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03 侵食する記憶

 この局面でアトルが最高に苛立ったのは、レーシアを狙っての襲撃が続いたことだった。


 襲ってる場合か、てめえらが狙ってる奴は今死に掛けてんだぞ、と呟いたアトルの顔が余りにも凶悪だったため、レーシアが若干怯えていた。


 アトルの魔術の腕前はまだ実戦に参加できるものではなかったが、アジャットたちはアトルに念動系の防壁を張る魔術を徹底的に教え込み、彼が彼自身とレーシアを可能な限り守れるようにした。同時に、アルナー水晶を仕込んだ例の銃を何丁かアトルに譲渡し、万が一にもレーシアへの接近を敵に許した場合に備えた。


 アトルの魔術の訓練が、今までとは比較にならないほど厳しくなる。この状況では、戦力は一人でも多い方がいいのである。アトルとしても危機感は同じであり、弱音も吐かずに我武者羅に訓練に取り付いた。間も無くして教えられるのは精神系の魔術となった。


 二日経ってもレーシアの記憶の混乱は収まらず、夜毎にカエルムやトニトルスが訪れては彼女を宥めるということが続いていた。


「このままじゃ本当にレーシア、もたないぞ」


 アトルが切迫した口調で呟き、アジャットがぽつりと答えた。


「――ああなると分かっていてもまだ、サラリス・エンデリアルザに会う可能性を広げたかったということか」


 レーシアの世界はどこまでも、「サラリス」を中心として回っている。





「買い出しが必要です」


 グラッドが言ったのは、レーシアが封具と〈糸〉を繋いでから十日経った頃だった。


「このような事態になるとは想定していなかったため、長持ちする食材をそれほど積んでいませんでした」


 懺悔するように頭を垂れたグラッドを見てから、アジャットがフードの奥の口元に手を遣った。


「ふむ。仕方がないから町に寄ろう。だがレーシアさんが――」


 レーシアはきょとんとした顔でアジャットを見た。アトルが言う。


「おまえは留守番の方がいいな?」


 ん、と頷き、レーシアは首を傾げた。


「アトルも残る?」

「おう」


 レーシアが町中を下手にうろつけば、セルダの町の二の舞にもなりかねない。


「では、居残り組と買い出し組を決めねばな……」


 アジャットが言い、リーゼガルトが引き継いだ。


「俺とグラッドさんが行く。ミルとアジャットは残った方がいい」


 全員が頷いた。レーシアがいる方の組に大きな戦力を配するのが当然である。そうするとグラッドは残った方がいいのだが、忘れてはいけない。この一行の財政を握っているのはグラッドなのである。


 魔術師たちが柘榴石の耳飾りを着け、緊急時の連絡路を確保した。このとき初めて、アトルにもその耳飾りが渡された。

 通信の魔術は精神系のものだが、比較的安易なものなのである。


「いざって時のためな、いざって時の」


 リーゼガルトがそう言って、少し気遣うような顔をした。それは、結晶に込められた魔力を使うコツが、他人の魔力を使うときのコツと酷似しているからに他ならない。だが、柘榴石に込められている魔力を使わないことには、この補助魔具を使う意味はない。

 レーシアの魔力を使ったときのことを思い出してしばし暗澹たる気分に襲われたアトルだったが、すぐに気を取り直した。


「すぐに戻ります」


 グラッドが言って、二人が町へ出た。


 馬車は町の外に停められている。ミルティアが外に出て、敵影が無いかどうかということの確認を始めた。


「レーシアさん、気分は?」


 アジャットが尋ねた。レーシアがこんな状態になってからというもの、ミラレークスの四人はますますレーシアに優しくなった。


「今は大丈夫」


 レーシアがそう答えたものの、彼女が記憶の混乱を起こして取り乱すのはいつも突然なので、そうそう安心してはいられない。


「そろそろ落ち着いてくるはずなの……たぶん」


 レーシアは自信なさげに言って、眉を下げた。


「アジャットぉ」


 馬車の扉が開いて、ミルティアが顔を出した。


「誰かぁ来るわ。ただのぉ行商人とかならぁいいんだけど」


 アジャットが小さく頷き、アトルとレーシアの傍に立った。ミルティアがもう一度外に出る。

 アトルが緊したのを察して、レーシアが不安げな顔をした。アトルは慌てて笑顔を作る。


「大丈夫だって。何しろ高等指定魔術師さまがいるからなっ」


 レーシアはアジャットに視線を移し、ぼそりと言った。


「でもアジャット――何だかんだで結構、私のこと逃がしてるよね」


 アトルが半笑いで固まり、アジャットが見えない棘に刺されてよろめいた。馬車の中を何とも言えない沈黙が支配する。


 一方のミルティアは、馬車の前、六頭の馬たちの傍に立っていた。月毛のリュークの首筋を撫でながら、近付いて来る一団を注意深く見据える。

 冬らしく厚手の服を着て、数頭の馬に荷物を乗せて牽かせる彼らは、ぱっと見には確かに行商人のように見える。何事もなく通り過ぎればいいのだが――と彼女が思ったそのときだった。

 行商人の中の一人が顔を上げてミルティアを見た。ミルティアは彼の顔を認め、あ、と声を漏らす。


「ケヴィン――?」


 まだ十代と見える、金髪の彼がにかっと大きく笑った。そのまま隣を歩く人物の手を引き、行商人たちに何やら言ってこちらに向かってくる。行商人たちは一様に驚き、残念そうな声を上げている。


「もう行くのか?」

「捜してたって人、あの子かい?」

「また会いに来いよな」


 おー、と彼らに手を振って、ケヴィンと彼の連れが歩いて来る。


「よっ、ミル」


 ケヴィンが陽気に手を振った。


「聞いたぜ、エンデリアルザを確保したんだって?」


 彼の横に立つ青年は、ケヴィンよりもやや年上か。ミルティアの知る顔ではなかった。


「エンデリアルザじゃぁないけどネ」


 ミルティアは訂正を入れ、その青年を胡乱げに見遣った。その視線に気付き、ケヴィンが慌てて言う。


「こいつ、イヴァン。今回の任務での俺の同行者」

「ふううん」


 ミルティアは呟き、馬車の扉を開けに行った。


「アジャットぉ、ケヴィンがいるわヨ」


 ケヴィン中等指定魔術師。

 中等指定された時期はミルティアの方が随分と先んじてはいるが、ミラレークスに入会した時期はほぼ同時期。

 彼はミルティアの同輩である。





「相変わらずでっけえ馬車使ってんなあ。俺らなんか徒歩だぜ、徒歩」


 馬車の中に入ったケヴィンはそう言いながら、懐から身分証を取り出した。彼の隣でイヴァンも同じことをしている。


「ほい、本人確認な」


 そう言って身分証をミルティアに見せたのは、彼女と顔見知りでないイヴァンが同じことをしやすいようにという配慮だろう。

 ケヴィンはそのまま、寝台の上で突然の客人に驚いて固まっているレーシアを見付けて目を丸くした。


「あの子がエンデリ――」


「違う」


 アトルが遮り、ケヴィンはミルティアもそう言っていたことを思い出したのか、言い換えた。


「あの子が〈器〉?」


「……そうだ」


 アジャットが答え、ケヴィンはひゅう、と口笛を鳴らした。


「すっげえ美人じゃないっすか、先輩」


 先輩、と呼ばれたアジャットは溜息を吐く。


「――ところで、どうしてきみがここに? 我々が彼女を確保した知らせは行っただろう。なぜ本部に戻らない」


「ルーヴェルド様から追加命令があったんですよー。先輩たちの援護に向かえって。んでアルファーナで何見っけたんです?」

「それは――」

「あー、それとあの横にいるのが新入会員ですか?」

「彼は――」

「あれ? リーゼガルトは一緒じゃないんすか?」


 人の話を聞かないケヴィンを一瞥し、イヴァンが口を開いた。


「黙れ、ケヴィン。――失礼した」


 身分証を見るに、彼は高等指定魔術師である。黒髪と黒い目の、厳しい顔立ちの青年に、先程からレーシアがびくびくとしていた。


「我々はアジャットどの、あなた方の援護に向かうように指示された。同様の指示を受けた者は他にもいるだろう。通信魔術の傍受を警戒して連絡は取らず、行商に同行するなどして捜していた――というのがこちら側の経緯」


「ご丁寧にどうも」


 アジャットは答え、フードを更に深く下ろした。


「事情があって、今すぐの本部への帰還は無理なのだ」


「はー? なんでですかー」


 イヴァンが目を見開き、アジャットは窺うようにレーシアを見た。その視線を追ったケヴィンがにこにこと人好きのする笑顔を浮かべる。


「あー、もしかしてこの子、人見知りだったりします?」


 軽やかな動きでレーシアに近寄り、ケヴィンは膝を突いて彼女の顔を覗き込んだ。


「どーも、初めまして。俺はケヴィン。きみは?」


 レーシアはアトルを見上げてからケヴィンに視線を戻し、呟いた。


「レーシア――」


「レーシアさん。よろしくな!」


 ケヴィンが手を差し出した。それを華麗に無視し、レーシアはアトルを見る。


「このひと、これから一緒に行くことになるの?」


 無視された手を見て、ケヴィンが眉を寄せた。


「そうっぽいけど――おまえは嫌か?」


 アトルが訊き、アジャットが重ねて言った。


「レーシアさんが嫌ならば、追い返すことも吝かではないが――」


「ちょ、本人の前で酷くない?」


 ケヴィンが苦笑しながら言ったが、生憎と誰も聞いていなかった。


「とにかく私たちはすぐには戻れないから――」

「だからなんでですかーっ!」

「おまえ、ちょっと黙れ――」


 わいわいと一気にうるさくなった馬車内を尻目に、レーシアの瞼が落ちていく。


 頭の中に割り込んできた記憶を捌くために、彼女の身体が睡眠を欲しているのである。






 ――うだるような暑さだった。空は地上を威嚇するかのような眩しい青。太陽は衰える気配も曇る気配もなく燦々と照る。じいいい、じいいいいい、と、どこかで虫が鳴いている。

 そんな灼熱の天候の中、森の入り口に建てられた掘立小屋の前に自分は立っている。目の前には背の高い男の人。白皙の顔に汗を浮かべて、しかし凛々しい表情は崩さない。

 変な人だ――、と思いながら彼を見上げる。

 暑い、暑い暑い。早く中に戻りたい。

 そんなことを考える自分の前で、彼が言う。名前を呼ぶ。


「――ファリシャさん、だね」




 違う。

 違うはずだ、自分は――




 ――初めて見るような大きな建物に絶句する。堀を渡った先のその入り口に立ち、はにかんだ笑顔をこちらに向けている少年がいる。まだ五、六歳か。柔らかそうな金茶色の髪がふわふわと風と戯れている。

 入り口の辺りには花が植えられていて、小さな白い花が沢山咲いている。風が吹く度、その花の香りがするのだ。


「あの子だよ、きみと同じ」


 隣に立つ背の高い彼が言う。その白皙の顔には、やはり凛々しい表情。

 ぎいいい、ぎいいいいい、と軋んだ音を立てて、堀を渡るための橋が下ろされる。自分がそこを渡るよりも早く、少年が駆けてきた。たったったった。たったったった。

 自分は屈んで少年を迎える。目の前に来た少年は、そのうつくしい青い目に期待を籠めてこちらを見詰めてくる。


「――ファリシャお姉さん?」


 彼が呼ぶ。


「僕、ずうっと待ってました」


 彼が笑う。


「僕と同じ、〈器〉のひと」




 ――あれ?

 私は、誰だっけ。




 ――自分は笑う。彼に笑い掛ける。


「きみが、ロジアン?」


 うん、と彼が頷く。


「じゃあ、今日から私たち、姉弟だね」


 言って、彼の手を引く。


「取り敢えず、お茶にしようよ」




 私の名前は何だっけ?




 ――違う違う違う。

 こんなことをしたいのではなかった。格式張った行事に出たり、言葉遣いを直されたり、それはそれで楽しかったけれど、でもそんな風に一生を終えたいわけではない。

 あの森に帰りたい。暑くて、埃っぽくて、見上げれば木の葉と空が見える、あの森に帰りたい。たまにお客さんが来て何かどうでもいいことを話していくような、あの森の家に帰りたい。

 でもそんなことを言うと弟が泣くから。

 窓辺に立って庭を見下ろす。これが今日何度目か。どこかで鳥が鳴いている。弟がそろそろ来るはずだ。こんな生活をいつまで続ければいい。

 何でもするからここから出して。どうなってもいいから連れ出して。もう何年もこの建物から出てないの。

 最後に外に出たのはあのとき、あの恐ろしい兵器との絆を結んだときだ。あの忌まわしい記憶。

 自分の唇から洩れたのが悲鳴なのか嗚咽なのかも分からない。

 助けて助けて助けて助けて。


「準備が整ったよ」


 後ろで声がする。今度は何の準備だ。振り返れば背の高い彼がいる。夢のようなことを語って自分をあの森から連れ出した、白皙の面差しの彼が。


「ロジアン様がもうすぐいらっしゃるね」


 大好きな弟だ。


「またあの子と話して、きみはここに繋ぎ止められる」


 帰りたいなんて言うと、弟が泣くから。


「そうやってきみは歳を取って死んでいく」


 弟が泣くから、私はここにいる。


「それでいいのかい?」


 大好きな弟。大好きだ、なのにどうして涙が出る。


「もう、会わないで良いようにしてあげようか」


 彼が微笑む。あのとき、森に来たときと同じ、凛々しい顔で。


「ここから出してあげようか」


 もうすぐ弟がここに来る。いつものように、自分と話す事を楽しみにして。


「ロジアン様がここに来る前に、ここから去ってしまおうか」


 涙が嘘のように止まった。


「その準備が整ったんだよ」


 彼に手を伸ばす。


「ここから出るために、きみはどうなってもいいんだね?」


 頷く。彼が微笑む。


「なら、連れ出してあげよう――ファリシャさん」




 私は誰だっけ。

 どこにいるのだった?

 私の名前は、ファリシャだったか。




 そうやって連れ出されて――廊下を歩く――やっとここから出られるのだと――帰れるのだと、弟に悪いと思いながらも、浮き立つ気持ちと足取りは誤魔化せず――

 そして――


 突然、意識そのものを殴り付けられたかのような衝撃が走る。それはまるで、この記憶よりも遥かに強い誰か他の人の意識。強固な決意の塊。感情のない、容赦のない、計算のない、思慮のない、冷たい鋼の意志そのもの。




 ――己に許されざる領分と知れ。




 太い鎖のような印象を受ける若い女性の声が、断固として言葉を綴り、記憶に幕が下ろされるように光景が消える。変わって弟と過ごした日々が幾つも幾つも浮かんでは消えていく。




 私はファリシャだったっけ。

 そうでなければ誰なのだっけ。







「どうした? どうしたんだ?」


 揺すられて目を開ける。目の前に、琥珀色の目をした青年がいる。

 彼は――


「なんでこんなに泣いてる? レーシア? 大丈夫か?」


 レーシア。

 そうだ、私はレーシアだ。彼はアトルだ。


「う――」


 呻きながらレーシアが頭を押さえると、アトルが慌てて彼女を支えた。


「ロジアン――」


 夢現で呟いたのはその名前だった。


「あの子はどうなったんだろう――」


「レーシア……?」


 一瞬絶句したアトルだったが、すぐに言った。


「しっかりしろって。おまえはレーシアだろ? サラリスって人に会いに行くんだろ?」


 サラリス。

 銀色の髪の、優しい緑色の目をした、自分が知る限り最も美しい、傍に寄るといい匂いのする女性。

 サラリス。


「うん」


 そうだ、自分はレーシアだ。サラリスに、大好きなサラリスに会いに行くのだ。


 レーシアがようやくしっかりと顔を上げると、きょとんとこちらを見詰めるケヴィンと目が合った。反射的に視線を逸らすと、ケヴィンは驚いたような声で言った。


「おっどろいたなぁ――。なんで〈糸〉を繋いだりしたんだ」


 空気が凍った。


 アトルは思わずレーシアの手を握り込んだ。


「――おい」


 低い声が出た。


「なんでそうだと分かる」


 アジャットは、レーシアが〈糸〉を繋げばどうなるかを知らなかった。だからレーシアとの取引に応じた。

 ならばなぜ、同じ組織に属するはずのこの青年がレーシアの今の状態の原因を看破できる?


「ケヴィン――?」


 ミルティアが首を傾げた。


「え? そんなの勘――」


「ケヴィン」


 アジャットが初めて聞くような厳しい声を出した。


「きみは先程、言ったぞ。アルファーナ高原に何があったのか、と。つまりきみはそれを知らない態で話していたんだ」


「ただの推測だ」

 イヴァンが話に静かに割り込んだ。

「ルーヴェルド様の話から、ある程度の予想を立てていたというだけのこと」


「有り得ない」


 アジャットが断言した。


「ミラレークスの中では、我々が最も宝具について研究していた」


 一瞬、馬車内が完璧な沈黙に覆われた。そして、イヴァンが深く溜息を吐く。


「能無しが。貴様の軽い口を閉じておけと、何度言えば分かるんだ」


 ミルティアが珍しいくらいに目を見開いてケヴィンを見た。ケヴィンは彼女と目を合わせ、肩を竦めた。


「あはは……。ごっめん、ばれちまったな」


「なん……っ!」


「守れ!」


 呆然としたミルティアの声と、アジャットの怒鳴り声が重なった。アトルが自分とレーシアを囲う形で防壁を展開させる。瞬間、イヴァンの右腕の一振りで馬車内に突風が巻き起こった。

 ばたばたとアジャットの外套がはためき、本が宙に舞う。


「悪い、アジャットどの」


 イヴァンが言って、レーシアをひたりと見据えた。


「彼女は連れて行かせてもらう」


「――させるかってぇの! ケヴィン、なんで!」


 ミルティアが体勢を整えながら叫び、ケヴィンは困ったように――本当に、悪意など一かけらもなく苦笑した。


「んー、ミラレークスって給料安いからさ」


「な……っ」


「俺さ、ほら、実家に金送ってやらなきゃいけねえわけよ」


 じりじりと音がする。ケヴィンの周囲の空気が熱せられて、風に煽られて彼の傍に落ちた本の端が焦げていっている。


「ど――どうなってるの?」


 レーシアが混乱した様子で視線を揺らし、アトルが簡単に説明した。


「あそこの、今本を焼いてる人がミルティアの同輩で、なおかつあの人とその連れがミラレークスを裏切ってたらしい、ってとこだな」


 ケヴィンとイヴァンが目を見交わし、一瞬後、ケヴィンの発する熱波が膨れ上がってミルティアとアジャットを襲った。

 二人ともがすかさず氷を呼び出す魔術で対抗するが、その隙にイヴァンがアトルの防壁に向けて魔術を撃ち込んでいた。


「アトル青年!」


 ぎん、と鼓膜を震わせる硬質な音が響いた。高等指定魔術師の与える打撃に、アトルの張る防壁が長くもつとは考えられない。

 アジャットとミルティアが援護に回ろうとしたが、ケヴィンが次々に魔術を撃ち出してそれを許さない。


「リーゼガルト! グラッドさん!」


 耳元で揺れる柘榴石に込められた魔力を使って通信魔術を使い、アトルが叫んだ。


「戻って来てくれ! 襲われてる!」


 分かった、すぐ戻る、というリーゼガルトの声が耳元で聞こえた。


 がぃん、と、先程よりも強烈な音がして防壁に亀裂が入った。イヴァンが念動系の魔術を剣の切先のように尖らせて、何度も何度もその亀裂に突き刺す。

 ケヴィンは主にアジャットに向けて白熱した光の槍を放ち続けた。アジャットはそれら全てを凍てつく魔術で相殺しているものの、狭い馬車の中ということもあり、巻き添えを恐れて威力を抑えている。ケヴィンはミルティアの足止めも忘れてはおらず、そちらにも灼熱の衝撃波を送り続けていた。

 馬車の中の気温が上がり始め、四人の額に汗が浮かび始めた。ミルティアが熱を相殺し切れていないのだ。


「ミルティア――大丈夫か……っ」


 アトルの張った防壁は熱も遮断するが、亀裂から徐々に熱気が侵入してきた。


「暑い……」


 レーシアが呟いた。


「レーシア?」


 アトルがぎょっとしてレーシアを見た。今の口調に不穏なものを感じたのだ。


「レーシ――」


「帰りたい……」


 レーシアがぼそりと呟いた。

 また記憶が混乱してきている。アトルは焦ってレーシアの肩を揺らした。


「レーシア、おまえはレーシアだ! 分かるな、レーシアだ!」


 レーシアの呼吸が早くなっている。彼女は震える掌で顔を覆うと、固く目を閉じた。


「帰りたいの……。ずっとあそこに帰りたかった……」


「レーシア!」


 がん! がん! と音がして、亀裂が徐々に大きくなっている。熱気が防壁内に充満して、レーシアはふと顔を上げた。


「ここ――」


 レーシアとアトルの目が合った。

 薄青い大きな目に映る自分の顔を、アトルは見た。その目に不意に涙の膜が浮かんで、その雫が睫に溜まった。


「ここ、どこ?」


 レーシアが言った。


「あなた、誰?」


 アトルの息が止まった。

 レーシアが瞬きして、涙がすっと頬に滑った。


「ロジアンに謝らないと」


 アトルは震える指先でレーシアの頬に触れ、その雫を拭った。それすらも意に介さず、レーシアが戦闘中の三人の魔術師と、こちらに攻撃を仕掛ける一人の魔術師を見る。


「――あの人たち、誰?」


 防壁が軋み、揺らぐ。レーシアはふらふらと立ち上がった。


「暑い――ここ、森の近くなの?」


「レーシア――」


「戻ってロジアンに謝らないと――」


 傷だらけの防壁に、レーシアが両手を突いた。


「離れろレーシア! 怪我するぞ!」


 アトルがレーシアをそこから引き剥がす。レーシアはまた早くなる呼吸の中で、アトルを見上げた。


「レーシア……」

「そうだ、おまえは――」

「アト、ル……」


 レーシアが絞り出すように呟いて、またぎゅっと目を閉じた。

 ミルティアが熱波に押されて壁に叩き付けられ、その鈍い音と同時にレーシアが目を開けた。

 よろめくようにまた防壁に近付き、そこに両手を突く。項垂れて深く息を吐き、――きっと顔を上げた。



大刀(たち)手上(たがみ)()()()け 緒に赤幡(あかはた)(かざ)

 赤幡立てて見ゆればい隠る山の峰

 けざやかに奔る風の色

 今し悔やむは帰らむを 留みかねける()のことか

 (あか)れてとどろに轟めく

 懸想(けさう)ず心地の憂かれかりけれ」



 何も起きない、起きるはずはない。これは恐らく、レーシアの記憶を圧迫している記憶――恐らくはあの封具と以前に〈糸〉を繋いでいた〈器〉の記憶にある歌だ。


「レーシア……」


「なんで……っ」


 レーシアが呻き、防壁に額を付けた。


「レーシア、怪我する――」


「たちの、たがみに――」


「レーシア!」


 アトルが怒鳴ってレーシアを防壁から引き剥がした。同時に自分たちを包む一回り小さな防壁を展開する。同瞬、亀裂の入った防壁が粉砕された。


「なんで――」


 レーシアが半泣きで呟いたが、アトルは厳しい声を出した。


「おまえはレーシアなんだよ。だからだよ!」


 アトルの防壁では突破されてしまう。


「さっさと戻って来いよあの二人!」


 八つ当たり気味に叫びながら、アトルは咄嗟に元素系の魔術を発動させた。イヴァンの目の前で閃光を炸裂させ、彼の視界が効かなくなった間にレーシアともども彼から距離を取る。

 だが、元々奥にいたことが災いして馬車から出られない。馬車の壁を破ることも考えたものの、この馬車が特別製であることを思い出し、控えた。失敗して無駄に魔力を使う余裕はない。


「レーシア、大丈夫か!?」


 彼女を庇って前に出ながら訊けば、レーシアは混乱そのものの顔をしていた。


「私……私は――」


「俺はアトルだ。おまえはレーシアだ! それだけはちゃんと覚えとけ!」


 ひゅんッと音がして、アトルの耳元を衝撃波が駆け抜けた。勢い余って寝台を大破させたその衝撃波を放ったイヴァンに、アトルは壮絶な目を向けた。


「いい加減鬱陶しいぞ!」


「こちらの科白だ。彼女を引き渡せ!」


「黙れ! どうせおまえらは、レーシアのことなんて考えてもいないんだろうが!」


 滅多にない程に腹が立っていた。蟀谷がどくどくと脈打つのが分かる。


「どいつもこいつもレーシアのことを兵器扱いしやがって! そんな奴らにこいつを連れて行かせてたまるか!」


 かつてないほどの速さで魔術を起動する。元素系魔術を立て続けに撃ち、その勢いに高等指定魔術師であるイヴァンが後退った。

 火を放ち、風でそれを煽り、後退ったイヴァンの足元を土で固めてまたそれを解除する。イヴァンはそれら一つ一つを相殺し、弾き、封じ込めていく。

 効率のいい魔力の使い方のコツを会得していないため、すぐにアトルの息は上がったが、それを見るイヴァンの眼差しは、やや特異なものを見る目に変わっていた。


「おまえ――」


 アトルは息を整えながら、もう一つの術式を練り上げる。

 イヴァンを睨み付け、その術式を彼の中に投げ込む意識で全力で発動させた。残り少ない魔力が一気に消費され、眩暈さえ覚える。失敗すれば後はないが、アトルは迷うことなく叫んだ。


「突っ込めイヴァン!」


 術式は精神系。効果は反感を封じること。

 教わった術式の中には無いものだが、それらを組み合わせることで、恐らく成功するだろうという形を整えることが出来たのだ。幻覚を見せる術式は視覚を騙すが、その対象をずらしたに過ぎない。

 アトル程度の魔術師が精神系の魔術で賭けに出ることが予想外だったのだろう、イヴァンの防御が遅れた。

 ぐるり、と彼の身体が回転する。非常に鈍い動きではあったが――それでも、イヴァンは背後で繰り広げられている魔術戦に飛び込んだ。


「イヴァン!?」


 ケヴィンの焦った声が馬車の中に響くのを尻目に、アトルはレーシアの手を取って全力で馬車の中を突っ切った。


「待て――」


 誰かの制止が掛かったが、止まらない。喘ぎながら馬車の扉に取り付き、開け放ち、外に飛び出す。足が縺れて段差を踏み損ね、大きく体勢を崩して地面に倒れ込んだ。そんな中で同じく倒れたレーシアの下敷きになったのは、最早これは意地である。

 魔術で熱された馬車の中とは違い、外の空気は清涼に澄んでいる。その空気を肺いっぱいに吸い込んで、アトルは自分の上に倒れ込んだレーシアを覗き込んだ。


「――大丈夫か?」


「う……」


「痛い所は? 怪我してないか?」


 矢継ぎ早に訊きながらももがくように身体を起こし、レーシアを支えながら自分も立ち上がった。馬車から後退る。レーシアを自分の背後に押し遣ると、レーシアはまた泣き出していた。


「サラリス……」


 馬車の中からケヴィンが飛び出して来た。憤怒の形相である。


「てんめえ――イヴァンに何しやがった!」


「アトル! ――と、ケヴィン!? なんでここに!?」


 そのとき、リーゼガルトの声が響いた。

 アトルは思わず安堵の息を漏らしたが、そうは問屋が卸さなかった。ケヴィンが大声で言っていた。


「リーゼガルト! そいつ、ミラレークスに喧嘩売りやがった!」


「なっ!?」


 アトルは絶句し、慌ててリーゼガルトを見て首を振った。


「そんなわけねえだろ!」


 リーゼガルトとグラッドは、咄嗟のことで状況が把握できないらしく、しばし棒立ちになっていた。


「襲われてるっておまえ、言ったよな? けど――」


「こいつらに襲われてるんだよ! こいつと、あと中にいるイヴァンって奴!」


 アトルが叫び、リーゼガルトとグラッドが信じられないという顔をした。


「こいつはミラレークスの指定魔術師だぞ? おいアトル――まさか――」


 信用されなかった、そのことをアトルが悟ると同時、馬車の中からアジャットが飛び出して来た。


「リーゼガルト、違う! 彼らは――」



「あああああ――――っ!」


 レーシアが絶叫した。全員が息を呑み、レーシアを見る。アトルは特にレーシアの手を掴み、屈んでその顔を覗き込んだ。


「レーシア? レーシア!」


「もういやだ……」


 レーシアが泣きながら囁いた。アトルの手から自分の手を引き抜き、両手で顔を覆う。


「こわいよ……つらいよ……サラリス……サラリス、どこなの……」


 ぼろぼろと涙を零しながら、レーシアが頭を掻き毟った。


「サラリス、サラリス、サラリス、サラリス……」


 そのまま蹲り、レーシアが地面を拳で叩く。


「こわいよ……さみしい……私が、どんどん私じゃなくなっていくの……サラリス……」


 地面に落ちている小石で彼女の手が傷付くことを防ぐため、アトルがレーシアの手を取ったが、レーシアはそれを振り払い、頭を抱えてますます小さくなった。


「なんでほっといてくれないの……助けて――助けて!」


 爆ぜるような音が轟き、辺りに稲光が何本も突き刺さった。


 アトルたちがはっと顔を上げ、空を仰ぐ。


 そこでは、数十人にも及ぶトニトルスが並び立ち、槍を掲げあるいは牙を剥き出し、敵意を露わにして下界を睨み付けていた。





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