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09 再来の蛇と再来の騎士

「……やっぱり遅い……」


 乱れた髪を手櫛で整えながら、レーシアがぽつりと呟いた。

 不安げな様子を見て取って、アトルは敢えて明るく言う。


「大丈夫だろ。案外あれじゃね? 有り金が足りなくて値引き交渉してんじゃねえの?」


 仮に何かあったとしても、高等指定魔術師がそう易々とやられるとは考え辛い。

 アトルは今も柘榴石の耳飾りを着けている。それを軽く指で弾いたが、その結晶の中に込められた魔力が通信を受けている様子はない。


「うん……」


 レーシアが頷いた。そのときアトルは不可解なものを見て眉を寄せた。


「蛇……?」


 アトルの呟きを聞いて、彼の視線を追って振り返ったレーシアが、げっと声を上げた。


「あれ、あれ!」


 レーシアがアトルの陰に隠れて指差したのは、地面を這う蛇である。鈍色の蛇は、くねくねと身体をうねらせてこちらに進んで来ており、そのくねりは生理的な嫌悪を誘った。


「見たことあるのか?」


 アトルが鋭く尋ねると、レーシアは何度も頷いた。


「あれ、前に通った町の前で襲ってきた、あの帽子被った男の人が出してた蛇にそっくり!」


 ベルディの顔を思い起こし、アトルは苦い顔になった。


「あいつら――追っ掛けてきてたか」


 内心で困ったことになったと零す。

 ベルディは少なくともグラッドと互角だった。アトルが相手となった場合、歯が立たないということはさすがにないだろうが、勝つことも難しいだろう。そして今、戦闘になったとして、アトルはそれだけに専念できるわけではない。


 振り返ってレーシアの顔を見る。蛇に対して嫌悪感を丸出しにして顰められて、なお美しく整った顔を。――アトルはレーシアを守らなくてはならない。


 とにかく術師を捜して視線を走らせる。

 まず最初に、先程のゼティスとレナードの二人組が去った方向を見たが、そこには最早人影はない。そこから広場を見渡していく。


「アトル……」


 レーシアが囁き、アトルはぼやいた。


「なんかこの頃、こんなんばっかだな。――たまにはのんびりしてえよ、なぁ?」


「のんびり――」


 サラリスと背中合わせに座って風に吹かれた花畑の思い出が、一枚の絵画のように脳裏に浮かんだ。

 レーシアは外套の襟に顔を埋めるようにして呟いた。


「春になったらどこかで花を見よう――?」


「ん? 何て?」


 アトルが訊き返したが、レーシアがその誘いを繰り返すことは無かった。


 柘榴石の耳飾りを指先で弾き、アトルが通信の魔術を起動する。


「アジャット、どこだ? 追手がいる、戻って来てくれ」


 奇妙な雑音が耳元で唸った。


「アジャット……?」


 ざりざりざりざりざり。

 雑音ばかりで返答がない。アトルは険しい顔で相手を切り替えた。


「グラッドさん?」

 ざりざりざりざりざり。


「ミルティア?」


 雑音が途切れ途切れになった。ざりざりざり……ざり。


「リーゼガルト? 聞こえないのか?」


 突然、硬い物が割れるような音が耳を劈き、アトルは思わず耳を塞いだ。だが正確にはそれは耳で捉えた音ではなく、通信の魔術によるものだ。


「アトル? どうしたのっ?」


 レーシアが驚いたようにアトルを見ている。アトルは困惑の声を漏らした。


「なんだこれ……。妨害……?」


 耳を擦りながら、アトルは辺りを窺った。

 広場の人通りがぱったりと途絶えている。蛇はそのまっくろな目でこちらを見詰めるばかりで動かず、アトルはレーシアと――グラッドと同じ生理的嫌悪を感じて背中を震わせた。


「あの蛇、グラッドが燃やしたら分裂してたよ」


 アトルの背後からレーシアがこっそりと言った。アトルは頷く。

 どのような魔術を組み合わせているのかは、アトルの知識ではすぐには判断できないが、とにかくベルディのものだと仮定すれば無闇に攻撃するのは控えるのが賢明だろう。

 アトルは素早く考えた。広場を抜けてアジャットを直接捜しに行く方がいいのか、ここに留まる方がいいのか。

 だが振り返って、アトルはその思考の無駄を悟った。


 まだ距離があるものの、びっしりと広場を包囲するようにして、ベルディの蛇が地面を覆い尽くしていた。


 アトルも軽い吐き気を覚えたが、レーシアは絶句していた。

 視線は蛇から離れないが、それは衝撃の大きさゆえのことのようだ。彼女の身体が震え始めたのを感じ、アトルは慌ててレーシアと向かい合って視線を合わせた。


「レーシア? 大丈夫か?」


「う……うん」


 頷いたものの、レーシアの視線は泳ぎ、全身が軽く震えている。


 ――まずい。


 アトルは息を呑んだ。感情の昂りは、今のレーシアにとっては毒同然。このままでは封具が近付いてきてしまう。


 しかし、蛇に攻撃を仕掛けるわけにもいかず、蛇を作り出している術師の姿も見えない。レーシアの視界を覆おうにも、目隠しをしていては余計に音などで怖がりそうだ。


「レーシア」


 考えを巡らせながらアトルは声を掛けた。


「レーシア、俺を見ろ」


 大きな薄青色の目がアトルを見た。見開かれているせいで、普段よりも大きく感じる。


「正直に答えろ。あの蛇、気持ち悪いか? 見てたらやばいか?」


 レーシアは目をぎゅっと瞑り、唇を噛んでから答えた。


「気持ち悪い。もう駄目」


 アトルは自分の中で算段を付け、出来るだけ落ち着いた口調を心がけながら言った。


「これから戦うことになるかも知れねえし、あいつらも気色悪いし、おまえのこと考えると、動揺とかしないように――寝てもらった方がいいと思うんだよな」


 レーシアは目を見開いた。その目が零れ落ちるのではないかとアトルは一瞬思った。


「寝る? 今? ここで? 無理!」


 レーシアは断言した。そうやって興奮したせいなのか、一瞬息が詰まったようで、げほげほと咳き込む。彼女の背中を撫でて落ち着かせようとしながら、アトルは説明した。


「俺が寝かせるから。つまり、おまえに魔術掛けることになるけど――いいか?」


 レーシアが答えないうちに、アトルは言い募った。


「ちゃんと目は覚まさせる、約束する。ちょっとの間だけだ。おまえは嫌だろうし、どうしても嫌なら勿論そんなことしない」


 レーシアは百年眠っていた。彼女をその眠りに就かせた者のことを、殺したい程に憎んでいるのだ。


 嫌われたかも知れない、と己の発言をいっそ悔やみながらレーシアを見たアトルを、きょとんとしたレーシアが見返した。


「ちゃんと起こしてくれるんでしょ?」


 アトルは頷いた。これほど全力で頷いたのは生涯で初めてだった。


「絶対だ」


 レーシアはうんうんと軽く、何度か頷き、アトルの手を握った。


「じゃあ大丈夫だよ。ただ――」


 俯いて言い澱んだレーシアを、アトルが促す。


「うん? なんだ?」


 レーシアは俯いたままちらりと視線を上げ、その、意図せず作り出された上目遣いでアトルを見た。


「起こすとき、近くにいてね」


 その瞬間、アトルは、レーシアに対する庇護欲が自分の内側から溢れて決壊するのを感じた。


 一瞬目を閉じ、目元を押さえて自分に起きた変化を受け容れる。それから目を開けて、不思議そうに自分を見るレーシアに微笑んだ。


「ああ、任しとけ」


 レーシアが頷き、心持ち不安げに唇を結ぶ。安心させるように彼女の頭をぽんぽんと叩いたアトルは、そのまま人差し指でレーシアの額を突いた。


 術式が発動し、レーシアを眠りに落とす。


 ふっと力が抜けたレーシアを支えて、噴水傍の長椅子に横にならせたアトルは、レーシアが「ゼティス」というらしいあの男から受け取った外套を彼女に丁寧に掛け直した。


「よし」


 アトルは呟き、蛇の大群を振り返った。


「さっさと出て来い、相手してやる」


 蛇たちがその身を互いに擦り合わせ、その鱗が現実にはあり得ないような甲高い音を奏でた。

 顔を顰めて、アトルはレーシアの様子を窺う。レーシアは今、自然な眠りに就いている訳ではないから、生半なことで起きはしないが、これはもう条件反射である。


 自分なら、とアトルは考えた。


 こうして魔術で相手を包囲することに成功したなら、遠距離からの攻撃で片を付けようとするだろう。わざわざ姿を見せて、攻撃を浴びる危険を冒す必要はない。

 だが、こうやって広場を包囲するだけで、かなりの魔力を使っているはずである。相手の魔力量がどれ程かは分からないが、魔術は対象との距離が遠ざかれば遠ざかるほど、魔力を多く消費する。


 諸々を考え合わせると、敵はある程度の距離の近さを保ちつつ、死角などを利用してアトルの視界から逃れている可能性が最も高い。

 視線を動かし、姿を隠せそうな場所を捜す。まず最初に噴水の裏側を。それから広場の近くに建つ家屋の陰に目を凝らす。


 蛇たちが一斉に鎌首をもたげ、アトルにはそれらが波打ったように見えた。


 そして蛇が跳ねた。自然には有り得ない動きで跳躍してアトルに襲い掛かってくる。一匹一匹次々に飛び掛かってくるような、そんな優しいものではない。レーシアを襲うことはしないが、四方八方から同時にアトルに飛び付いてきたのである。


 自分の皮膚ぎりぎりのところに障壁を張り、アトルは素手で何匹かの蛇を殴り飛ばした。案外あっさりと宙に舞った蛇たちが、例外なく煙を上げて消滅するのを見て瞬きする。


(打撃に弱いってことか……?)


 だが、一匹一匹を殴り飛ばしていくのには、あまりにも数が多すぎる。全身に群がる蛇たちが、がりがりと障壁を削り始めた。

 アトルは舌打ちし、ある程度の持久力を犠牲にしてでも広域に及ぶ衝撃波を撃ち出すべく、術式を組み立てに掛かった。

 アトルの足元を中心として、仄かに光る魔法陣が展開されていく。幾つもの方形が重なった形のそれが、微かに低い唸り声を上げた。魔力が吸い取られていくのを感じながら、アトルは最低限の魔力のみを魔術に喰わせるようにと注意した。


 蛇たちが舌を出し入れしながら、魔法陣が展開されていく様をつぶさに見守った。


 いよいよ魔術が発動するというときになって、アトルは息を呑んだ。


「嘘だろ――」


 人通りが途絶えたはずの広場に、ちらほらと人が入って来た。間違いなく敵の差し金だ。


 ――このままでは市民を巻き込む。


「汚ぇぞ!」


 怒鳴りながら、アトルは魔法陣を解除した。魔力を無駄にした上、解除し切れなかった魔術の余波が足元で爆発し、咄嗟にアトルは跳び退る。


「くっそ――」


 アトルが張った障壁に齧りついている蛇は四匹ほど。アトルはそれらの頭の付け根を掴んで放り投げたが、蛇たちはまだ群がってくる。

 アトルは、先程解除したものよりは数段小さな魔法陣を空中に描き出し、発動させた。小規模な衝撃波が生み出され、数匹の蛇を宙に跳ね上げて地面に叩き付けた。それらの蛇が煙を上げて消滅する。


 だがこれではきりがない。


 広場に入ってきた数人が、訝しげに蛇の大群を見た。そして例外なく嫌悪の声を上げる。


 衝撃波や小規模な落雷で蛇を消滅させながら、アトルがそれらの人に叫んだ。


「逃げろ!」


 だがその瞬間、腹に響く音と共に、広場を囲う障壁が展開された。淡く光るそれが、広場を周囲から隔絶し、人々の逃げ道を塞いだ。


 アトルは眉を寄せた。いくら何でも非効率的過ぎるやり方だ。たった一人でこのように魔力を使うとは考え辛い。そう考えると、当然ながら相手は一人ではない。仲間といるはずだ。


「なんだこれ!?」

「どうなってんだ!」


 人々の叫び声を聞きながら、アトルは蛇に雷を落としてレーシアを振り返った。レーシアはゼティスの外套に包まって寝息を立てており、起きる気配はない。


「一気にやるしかねえよなぁ……」


 独り言ちたアトルは、腰に着けた銃を抜いて蛇たちを撃ち抜きながら――それでも蛇の数が減ったようには思えない――、広場に閉じ込められた人々に叫んだ。


「こっちに寄れ! 俺は魔術師だ!」


 その言葉を完全に信じた訳ではないだろうが――何しろ魔術師は滅多にいる代物ではない――、人々がアトルに向かって駆け出す。実際、広場にいて蛇の大群に対処出来ているのはアトルだけだった。

 蛇たちがかぱっと口を開けた。長い牙を擁するそこに、小さな光球が生成されていく。


「早くしろ!」


 叫んで、アトルはレーシアのすぐ傍に立った。その彼の傍に人々が集まってくる。

 アトルが先程と同じ大規模な魔法陣を組み上げ始める。幾つもの方形が重なり、連なり、術式を実現するために魔力を吸い取る。アトルは歯を喰いしばった。

 魔法陣が完成し、唸りを上げる。


 そして、魔術が発動した。


 蒼い閃光が広場を蹂躙し、衝撃波が同心円状に広がって蛇たちを煙と化す。衝撃波によって砕かれた敷石が砂塵となって濛々と舞い上がる。衝撃波は広場を囲う障壁に打つかり、障壁が軋みを上げた。

 砂塵の中で、アトルは息を吐いた。


「なんとかなったか……?」


 広場に閉じ込められた人々も、互いに身を寄せながら状況を把握しようと、砂塵の中目を凝らす。


「何がどうなってるの……?」


 そんな囁き声を聞きながら、アトルはレーシアの様子を確認した。若い女性が気遣わしげにレーシアを見ており、彼女はアトルに訴えるように言った。


「この人、大丈夫なのかしら……。まったく目を覚まさないの」


「いいんだよ、それで。迂闊に触るな」


 アトルはやや剣呑に答えた。この女性は何ら悪くないと頭で分かってはいても、レーシアの傍をうろうろする人間には自然と当たりがきつくなってしまう。


 砂塵が晴れてきた。アトルはレーシアが問題なく眠り続けていることを確認した上で辺りを見回し、障壁が破壊されていないことを見て取って舌打ちを漏らした。


「何のつもりだ、ここに閉じ込めて何の得が……」


 そこまで言って、アトルははっとした。


 逆であれば? アトルたちをここに閉じ込めることが目的なのではなく、アトルたちを外から隔離することが目的なのだとすれば?


 アジャットが戻って来なかった。通信の魔術も妨害されている。――今、彼らはどこで何をしている?

 表情が自然と険しくなる。アトルはもう一度、耳飾りを爪で弾いた。


「――アジャット」


 柘榴石に込められた魔力が働く気配が確かにあったが、答えは無い。

 剣呑な気配を撒き散らすアトルに、周囲の人々は戸惑った目を見交わした。魔術師は非魔術師に比べて圧倒的な力を持つ。そのことは世の常識であるため、ここでアトルの機嫌を損ねたい者など一人たりともいようはずがないのだ。

 アトルはもう一度辺りを見回すと、敵の姿がないことを確認し、深呼吸して落ち着きを取り戻した。


「離れてくれ」


 念のために周囲の人を遠ざけると、アトルはレーシアの傍に膝を突いた。出来るだけ、彼女の意識を奪っている時間を短くしておきたかったのだ。アトルは彼女の額を撫でて静かに呼ぶ。


「起きろ、レーシア」


 ん、といかにも寝惚けた風な声を上げて、レーシアがぼんやりと目を開けた。長い濃紺の睫がさわさわと影を落としながら瞬き、やがてアトルの顔を認めたレーシアが顔を輝かせた。


「アトル!」


 上体を起こした彼女は、広場を見渡して嬉しそうにした。


「あの蛇、いなくなってる。ありがとう!」


 輝くような笑みを浮かべたレーシアに、アトルも笑い返した。


「おう。――後の問題は他の連中がどこにいるか分かんねえってことなんだが……」


 レーシアは眉を顰めると、長椅子から軽やかに足を下ろして立ち上がり、アトルによって遠ざけられていた人々の中の一人に近付いた。


「お、おいレーシア!」


 万が一にもレーシアを刺激する事があれば大変だと、アトルが慌てて彼女を止めようとしたが、それよりも早くレーシアが声を出していた。


「あの、ちょっといいです?」


 声を掛けられたのは、十七、八歳の青年だった。茶色い髪を長く伸ばして後ろで編んだその青年は、美少女に声を掛けられてどきりとしたらしく、「え、お、俺!?」と過剰に反応した。

 その反応にレーシアの方がびくりと怯え、アトルは問答無用で両者の間に割って入った。


 ただでさえレーシアは人見知りなのである。それを怯えさせるとは言語道断、そもそもレーシアが他人に声を掛けるきっかけとなるようなことを話してしまった自分にも腹を立てながら、アトルは青年を睨むように見ながら言った。


「広場に入ってくる前、誰か魔術師を見なかったか」


 心当たりもなく睨まれた青年は面食らった顔をしたが、質問には答えた。


「い、いや、分かんねえっす……」


「明らかに風体の怪しい女は? 暗褐色の外套を着てフードまで被ってる女だ」


 アトルが質問を重ね、青年はぶんぶんと首を振る。


「み、見てねえっす」


「でかい剣を背負ってる男は? 傭兵みたいに見えると思う。黒髪を頭の後ろで束ねてる」

「やっぱり見てねえっす」

「金髪の三十過ぎの男は? やたらとおどおどしてる奴だ」

「見てねえって」

「十代の女は? 小麦色の髪を二つに結ってる、喋り方に特徴のある奴だ」


 青年は少しばかり考え、思い当たった顔をした。


「見たっす! 広場出てちょっと行った所っす」


「――ミルティア」


 レーシアがぼそりと呟いた。


「そいつは何してた!?」


 アトルが語気を荒げて尋ねると、青年は反射的に怯えた顔になりながらも、きちんと答えた。


「な、なんか揉めてたっす。ちらっとしか見てねえんで分かんねえっすけど」


「相手はどんなだった?」


 青年は眉を寄せ、思い出そうとする様子を見せてから答えた。


「確か――顔に派手な傷のある、銀色っぽい髪の色の奴が、その女の子に何か言ってたっす」


 アトルは目を見開いた。レーシアを振り返ると、レーシアも思い当たった様子で目を見開いている。


「ゼティスさんといた――」


「その人だろうな」


 アトルは言って、広場を囲う障壁を歯軋りしながら見上げた。


「くそっ、何がどうなってんだか――」


 そのとき、障壁の一部が不自然に揺らいだ。ちょうど通りに接している辺りだ。アトルがレーシアを庇うように立って、警戒心を丸出しにしてそちらを向く。


 障壁が揺らいだ箇所から、男が一人入ってくる。騎士装束を身に纏い、どことなく疲れたように歩を進めるその男に、アトルは確かに見覚えがあった。レーシアもあっと声を上げる。


「あの人――」


 赤い長髪を後頭部で束ねた彼は、迷いなくアトルとレーシアに近付いてきた。アトルが体内に魔力を溜め始め、彼の周囲の空気が揺らめいた。


 だが、彼――セルダで出遭ったディーンは、それには頓着もせずに周囲を見て、おもむろに口を開いた。


「――突然のことで驚かせたことだろうと思う。謝罪する」


 ディーンは背後を手で示す。ぽっかりと障壁に穴が空いていた。


「あそこから出られる。閉じ込めるような真似をして済まなかった」


 人々は顔を見合わせた。突然に登場したディーンに、誰もが戸惑っていたのである。

 だがディーンはそのような視線を受け流し、微笑むと、唐突に名乗りを上げた。


「俺はディーン。

 訳あってここに派遣されてきた――樹国から来た騎士だ」








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