06 逃走開始と親しげな敵
高く澄んだ音が長く尾を引き、絶叫の後の静寂の中に傷を刻んだ。
「はぁぁあ、間に合ったぁ――」
深く息を吐き、会心の笑みを浮かべるのは、齢十六の小麦色の髪の少女。
その鳶色の目が、心からの安堵を宿して、尻餅を突くように転んだレーシアを見る。
「良かったわぁ、無事でー。怪我無ぁい? あ、打ち身とかはぁ、無しってことでぇ」
彼女の右手に凝った、白熱した魔力の塊が、槍の男が突き出した穂先を捉え、一度は刃物のような固さでそれを弾いた後、捉え直して高熱で溶かしつつあった。
じゅう、と音がして、熱されて鈍く輝く鋼の滴が地面に垂れ、赤い輝きを急速に失せさせながら固まった。
レーシアはその滴と、槍の男と、ミルティアを代わる代わる順に見ながら、ぽかんとした顔を晒した。
「えっと……」
何か言わなければと思い、取り敢えずレーシアはぺこりと頭を下げる。
「ありがとう、ミルティア」
ミルティアはにこにこと笑う。
その牧歌的な表情の裏では槍の穂先を溶かし続け、熱は柄にまでも至っているのだが、表情からそんなことは分からないだろう。
「追い掛け回されてたのー? 可哀そぉう、怖かったぁ?」
「え……っと」
レーシアは視線を逸らす。自身の至上命題のためとはいえ、ミルティアたちを見限ったことに対し、何の罪悪感もないかと言えばそうではないのだ。
「離れろ小娘!」
男の宝士が怒声を上げた。彼もまた、槍の男の暴挙に硬直していた一人である。
「あァ? 小娘ぇ? 誰がよ」
ミルティアが眉を吊り上げた。
「気を付けろ、ミルティア!」
アジャットが叫んだ。彼女としても、ミルティアが絶妙な間合いで駆けつけたことへの疑問や安堵はあれど、それに浸っている暇はないのだ。
「その男は宝士だ!」
「宝士ぃ? ってことはぁ、宝国もぉやっぱりレーシアを狙ってるってぇわけね」
ミルティアはうんうんと頷く。彼女が戦闘態勢に入るのを見て、レーシアは慌てて立ち上がり、制止した。
「待って、待ってミルティア」
「なぁにー?」
「敵じゃない、この人はきっとサラリスの居場所を知ってる。だから害を加えないで」
は? と言わんばかりの顔でミルティアに見返されたため、レーシアは顔の前で両手を組み合わせ、付け加えた。
「お願い」
「『お願い』ではないレーシアさん」
アジャットが真面目に言った。
「彼は我々の敵だぞ」
「じゃあなんなの、あなたたちは私をサラリスのところに連れて行ってくれるの?」
レーシアが珍しく、激しい語気でアジャットを問い詰めた。勢いそのままに、動きを封じられている槍の男から距離を置くようにしてアジャットたちの方へと詰め寄る。
「誰でもいいの! 誰でもいいから私をサラリスに会わせてよ!」
その場の全員が押し黙る中、ディーンは宝士を名乗る二人の反応に表情を険しくしていた。
レーシアに丁寧な口を利く彼らは、当代の二人の〈器〉と同時に接触していた勢力に属する者たちのはずだ。
それならば――彼女らに忠誠を尽くしていた、あるいは彼女らを少しでも敬っていたのならば、レーシアに庇われて、「嬉しい」あるいは「感激だ」、少なくとも「有り難い」という反応を示さないのはおかしい。
だが、二人の宝士はあくまでも敵に対しては厳しい顔を、それ以外では淡々とした表情を崩していない。
半信半疑ではあったが、リリファから聞かされたことは事実らしい。
宝国は〈器〉を必要としているが、「レーシア」を必要としている訳ではない。
――レーシアさんとサラリスさんじゃ、話が違うってことだよねー。
リリファが冷めた声で言ったことが脳裏に蘇る。
何としてでも宝士たちがレーシアを獲得するのを防がねばならなかった。
「レーシアさん」
ディーンは意を決して声を掛けた。
レーシアの薄青い、大きな目がディーンに向けられる。恐ろしいほどに透明な眼差しに、ただ一つの意思が込められている。
サラリス・エンデリアルザに会うこと。
ディーンは唇を舐め、断言した。
「俺があなたを、サラリス・エンデリアルザの下に連れて行きます」
「嘘を言え!」
女の宝士が罵声を上げた。
「嘘ならば宝具を使っていただいて構わない」
ディーンは間髪入れずに言い切り、レーシアの目を見続けた。レーシアは目を丸くした後、何か思い悩むような顔をする。
「あなたを連れてた……リリファって人……私をサラリスに会わせる気はなさそうだった……」
「レーシアさま、駄目です、信用しては!」
男の宝士が叫んだが、レーシアはそれを一瞥すると、いっそ無邪気に問い掛けた。
「ねえ、あなたはサラリスの居場所を知ってる?」
「……はい」
宝士が頷いた。レーシアは首を傾げる。
「会わせてくれる?」
「それは――」
恐らく男は「それは勿論」と言いたかったのだろう。だが、ディーンが機先を制して言った。
「レーシアさんの宝具のことを忘れていないか? こちらはサラリス・エンデリアルザの居場所を把握しているんだ。ここから二月も掛からない距離だと。それを過ぎてもエンデリアルザに会えなければ、――レーシアさん?」
「宝具を使う」
レーシアが断言した。紛れもない本気だった。
「今なら歌う必要もない。宝具と私は十分近い」
「この女――」
槍の男が、最早柄だけになっている槍を握る手に力を込める。レーシアが滅多に見せないような小馬鹿にした顔でそれを見た。
「私だって危険抱えて宝具の〈糸〉を繋いでるのよ。使おうがどうしようが私の勝手でしょう」
胸に手を当てて。
「サラリスが使わないようにって言ったから、だから私は使わないの。サラリスに会えないなら――それなら、使って何が悪いのよ」
言い切って、レーシアは男の宝士から距離を取る。ディーンは内心で拳を握った。
ディーンにレーシアをサラリスの下へ連れて行く権限はない。そのつもりもない。ただ今、レーシアを手中に出来ればいいのだ。
後は宝具を起動させる隙を与えずに、もう一度眠らせて運べばいい。
宝具の起動の際、宝具を目覚めさせるために歌う必要があればその間があるのだが、今どれほどの短時間で宝具が起動されるのか、それが問題ではあったが、こうなれば賭けだ。
宝国にレーシアの身柄を抑えられる訳にはいかない。
そのように命令されている上、聞いた話が事実ならば自身もそう思う。
時すら停めて眠らせることはさすがに出来ないが、本拠地に運ぶまでの間意識を失わせておくことは出来る。
問題はレーシアが目を覚ました後、彼女が怒り狂って宝具を起動することであり、その危険性があるからこそ、リリファも嘘を吐き通してまでレーシアを連れて行くことはしなかったのである。
そして今、気懸かりなのは、宝士側もレーシアを騙すという手段に踏み切らないかということなのだが――。
ディーンが一歩踏み出して手を差し出した。レーシアが足を踏み出してその手を取ろうとしたが、それがそうそう許されるはずもない。
ミルティアを振り切った槍の男がレーシアの足元に魔術を撃ち込んだ。
振り払われたミルティアが、体格の差もあってたたらを踏む。
念動系と元素系の魔術が立て続けに炸裂する。レーシアがぱっと下がり、ばちばちと音を立てる魔力を纏いながら、凄絶な目で彼を見た。
「もういい加減に――」
「こちらの科白だ!」
槍の男が叫び、更に魔術を撃ち込んでいく。だが彼とて戦い続けてきたのだ。その規模は小さく、レーシアに傷を付けることを良しとしない他の五人が妨害すれば、容易く弾けるものではあった。
だが、ディーン以外の誰も動かない。二人の宝士もアジャットも、ミルティアすらも迷う風ではあったものの、レーシアを庇う動きを見せない。ディーンだけが飛び出して、レーシアを守っている。
レーシアは馬鹿ではない。
精神的に幼い部分はあれど、愚かではない。
なぜディーン以外の誰もが自分を庇わないのか、その理由を考えることも出来る。
「――うん」
レーシアは誰にともなく呟いた。
「私が動き回らなければ、後はあなたたちだけで争えるものね」
彼女が纏う魔力が大きくなってきている。表面上は穏やかに見えようと、彼女はまだ十七歳の少女だ。この状況に、内心が荒れることなど想像に難くない。
レーシアはきつく目を閉じた。
「自分の時代」から百年経ったこの世界は、どうやら随分と優しくないらしい。
分かってはいたが、サラリスのようにしっかりとした考えが無ければ、レーシアは――身の振り方一つ自身で決めてはならない。
――あなたは世界で一番可愛いわ。
サラリスの懐かしい声がする。
――あなたはとても素直な、私の自慢。
サラリスの優しい声が蘇る。
――けれど誰も、あなたのことを理解するほど長く、あなたの傍にはいられないの。
魔力が爆ぜる音が耳元で聞こえる。
「あ……あ……」
ディーンが槍の男に応戦し、周囲がレーシアに目を配りつつもそれを見ている。恐らくは槍の男がレーシアを殺そうとすれば止めるだろうが、レーシアはこのままではディーンに付いて行こうとして動く。
それならばいっそレーシアの動きを停めてしまえば、そもそも最初からそうしていれば、この町での抗争がこれほど長引くこともなかっただろうと、全員が結論したらしい。
――何も知らずにあなたの人柄に触れた人はきっと、あなたを好きになることもあるし、嫌いになることもあると思う。でもね、――
世界で一番大好きな声が記憶の中から聞こえる。
――あなたが〈器〉であることを知った上であなたの人柄に触れた人はきっと、あなたを利用しやすいと思うでしょう。
「あ……」
――あなたがとても可愛い、ただの女の子だと気付いてくれる人は、きっととても少ないと思うの。
「……ああ……」
魔力がせり上がってくる感覚がある。
――だから、誰かを信じる前によーく疑ってみて。出来れば私に相談して。取り返しのつかないようなことは、出来れば起こってほしくないのよ。
レーシアは目を開けた。
目の前で行われている闘争の、その参加者を見て、まるで賭け試合のようだと思った。
全員が全員、宝具と封具のために戦っている。
サラリスに会うためならば、一度や二度は騙されてもいいけれど、――
「さすがにもう嫌だなぁ――」
百年経っても人は変わらず、レーシアよりも宝具と封具を重く見る。
宝具も封具も、彼女の感情の昂りに伴って〈糸〉を通じて近くに感じられるようになっている。今ならば歌うことなく呼び出せるだろう。ディーンに付いて行った結果騙されていたことが判明したならば、宝具を使うと脅したのは嘘ではない。
だが、レーシアとて宝具を呼び出す暇もなく動きを封じられる可能性には思い至る。
「ねえ、その、ディーンって人」
レーシアはやや声を大きくして呼び掛けた。ディーンは戦闘中で、返事をするどころではない。だが確かに声は届いているだろう。
「あなたはサラリスのことを知ってるの?」
魔術による突風に、全員が一、二歩後退る。身に纏いつく魔力のため、害の及ばないレーシアも同じように数歩ずつ下がりながら言葉を続ける。
「どこにいるかじゃなくて、どんな宝具や封具を持っているかじゃなくて、――サラリスがどんな人なのか、知ってるの?」
ディーンは答えるどころではなく、槍の男と拮抗した魔術戦を続けている。レーシアも返事があると期待したわけではなく、自分自身が折り合いをつけるために言葉にしているに過ぎないことだ。
「知らないよね、知る訳がない。――だからやっぱり付いて行けない」
ディーンの身体が強張った。レーシアはじりじりと後退りながら続けた。
「態度をはっきりさせなくて迷惑を掛けたと思う。私がふらふらしてるからみんな怪我をした」
息を吸い込むと、レーシアは言い切った。
「あなたたちみたいな宝具と封具目当ての人を見るのは飽きた。サラリスのことを知っているなら、サラリスが私にどうしてほしいかも分かるはずだもの。そんな人になら付いて行くけど――あなたたちは知らないでしょう」
「レーシア――」
ミルティアが何か言い掛けたが、レーシアにそれを聞く気は無かった。
意思によることなく、ただ感情だけを号令に、彼女の魔力が溢れ、爆発した。
今日二度目の魔力爆発は、同心円状に光の波を広げながら無音で弾け、六人の抗争でさえ僅かに抑え付けて、眩い白光が影すら奪って視界を蹂躙した。
その数秒でレーシアが踵を返し、混乱が続いている町へと逃げ出した。
************
鐘の音は鳴り止んだものの、セルダの町の混乱は続いていた。
レーシアを巡っての戦闘が、一度に一箇所のみで起こるのならばまだ良かったのだろうが、四つの勢力が下手に出遭ってしまったのが良くなかった。
戦闘が数箇所で一気に起こり、何も知らない住人からすれば、盗賊の襲撃のように感じられたことだろう。
物理的な暴力が振るわれるだけならばまだしも、魔術による戦闘の被害の範囲は、物理的な抗争の比ではない。
アトルは今は民家の平屋根の上に立ち、町の混乱から距離を置いていた。
「はあ……」
重い溜息を零す。
「買い出しのはずだったんだけどなあ……」
あのときアジャットが情に絆されず、さっさと馬車に戻ることを選択していれば、と思わざるを得ない。
近頃軽くあしらえる襲撃が続いたからこその油断だろうが、そういった油断をしてしまうところにミラレークスの、戦闘を本業としていない性格が窺えた。
「で、あいつどこだよ――」
今現在、目に付くような戦闘は起こっていない。先程耳にした建物が倒壊する音の発生源を捜そうとしているのだが、高さがそれほどない屋根だ、視界の確保が難しい。
「あっちの方からしたと思うんだけどなぁ――」
独り言ちながら東の方角に顔を向ける。そちらには町の中でも高く聳える鐘塔のうち一つが建っており、午後の太陽の光に長く影を落としている。
とにかくそちらへ向かうべきかと、判断に迷うアトルの後ろから元気な声が投げられた。
「こんな所でなぁーにやってんの?」
聞き覚えのある声に振り返ると、今まさによっこらせとばかりに屋根に登って来たリリファと目が合った。
金色の髪が少々薄汚れ、あちこちに跳ねているものの、大した怪我はしていない。アトルと違って主体的に戦闘に関わっていたはずなのだが、やはり相当の手練れであるようだった。
「よっと」
軽やかな掛け声と共に屋根の上に立ち上がり、背中に背負った大剣を具合のいいように背負い直したリリファは、にっこりと笑顔を向けてくる。
「誰だか知らないけどさ、悪いこと言わないよー。とっとと逃げなよ。町から出るのがお勧めだけど、まー簡単には家捨てられないよねぇ」
「…………」
アトルのことを現地人と勘違いしているらしい。揉めるのも絡まれるのもお断りなので、アトルは黙って頷いて見せた。
「…………?」
だが今度はリリファが首を傾げ、笑顔のままでしげしげとアトルを見てくる。そしていきなりくわっと目を見開き、アトルを指差して叫んだ。
「さっき見た――っ!」
アトルは舌打ちを漏らした。リリファはずんずんと距離を詰めてくる。
「あんたでしょ! レーシアさんに失礼な態度とってたの! 私見てたんだからねっ!」
「あいつが俺に掛けた迷惑を思えばああいう態度は当然なんだよ!」
アトルが言い返すと、リリファはその場で地団太を踏み始めた。
「はぁああっ!? 妬ましいっ、何なの!? 何をどうすればレーシアさんとそんなに仲良くなれるの!」
「妬ましいっておい……」
ぎゃーぎゃーと喚くリリファはその場に引っ繰り返り、二十歳を過ぎているだろう外見とは不釣り合いすぎる、駄々っ子のような態度を取った。
アトルの相手を見る視線が若干生温くなったとして何の不思議があろう。
「あーもうっ! なんであんたみたいなのがっ! レーシアさんもあんたにはほいほい付いて行ってたしーっ!」
「あのなあ……」
アトルはリリファの傍まで寄り、彼女の頭側でしゃがみこんだ。
「あんたも、あれだろ。レーシアが目当てなんじゃなくて宝具とか封具とかが目当てなんだろ」
リリファははんっと鼻を鳴らした。寝転がったままで偉そうに顎を反らしたため、アトルからは彼女の顔が完全に逆さまに見えるようになった。
「そーれーの、何が悪いのよ」
悪いとは言わないが、とアトルが半眼になったところで、リリファがごろんと寝返りを打ち、腹這いの姿勢になった。頬杖を突いてアトルを品定めするように見上げる。
「あんたこそ、何が目当てなわけ? 『宝具とか封具とか』って、言葉の上でも扱いが雑すぎるわ。お目当てはそれじゃないんでしょ?」
「まあなー」
アトルはリリファから視線を外し、遠い目をした。
目当ても何も、最早完全に保護者としての立ち位置になっている気がするのだが。
リリファは純粋に興味を覚えたような顔をした。
「ふうん、じゃあ何? 何が目的?」
「目的って――」
そんな大それたものはない、と言おうとしてアトルは言葉を途切れさせた。目的と言えるものが、彼にもある。
目的と言えるものがあるとすれば、一つだけ。
――絶対にレーシアを、安心できる所へ連れて行く。
だがそれをこの女に言っていいものかどうか迷い、口を閉ざしたのだが、リリファの思考は斜め上へとぶっ飛んだ。
「な――っ、あんたまさか、私みたいな可憐な乙女には言えないようなことでレーシアさんを搾取してるんじゃあないでしょうねっ!」
「可憐な乙女って誰だよここにはいねえぞ。いたとしてそいつに言えねえようなことはしてねえっ!」
アトルが思わず〈インケルタ〉でアリサにしていたような勢いで突っ込むと、リリファはけらけらと笑った。
「あっはは、あんた面白いね。まあいいや、宝具と封具が目当てじゃないんなら後で幾らでも説得のしようはあるし――」
軽業師のような身のこなしで立ち上がると、リリファは右手を差し出してきた。
「改めて。私はリリファ。きみと協力してレーシアさんを捜したいな? ついでにきみの方からレーシアさんに、私たちと一緒に来るように言ってほしいな?」
アトルはその手を取ることはせず、じっとリリファを見た。
「俺が最後にレーシアを見たときにはおまえと一緒にいたんだが?」
リリファはぴくっと頬を引き攣らせると、視線を泳がせた。
「いきなり奇襲されてー。レーシアさんも何を思ったのかそっちに走って行っちゃってー。でまあ、応戦して追っ払ったはいいんだけど、まあお互いに怪我はさせられずって感じでー。追跡しようとしたら見失っちゃって、現在に至るー」
はあっとアトルは溜息を吐いた。
「なんだよそれ。全然駄目じゃねーか」
「だって火傷治すのに魔力使っちゃったんだもん」
リリファは悪びれずに言い、握られない右手をひらひらと振った。
「さっきすごい音がしてたでしょ? その辺にいると思うんだけどな」
アトルと同じ推測を口にし、リリファはにこりとする。
「ねーねーきみ、名前は?」
アトルは肩を竦めたのみで答えない。リリファはむっとしたような顔をした。
「感じ悪っ。なに、何が気に入らないわけ」
「おまえらさ」
アトルは自分よりも僅かに背が低いリリファの顔を覗き込むようにしながら不機嫌に言った。
「レーシアをサラリスって人に会わせる気はねえだろ。もしくは、そんな権限ねえだろ」
半ばは勘だったにも関わらず、リリファは不自然に瞬きを止めた目でアトルを見返し、平坦な声で言った。
「は? なに言ってるの?」
嘘吐くの下手だな、という感想を胸の内に収め、アトルは腹立たしげに言った。
「レーシアは本気でサラリスって人に会いたがってんだぞ。それを嘘のネタにして誘うとか、誰が気に入ることだと思ってやったんだよ」
リリファは白を切ろうかどうか迷ったようだったが、数秒後、堂々と胸を張った。
「エンデリアルザに会えばレーシアさんは不幸になるわよ。穏便に来てもらおうと思っただけよ。何が悪いのよ」
聞き逃せない言葉に、アトルは目を見開いた。
「レーシアが――?」
「あーもう知らなーい何も教えなーい」
腹の立つ調子でリリファは囀り、アトルに向かって舌を出した。
「協力してくれない奴になんて何も言うことはないわ。じゃーね、アトル」
なんで俺の名前を――と訊き掛け、アトルは思い出した。アジャットが彼女の目の前でアトルの名前を呼んでいる。
リリファは東の方角に向けて屋根を軽やかに飛び跳ねながら走り、そのまま次の屋根へと飛び移った。
間違いない、魔力の補助を使っている。
屋根を二つ越えたところでリリファがこちらを振り返り、小馬鹿にしたような――それでいて無邪気な笑顔で大きく手を振った。
つられて手を振り掛けたアトルは、いやいやと首を振って手を下ろす。
「なんだかなあ……」
アトルは呟き、たった今リリファに向けて振り掛けた手を見て苦笑した。
リリファを見ているとおまえを思い出すよ、アリサ――と、内心でしばらく会っていない幼馴染みに話し掛ける。
それからアトルはすとんと肩から力を抜き、東の方角を見据えた。
ああまで自信満々にリリファが向かったのだ。――あちらに、レーシアがいる。
「とにかくおまえを、安心できる所に連れてくからな――レーシア」
いっそ不穏に呟いて、アトルはそちらに進み始めた。




