とある少年、知らない二人連れに会う
作者が楽しむために書きました。
アレスは苛々と歩を進めていた。
夏の盛り、昼下がりの陽射しが容赦なく首筋を焦がす。
汗が蟀谷を伝い、自分でも顔が真っ赤になっているのが分かった。
今日は特段に気温が高い。
燦々と明るい青空が高く光り、大都市ケルティの空気はうだるような暑さに陽炎すら見えそうだった。
諸事情あって朝から何も口にしていないアレスとしては、眩暈を覚えるのを通り越して、そろそろ気絶しそうである。
だが、ここで気絶してはいられない。
ここでぶっ倒れれば最後、今度こそ今日は食事を摂り損ねることになるだろう。
二年半前にアレスが拾われた「家」においては、食事の時間に姿を見せないということは、即ち食事を辞退したものだとして取り扱われる。
アレスの飢え切った胃袋に入るはずの食事は、誰か他の腹を満たすこととなってしまう。
(あの人たちマジ、まだ子供みたいに振る舞うからな……!)
脳裏に、自分よりも五つ以上は歳上の青年や女性の顔を浮かべながら、アレスは顔を顰めた。
「家」においては――尤も、「家」という呼び方はアレスの内心のものであって、たかだか二年半の付き合いの自分が、馴れ馴れしくもあの場所を「家」と口に出して呼ぶことに、アレスは未だ強い違和感を覚えていたが――、アレスよりも歳が上の者ですら、時たま餓鬼呼ばわりをされている。
餓鬼と呼ばれるために、「それは昔のことだろうが!」と言い返すような人たちではあったものの、彼らが自他ともに「餓鬼」であると認識していたのはほんの三年ほど前までのことらしく、その名残といえるのか何なのか、二十歳を過ぎているとは思えないような態度を時折見せる人たちである。
アレスは今年十五になったが、それでも時々、醒めた目でそんな彼らのことを見てしまうほどだった。
――ぐぅ、と腹が鳴った。
アレスは空になった背嚢を背中で揺らし、覚えず腹を押さえる。
思ったよりも用事が長引いたため、時刻は既に昼下がり。
夜間の仕事が多い「家」の人たちであるからして、朝食の時間は毎日のことながら遅く、当然昼食の時間も昼と夕方の間の時間にずれ込むことが殆どだ。
このまま恙なく帰路を辿ることが出来れば、アレスは問題なく食事にありつけよう。
恙なく――問題なく――
空腹と暑さが相俟って、もはや目の前を睨むように歩を進めるアレスが、曲がり角に達したときだった。
曲がり角の向こうから歩いてきた人影が、勢いよくアレスにぶつかった。
「――いってぇ!」
思わず怒鳴るように叫び、アレスは人影にしたたかぶつけた鼻を押さえる。
交易都市ケルティにおいてはそれほどの大通りではないものの、あらゆる店が軒を連ねるために人通りの多く、そしてそれに伴ってざわめきも大きな道にあって、なおその声はよく透った。
アレスの鼻を危うく折りそうになった人物は、奇妙なことにアレスにぶつかったことに気付かなかった様子だった。
何事もなかったかのようにそのまま行き過ぎようとしたところを、アレスの声を聞いて、初めてその存在に気付いたかのように見下ろしてくる。
十五の年齢に相応の背丈を持つアレスは、その顔を見上げねばならないことに無性に腹がった。
空腹と暑さは人から寛容さを奪うものである。
「てめ、このやろう、どこのどこいつだ」
道端でぶつかっただけだとは、俄かには信じ難い程に剣呑な声を上げたアレスを見下ろし、その仕草から彼が鼻を押さえていたことを察したのだろう、ぶつかってきた男――いや、まだ青年といえる年齢だ――は、目を見開いて語尾を上げた。
「――ぶつかったか?」
「はあ?」
素っ頓狂な声を上げたアレスに非はない。
何しろかなりの勢いでぶつかったのである、衝撃がアレスの側だけに跳ね返るわけもない。
青年の側も、それなりの衝撃を覚えていたはずなのだ。
着古した雰囲気のあるシャツを着て、その袖を捲り上げ、やはり着古して繕いの見えるズボンを履いた青年だった。
大きめの革袋をひとつ肩に担ぎ、更に黒い外套まで担いでいるその出で立ちから、彼が旅人であることが窺える。
しかも金のない旅人だ。
飄々とした態度だが、露わになっている腕には幾つも古傷が見えるし、頬はややこけている。
精悍な顔立ちだったが、アレスを見て目を見開いている現状、精悍さより人柄の穏やかさが顔に出ていた。
アレスの顔を見て、青年は眦を下げた。
そして肩を竦めると、一歩下がってアレスに道を譲りつつ、言い訳のように言った。
「――ごめん、ぶつかったんだな。
悪かった、いつもは気を付けるんだけど、俺、皮膚が死んでるようなもんでさ。大抵何に触れても感じらんねぇの。
ぶつかったのも全然気付かなかった。悪かった」
「……はあ?」
思わず、アレスはまじまじと青年を見た。
言い訳にしても大袈裟である。
アレスが自分を見る目に疑いを感じ取ったのか、青年は苦笑する。
しかし言葉を重ねることなく、アレスが通り過ぎるのを待つ構えだ。
アレスもはっとした。
こんなところで愚図愚図していては昼食がなくなる。
特に今日は来客があると言っていたし、いつも以上に食事の取り合いは苛烈だろう。
来客として告げられている人々を思い返すと憂鬱になるが――何しろ、ド底辺の身分のアレスにとっては、見上げてもなお足りぬはずの身分の人たちなのである――、来客如きに遠慮して空きっ腹を抱えるつもりはない。
慌てて青年の前を通り過ぎようとしたアレスの腹が、そのとき盛大にぐぅと鳴った。
「…………」
気まずさを覚えて青年を見上げたのがなぜだったのか、アレスには分からない。
腹が鳴った程度のこと、無視して通り過ぎるのが平生の彼だろうに、なぜかこのときは視線を上げてしまった。
青年もまた、雑踏の中にあってもアレスの腹の虫が鳴いたのは聞こえていたのか、少し目を見開いていた。
が、少し考えてから、青年は首を傾げて言った。
「腹減ってんの? ――俺も何か食べようと思ってんだけど、一緒に食うか?」
「は――はあ?」
アレスは目を剥いた。
「なに言ってんのあんた。見るからに金なさそうなのに」
随分失礼な物言いであるが、青年は気にした様子もなかった。
「しーっ」と言うように唇に指を当ててから、ズボンのポケットを探り、そこから小さな革袋を取り出す。ちゃり、と音をさせながらその紐を緩め、青年は、アレスに中を覗くよう合図した。
警戒しながらも革袋を覗き込んだアレスはあんぐりと口を開けた。
中に、相当の額の銅貨と銀貨が犇めいていたからである。
「あんた、これどういう――」
思わず声を詰まらせるアレスに、青年は声を出さずに一頻り笑ってから、
「いや、何年か前までいいところで働いてたことがあってさ。そのときの給金を引き出せるか試してみたら引き出せて、これはその残り。あと連れが金稼ぐのが上手くて、それでな」
「連れ?」
アレスは目を瞬かせた。見る限り、青年は一人だ。
「ああ、連れがいるんだ」
青年は頷き、苦笑した。
「今はちょっと別行動してて、そろそろ合流できそうな気がするんだよな。だからまあ、メシ食うのも合流までの暇つぶしなんだけど」
亜麻色の髪を掻いて、呟くようにそう言う青年に、アレスは胡乱な目を向けた。
「いや、あんたの連れ、何してそんなに稼ぐわけ?」
この金が犯罪の末のものであるならば通報してやろう――と、密かな決意を固めつつの言葉であった。
アレス自身、犯罪には余り抵抗がない。
というよりも、今彼が属している「家」の者たちもまた、犯罪者紛いのことをして日銭を稼いでいるのである。
本人たちは自分たちのことを「運送屋」だと言い張るが。
アレスがこのとき考えていたのは単純に、犯罪者を警邏隊に突き出せば報奨金が出る場合があるというだけのことである。
なお、「家」の者たちが犯罪者紛いのことをしているということを、本日彼らを訪うはずの雲上人たちも知っているはずである。
だが、個人的な繋がりがあるのか何なのか、見て見ぬ振りをしているというのが現状だった。
アレスの腹の内など知らぬげに、青年は口角を上げた。
その瞬間、彼の表情には穏やかさよりも、まるで悪童のような無邪気な明るさが宿った。
琥珀色の目を細めて、青年は朗らかに言った。
「俺の連れ、歌姫なんだ」
ちょっとした悪戯心と、興味を引かれたということもあり、アレスは青年と共に雑踏の中歩を進めていた。
普段の彼ならば恐らく、見知らぬ誰かと食事に行くなどということはしないが、なぜかこの青年には関心をそそられてしまったのである。
青年はのんびりと大股で歩き、軒を連ねる食堂を物色している。
その態度に違和感を覚え、アレスは堪りかねて突っ込んだ。
「あんた、連れを待ってんじゃないの? ちゃんと合流場所にいなくていいのかよ?」
「いや、合流場所は決めてない」
青年はあっけらかんと答え、アレスを絶句させた。
「別行動になったのも一箇月くらい前だし、俺がケルティにいることもあいつは知らないと思うぜ」
あっさりと言葉を続ける青年に、アレスは顎を落とした。
「あんた、世界がどんだけ広いか知ってる……?」
「知ってる知ってる」
明るく言って青年は笑い、アレスは呆れるべきかこの青年の頭の具合を心配するべきか決めかねた。
「大丈夫、世界がどんだけ広くても、俺たちは運命共同体って決まってて、そんなに長くは離れてられないようになってるんだ。――お、ここにするか」
こいつ、頭の中が花畑にでもなってるんじゃないか――と真剣に勘繰り始めたアレスの前、青年が一軒の食堂を示した。
典型的な大衆食堂で、アレスも何度か利用したことのある場所だ。
いいけど、とアレスが返答するのを聞き、青年はその食堂のドアを押し開けた。
ちりりん、と軽やかなドアベルの音が響き、アレスは明るい陽射しに慣れた目に薄暗く見える店内を覗き込む。
いつもはそこそこ混んでいる店内が、今は空いていた。
三、四組の男女数人連れが、それぞれ食事しているのみである。
ぱたぱたと軽い足音を立て、若い娘がこちらに走ってきた。
「いらっしゃーい、お二人さん?」
頷きつつも、青年は訝しげな顔で娘を凝視。
そして、恐々といった様子で呟いた。
「……この食堂って、ばあさんが店番してなかったっけ……?」
アレスは軽く目を見開いた。
この青年、どうやら外国人ではないらしい。ケルティにも来たことがあるのか。
問い掛けられた娘も、お下げ髪を揺らしてきょとんとしたのち、元気よく答えていた。
「ええ、一年前まではね! 今は悠々自適の隠居してますよ」
「隠居……」
場違いなまでの安堵の滲む声で青年は呟き、念を押すように、
「事故に遭ったとか、怪我したとかは……?」
「ないない、ないです。ぴんぴんしてますよ、あのババア――じゃなかった、おばあさま」
娘の明るい返答に、青年は深々と息を吐いた。
「マジか、良かった……。昔のノリで店選ぶもんじゃないな、肝が冷えた……」
なに言ってんだこいつ、と割と真剣にアレスは思った。
席に通され――店の壁際の長テーブルの、壁際に青年とアレスが向かい合う形で通された――、懐かしそうに周囲を見渡す青年に、背嚢を足許に置いたアレスは思わず尋ねていた。
「――あんた、ケルティに来たことあんの?」
「俺はケルティ出身」
衒いなく答え、青年はテーブルに肘を突いた。
「だから来たくなかったんだけどさあ……何が起こるか分かんねえから。けど、付き合ってた行商の人たちの目的地がここで、護衛引き受けた以上は途中で放り出すわけにもいかねえしさ」
「……ごめん、なに言ってんの?」
メニューを引っ張り寄せながら、アレスは顔を強張らせる。
「あんた、昔馴染みの町に入ると呪われたりすんの?」
青年は爆笑した。
「それ面白いな。惜しい。――諸事情あって、俺のこと知ってる人とは会えねえから……会いたいんだけど、会えないようになってるから、俺が近くに寄るとみんなに良くないことが起こるかも知れないって思ってさ」
「……は?」
理解不能、といった顔をしたアレスに、青年は首を振った。
「いやごめん、忘れてくれ。
――つっても、どうせすぐに俺のことは忘れんだろうけど。そういう風になってるし」
独り言のようにそう零して、青年はメニューを指先でつついた。
「ほら、好きなの選べよ」
言われた通りにメニューに目を通し、普段は絶対に選ばない価格帯のものを見比べつつ、アレスはぼそっと呟いた。
「てかあんた、護衛とかしてんなら自分も稼ぎがあるんじゃん」
連れの稼ぎに頼ってるようなこと言ってたけど、と呟くアレスに、青年はけろりと言った。
「いや、稼ぎは完全に連れ頼み。歌うたうのは人助けじゃないだろうって話し合ったから。
俺が護衛したり色々すんのは罪滅ぼし――人助けのためで、報酬は貰わない」
「――――」
しばし沈黙し、アレスは指を鳴らした。
「分かった、あんた頭おかしいだろ」
気を悪くした様子もなく、青年は爆笑した。
それからしばらくして、アレスは香草と鴨のローストを選んだ。調子に乗って食後にと林檎のパイも頼んだが、青年は全く頓着せず、自分には店主のおすすめを、と合わせて頼んだのみだった。
ぐぅ、とまたしてもアレスの腹が鳴り、青年は真面目に心配そうな顔をした。
注文の際に二人の前に置かれた、水の入ったコップの小さな水面にその顔が映る。
「――おまえ、大丈夫か? もしかして今日何も食べてなかったりするのか? どっかで扱き使われてたりするのか?」
身を乗り出す青年に、アレスは思わず鼻で笑った。
「今日は何も食ってねぇけど、別に扱き使われてたりするわけじゃねーよ。俺を扱き使ってたのは前のとこの連中」
「前のとこ?」
復唱して首を傾げた青年に、アレスは出来るだけ平淡な声で返した。
「俺、二年半前まで奴隷だったの」
青年の琥珀色の目が翳った。
彼が、「何年か前まではいいところで働いていた」と言っていたことを思い出し、アレスは覚えず攻撃的な口調で続ける。
「百年戦争が終わったときに親亡くしてんだよ、奴隷になるくらいしかなかったんだよ」
「おまえ、歳は?」
暗い口調で尋ねられ、「十五」と答えたアレスに、青年は天井を仰ぐ。
「百年戦争が終わったとき――つったら、まだ一歳か……」
アレスに視線を戻し、青年は唐突に姿勢を正して深く頭を下げた。
「――ごめん」
青年が何に謝っているのかを図りかねつつも、何やらその謝罪はアレスの胸に落ちるものがあった。
アレスは首を振って口調を軽くする。
「もう終わったことだし。脱走したところ運よく拾ってもらえたし――」
「今いる所は、いいところか?」
少し強張った声で訊かれ、アレスは思わず仏頂面を晒した。
「別に、理由なく殴られたりしねぇからいいけどさ……。けど、乱暴者が多いし、兄貴も姉貴も横暴だし……」
その仏頂面と口調に、確かな親愛を感じ取ったのか、青年はやや表情を明るくした。
コップを取り上げて水を飲もうとしつつ、尋ねる。
「そうか、苦労するな。なんて人のとこだ?」
「〈インケルタ〉」
答えたアレスに、青年が盛大に水を噴いた。
「ちょっ、おまっ、おいっ!」
叫んだアレスに、青年は口許を拭いつつ、
「わ、悪い……」
あからさまに震える手でコップを置き、青年はぱちんと指を鳴らした。
途端、青年の双眸の色が変わった。
黄金と褐色の間を透かし取ったような琥珀色から、最高級の翠玉のような色へ。
火花を散らすように青年の瞳を舞った翠玉の色は、しかし一瞬後には立ち消え、青年の目の色は元の琥珀色へと戻る。
同時に、青年が噴いた水が、綺麗さっぱり片付いていた。――魔術だ。
〈インケルタ〉にも魔術師は数名いるが、社会的に見ても魔術師は希少。
物珍しいものを見た少年の常として、アレスは思わず腰を浮かせた。
「あんた、魔術師だったのか!」
「まあ、一応」
謙虚にもそう答え、しかし青年はすぐに身を乗り出す。
「――〈インケルタ〉のみんなは元気か?」
「〈インケルタ〉を知ってるのか?」
訝しげに尋ねたアレスを、初めて青年が答えずに更問した。
「元気なのか? アレック親父はもう歳だろう」
アレスは長椅子に腰を落ち着け直し、腕を組んだ。
「アレックじじいなら半年前に死んだ。大往生だったしみんなでお祝いで送った」
青年が絶句したため、アレスはおもわずもぞもぞと尻を動かす。
「な――なんだよ……」
「……なんで死んだ? 苦し……苦しかったりしたのか?」
息すら止めた様子でそう尋ねられ、アレスは首を振る。
「歳のせいで弱って死んだ。別に苦しくはなかったと思うけど。普通にみんなと笑ってた次の日に起きて来なくて、寝床でいい笑顔で死んでるのを見付けた」
「――笑顔で」
茫然と繰り返したのち、青年が首を振って更に問う。
「――ゼーン親父は?」
「あのじじいは元気だよ。昨日も尻ぶっ叩かれて痛いのなんの。酔うと訳わからん自慢話始めるし、早くくたばんねーかな」
その口調が冗談であると分かっているがゆえに聞き流し、青年は首を傾げる。
「自慢話?」
「俺の息子が世界を救ったんだぞー、って、規模のでかい法螺を吹く」
身内の悪癖に顔を顰めるアレスに、青年はふと表情を緩めた。
「へえ……へえ、そうか。そう思ってんのか。ふうん」
にやにやと笑い始めた青年に、「〈インケルタ〉とどういう関係だよ」と訊こうとしたまさにその瞬間、「お待ちどう!」と元気のいい声と同時に料理の載った盆が目の前に差し出された。
ほくほくと湯気を立てる焼き立ての鴨の匂いに、アレスは食欲を最優先事項として、他の全てを忘れ去った。
嬉々としてナイフを手に取るアレスに、青年は笑顔で、
「ゆっくり食えよ」
そんな青年の前には、じゃがいものスープとパン、肉と野菜の炒め物が置かれている。
ふわふわと湯気のたなびくその料理に、なぜか青年は手を付けようとしない。
「……要らないんなら貰うけど?」
口いっぱいに頬張った鴨をごくんと呑み下して言ったアレスに、青年は寛容に微笑んだ。
「うん、一口くらいならやるよ」
アレスは思わず瞬きした。
あっさりと食べ物を譲られるという経験を、彼はその短い生涯でしたことがなかったのである。
「けど、――食後のパイは逆に一口くれ」
青年が続けた言葉に、アレスは思わず意外の念を覚えた。
「甘いもん好きなの?」
「俺じゃない」
笑いながら言って、青年は肩を竦めた。
「俺の連れが、ちょっと引くほど甘いもの好きなんだ」
そのとき、ドアベルが鳴った。
アレスは入り口の方を振り返った。
本日何度目かの、なぜそうしたのかを説明できない行動だった。
食堂に新たな来客があることなど、いちいち反応することもない出来事であるはずなのに。
が、振り返ったアレスはぽかんと口を開けた。
なぜならば入店してきたのが、入り口の小ささに窮屈そうに身を屈める、丈高く薄青い神秘の肌を持つ、空人だったからである。
背に負う硝子細工を思わせる繊細な翼が、しゃらしゃらと音を立てている。
「……空人だ、珍し……」
アレスはそう呟いたし、同様の呟きは他のテーブルでも上がっていた。
三年前、リアテード皇国において国家反逆罪の責めを負い、全ての国家において解体された魔力法協会――ミラレークスの後身として発足した組織(正式な名称は大陸魔力法平等協会というが、もはやミラレークスの旧名称で呼ばれることの方が多い)が、空人、雷兵と人間が友誼を結ぶことを宣言した。
以来雷兵による人間狩りはぱたりと途絶え、空人の翼を売買することは死罪に値する重罪となり、取り締まりにもいっそう力が入れられた。
また、ミラレークスの中に、彼らの言葉を研究する部署も出来たと聞く。
つまり今の時代、空人や雷兵が人に混じって歩くことは珍しくはない。
とはいえ、人の食堂に空人が出現するとなればそれは、相当な珍事であるといえた。
「いらっしゃ――あらっ」
来客に駆け出した店の娘もまた、困った様子で頬に手を宛がう。
「どうしよ、言葉分かんないわ。――誰か分かる人いるー?」
問われて失笑が巻き起こる。
ミラレークスの学者でもない限り、すらすらと空人や雷兵の言葉を操れる者などいない。
――はずだった。
「俺、通訳できるよ」
目の前の青年がすっくと立ちあがり、アレスは目を剥いた。
「あんた何者なの!?」
「何者でもない、だ」
さらりと答えた青年は、しかし直後に押し黙った。
空人が、喜色を満面に湛えて青年を見たから――ではなかった。
空人の陰になって見えていなかった人影が、青年に向かって空人が一歩踏み出したことで見えていた。
その人物を見て、青年は言葉を失ったらしかった。
「□□□□《ATTLE》□! □□□□□□□□□!」
空人が玲瓏たる玉響の声を上げて青年に歩み寄り、青年ははっとした様子で空人に目を向けた。
そして、ごく自然な仕草で手を伸ばした。
「――初めまして。一緒に食事しよう」
空人が激しく頷く。
「□□□、□□□□□□□□!
□□□□□□□□□□□□□□□!」
――言葉が通じている。
食堂は唖然とした雰囲気に包まれていた。
空人は、彼らの言葉を話している。
いんいんと響く韻律の言葉は、アレスたちには分からないものだ。
それに対して、青年はごく普通に人間の言葉で話している。
――にも関わらず、会話が成立しているらしきこの雰囲気は何だ。
「もちろん」
青年は微笑んでそう答え、からかうように言葉を続けた。
「俺のことも、『見てすぐ分かった』じゃないだろ。言葉が分かるから気付いたんだろ」
空人は相好を崩す。
「□□□□□……」
そのとき、空人の後ろにいた人物が動いた。
実を言えば先程から、アレスはその人物しか視界に入れていなかった。
くたびれた旅装束。
だがそれですら、最高級の衣装であると錯覚させるような女性――正しくは、まだ少女とも見られる年齢の、若い女だった。
腰まで伸びた、緩い癖のある艶やかな髪。
色は黒にも見えたが、よく見れば黒に近い濃紺だと分かった。
少しだけ日に焼けた、健康的な張りのある肌。
完璧なまでに整った顔貌に、そこを飾る薄青い、氷を思わせる宝石のような美しい瞳。
見るもの全てを魅了するような美貌の少女がそこにいて、空人に続いて一歩前に出たのだ。
が、よく見ていれば違和感に気付く。
少女の眼差しが、妙に焦点が合っていないのだ。
今も、声を頼りに青年の方を見た様子だが、視線は青年の頭上を向いている。
――盲目なのだ。
少女が動いたことで、空人は自分の後ろに人がいるということを思い出したらしい。
「あっ」と言わんばかりの顔をして、少し振り返って少女の手を取った。
そのままこちらに向かって歩を進めるのを、アレスは呆気に取られて見ていた。
空人がしずしずと歩き、そして少女の肩を大きな手で掴むと、まるで「どうぞ」と言わんばかりの仕草で青年に向かって差し出した。
青年は長椅子を跨ぎ越してそれを待ち構えており、差し出されてきた少女を、そのまま当たり前のように抱き締めた。
しばらくそのままじっとしていたが、やがて青年は少女を、腕の長さの分だけ自分から離した。
そして、くしゃりと顔を綻ばせる。
「――久し振り。ちょっと日焼けしたな」
「そうなの? 陽射しが強いなとは思っていたけれど」
落ち着いた声音でそう答えたものの、少女の頬は見事な薔薇色に染まっていた。
それからそわそわと身を捩り、手探りで、ちょん、と青年のシャツの裾を摘まむ。
「ね、ねえ。視線を感じるんだけど、いっぱい人がいるんじゃない……?」
「そんなにいない。十人くらい」
「じゅうぶんいっぱいじゃない! 恥ずかしいんだけど!」
抗議する少女に、青年は「何を今さら」と。
そうして、青年は少女の手を握って声を掛けた。
「――足許に長椅子がある。自分で乗り越えて座るか、俺に抱えらえるか、どっちがいい?」
「自分でやります」
つん、と顎を上げて答えたものの、少女は慎重に長椅子の高さを確かめてからそれを跨ぎ、少しばかり得意げにしながらすとんと着席した。
それを見てから、空人が当然のようにアレスの隣に座る。
アレスは内心で大いに慌てた。
空人とここまで接近するのは、彼の人生で初めてのことだったのだ。
青年が少女の隣に座り直し、食事の前で行儀悪くも肘を突いて彼女を見遣った。
――アレスは胸中で大きく息を呑んだ。
その眼差し。青年の、少女を見る瞳。
人がこれほどの感情を目に顕せるのかと驚嘆するほどの、蕩けんばかりに甘く優しい眼差し。
視線ひとつで、青年が少女に抱いている感情を周囲に伝えるほどの、いっそ切なげなまでに愛おしそうな――
すん、と少女が鼻を鳴らした。
そうして、青年がいる自分の右側を見遣ったが、やはりその視線は少しずれていた。
「すごくいい匂いがする」
「そりゃあまあ、メシ屋だからな。――ちょうど良かった」
青年は、自分の目の前の炒め物を一匙掬い取ると、そのまま少女の口許に運んだ。
気配を察したのか、少女が口を小さく開ける。
そこに躊躇いなく匙を入れて、青年は平然と尋ねた。
「熱いか?」
もごもごと口の中のものを咀嚼し飲み込んでから、少女は首を振る。
「ううん、そんなに。火傷しないから大丈夫よ」
「ありがと」
当然のようにそう言って、青年はやっとのことで料理を口に運んだ。
その一口を飲み込んでから、首を傾げて尋ねる。
「おまえは俺と同じのでいい? ――あなた、えっと、名前……」
「リィラさんっていうの。あのあと仲良くなって、一緒にここまで来たの」
少女が素早く答え、続いて、驚くほど完璧な発音の空人の言葉をすらすらと並べた。
恐らくは、自分が人の言葉で言った内容を、もう一度リィラに伝わるように言い替えたのだと思われた。
自己紹介の機会を逸し、リィラと呼ばれた空人は頬を膨らませる。
それを見て軽く笑って、青年は言葉を続けた。
「リィラさん。――なに食べたい?」
リィラが首を傾げ、何かを言った。
恐らくは、何があるの? と訊かれたのだろう、青年はテーブル上のメニューを読み上げ始める。
少女はそれを妙に嬉しそうに聞いていて、「ちゃんと早く字が読めるようになったのね……」としみじみと。
青年はメニューを読み上げる声を一旦止めて、脇を睨んだ。
「おまえが覚えろって言ってきたんだろ。自分が目ぇ見えなくなったからって」
「だって二人とも字が読めないなんて不便じゃない」
「そうだけどさ……」
ともあれ、リィラは献立を決めた。
やや量が多いようにアレスには思えたものの、身体の大きさを考えれば妥当なのかも知れない。
青年がリィラと少女の分を纏めて注文するのを聞いてから、アレスはようやっと口を開いた。
「……その人が、あんたの連れ?」
少女がぎょっとしたように目を見開いた。
それまで、アレスの存在には気が付いていなかったものと思われる。
そんな少女の頭をぽんぽんと撫で、青年が応じた。
「そう。こいつが俺の奥さん」
「合流場所決めてなかったのによく再会できたね……」
呆れつつ言ったアレスに、青年はにっこりと笑い掛けた。
「言ったろ、運命共同体だって」
そう言ってから、青年は妻と呼んだ少女の方を向き、
「そろそろ会えるとは思ってたけど――よくケルティに来ようと思ったな?」
少女は憤然と小さな拳を振ってみせた。
「それはあなたもじゃない。私はリィラさんに付き合って、戦々恐々としながら来たわよ」
「俺だって行商の人に付き合ってびびりながら来たんだよ」
そこで言葉を切り、青年がリィラを見て微笑む。
「――こいつを連れて来てくれてありがとう。こいつ、不器用だから手を焼いただろ?」
咳払いして、リィラが自分の喉に手を当てた。
それから口を開いたが、アレスが驚いたようにその言葉は、アレスにも理解できるものとなっていた。
〔可愛いから全然よかったわ。むしろ私が守ってもらったくらい〕
「へえ?」
面白そうに語尾を上げた青年にリィラは拳を振って力説する。
〔まだ私の翼目当てに襲ってくる連中がいたのよ。このおちびさんが守ってくれたから、別に誰も怪我はしなかったけれど〕
ふっと青年は顔を曇らせたが、少女を見遣って尋ねた声は冷静だった。
「持たせたアルナー水晶使ったな? ――ってことは、あの魔力は空になったか?」
「うん。でも私の方にまだちょっと残ってるかな」
「さすが。おまえって吸い込んだ魔力の質まで改良するもんな。――とにかく無事で良かった」
アレスにとっては意味不明な会話を繰り広げ、少女はむぅっと頬を膨らませる。
年齢は二十歳そこそこ、それを思うと幼い仕草である。
「もう、私の心配はしてないでしょう!」
「するわけないだろ。俺が怪我してないのにおまえが怪我するなんて有り得ない」
切って捨てるように、しかし優しくそう言って、青年は「で」と仕切り直すように声を出した。
「――おまえの斜め前に座ってるのが、なんと〈インケルタ〉の餓鬼らしい」
「アレスだよ」
餓鬼呼ばわりに苛立ったアレスが名乗ると、少女はその美貌に驚愕の表情を載せて、アレスを――正確には、アレスとリィラの間の空間を見た。
「えっ――、知り合い――なわけないよね?」
うん、と頷いて、青年はやや厳しい目で少女を見た。
「二年半前に〈インケルタ〉に入ったらしい。――戦災孤児だ」
青年がそう言った瞬間、少女の顔から音を立てて血の気が引いた。
息を呑むこと数秒、やがて押し殺した声で囁く。
「――ごめんなさい……」
アレスはぽかんとして少女を見た。
まるで少女がアレスに何かをしたかのような言い草だが、アレスはこの少女とは初対面である。
「ごめんなさい、本当に――」
「――いや、いいけど」
何とはなしにアレスが言ったその途端、場違いなまでに嬉しそうに少女が微笑む。
嬉しげにしながらも影のあるその笑みに、アレスは思わずどきりとした。
咳払いをして心臓を落ち着け、アレスは目の前の二人を見る。
「――あんたら、〈インケルタ〉の知り合いなの?」
二人は曖昧に笑って答えず、代わりに少女が軽く身を乗り出した。
「〈インケルタ〉の人たちは、今どうしてるの? 元気? ――アリサとか」
アリサ、と聞いた瞬間に、青年の顔に懐かしそうな笑顔が広がった。
それを怪訝に思いつつも、アレスは答える。
「アリサ姉さんなら、子供が出来てからちょっと落ち着いて――」
「こどもっ!?」
青年が目を剥いて叫んだ。
リィラがきょとんとしたように青年を見るほか、周囲のテーブルから青年に視線が集中したが、気付いていない様子である。
「子供って誰の!?」
「いや、だからアリサ姉さんの」
つってもまだ腹の中だけど、と付け加えて、アレスは肩を竦めた。
「なんか時々来る兵隊に一目惚れされて、一年追っ駆けられたあと陥落した」
「幸せそうか?」
言下に尋ねられ、アレスは鴨をフォークで突き刺しながら首肯する。
「まあ、幸せなんじゃない? 子供の名前候補も、集まり過ぎてるくらいだし――」
所縁のある人の名前を贈りたい、恩人の名前をぜひ付けてほしい、と、当のアリサが困惑するほどの人気ぶりである。
〈インケルタ〉にはこんなにも所縁のある人がいたのかと、アレスとしては吃驚する。
今のところ上位を競う名前は、「家族の恩人」だとかで、ヴァルザス、グラッド、アトルの三つ。
当然だがアレスはこの中の誰一人として知らない。
「――ってか、兵隊って。大丈夫なのか、〈インケルタ〉は“合法的な犯罪者集団”だけど――」
我がことのように嬉しげに微笑んだ青年が、はたと気付いたように呟いたが、アレスはまたも肩を竦めた。
「大丈夫じゃね。なんか時々アリーフから来るきらきらした金髪のおっさんが、大丈夫なようにするって言ってたし」
「――デイザルトが顔出してるのか」
青年が驚いたように呟いたが、「きらきらした金髪」と言っただけで個人まで特定されたことに、アレスはむしろ驚いた。
「あの堅物がねぇ――へぇ」
面白がるような声を出す青年の脇腹を、やんわりと少女が押した。
「スライのこと変な風に言わないで」
青年はじとりとした目で少女を見た。
「へえ、俺よりあいつの肩持つの。ふうん。さすが、土壇場で俺よりあいつに付いて行くだけあるわ」
「それ、もう何百回も謝ってるじゃない!」
叫ぶ少女の、形の整った小さな鼻を、青年が人差し指でとんっと叩いた。
「あのとき俺がどんな気持ちになったと思ってんだ、馬鹿」
「ごめんなさい……」
しゅん、と少女が呟いた、そのとき食事が運ばれてきた。
〈インケルタ〉の近況を問い詰められ、かつリィラとの会話も長々と続いたため、アレスが食堂を出たときには既に夕方になっていた。
橙色に沈む夕日に照らされる空を眺めてから、アレスは傍に立つ青年と少女、それからリィラを見上げる。
「――俺はこれから帰るけど、あんたたちも来る?」
青年はぐっと押し黙った。
少女が無言で、盲た目で青年の方を見上げる。
数十秒の間、青年は迷うようにその場に佇んでいた。
が、やがて大きく息を吐き、呟く。
「……――やめとく。みんなに何かあったら取り返しつかねえし。アリサは特に大事な時期だし」
「――どういう理屈なの、それ?」
目を点にするアレスの顔を覗き込んで、青年がゆっくりと言った。
「あのな、――伝言を頼む」
琥珀の目の真剣さに、アレスは気を呑まれつつも頷いた。
「お、おう」
少し目を泳がせて言葉を選んでから、青年は口を開く。
「――まず、アリサにおめでとうって伝えてくれ。俺は今でも、心からアリサのことを大事に思ってるし、アリサがこれから挑む一大事のことを、毎日ずっと考えて祈ってる――って、そう伝えてくれ」
アレスは頷く。
「他の、餓鬼の――いや、もう餓鬼じゃねえのか。とにかくデリックとかラッカーとかシェラとかミーシャとかにも、俺は毎日おまえらのことを考えてるって伝えてくれ。あと、おまえら全員幸せになるから心配すんなって」
「……? おう」
「オヤジたちにも、俺はオヤジたちに育てられたからこうしてちゃんとやってるって伝えてくれ。俺は、好きな女と、」
少女を見てにやっとしてから、青年はアレスに視線を戻す。
「――毎日あくせく頑張ってる、大丈夫だって伝えてくれ」
リィラが冷やかすように少女を肘で押し、少女はその力の強さによろめいた。
それを支えてやりながら、青年は言葉を続ける。
「あと、デイザルトに会ったら伝えてくれ。俺たちは幸せにならない、ちゃんとやるって」
アレスは目を見開いた。
伝言としては相当に不穏な内容だったからだ。
その表情を見て、青年は困ったように微笑む。
「でも他の人にこんなこと聞かせたら気にするから、デイザルトだけに伝えてくれよ」
あと――、と言葉を継いで、青年は探るようにアレスを見た。
「ミラレークスのお偉いさんっぽいのが、たまに来たりするか?」
アレスは顔を顰めて頷いた。
何を隠そう、今日の来客がそれである。
雲上人どもは、何がいいのかアリサの子供の名前にまで口を出そうとする。
「――じゃあ、そいつらに伝えてくれ」
青年は殆ど、祈るほどに敬虔な声で呟いた。
「大好きだって伝えてくれ。俺たちは大丈夫だって」
頷くアレスに、青年は「リリファたちはさすがに来ないだろ」と独り言を零し、それから気遣うように付け加えた。
「俺の伝言を伝えようとしたときに、何か――普通じゃ起こらないような変なことが起こったら、伝言のことは忘れろ。これだけは絶対だ、約束してくれ」
なにをこいつは心配しているんだろう、と甚だ呆れつつも、アレスは頷いた。
それにほっとしたように微笑してから、青年はふと思いついたように、
「――アリサの子供の名前、男の子ならグラッドがいいな。女の子ならサラリスがいい」
順調に票の集まる「グラッド」とは一体何者なのか、アレスは真剣に思い悩んだ。
青年がアレスの肩を叩く。
それが別れの合図だと、なんとなくアレスも察した。
見上げた先で、青年はどうしてだか泣きそうに見えた。
ふと視線を少女に移すと、少女も似たような表情をしている。
だが少女はどちらかといえば、青年を気遣う色の濃い表情にも見えた。
振り切るように首を振って、青年はリィラを見上げる。
「――リィラさん、どうする? こいつと〈インケルタ〉に行く?」
リィラはしゃらしゃらと翼を揺らして首を振った。夕日を弾いて、翼が白く煌めいた。
〔ううん、また今度にする。だって、離れたらもうあなたたちと会えないでしょう? 今日は一緒にいようかな〕
「ん、分かった」
穏やかにそう言って、青年はアレスを見た。そして、呟いた。
「――じゃーな、弟」
え、とアレスが目を瞠った瞬間、青年たちとアレスの間に、食堂から出て来た五人組が割り入ってきた。
「え、あ、ちょ」
背伸びし、五人組を回り込んで青年たちの方へ行こうとする。
だがその瞬間、躓くはずのない場所でアレスは盛大に躓いた。
転ぶことは避けたものの、振り返った五人組に「大丈夫か」と気遣われる程度には盛大に体勢を崩した。
「大丈夫、大丈夫、ありがと……」
五人組に愛想笑いで応えつつ、アレスは顔を上げた。
青年と少女、そして空人は、忽然とその場から姿を消していた。
夢だったのかも知れない、と思いながら、アレスは背嚢を担いで帰路に就く。
だが、夢ではなかった証拠に、胃袋は満たされ切っていた。
「……変なの――」
呟き、〈インケルタ〉の拠点の扉を開けたアレスは、思わず「げっ」と声を出した。
そこに来客である雲上人を認めたからである。
ちなみにこの拠点、〈インケルタ〉の歴史に比して新しい。
何でも、一度は魔術合戦に巻き込まれた挙句に焼失した経緯があるとのこと。
その際に建て替えられたものが、現在の三階建ての拠点である。
玄関ホールで立ち話を繰り広げていたのは、アレス曰くの「雲上人」、ミラレークスにおいてかなり高い地位を持つらしき女である。
短い黒髪に群青色の目、なぜか真夏であっても外套を羽織り、フードを下ろしているのだから変人の度合いが知れる、とアレスは思っていた。
昔の名残だと本人は言うが、アレスには何のことだか分からない。
扉の開いた気配に、女が振り返った。そして、嬉しそうな声を上げた。
「おお、アレスくん!」
「――どーも」
会釈で応じたアレスに、女と立ち話をしていた〈インケルタ〉の若手、デリックが歩み寄って来て拳骨を落とした。
ごつっ、と音はしたがそれほど痛くはない、加減された一撃である。
「アレス、このやろう、たかが配達に何時間かかってやがる! もうてめぇの分のメシはねえからな!」
「別にいいよ、デリック兄さん」
アレスはここぞとばかりに胸を張った。
「なんかよく分からん奴に奢ってもらった」
はあ? と目を剥き、デリックはアレスの頭を掴んで揺さぶる。
「うわっ、ちょっ、目ぇ回るって!」
「おまえは! うろちょろと! 遊んでたのか!」
「ごめんなさいごめんなさい――っ」
叫ぶアレスに、ミラレークスの女がのんびりと口を挟む。
「デリック、そろそろやめてはどうだろう」
「アジャット、これは躾というもので」
そんなことを言いつつも、デリックは手を止めた。
そしてアレスの顔を覗き込む。
「――奢ってもらったって、どんな奴にだ? 商売敵じゃねえだろうな?」
アレスは答えようと口を開け――はたと気付いた。
「あ、そういえば名前聞いてねえや」
「お?」
「なんか変な奴。普通にカエルムと喋って話通じてて、魔術師で、何か訳わからんこといっぱい言って、――あと、〈インケルタ〉のこと知ってた」
言葉を重ねるごとに、目の前のデリック――そして、その向こうのアジャットの顔色が変わっていく。
デリックが零れんばかりに目を見開く一方、アジャットはくるりと踵を返すと、叫んだ。
「ミルティア! リーゼガルト! 皆さんを呼んで! 早く!
アレスくんがとんでもない知らせを持って来たぞ!」
予想以上の反応に目を白黒させるアレスの前で、デリックは震える手を髪に突っ込み、茫然とした声を押し出した。
「……それ、俺と同い年くらいの、男……? 綺麗な女連れてたろ……?」
アレスは目を見開いた。
「分かるんだ。知り合い?」
「知り合いどころじゃねえ……!」
デリックが呻いた瞬間、奥からミルティアが現れた。
――この少女、未だ二十歳に届かぬ若さながら、ミラレークス内で確固たる地位を築いており、そしてなぜか軍に彼女の贔屓が大量にいる。
両足は半ばから切断されており、アルナー水晶を湯水の如くに使う贅沢品――通称、「空飛ぶ椅子」に乗って、あちこちを任務で行き来しているらしい。
今も彼女は、宙に浮かぶ小さな椅子に乗って現れた。
頭の両側に分け、二つに結った小麦色の髪を揺らし、ミルティアが首を傾げた。
「どうしたのぉ、アジャットぉ? そんなぁ声出してぇ」
ミルティアの後ろから顔を出すのはリーゼガルト、アレスが常々、「この人は傭兵なんじゃないか」と疑っている男である。
黒い長髪を頭の後ろで一つに束ね、訝しげに青い目を細めている。
「アジャット? どうした?」
「――いいから、皆さんを、呼んで」
もはや息も絶え絶えにアジャットが呟き、デリックが茫然とその言葉を補った。
「……特にアリサだ」
斯くして居間に連行されたアレスは、青年と会ったことを洗い浚い話すことと相成った。
周囲で話を聞く全員が涙ぐんでいるため、非常に話しづらい。
正面には大きなお腹を抱えたアリサが座り、菫色の目を瞠って話を聞いていた。
「――そいつと、その綺麗な女の人、仲は良さそうだった?」
話す順序がしっちゃかめっちゃかになったものの、一通りを話し終えたアレスに、アリサが小さな声で尋ねる。
アレスは頷いた。
「うん、めちゃめちゃ。特に男の方、『好き!』って顔に出てたくらい」
デリックとラッカー、そしてゼーンの声が揃った。
「あいつがなあ……」
リーゼガルトが首を伸ばして、人の輪の中心にいるアレスを見た。
「で? 女の方、目が見えてなかったって?」
アレスは頷く。話し過ぎて少々喉が痛かった。
「全く見えてないみたいだったけど、前は違ったの?」
む、と呟いて腕を組むのはアジャットだ。
「――おかしいな、あの夢の中でそんなことは言っていなかったように思うが……」
「アジャット、あの夢のことまだ現実と思ってんのか」
リーゼガルトの呆れたような声に、アジャットが憤然と反論する。
「現実でなければ全員揃って同じ夢を見るわけないだろう」
ミルティアが、「落ち着いて」とばかりに手を振った。その鳶色の目が涙の膜で光っている。
「気ぃ遣ったんじゃぁない? 正直にぃ言えば、あたしたちがぁ気にするってぇ思ったんでしょ?」
「大人になったものだな!」
アジャットが感嘆の声を上げ、アレスは、「そういえば」と言葉を継ぐ。
「伝言があるって――」
「伝言っ!?」
その場の全員が叫んだため、少し窓硝子が揺れた気がした。
数呼吸の間を置いて、アレスは、普通じゃ起こらないような変なことが起こらないかどうか、神経を研ぎ澄ませた。
――が、何も起こらない。
窓硝子の向こうには、東の空から徐々に手を広げていく夜陰が映るのみ。
――大丈夫みたいだ。
そう判断して、直後にアレスは自分を馬鹿馬鹿しく思う。
――何をあんな、戯言の塊みたいなことを真剣に受け止めているのかと。
息を吸い込み、アレスは口を開いた。
「ええっと――アリサ姉さんに」
アリサが姿勢を正した。
「『おめでとう』、ええっと……『自分は今でも、心からアリサのことを大事に思ってるし、アリサがこれから挑む一大事のことを、毎日ずっと考えて祈ってる』――だったかな。
あと、子供の名前は『グラッド』か、――ええっと、『サラリス』がいいって」
アリサが顔を覆った。その反応に気を呑まれつつも、アレスは続ける。
「それから、デリック兄さんたちに、――『自分は毎日デリック兄さんとか、シェラ姉さんとか、みんなのことを考えてる』、『全員幸せになるから心配すんな』――だったっけ」
ラッカーが無言で部屋を出た。直後、吼えるように号泣する声が聞こえてきた。
「あと、えっと、オヤジたちに」
そわそわと身体を揺らしつつも、謎の使命感に駆られて、アレスは諳んじる。
「『自分はオヤジたちに育てられたからこうしてちゃんとやってる。好きな女と、毎日あくせく頑張ってる、大丈夫だ』――って」
「アレックに聞かせてやりたかったわね!」
リィゼアが小声で囁くのが聞こえた。
「えっと、あと、ミラレークスの皆さんに、」
アレスは目を逸らしつつも、
「『大好きだ、俺たちは大丈夫だ』って」
アジャットが泣き崩れた。
見開かれたミルティアの目から、堪え損ねた涙が零れる。
リーゼガルトが無言でミルティアの頭をくしゃくしゃに撫でた。
号泣の海と化した周囲に困惑し、アレスは思わず諸手を挙げた。
「――待って、マジでこの空気何なの!? あいつら誰なの!?」
大きく息を吸い込んで、アリサが顔を上げた。
そして、勝気に微笑んで――その顔は、アレスの知らないとある少年が、生涯で初めて守りたいと思った笑顔そのままで――、そして、答えた。
「――それ、ね。私の兄貴だよ」
************
「――レーシア」
夜陰の中で声を掛ける。
あえかな灯火の光を受けて煌めく彼女の薄青い目が、焦点は合わないながらも自分に向けられたことを見て取って、アトルは抑えた声で囁いた。
「会いたかっただろ、今日、――あいつらに」
「――アトル」
窘めるように名前を呼ぶ、レーシアの声もまた囁き声。
今夜の宿は二人だけで泊まるものではない。寝台の上では既に、リィラが寝息を立てているのだ。
「アトル、崖崩れの件、忘れてないでしょう?」
レーシアの言葉に、アトルは渋面を作った。
灯火の微かな光にさえ光輪を弾く彼女の髪を、手を伸ばして撫でる。――アトルが唯一感じることが出来る人の髪。
二人は並んで長椅子の上に腰掛けているから、距離は非常に近かった。
随分伸びたレーシアの髪は、手入れにそこそこ手間が掛かる。
視力を失ったレーシアが、拘りなくばっさりと切ってしまおうとするのを、「サラリスさんでもそれは怒るだろ!」と止めて以来、アトルがその手入れをしていた。
髪の手入れなどやったこともない彼に、レーシアがあれこれと口で教えてのことである。
――今のところ、その手入れは行き届いているとみてよかろう。サラリスが誇った彼女の愛し子の美しい髪は、損なわれることなく艶やかに揺れていた。
髪を一筋すくい、弄びながら、アトルは深々と息を吐いた。
「――まあ、あれは忘れられねえよな……」
くすぐったがるように身を捩り、レーシアは「そうよ」と。
「スライがいるって分かってた町に、ちょっと出向こうとしただけで、途中で有り得ない崖崩れが起こったのよ。今日は多分――」
「――多分、あいつらと俺の行動範囲が被ってなかったから、普通に町に入れたんだろうな」
レーシアの言葉を引き取って完成させ、アトルは再び溜息。
「まあ、あいつらが事故とかに遭わなくて良かったよ……。ケルティの城門をくぐるとき、マジで震えがきた」
「……私も」
神妙に呟くレーシアの頭を撫でて、アトルは強いて明るく囁いた。
「何事も無かったんだからいいだろ。――明日からは、今日聞いた噂の、リーレライの方に向かうってことでいいな?」
「うん。風車の町でしょう、サラリスと行ったことがあるわ――昔にね」
ぼんやりとした口調でそう呟き、レーシアは不意に手を挙げて、自分の頭を撫でるアトルの手を握った。
「――アトル」
「ん?」
首を傾げ、アトルは内心で身構える。
「私を助けることさえしなければ、アトルはみんなと一緒にいられたのに――」という一頻りの論争は結婚直前に経験済みだが、レーシアのことだからそれを蒸し返すかも知れないと思ったのだ。
もしもそうなれば、リィラを叩き起こすことになることは覚悟の上で、最初にレーシアに想いを伝えたときのように、断固として自分の意志を表明するつもりである。
アトルの手を膝の上で握り、レーシアは盲いた目を彼に向けた。
暁闇の藍色の睫毛の下に匿われた、宝石のような薄青い瞳。
「アトル、ありがとう」
出し抜けの礼に、アトルは瞬きした。
反射的にいつもの科白が口を衝く。
「――礼はいいって言ってるだろ」
「だって言いたくなったんだもの」
拗ねたようにそう言ってから、レーシアは微笑んだ。
「――私を選んでくれてありがとう、アトル。私を選びさえしなければ、アトルはみんなといられたってことは分かってるんだけど、」
「…………」
アトルの顔が剣呑になったことを、当然ながら見ることの出来ないレーシアは、ごく和やかに言葉を続けた。
「一緒にいるうちに、私は我侭に戻っちゃったみたい。――みんなが生きて、幸せになっていく世界で、アトルと一緒にいられるのがすごく嬉しいの。アトルがそれを選んでくれたことが嬉しい」
虚を突かれ、アトルは思わず沈黙した。
その沈黙をどう取ったのか、レーシアが不安げに眉を寄せる。
「……アトル、後悔してる?」
「――するわけないだろ」
辛うじて声を絞り出し、アトルはレーシアの手を握り返した。
細い指の感触もその柔らかさも知覚できる、――唯一の人。
大きな代償を払ったとは思う。
だが、大き過ぎる代償を払ったとは思わない。
得たものとその代償の、釣り合いが取れていないなどと思ったことは一度もなかった。
「何回あのときを繰り返しても、俺は絶対に同じ方を選ぶ」
断言して、アトルはレーシアの手の中から自分の手を抜いた。
そうして両手で彼女の頭を挟むようにして引き寄せて、こつん、と額を合わせる。
「三年前に海で言っただろ。
――おまえが俺と一緒にいたいかどうかじゃない、俺がおまえと一緒にいたい」
掌の下でレーシアの頬が熱くなった。
「俺はおまえに尽くしただろ? だから俺に譲ってもらう。
――俺はもうずっと前に、おまえを選んでる」
おまえのついでに世界を救うくらいに、と、冗談めかして付け加えて、アトルは目を閉じた。
「だから今さら礼なんて言うな、不安になんて思うな。――俺の人生最高の人」




