01 あのひとが海に行こうと言った日
昼下がりの陽光が大きな窓から差し込む。
窓は少し外側に張り出した造りになっており、その張り出しには一輪の花が活けられた花瓶が置かれていた。薄く色付いた硝子で作られた花瓶を透過した光は、その色に淡く染まって花瓶の影の中に一点を落とす。腰の高さから天井近くにまで及ぶ縦長の窓は規則正しい間隔を開けて五つ並んでおり、五つの光溜まりを生じさせていた。
窓と窓に挟まれる角柱には燭台が掲げられているが、こんな時間だ、今は使われていない。高い天井にはシャンデリアがあり、無数の水晶で飾られたそれは、陽光にきらきらと輝いていた。
室内にはテーブルが幾つも行儀よく並んでいる。清潔なクロスが掛けられ、各々花が活けられたその机を見れば分かるだろう――ここは食堂だった。
しかし、大衆食堂のような安価な場所ではない。
ここは一国の王宮にある、要人たちが集うべき食堂なのだ。しかもこのセゼレラ宝国は最小の国のうち一つではあっても、大陸でも屈指の影響力を持っているのだ、そうそう入れる場所ではない。
――そんな食堂は今、のんびりとした空気に包まれていた。
いるのは二人の少女。
一人は銀色の真っ直ぐな髪を垂らし、背筋を正して座っている。齢は二十歳そこそこと見え、目の前に置かれたカップの取手を持つ手は白く繊細で、もう一人の少女を見て細められる目は深い緑色。印象は儚げで、身分はかなりのものらしい。身に着けた白いドレスは、形こそ質素であるものの、素材は一流品である。
もう一人は、少し癖のある髪を垂らし、目の前の白パンを千切って食べている。齢は十六、七か。髪の色は黒にも見えたが、明るいところで見ればそうではないと分かる。黒に近い濃紺の髪。銀髪の少女と同じく色が白いが、彼女が儚げなのに対し、こちらの少女はのほほんとしながらもどこか溌剌とした雰囲気である。身に着けたドレスは、銀髪の少女の色違いで薄黄色。
雰囲気は違えど、二人に共通しているのはその美しさ。完璧なまでに整った容貌は、どんな表情を浮かべようとも変わることはないだろう。視線を釘付けにして止まない美貌、ただしその双眸に湛えられた光は、何か余人には分からぬ二人の秘め事を映しているかのようで、そのことが二人を、正視を許さないほどの高みに昇らせていた。
「――ねえ、サラリス」
唐突に、白パンを皿に置いた少女が顔を上げ、銀髪の少女を見た。どこかあどけない、年齢の割には純粋な眼差しである。
「ん、なあに?」
サラリスと呼ばれた少女は問い返し、小首を傾げた。その拍子に、襟が広めに開いたドレスから覗く左の鎖骨の上に、刺青のようにも見える紋章があるのが分かった。大きさは拳ほど。深い緑色で、渦を巻きながら広がり、大輪の花を咲かせている独特の紋章だ。
「私たち、いつまでここにいるの?」
紺色の髪の少女は、その氷を思わせる薄青い目に真剣な光を宿した。
そうねえ、と呟くように言ったサラリスは、窓の外に視線を遣る。その目に、視界に入る限界の距離で上がった巨大な火柱が映った。
サラリスはその火柱を見るともなしに見ながら、ぽつりと声を落とした。
「――この戦争が終わるまで」
カップに湛えられた紅茶の液面に、濃淡が揺らぐ。
「…………」
少女は首を傾げ、それから満面の笑みを浮かべた。
「分かった。じゃあ、次はどこに行くの?」
問われ、サラリスは視線を泳がせる。
「次……」
少女が不思議そうに目を瞬かせるのを見て、苦笑したサラリスは逆に訊く。
「レーシアは、どこに行きたい?」
少女――レーシアはきょとんとして、また首を傾げた。
「サラリスがずっと決めてくれてたじゃない」
また、火柱が上がった。踊るように天を舐めんばかりに生じて、すうっと消える。爆炎の持つ威力とは裏腹な、優美なその、泡沫の一生。
音は聞こえない、ここは平和そのもの。それを写し取ったかのように、レーシアも信頼し切った表情でサラリスを見上げており、サラリスは思わず息を詰めた。
――危うい、この均衡。
この子の倫理観は、ないも同然。そして他人を疑うことを知らない――場合によっては、恐ろしい事態を招きかねないその性格。
危うい、危うい、この均衡を保つのは、自分一人。
「サラリス、どうしたの?」
レーシアの問いに、サラリスは首を振る。そして、慎重に笑顔を作った。
「いいえ。そうね、次はどこか、海の近くがいいかも知れないわ。その方があなたの宝具にも馴染むでしょうし」
「海? 聞いたことあるけど、どんなところ?」
レーシアが首を捻る。サラリスはゆるゆると首を振った。
「行けば分かるわ」
この答えがどんなに残酷であることか、彼女は知っている。
「宝具も封具も、あなたは上手く扱えているわ。だからこれからも、きちんと抑えていかなくてはね」
「サラリスみたいに?」
間髪入れないレーシアの問いに、今度は声を上げて笑って、サラリスは首を振る。銀色の髪がさらさらと鎖骨の上の紋章に掛かった。
「いいえ。私よりももっとずっと、しっかりと、よ」
また、火柱が上がった。空に黒煙がたなびいて、白い翼の空人と、金の肌の雷兵がその熱から逃げるようにして舞うのが小さく見える。恐らく彼らの何人かは既に、焼かれて墜ちているだろう。
レーシアはそちらを一度たりとも見もせずに、ただサラリスを見詰めていた。