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07 迷子二人と歌の導き

「ここはどこ……」


 レーシアは呆然として呟いた。


 人気のない脇道、両脇は民家の壁と裏口、その傍に積み上げられた木箱の類で埋められている。

 あそこにいる誰にも与さないことを決め、とにかく闇雲に走ったため、現在地が全く分からない。

 走ったせいで息が上がり、体温が上昇したせいで暑く感じる。今掛かっている追手は皆自分の顔を知っており、意味もないだろうということで、鬱陶しくなった帽子を脱ぎ、髪を下ろした。緩い癖のある髪がふわりと風に揺れる。それからもう一度、帽子を被り直した。

 溜息を零す。先程よりも町の中心に近い所にいるのかどうかさえ分からない。


「つまりは迷子……」


 自分で迷子になるくらい脈絡なく走ったのだから、まず間違いなくあの六人は撒けただろうが、他はどうか。

 リリファとグラッド、リーゼガルト。知っているだけでもこれだけの人間に捕まってはいけない。


「……アトル……」


 宝具と封具のことを殆ど知らない彼にならば見つかってもいい――というより、誰かしらを頼らなければ日々の食糧さえ確保できない状況だ。

 うぅんと唸り、口元に手を宛がう。意味もなく視線を泳がせたところで、レーシアは木箱の影で泣いている人影に気が付いた。


 小さな、五、六歳の男の子である。衣服は清潔で、町中でもよく見掛けるものなので浮浪児ということはないだろう。恐らくは混乱の中で迷子になったのだと思われた。

 レーシアはそっと視線を外す。自分の面倒すら見切れないこの状況、一緒にいれば間違いなく彼にも被害が及ぶと思ったのが半分、残りは関わり合いになりたくないという、都合の悪いものは見なかったことにするあの心理が働いたせいである。


 めそめそと泣く男の子から視線を外したまま、レーシアは考える。


 人影が無い。ということは戦闘が起こっていた場所の近くなのだろう。人々が避難しているわけだ。

 迷子がいる。ということは、保護者から逸れたあの小さな男の子でも歩けるだけの距離に戦闘が起こっていた場所がある。


 人差し指で顎を叩く。

 ぐるっと回って最初にいた場所付近に戻って来たのだろうか。ならば、一旦馬車に戻る方向で進めば町を出られる。

 だが城門付近には追手がいるかも知れない――。


「……ちゃん」


 リーゼガルトだ。ミルティアと一緒にいたはずの彼を見ていない。ということは彼はミルティアとは別行動。城門付近を見張っている可能性も十分にある――。


「お姉ちゃん」

「ひゃあっ!」


 沈思黙考していたレーシアは男の子の接近に気付かず、みっともなくも叫ぶ羽目に相成った。


「わ、わ、わ――」


 胸を押さえて動悸が収まるのを待っていると、男の子が目に涙を浮かべながらも話し掛けてきた。


「ここが、どこだか、分からないの」

「そ、そ、そう」


 レーシアはこくこくと頷く。


「お姉ちゃん、僕の家分かる?」


 涙を溜めた群青色の目に見上げられ、レーシアはたじろいだ。


「え、ええっと、分かん、ないかなあ……?」


 男の子は憐れみを籠めてレーシアを見た。


「お姉ちゃんも、迷子?」

「違う違う」


 ほぼ反射でレーシアは言った。


「私には、行くところがあってね」


「僕も行く」


 幼いながらも毅然とした声に、レーシアは固まった。


「え、ええっと?」


 うぇえ、と声を漏らし始めた男の子が、しゃくり上げながらレーシアのワンピースに縋り付いた。


「寂、しいよぉ」


 レーシアは瞬きを繰り返し、現状の把握に努めようとしたが、男の子の泣き声はレーシアのどこか深い所に共感をもたらしてしまった。


「おか、あさんが、いないんだよぉ」


「う――」


 レーシアは呻き、迷った末に男の子の頭をぽんぽんと叩いた。


「さ、捜す?」


 語尾を上げたその言葉に、男の子はぱっと顔を上げた。


「い、一緒、に?」


 涙でぐちゃぐちゃになったその顔を見て、レーシアは溜息を零した。よしよしと頭を撫でてやりながら呟く。


「うん、一緒に。捜そうかぁ――」


 言いながら、無性に切なくなった。

 どうやら人は、自分で言った言葉を誰かに言ってもらいたいと思うことがあるらしい。





 何とか泣き止んだ男の子はライルと名乗った。

 レーシアは取り敢えず彼と手を繋ぎ、追手を警戒しながらも彼の母親捜しを始めていた。


「お母さんを、どこで最後に見たの?」


 ライルは途方に暮れた顔をした。


「分かんないや……。いきなりね、すごい音がしたでしょう? それでお母さんが、逃げるよって――」


 レーシアは肩を竦めた。自分を追い掛ける者たちが巻き起こした迷惑の大きさを考えてのことである。


「そっか……」


 ライルも自分の家の方向を完全に見失っているらしいので、分岐路に出る度に「どっちの道に見覚えがある?」と訊き、ゆっくりと進むようにしていた。


 リーゼガルトやリリファが飛び出して来たりはしないかと、レーシアが余りにもきょろきょろと辺りを窺っているので、ライルは無邪気に尋ねた。


「お姉ちゃん、ほんとは迷子なの?」


 レーシアは冷や汗を掻き、無意味に虚勢を張った。


「そ、そんなことないわ」


 ちょうど良く分かれ道に出たので、レーシアは右手の道と左手の道をそれぞれ指し示した。


「どっち?」

「ん……」


 ライルは真剣な顔で両方の道を見比べた後、覚束ない仕草で左の道を示した。


「あっちの、あそこの――ロイおじちゃんのお店に見える……」


「じゃあ近寄って確かめましょう」


 レーシアは言い、ライルと歩調を合わせてそちらに歩き出した。アトルに散々足が遅いだ何だと思われているレーシアではあるが、さすがに六歳児に負けるほどではない。


 ライルが示した店は、小さな洒落た店で、窓硝子が悉く砕け、店内に散らばっていた。縁に尖った硝子の破片が残る窓から中を覗き込んだライルは、確信を籠めて頷く。


「うん、ロイおじちゃんの店じゃないや!」

「えっ違うの!?」


 レーシアは思わず声を漏らした。


 既に午後も遅く、もう一、二時間もすれば日暮れだろう。それほどに長い間、レーシアはこの町を走り回っていたということだ。

 そして暗くなる前にこの子の母親を捜さなければ、恐らく捜索は明日に持ち越しになる。


「ちょっと待って、じゃあこの通りに見覚えはないの?」


「うー」


 ライルは辺りを見回し、こくりと頷く。


「うん」


 レーシアは思わずよろよろと数歩下がった。だがすぐに気を持ち直し、ライルの手を引く。


「じゃ、じゃあさっきの所まで戻りましょう。もう片方の通りに行こう?」

「うんっ」


 レーシアが一緒に捜してくれることがそれほど嬉しいのか、ライルは頷いて歩き出した。

 ライルも母親と逸れてから、彼女を捜して歩き回っただろうに、疲れを訴えない。それだけ母親の教育がいいということなのか、単に彼が辛抱強いということなのかは分からないが。


 先程選ばなかったもう片方の通りに出てしばらく、一軒の店の前で、ライルがこれぞロイおじちゃんの店であると断言した。

 レーシアはふむと頷き、ロイおじちゃんの店から家へはどう帰るのかと尋ねた。


「…………」


 返答がなかったため、レーシアは声を大きくしてもう一度尋ねた。


「どうやって、家に帰るの?」


「……分かんない……」


 ライルが呟き、レーシアがぎょっとして目を見開くと、たちまちのうちに潤んだ目でレーシアを見上げ、必死の形相で言い募った。


「お姉ちゃん待って! だいじょう、っぶ、ちゃんと、思い出すからぁ……、ふぇ……」


 必死の形相が崩れ、ライルはまたしてもめそめそと泣きべそを掻き始めた。


「あああぅ」


 レーシアも狼狽の余り呻いてから、しばし瞑目し、吟遊詩人たちと一緒にいたときのことを思い出した。


 妻と子と一緒にいた、あの若い吟遊詩人。子供がぐずったときにはどうしていた?


 ――レーシアは目を開き、えぐえぐと泣くライルの頭にぽんと手を置き、言った。


「そ、そんなに泣いちゃ駄目だって! お、男の子でしょ!」


 ひっく、としゃくり上げたライルは、涙に濡れた目でレーシアを見上げる。


「お、男の子……」


 レーシアが息を詰めて見守ること数秒、彼はレーシアと繋いでいない方の手でぐいと顔を拭い、拳を作った。


「う、うんっ。僕男の子だから、大丈夫っ!」


「その意気っ」


 レーシアも安堵して笑い、ライルの不確かな記憶を辿り始めた。

 この店に入るとき、どっちから入ってた? こっちの方向から歩いてきたの? じゃあその前はどの辺を歩くの? 見覚えがある所は?

 ライルはうんうんと頭を捻って思い出そうとしているが、如何せん頼りない。


 レーシアは空を仰いだ。もうすぐ日が暮れる。


「ねえ、ライル」


 レーシアが呼び掛けると、ライルはこてんと首を傾げてレーシアを見上げた。


「なにー、お姉ちゃん」


「これはちょっと諦めた方がいいかも知れない」


 考えなしに口走ったその言葉に、ライルは目を見開き、怯えたように訊く。


「――な、なんで……?」


「もうすぐ日が落ちるわ」


 レーシアは西を見ながら呟いた。彼らが今いる通りは西に向かって伸びており、西日を、鐘塔の一つを除いてほぼ遮るものなく望むことが出来た。

 鐘塔は近く、こちらに向けて影を落としている。通りの半ばと、枝分かれする脇道がその影に覆われていた。

 レーシアは斜陽を浴びる位置に立っており、紺色の髪が橙色の陽光に透けて艶やかに靡く様はいっそ神秘的ですらあった。


「日が落ちたら、この辺りはきっと真っ暗になると思うの。そうなる前に、人を捜すべきだわ」


「でも、家……」


 ライルは駄々をこねる気配を見せたが、レーシアが見下ろすと口を噤んだ。


「う――うん」


 頷いた彼が余りにも切なげだったので、レーシアもさすがに気の毒になった。握った手を擦ったりと色々したものの、効果はない。


「ど、どっちに行こうか」


「……うん……」


「あの鐘のところ――えっと、鐘塔だっけ、あそこに行ってみる?」


「……うん……」


 生返事ばかりで俯くライルに、レーシアはおろおろと視線を泳がせる。


 てくてく歩くライルは生気を失った目で前を見ており、レーシアは思わずその目の前で「おーい生きてるかーい」と手を振りたくなった。さすがの彼女もそこまではしなかったが、それくらいの見事な意気消沈振りだ。


 仕方がないので、レーシアは吟遊詩人たちに「レーシアちゃんはサラリスさんのオマケみたいにくっ付いてるばっかりだけど、歌だけはサラリスさんよか上手だなあ」と言われた歌を詠うことにした。

 何の気は無い、サラリスが「歌には人を元気にする力があるらしい」と言っていたからだ(ただしそのとき、サラリスは歌の内容に言及するのを忘れていた)。

 ちなみに、上記の科白を吐いた吟遊詩人に対し、サラリスは二度と口を利かなかった。曰く「レーシアがオマケ? なんて失礼なの」。


 だがあの言葉は事実だったとレーシアは思っている。レーシアとしてはサラリスの付属品と言われても嬉しいばかりだったし、歌だけはサラリスよりもうまいと自負している。


 サラリスが宝具や封具との結びつきを強めるために、いわば作業として歌を詠うことをしたのとは対照的に、レーシアは歌う行為そのものが好きだった。


 サラリスが手放しで褒めてくれたことの一つが、歌うことだった。だからあのとき、アジャットたちに歌を褒められて、一曲歌うことを申し出たのだ。



「天地星空我を見給へ

 いとほしげなる声聞こし召せ」


 レーシアの歌はすごいわねえ、と笑うサラリスの顔を覚えている。


「風吹き頭戦そよがせる 賜物の海も見えなふて

 山川峰谷我を笑ふて

 その声我が背の御許まで 流れ流れて伝わるやう

 峰吹き渡る風に乞へ」


 ライルが驚いたようにレーシアを見上げた。


 レーシアの歌声が伸びやかに広がり、夕暮れの空気に溶けていく。きららかな空気をもたらすような声が、戦闘の痕の濃い町を癒すように流れる。


「其が僅かでも我が背子の 伽を仕う奉るやう

 我をいとほしがりたまへ

 苔の生すまでこの想ひ 覚悟し置いて 願はくは

 我が玉の緒の絶えたるが いにしへのこととなるとても

 思し置き給へ我が想ひ

 うつくしき汝背なせみこと



 歌い終わると、ライルが目を丸くして口元を綻ばせた。


「す――すっごいね、お姉ちゃん!」


 褒められて悪い気はしないレーシアは、ふふ、そうでしょうと笑いながら言おうとして――固まった。

 はっとして足を止める。


 ――なんだろう今、背筋が凍ったような……?


 彼女が辺りを見回そうとするのと、前方の細い分かれ道から人影が出てくるのが同時だった。


「――――!」


 レーシアは根が生えたようにその場に突っ立った。


 亜麻色の髪に琥珀色の目の――。


 まさかまさかと目を凝らす彼女の視線の先、現われたアトルは不機嫌な顔を隠そうともせず、レーシアの前に立つと眉間に皺を寄せて怒鳴りつけた。


「こんな所にいやがったのか! どんだけ捜したと思ってんだ、この馬鹿!」


「あ……」


 怒鳴られて、レーシアは思わず息を吸いこんだ。

 抑えようにも胸に溢れる感情が大き過ぎる。百年後のこの時代初めての、――いやむしろ、生涯初めての、たった一人の逃走劇だったのだ。

 自分で思う以上に不安で怖かったのかも知れず、またそれが、信頼できる人物の顔を見て一気に堪え切れなくなったのかも知れない。


「アトル――――っ!」


 レーシアは叫び、ライルの手を離してアトルに駆け寄り、抱き付いた。突然のことに目が点になったアトルは、それでもしっかりとレーシアを抱き留めたものの、思い切り懐疑的な口調になった。


「てめえ、よくも調子よくそんな……」


 レーシアは聞いていなかった。ぎゅうとアトルに抱き付いて、彼の名前を連呼する。

「怖かったよぉ」などと言われようものならわざとらしいと思うアトルも、こうも素直な反応を見ると邪険にもし難い。

 そもそも、美少女にここまで懐かれて嫌がるようなら男ではない。あるいはその美少女の性格に多大な問題点があるかだ。

 捜し回って疲れたこともあり、最低十分は文句を言い続けてやろうとしていたアトルではあったが、自分の胸に額を当てて「アトル、アトルー」と呼び続けるレーシアを見て、容赦する方向へと意思変更しつつあった。


「え、あー、レーシア。おまえなんでこんなとこに――」


「アトル! アトル!」


「いいから聞けって。俺がアトルだってことは知ってるよ。――なんでこんなとこにいるんだよ?」


 両肩をぐいと掴んで引き離してやれば、レーシアの、いつも通りの満面の笑み。


「え? ああ、アジャットたちから逃げて来て、ずっと走ってるうちにライルに――あ、この子ね、この子に会ったの。それで、ライルのお母さんを捜してたの」


「アジャットたちからまで逃げたのかよ……」


 アトルは呻き、ライルに視線を移した。ライルは目を見開きっ放しでアトルとレーシアを見ている。

 レーシアは首を傾げた。


「でもアトル。よく私が見付けられたわね、こんなに広いのに」


 アトルは肩を竦めた。


「えげつない破壊音が聞こえた方に来たんだよ。さっきまであっちの通りにいたんだが、おまえの――おまえの歌が聞こえたから」


「私の?」


 レーシアはにっこりした。


「役に立ったのね、私の歌」


 はあ、と溜息を吐いたアトルは、レーシアの顔を覗き込んだ。


「あのな、レーシア」


「うん?」


 可愛らしくレーシアが小首を傾げる。髪を下ろして帽子を被った方が似合ってるなーこのワンピースもつくづく似合ってるよなー可愛いなー――じゃなくて。


 アトルは頭を振って気を取り直し、言った。


「今回はたまたま再会できたからいいけどな、今度はどうだか分からねえんだぞ」


 レーシアの眉が下がる。


「そもそもだ、アルファーナ高原に一緒に行こうって言ったのはおまえだろ? 俺をここまで巻き込んでおいて、振り向きもせずに他の野郎に付いて行くたぁどういう根性だ」


「う……」


「サラリスって人に会いたいのは分かるけどな、おまえのその願い事も利用されかねねえと気付け」


「……はい」


 アトルは半眼になった。


「で? これからてめえはどうすんだ」


 レーシアは捨てられた子犬のような顔をした。


「――一人だとごはんもないの」

「そうだろーな」

「アルファーナ高原がどっちにあるのかも、いまいち分からないの」

「おうおう」

「誰かに付いて行かないと、サラリスに会う前に死んじゃうと思うの」

「ほお」

「でも信用できる人がいなくて……」


 アトルは内心でどきりとした。

 信用できる人がいないと断言したレーシアに、確かに傷つく彼がいた。そんなアトルの心情も知らぬげに、レーシアは姿勢正しく丁寧に頭を下げた。


「とにかく一緒にいてください」


 そろりと顔を上げてアトルを窺う。


「アトル以外の人と一緒にいると大変な目に遭うみたいでして……」


 はあ、と息を漏らし、アトルはレーシアと視線を合わせた。


「――信じていいな?」


 こくん、とレーシアが頷く。アトルはようやく表情を緩めた。


「ならいいぜ」


 顔を輝かせるレーシアに、アトルは殊更にゆっくりと言う。


「俺はおまえの価値を知らない。だから絶対に利用したりしない。おまえがサラリスって人に会うために出来ることならやってやる。だから二度と――」


 レーシアに背を向けられたときの、心臓に穴が空くようなあの心地を思い出した。


「二度と、おまえを利用する奴らの所になんか行くな」


 レーシアは首を傾げ、少しの間考え込んだ。それから曖昧に頷いた。


「うん。――私を利用しようとしてるって、分かればいいんだけれど」


 アトルは思わず笑ってしまった。笑いながらレーシアの頭を撫でる。


「ああ」


 レーシアが帽子の被害を気にするようにそれを脱いだので、アトルの掌がレーシアの頭に直に触れた。


「ああ、そうだな」






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