08 ヴァークの異常
次に通り掛かる町はヴァークといい、アジャットたちはその町に大通りが一本通っていることを良いことに、馬車で中を突っ切ることを決定した。
それには、そろそろ留守番続きでレーシアも欲求不満が溜まっているだろうと考えられたこともある。
下手に町を通って人と関わり、レーシアの感情が昂っては取り返しが付かないが、逆にレーシアを隔離し過ぎて、欲求不満から苛立つようになってもいけないという、何とも微妙かつ手間のかかる均衡がそこにはあった。
当のレーシアは、少なからずの気遣いを受けているということは分かっていても、それに対して申し訳ないという感情は一切抱かなかった。
ただ、「町に行けるの? やった!」という素直な反応を示したのみである。
良く晴れた、風の穏やかな日だった。気温もそれ程低くはなく、しっかりと着込んで日向にいれば問題はない。
「アトル! ね、アトル!」
町の手前で、レーシアは大興奮でアトルの袖を引いた。アトルはレーシアの様子を気にしつつ銃の手入れをしている最中で、それを受けて銃一式を置いた。
「どうした」
「見て見て!」
レーシアが窓の外、空を示す。青空に一点、銀色に輝く何かが宙を滑翔していた。
「あれなに?」
レーシアの横で空を見上げながら、アトルも首を捻った。
「さあ……。なあリーゼガルト、あんなの見たことあるか?」
アトルに問われたリーゼガルトも二人の横に並ぶ。
目を細めてその銀色の真昼の流星を見たリーゼガルトは、軽く目を見開いた。
「あれ、飛翔船だ」
「ひしょうせん?」
レーシアが首を傾げる。
「なにそれ。あんなの見たことない」
「俺もない」
アトルが言葉を重ね、リーゼガルトは面白くなさそうに説明した。
「アルナー水晶を大量に使う乗り物だよ。空を飛ぶからさ、陸路より何倍も速く移動できるが、アルナー水晶、しかも浮遊の術式のやつを湯水の如く使うから、並外れた金持ちでもない限り使えねえよ。離陸と着陸にも場所が要るしな」
「そりゃあ俺は知らねえな」
アトルが納得の口調で呟く。戦災孤児である彼は〈インケルタ〉で働いていたものの、富豪と知り合いになる機会はなく、またそういった桁外れの金持ちが住んでいるのは王都アリーフと相場が決まっている。
「へえ……お金持ちが乗ってるのか……」
レーシアが感嘆の声を漏らす一方で、リーゼガルトは肩を竦めた。
「ミラレークスにも一隻しかないからなー」
「えっ、じゃあアトルは使えるの!?」
特等指定魔術師である傍らの青年を見上げながらレーシアが叫び、リーゼガルトが笑いながら訂正した。
「そんな訳ないだろ。最高指定魔術師じゃなきゃあな」
それを聞いて、レーシアは唇を尖らせた。
「乗せてもらおうと思ったのになぁ」
そんなことを話しているうちに、飛翔船は日光を弾きながら下降し、旋回し始めた。
「着地するのかな?」
レーシアが期待するように言ったが、リーゼガルトは首を振った。
「いや、あんなのに乗ってる金持ちがヴァークなんていう小さい町に用があるもんか。この辺で言ったら――そうだな、ケルティにでも用があるんじゃないか?」
「俺はケルティであんなの見たことねえぞ」
「そりゃおまえ、運が無かったんだろ」
************
ヴァークは平凡な町で、特に名物がある訳でもなかった。
だが、命の危険に晒された中での退屈を持て余していたレーシアは目を輝かせながら窓を覗き込んでおり、その様子にアトルは少なからず和んだ。
だが、その大き過ぎる馬車は大通りを突っ切っている最中、三分の一程を進んだところで停められ、役人から検問を受けることとなった。
大通りの幅からしても人通りからしても、その馬車が通るのに支障はないはずなので、妙なことではある。実際に役人たちも不慣れな様子であった。
「検問ってなに!?」
とレーシアが不安げな様子を見せたため、アジャットとアトルがレーシアに付き添い、徒歩で先に進んでおくこととなった。
「――罠じゃないよな?」
アトルがこっそりとアジャットに囁き、アジャットは難しげな声を出した。
「そうかも知れんが――やむを得まい? ここで下手に揉める方がレーシアさんの命取りだ」
アトルも頷くしかなかった。
実際、元来が能天気なレーシアだから、馬車から降りて徒歩で進むことに何ら不満はなく、むしろ楽しそうでさえあった。
だが、町の中央広場に着く頃にはやや疲れた様子を見せ始め、案じたアトルが噴水傍の長椅子でレーシアを休ませた。
「大丈夫か? 何か飲むか?」
アトルが屈んで視線を合わせながら訊くと、レーシアは嬉しそうに頷いた。
「うん!」
「私が何か買って来よう」
アジャットが穏やかに申し出た。以前までなら問答無用でアトルが動いている場面であるが――レーシアの傍にきちんと彼女を護衛できる人物を残すのは当然である――、今やアトルはれっきとした魔術師といって差し支えないだけの実力を持っている。非魔術師相手では文字通り無敵でさえあるのだ。
「寒くないか?」
レーシアの隣に腰掛けながらアトルが訊くと、レーシアは首を振った。
「大丈夫」
言いながら軽く目を閉じたレーシアは、彼女の宝具を呼び出す歌を口ずさみ始めた。何度も聞いて、アトルももうその歌を覚えている。
広場にいた何人かがこちらに注目し始めたため、アトルがやむなく立ち上がって彼らを威嚇し、追い払う。
その際、数歩レーシアから離れた。誓って言える、たった数歩、手を伸ばせば届く距離を保った程度だ。
しかしその瞬間、アトルの身体がレーシアから離れた。広場の殆ど端まで一瞬で移動したのだ――いや違う。
移動させられたのだ。
「なっ……!?」
こんな魔術は知らない。念動系のものだとして、どれだけの技術を要しどれだけの魔力を使うのか、想像もできない。
焦ったアトルは無論、すぐにレーシアの傍に戻ろうとした。だが出来ない。
「――――っ!」
身体が動かない。
歯噛みしながらレーシアを見る。不自然なことにレーシアは、アトルが忽然と姿を消したことに気付いてすらいないようだ。相変わらずのんびりとした顔で歌を口ずさんでいる。
「――静かに」
突然声がした。自分の真後ろから聞こえた声に、アトルは身体を強張らせる。
「私の主人の意向のためだ、きみに危害は加えない。無論彼女にも」
――そんな言葉で安心出来るかよ……っ!
アトルは内心で罵倒を漏らし、自分を束縛する不可解な魔術に抗い始めた。
一方のレーシアにとっては何の変哲もない数秒間だった。アトルは集まり始めた人々を散らすため、少し離れただけだと思ったのだ。
――アトルはいつも心配してくれる。
そう思って仄かに微笑みながら、レーシアは小声で歌う。
そのとき、傍らに人影が立った。歌いながらふと顔を上げると、四十を幾つか数えた年頃の、精悍な顔立ちの男性が長椅子の傍に立っていた。
レーシアは瞬きする。歌が萎んで消えていった。
人見知りをする性質の彼女が、なぜだかこの男性のことは一切怖いと思わなかった。細身ではあってもしっかりと鍛えられた身体つきの彼に、どうしてか儚げな印象を持ったからかもしれない。
彼はレーシアを見て、表情を緩めて微笑んだ。その褐色の目が優しげに細められて、レーシアは訳もなく彼に好感を抱いたほどだった。
「――あなたの歌は美しいな」
彼は柔らかな、穏やかな声音で言った。
「この世の希望で紡がれた声だ」
レーシアは目を瞠り、それからにっこりと笑った。
「ありがとう。これまで私の歌を褒めてくれた人はたくさんいるけれど、そんな素敵な、詩的なことを言ってくれたのはあなたが初めてだわ」
「それは光栄だ」
男性は言って、ごく自然にレーシアの隣に腰掛けた。そこはアトルの席なんだけど――と思いつつも、言うに言えないレーシアは少し困って男性を見上げる。そして、見上げたその面にやはり儚げな色を見て、口を噤んだ。
風がさっと吹き、レーシアが軽く身震いした。それを見た男性が、ふと思い付いたように自分の着ていた外套を脱ぎ、レーシアに着せ掛ける。
「あ――ありがとう」
「いや」
言って、男性は物静かに笑った。
「こんなことをしては、また怒られるかも知れないな。今日私と一緒に来た子は、私の身体が途轍もなく弱いと信じ切っているからね」
レーシアも笑った。
「私の連れもとても過保護なの。今の私はすぐに死んじゃうから、ありがたいことだけれど」
男性は驚いた様子もなく、ただ笑った。そんな彼に、レーシアは首を傾げる。
「――ねえ、おじさんは寒くないの?」
低く男性は笑った。笑顔や笑い声の絶えない人だ、とレーシアは思う。
「おじさんはひどい。――大丈夫だよ」
「じゃあお兄さん?」
ふざけてレーシアが言うと、男性は目を細めた。
「妹も弟もたくさんいるからね、紛らわしいな」
「大家族なのね」
「――……ああ」
噛み締めるように言った男性に内心で首を傾げつつ、レーシアは訊く。
「じゃあ、何て呼べばいいの?」
男性は数秒考え、それからレーシアと視線を合わせて微笑んだ。
「ゼティスだ。それが私の名前」
「ゼティスさん」
レーシアは繰り返し、名乗りを受けた礼儀として同じことを返そうと口を開いた。
「私は――」
「おっと、行かないと」
ゼティスはレーシアの言葉を遮るように言って、立ち上がった。また風が吹いて、今度は彼が身震いする。
「あの、これ――」
レーシアが彼の外套を返そうとすると、ゼティスはそれを留めた。
「それはあげよう。あなたの歌を聞けた分だ」
面食らいながらも、レーシアは素直に外套を羽織り直した。
「……ありがとう」
ゼティスは少しだけ寂しげに笑い、視線を転じて呼ばわった。
「レナード。行こう」
すぐに銀灰色の髪の男がゼティスの傍に歩み寄り、眉を寄せてレーシアを見遣った。その顔に走る傷痕も相まって、怯んだレーシアのあからさまな表情に、ゼティスが低く笑う。
「怖がらせているよ」
「これは失礼」
どこか冷たい物言いで言ったレナードは、その口調を一変させてゼティスに告げた。
「お身体が冷えてはいけません。これを――」
自身の外套を差し出したレナードに苦笑したゼティスは、右手の人差し指をくるくると回しながらそれを受け取った。右の手首に嵌められた、水晶が象嵌された幅広の金の腕輪が陽を弾いてきらりと光る。
「ありがとう。では、おまえが風邪を引く前に戻ろうか――ああ」
何かに気付いたように振り返って広場を見渡し、ゼティスはやはり穏やかに言った。
「偶然を呼び込めるかもしれないね。下がっていい」
意味不明の発言に首を傾げたレーシアだが、彼女はサラリスが「偉い人」たちと話している間中ずっと、曖昧かつ可愛らしい笑顔を浮かべ続けて乗り切ったくらいであるから、今もやはり微笑んでそれを流した。
ゼティスはレーシアに視線を戻し、少し寂しげに微笑んだ。
「ではこれで」
「じゃあね、ゼティスさん」
レーシアが軽く会釈をし、ゼティスとレナードが広場から去って行く――と同時に、血相を変えたアトルが駆け寄ってきた。
「レーシア! 大丈夫か!?」
「どうしたの?」
レーシアは目を見開いた。
「大丈夫だよ。特に何も無かったし――」
アトルは遠ざかっていく二人の背中を睨んだ。
「あいつらは?」
「ゼティスさん」
真面目にレーシアは答えた。
「この外套をくれたの」
レーシアが羽織る、彼女には寸法の大きい男物の外套を改めて見て、アトルは眉を寄せた。
「寒いのならそう言えよ」
「もう寒くないよ」
言って、レーシアは立ち上がった。
「アジャット、遅いね」
瞬きして、アトルは頷く。
「あ――ああ」
レーシアから僅かに視線を逸らせて、アトルは考え込む。
アトルを拘束していた魔術は、あの二人連れがレーシアの傍から離れると同時に消失した。十中八九、あの二人あるいはその仲間の仕業である。レーシアの傍からアトルを引き離したのだから、戦闘能力など皆無なレーシアをどこに連れて行こうが、妨害はなかったはずである。
だが、現にこうしてレーシアは無事でここにいる。
「アトル?」
レーシアが首を傾げる。その瞳に不安げな色を察して、アトルは条件反射でその頭を撫でた。
「なんでもない」
そうなの? と言わんばかりの視線を向けたものの、レーシアは拘ることなくにこりと笑った。
「ゼティスさん、私の歌を褒めてくれたの」
ちらりと二人の背中に視線を向けて、アトルは覚えず不機嫌に言っていた。
「そんなの、いつも俺がやってるだろ?」
そうなんだけど、と首を傾げて、レーシアは嬉しそうに外套の襟に頬を寄せた。
「とても素敵な褒め方だったの」
アトルは思わず半眼で彼女を見た。
「悪かったな、陳腐な褒め方で」
きょとんとアトルを見上げて、レーシアは広場を見渡した。
「――アジャット、本当に遅いね」
アトルも頷いた。
「ああ」
何も無ければいいのだが、と思う。
以前〈インケルタ〉にいたときは――レーシアと出会う前は――、集合場所に多少遅刻して来る者がいようと気にも留めなかったものだが、こうして連日襲われることが続くと、自然と思考は悪い方向へと走り出す。
アトルは溜息を吐いて顔を擦った。レーシアに同行すると決めたのはアトル自身であっても、疲労は間違いなく蓄積していく。ほぼ毎日魔力を使っていては尚更だ。
戦力として数えられるようになってから、間違いなくアトルの負担は増していた。弱音を吐いたことは一度もないが、身体は正直である。ここ数日、疲れは溜まっていくばかりだった。
「アトル? どうしたの?」
思わず眉間を揉んでいると、レーシアが窺うようにアトルを見ていた。アトルは反射的に笑みを浮かべる。
「いや、なんでも――」
「疲れてる」
レーシアはそっと言って、指先でアトルの目元をなぞった。本人は自覚してさえいなかったが、そこに濃く隈が出来ていたのだ。
アトルは一瞬きょとんとしたものの、すぐに苦笑して手を離させた。
「俺は大丈夫だ。おまえの方が心配だよ」
「私はまだ大丈夫だってば」
レーシアは頬を膨らませた。その言葉に含まれる虚勢を量りながら、アトルはレーシアの頭をがしがしと撫でた。きゃああ、とわざとらしい悲鳴を上げるレーシアの様子に笑い、また彼女の頭を掻き回す。
そうやってしばらくじゃれ合っていた。




