たんだけど――」


 アトルは瞑目した。

 レーシアを襲おうとし、弾き返されたあの一本。それしか考えられない。


「アトル、なんとか出来ないのか? 出来るよな? やってくれるよな? 魔術師なんだろ?」


 レアルがゼーンの身体の向こうから身を乗り出し、アトルの肩を掴んで揺らしながら、縋るように言う。


「なあ、頼むよ。血は止められるだろ? な? そうだよな?」


 歯を食いしばり、アトルは首を振った。


「――毒が」


 そこまで言って喉が詰まった。


(なんでだよ……)


 傷口に宛がった布が赤黒く染まっている。


(なんで何にも出来ねえんだよ……)


 手に触れればまだ温かい。まだ辛うじて息をしている。それなのにこの、死んでしまいそうな表情はなんだ。


(なんでオヤジなんだよ……!)


 もっと他の、見知らぬ誰かがここに倒れていればいいと、アトルはそのとき本気で思った。


 レアルの手を振り払い、ゼーンの肩を右手で掴む。


「……オヤジ、おい、ゼーン親父」


 囁くように呼び掛ける。


「目を開けろ、おい。聞こえてんだろ? なあ」


 身体中の血が逆流する。目の前が真っ赤に染まって見えた。


 有り得ない。こんなことはあってはならない。違う。今何か手を打たなければ取り返しの付かないことになる。駄目だ。明日になってもこの人が生きている、それが当然のことのはずだ。


「オヤジ――オヤジ!」


 もっと他の、見知らぬ誰かがここに倒れていればいい。

 悲しむ必要のない、赤の他人がこの傷を負っていれば良かったのだ。


 心からそう思った。なぜそうではないのだと理不尽に思いさえした。


「オヤジ、起きろ」


 血がどくどくと溢れ、アトルが左手で押さえる傷口の布は、吸い込める血を全て吸ってずっしりと重い。口元からも血が溢れている――内臓が傷付いたのだ。


「ねえ、アトル。どうしたの? なんで? なんで血を止められないの?」


 アリサがアトルの腕を掴み、迷子になったときのように尋ねてくる。


「なんとかしろよ!」


 レアルの隣、ゼーンの頭側でデリックが怒鳴った。


「おい、なあ、魔術師なんだろ?」


 アトルは応えられない。デリックは信じられないという顔をした。


「……おまえの親父でもあるんだぞ」


「――ってる」


「今まで育ててもらったろうが!」


「分かってる」


「みんなして庇ってもらってきただろうが!」


「分かってるんだよ!」


 アトルは怒鳴って顔を上げた。その正面、デリックの背後に誰かが立ったが、気にしていられなかった。


「俺だって助けてえよ! 助けないと息子だって胸張れねえって分かってるよ! けど無理なんだよ!」


 アトルも含め、そこにいる〈インケルタ〉の「餓鬼」たちの表情はみな同じだった。

 恐怖と混乱と理不尽と。


 もっと他の、見知らぬ誰かがここに倒れていれば。

 そうすれば辛くはないというのに。


 アトルは八つ当たりに怒鳴り続けた。


「アジャットでさえ諦めろって言うような毒なんだよ! 俺にどう――」


 言葉が不自然に途切れた。


 アトルはそのときようやく、デリックの背後に誰が立ったのかに気付いたのだ。


 ゼティスから譲られた外套に身を包んで、フードまですっぽりと被って、傍にはディーンたち樹国の腕利きを従えて。

 同情しているというよりは興味を覚えたかのような眼差しを彼らに注いで。


 この戦闘の原因であるレーシアがそこに立っていた。





************





 相変わらずの美しい顔で、周囲で乱戦が起こっているというのに汚れ一つ、傷一つなく、レーシアがそこに立ってアトルたちとゼーンを見下ろしている。


 一瞬、呑まれたような沈黙がその場に満ちて、次の瞬間レアルが立ち上がった。


「あんた――」


 レーシアがレアルに視線を移し、首を傾げる。


「なに?」


 相変わらずの美しい声だった。相変わらずののんびりとした口調だった。


「あんた、あんただよな? アトルを助けたよな!?」


 アトルは息を呑んだ。

 耳の奥がキンと鳴る。つい先程とは打って変わって、心臓が止まったようにすら感じた。


「――レアルやめろ」


 低く呟いたその声は、実際に声になったかすら危うい。レーシアには当然聞こえなかっただろう。


 レーシアは訝しげに眉を寄せ、フードを下ろす。そして、デリックの頭越しにゼーンをよく見ようとするように頭を傾け、それからレアルに視線を向けて軽く頷いた。

 濃紺の髪が場違いに美しく風にそよぐ。


「うん。――その人、同じ毒で斬られたの?」


 アトルを助けたという事実が肯定され、ミーシャが飛び上がるように立ち上がってゼーンの身体を回り込む。アリサも息を呑んだ。


「オヤジを助けて!」


 形振り構わずアリサが叫んだ。レーシアは驚いたように目を見開き、レアルからアリサ、アリサからゼーンに視線を動かす。


「アトルは良くてオヤジは駄目なの? そんなことないでしょ?」


 ミーシャがレーシアの手を掴み、畳み掛けるように迫った。

 レーシアはぎょっとしたように仰け反り、瞬きを繰り返す。


「ミーシャ、放せ。アリサもやめろ」


 アトルが堪らず口を出した。今度はアトルの声が聞こえたのか、レーシアが不思議そうにアトルを見る。

 どうして不思議そうにするのか、アトルは考えることすら出来ない。


〈静〉の宝具を持たないレーシアが、アトルのときと同じ奇跡を起こす方法はただ一つ、封具を起動することだ。

 だが今、封具を二つ所有している今それをしてしまっては、それこそレーシアが命を落としかねない。


「なんでよ! あんたは助かったんでしょう!」


 アリサがアトルを見て怒鳴り、レーシアに向き直って懇願した。


「お願い。出来るお礼なら何だってするから。お願い、オヤジを助けて」


 ミーシャもまたレーシアの手を握ったまま、お願い、お願いと繰り返す。


「なあ、あんたは助けられるんだろ! アトル、そう言ったよな!?」


 レアルが叫び、縋る視線を向けてくる。


 かつてレーシアへの詮索を避けるためだけに吐いた嘘を、アトルは奈落の底に叩き落される気分で思い出した。


「違う――あれは――」


 アトルの言葉を遮るように、ディーンがミーシャの手を叩き落し、レーシアの隣に立った。


「レーシアさん、相手になさいますな」


 ディーンは冷ややかに言った。アリサたちを見る彼の眼差しもまた、絶対零度の冷たさで、その目には憐憫の欠片も浮かんではいない。


「低俗な身分の犯罪者紛いの分際で、この方に気安く話し掛けるな」


「なん――っ!」


 激昂するアリサを一瞥もせず、ディーンはレーシアに、打って変わった丁寧な口調で声を掛けた。


「移動しましょう、レーシアさん。ここは血の匂いが移ります」


「うーん」


 レーシアは首を捻り、もう一度ゼーンを見た。それからディーンを見上げ、へらりと笑う。


「ディーン、お願いがあるんだけど」


 ディーンは困ったように眉を寄せた。


「後ほど伺います。――離れましょう」


 その答えに、レーシアの表情がすっと変わった。

 冷然と、傲然と、それこそ身分の卑しい者を見るような。


「ディーン、命令よ」


 言葉を改めて、レーシアは戦線へと視線を向けた。

 ディーンは苦虫を噛み潰したかのような顔をしたが、従順に答える。


「――はい」


 レーシアは顎で戦線を示した。


「あそこにデイザルトがいるんでしょ?」


「そのように思われます」


「いなくなれば町に入れる?」


 一瞬黙り込み、それからディーンは慎重に答えた。


「……軍が撤退すれば、あるいは」


 ふうん、と呟き、レーシアはごく自然な挙動でゼーンの身体とアトルたちを回り込み、戦線に顔を向ける形で佇んだ。

 アトルはレーシアを追いかけるように身体を反転させ、言うべき言葉を必死に探した。だが思考は空転するのみで、欠片すらも有益な考えが浮かばない。

 穏やかに吹いた風がレーシアの髪を揺らす。


「ディーン、これから私が言うことを、そのままデイザルトに伝えられる?」


 ディーンは刹那、目を閉じたが、すぐに決然と答えた。


「――はい」


 その右掌の上に、微かに輝く魔法陣が渦を巻いて構成されていく。

 ん、と頷いて、レーシアはディーンをはじめとする樹国の者たちをじっと見た。


「それから、これも命令よ。――これから私のすることを、絶対に邪魔しないで」


 樹国の者たちの間に動揺が走った。うろうろと視線を交錯させ、しかしレーシアの機嫌を損ねる訳にもいかず、ただ黙って各々がそれを拝命する。


 アトルは座り込んだまま、呆然とレーシアの背中を見た。


「……なんでだ、なんでだよ」


 ようやっと声が出て、しかし言葉は幼い程にたどたどしかった。


「おまえには何の関係もない――何の得もない――おまえが、おまえがしなくちゃならないことじゃ――」


「アトル!」


 アリサとレアルの声が重なる。どちらの声も責める響きだ。デリックもミーシャも、信じられないというようにアトルを見る。


「おまえ――」


 レーシアは思わずというように振り返ってアトルを見て、それからなぜか拗ねた顔をして戦場に向き直った。


「……アトルがそんなことをいうのは、とても、とても理不尽なことだわ」


 そうとだけ呟き、レーシアは両手の掌を合わせた。


「じゃ、みんな離れて」


 ディーンたちが一歩下がり、以前にアトルが助けられた場にいたアリサたちが、レアルやミーシャを促して下がった。


「何してるの、下がるわよ」


 アリサが囁き、愕然として動けないアトルの腕を引いて下がらせる。


 アトルはいっそ絶望感さえ覚えた。

 ゼーンに生きていてほしいと、彼を助けてほしいと思わない訳はない。それにも関わらずその同じ心が、レーシアが死ぬことを何よりも恐れている。

 その矛盾を、矛盾ゆえに強くレーシアを止められないことを、ディーンたちにレーシアを止めてもらうことで解消したいと、アトルの心が叫んでいる。


 アリサたちは一心にゼーンの身に奇跡が起こることを祈っているが、アトルはその奇跡に代償が要ることを知っているのだ。


 レーシアはまた頷き、ディーンに向かって尋ねた。


「いい?」


 ディーンは己の構成した魔法陣を左手で軽く触り、その魔法陣を光の漣が走るのを見て首肯した。


「いつなりと」


 満足げにそれを聞いて、デイザルトがいるはずの方向に目を向けて、レーシアは口を開いた。



「――デイザルト、私はこの間、ちゃんと言ったわ」


 その声が、ディーンの魔法陣を通じてデイザルトに伝わっていく。


「私は大陸を道連れにしてやると。あなたの可愛い部下が死ぬと」


 傲慢ですらない日常の声が、しかし確かに脅しの色を宿している。

 封具を二つ宿した今、レーシアがそれをすることは不可能であるというのに、それを欠片も匂わせず、淡々と脅しの言葉が並べられていく。


「こんな所で私を足止めしておいて、それで報復がないとでも? ――私が何もしないとでも思ったの?」


 恐らくこの戦場のどこかで、デイザルトがこちらを見ているはずだ。怒りか恐れか、あるいは憎悪かをその目に宿して。


「私の魔力量を侮ってるの? サラリスでさえ、軽々と凌駕する私のこの魔力量を? それでどれだけ緻密に宝具や封具を操れるか、あなたは実際に見たいようね」


 戦場を挟んで、レーシアとデイザルトの間には、無数の人や馬がいて、魔法陣も砂塵も剣も槍も、それら全てを通して互いに向き合えている訳はない。

 それにも関わらず、レーシアの言葉は明確にデイザルトに届き、彼の表情を変える。


「――今すぐ下がれ。それが私の最後の情けよ」


 固い口調でそう言って、レーシアは長い睫を伏せた。


 唇がもう一度開かれ、絶世の美しさで歌が奏でられ始める。



()に望む のどけき春の御光は」



 アトルは息を呑んだ。


「やめろ――」


 この歌を、アトルは確かに聞いたことがある。

 あのとき、準シャッハレイで血塗れになって死に掛けていたときに。



(かな)(かな)しと慈しむ

 吾が望む 夏の景色の白妙の

 雲湧き(いづ)る 夕立の音」


 古風な歌を紡ぐレーシアは口を閉じない。

 その声も、ディーンの魔法陣であちら側に伝わっているはずだ。



 戦線を戦慄が駆け巡る。


「宝具だ! 皆殺しにされるぞ! 逃げろ!」

「封具であったとしてもひとたまりもない!」


 口々に叫ぶ声が聞こえる。


 デイザルトにとっても、この展開は予想だにしていなかったものだ。彼は確かに〈()から直接(・・・・)、宝具や封具を使う際の、強烈な反作用の話を聞いていたのである。


 レーシアがはったりを打っている可能性は無論あった。だが、可能性を云々するよりも、事が現実に起こった場合、失われる命の数が――その予想が、何よりも彼には恐ろしかった。


「退け! 下がれ!」


 大音声にデイザルトが叫んだ。


 その声が蒼穹に木霊し、僅かに――本当に僅かに、レーシアが笑った。



「吾も望む 露霜の秋の御空の望月

 鏡ばかりに 澄み渡るかな」


 レーシアの歌はまだ続いている。

 美しく、古風に、穏やかに、まるで周囲からは切り離されているかのように。


「レーシア……」


 久し振りに彼女の傍でその名を呼んで、アトルは懇願した。


「頼むからやめてくれ――」


 レーシアは振り返りすらしない。ただ少し歌の調子を落として、指揮官の命令を受けて撤退していく、軍の引き際を見詰めていた。



「吾と望む 冬の寒さの情け深さよ」



 軍が完全に引き揚げた。樹国の魔術師やアジャットたちが、最後の力で追撃を警戒し、防壁を築くが、それすら無用の長物だろう。


 大陸を沈めることさえ可能な兵器。その使用は、仄めかすだけであっても十分に強制力として作用する。


 レーシアはゆっくりと身を翻して振り返り、ゼーンの傍に跪いた。目を閉じ、何かひたすらに集中しているようだ。



「吾と汝近く 誓ひてし

 (さや)に映ゆる真白の雲気」



 アトルは思わずレーシアの肩を掴んだ。


「レーシア、黙れ。やめろ。頼むから――」


 アリサたちの責めるような、裏切られたような痛みを含んだ激しい眼差しがアトルに向けられたが、アトルは気付かなかった。


「やめろって、レーシア!」


 レーシアはアトルの手を払い除け、目を開けてゼーンの顔を見た。



「白々明くる山入端(やまのは)

 惜しむはあえかな月影を」



 何かが光るわけでも、音がするわけでもなかった。


 だがその場の空気が変わる。久しく会っていなかった友人に、再会してすぐ以前のような雰囲気でじゃれつかれたときのような、そんな気持ちの温度の空気に。

 そしてその場にいた全員の呼吸が一刹那止まる。呼気あるいは吸気を、途中で打ち消されたかのような、そんな不自然な息の止まり方――


 ディーンたちが絶望か恐怖か、そのいずれかに祈るように目を閉じた。アリサたちは息を呑むことさえ出来ず、それでもゼーンをじっと見詰めている。アトルもまたゼーンを凝視して、レーシアは自分の心臓の鼓動を確かめるように手を胸に当てている。


 アジャットたちは追撃がないことを確信して、次々に防壁を解除し、戦場に立っていた全員がこちらを振り向いている。上空で旋回する飛翔船が、まるで軍が撤退していくことを見守ろうとするかのように、引き揚げていく軍隊の上空を滑翔する軌道を取った。


 そしてその一瞬後――


 ゼーンが薄らと目を開けた。ぼんやりとした眼差しで、何度か瞬きを繰り返し、状況が把握できずに戸惑っている様子を見せる――生きている。



 未然の事象を否定し、傷の悪化も出血も、これより先に起こるべきであった一切を予めなかったことにする。

 これが封具の行う、謂わば未来の改変、運命の書き換え。当代エンデリアルザの魔力量さえ上回る、異常な魔力量の為せる業、極小の事象の否定。事象を封じ、決してこの世に顕さない強制。



 アリサたちが一斉に歓声を上げ、抱き合った。


「オヤジ!」

「ゼーン親父! おい、生きてる!」


 アリサに至っては叫ぶことも出来ずにぼろぼろと涙を零している。


 眩暈がする程の安堵がアトルを襲い、そしてそのことが、心臓が止まるほどの罪悪感に繋がった。


 レーシアがその場で脱力し、ぐらりとその身体が傾ぐ。


「レーシアさん!」


 ディーンたちが一斉に叫び、〈インケルタ〉の面々がはっとしたようにレーシアを見る。


「え――?」


 レーシアの異変に、アリサとレアルが何かに気付いたような顔をする。


 慌ててレーシアを抱えるようにして支えたアトルは、彼女の蒼白な顔に他の全てのことを忘れた。


「レーシア――」


 こんなときでも、レーシアはのほほんとした笑みを、かなり弱々しいものではあったが、それでも浮かべた。


「……間違えた」


「は?」


 訊き返したアトルに、レーシアは子供が悪戯をしたときのような笑みを向けた。


「強い方の封具を呼んじゃった。――あは、どうしよう……」


「笑い事かよ――!」


 アトルは声を殺して怒鳴った。


「馬鹿、おまえ、この馬鹿」


 レーシアは眉を寄せて笑みを消し、ぐったりとアトルにもたれ掛かった。


「まずいかも……」


 はあ、と息を漏らして、レーシアは目を閉じた。長い藍色の睫が頬に影を落とす。


「封具の反作用がこない――」


 封具を呼んですぐに倒れるあのことだろうと、アトルは理解する。


「それは――」


 問い返そうとしたアトルに、目を開けたレーシアがひどくゆっくりと言った。


「今、気絶したりしたら、二度と目を覚ませないかも知れないって、私の身体が知ってるってこと」


 アトルの喉が凍り付く。目を見開いた彼に、レーシアは不思議そうな顔をして、アトルの頬に手を伸ばした。


「変な人――。嫌いって言ったのに、ずっと無視してたのに、それでも私が心配なの?」


 喉に迫り上がる何か熱いものを堪えて、アトルはやっとの思いで声を出した。


「ごめん――ごめんな、レーシア」


 レーシアが弱々しいながらも鹿爪らしくそれを聞いている。

 彼女の指先はアトルの頬を微かに撫でて、その細い冷えた指先から、どれだけの熱がアトルに注がれているのか、アトルですらも量りかねた。


「ひどいこと言って――こんなことまでしてもらって――」


「……もういいよ」


 レーシアが言って、手を下ろして微笑んだ。


「この人がアトルのこと息子って言ってるの、私、聞いてたの」


 まるでそのことで、アトルが尋ねた、自分に何の益もないことをする理由がはっきりするとでもいうように。


「アトルは私の、恩のある人だしね」


 息が止まる。レーシアの、余りにも純粋な厚意が彼女に為させたことの、その理由が本当にただ厚意だったということに。そして、


「それに、仲直りもそろそろしたかったの。――アトルが謝ってくれれば、それで済む話だったから」


 照れたように視線を逸らすレーシアが、少なくない感情を自分に割いてくれていることに――そのことが、命の恩さえある父親を救ったことに、一人の胸で捌き切るには大き過ぎる感情の波が起こって。


 今度こそ堪えられず、アトルは嗚咽を漏らした。


 レーシアの口調に滲むのは、人間の誰しもが多かれ少なかれ持っている善性だ。しかしレーシアはそのために、自分の命まで危険に晒してくれたのだ。


「レーシアさん」


 ディーンがレーシアとアトルの傍に跪き、押し殺した声で割って入った。


「不躾な質問をご寛恕ください――猶予はあと、どれ程で?」


 レーシアは考える様子もなく言った。


「あと十日、もつか分からない」


 アトルの顔から血の気が引いた。


 ディーンは深く溜息を吐き、アリサたちに刺すような視線を向ける。


「貴様ら――」


 アトルがアリサたちに目を向けると、彼らは一様に顔色を失くしていた。

 半ばはレーシアに起こった異変から、自分たちの頼みがどれだけの代償を必要とするものであったかに思い至り、それゆえ覚えた罪悪感からだろうが、もう半分は違うだろう。

 ディーンの、余りにも殺伐とした眼差しのゆえ。


「自分たちが誰に、何を頼んだのか分かりもせずに、よくも――」


 ディーンの押し殺した声を、レーシアが遮った。


「ディーン、そんなのどうでもいいから。だから宝樹玉」


 はっとしたようにディーンが懐を探る。それを見ながら、アトルの胸を押して自分で座り直したレーシアが、普段の彼女からは考えられない厳しい口調で言った。


「宝具の扱いも封具の扱いも、今ここにいる中で心得ているのは私だけよ。余計なことは考えず、私をちゃんと生かしなさい」


 宝樹玉の包みを取り出し、レーシアに差し出しながら、ディーンが深く頭を下げる。


「仰せのままに」


 レーシアは宝樹玉の包みを受け取り、残りの数を見て険しい目付きをした。包まれているのは玉虫色の球体が二つ。


「……望み薄だなあ……」


 呟いた彼女の声に、押し殺された焦りと恐怖が窺えた。


 死んだらどうしようと泣いていた彼女が、「サラリス」に会いたいと必死になる彼女が、痛いほどに脳裏に蘇った。


「レーシア……」


 思わず呟いて呼び掛けたアトルを振り返って、レーシアは微かに強張ったものではあったが、笑みを浮かべてみせた。


「……変なの。なんでアトルの方が泣きそうにしてるの?」


 そしてそっと、宝樹玉の包みをアトルの手に渡した。


「やっぱり、これはアトルが持っててね」


 帰ってきたその親愛の情に、アトルは大きく頷くことしか出来なかった。








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