04 離れた彼女の憎悪と不安
ひたすらに前進を続けるアジャットに付いて行っているためか、レーシアの息が切れてきた。
「あ、アトル……」
ぜいぜいと咳き込みながらレーシアが訴える。
「も、無理……」
「悪いが走ってくれ」
アジャットが切羽詰まった声で言った。
「あの二人に追い着かれることは避けたい」
「誰だよあの二人?」
アトルがレーシアの手を若干強引に引きながら尋ね、アジャットは首を振る。
「分からないんだ。ただ、町に入ったすぐ後にリーゼガルトから通信が入って……」
息を整えるように数拍開けてから、アジャットは続けた。
「かなり大きな魔力を感知したとのことだった。追手かも知れないと言われて、対処するよう頼んだのだが、取り逃がしたと」
「すぐこの町出てりゃ良かったじゃねえか!」
アトルが思わず喚くと、レーシアがびくっとし、アジャットが肩を落とした。
「む……、そう、言われるとは思ったが……その……」
アジャットは口籠り、それから言った。
「レ、レーシアさんが余りにも楽しそうなのでつい……」
レーシアが驚いたように顔を上げ、無意味に帽子に触った。アトルも黙った。――ここで、その気持ちが少しでも分かると言ったら負けな気がしたからだった。
三人が馬車まで戻るのに、思わぬ障害があった。――住人たちである。
娯楽の少ない僻地のこと、先程の騒動の話が広がるにつれ、物見遊山の感覚で殺到する人が続出したのだ。目の前で見ていなかっただけに、恐怖も感じないのだろう。元々の人口が少ないために人混みにまではならないが、直線に走ることは十分に阻害されている。
「乱暴だが退けて通るか……」
アジャットが真剣にそれを検討している声音で言い、アトルはぎょっとした。
「いや、おいおい待て待て」
レーシアが息を喘がせながら言った。
「しんどくないなら、……もうなんでも……いい」
まさにそのとき、背後から底抜けに明るい声がした。
「見つけましたーっ! レーシアさん!」
アジャットが焦ったように足を速めた。
「追い着かれるな……どうしようか」
だがアトルは別のことが気になっていた。
「この人たちが騒動の場所を目指してるなら、なんであいつがいるのに足を止めない?」
アジャットはアトルを振り返った。
「つまり、何か。騒動が他にもあるはずだと言いたいのか」
「それしか考えられないだろう。グラッドさんいねえし……」
アジャットは息を呑んだ。
「な――グラッドが騒動を起こしていると言いたいのか? 彼がそんなことをするはずないだろう!」
アトルは眉を寄せた。
「騒動を押し付けられた可能性もあるだろが……」
レーシアは必死になってアトルに付いて来ながら、後ろをちらちらと気にしていた。
「あの、リリファって人が来てるみたいなんだけど……」
「無視しろよ」
念のためアトルは注意した。今のところ、アトルがレーシアと一緒にいてやれるのは、アジャットたちと一緒にいるからこそなのだ。あのリリファという人物の所属する勢力にレーシアの身柄が移っては、良くてアトルは隔離され、悪くて機密保持者として監禁されるか殺される。
「い、いや、あの、アトル」
レーシアは不安そうに言い、アトルが軽く彼女を振り返ると、喘ぎながらも何とか言った。
「私、髪はちゃんと、隠してるから、なんで、私って、分かったんだろう?」
アトルも目を見開いた。ばれたのだから仕方ないと思っていたが、言われてみれば、屋根の上からレーシアを識別するのは難しいはずだ。どんな手法を用いてレーシアをレーシアと見分けたのかは分からないが、その手法がどんなものかを割り出さない限り――
「――逃げ切るの、絶望的じゃね?」
アトルは呟いた。
「レーシアさーんっ! レーシアさぁーんっ!」
声は執拗で大きく、周囲の人々も何だ何だと騒ぎ始めている。レーシアはアトルの言い付け通り、無視する構えで顔を伏せ、自分の名前が連呼されていることを、アトルがちょっと感心するくらい見事にやり過ごしていた。
「この町中で一騎打ちをするのも……」
アジャットが声に迷いを滲ませた。高等指定魔術師ともなれば、周囲に及ぼす影響も段違いに大きくなるのだろう。
「あーもう、退いて……レーシアさんってば!」
リリファはそろそろ苛立ちはじめているらしかった。レーシアは頑として無視している。後で褒めようとアトルは内心で思った。
そのときだった。
「レーシアさん! サラリスさんがいる場所を知っているんですけれども!」
リリファが叫び、一瞬それを聞き流したレーシアが、次の瞬間はっと足を止めた。
「サラリスの……?」
アトルが慌ててレーシアの手を引いたが、レーシアはそれを見もせずに振り払った。
振り放された掌を見て、アトルは少しばかりの衝撃を受けて切なくなるも、すぐにもう一度レーシアの手を取ろうとした。
「おい、レーシア! アルファーナ高原に行くんだろ?」
レーシアはアトルを見もしなかった。
「サラリスに会えればそれでいい」
はぁやっと止まってくれた、などと言いつつ、リリファが距離を詰めてくる。アトルは幼い子供に言い聞かせるようにして言っていた。
「会うにしても、サラリスって人の探し物は手元にあった方がいいんじゃねえのか? なあ」
レーシアはやっとアトルの方に顔を向け、首を振った。
「そうかも知れないけど、でもいいの。サラリスに会いたい。サラリスは私が何を持ってなくても、責めたりしないもの」
その薄青い目に、熱に浮かされたような切望の光が宿っていた。
「他の誰に嫌われても責められてもいいの。会いたいの」
アトルは息を呑んだ。
レーシアは本気だ。今までどこか、アトルに頼り切りであるような気がしていたけれど、アトルの言うことは、大抵のことは聞き入れると思っていたけれど、これは本気だ。
他の何より優先することがレーシアにはあって、だからこそ、他のことには頓着しないのだ。ただそれだけだ。自主性には確かに欠けるかも知れない、しかしそれでも、「サラリス」に会いたいという、それは――それだけは本物の願いだ。
黙り込んだアトルの手をもう一度振り払って、迷いなくレーシアが歩き出す。アトルは手を伸ばし掛けたものの動けず、アジャットが慌てた様子でレーシアを追う。
「レーシアさん! 落ち着いて! あなたを利用したいだけに決まっているだろう!」
レーシアは振り返りすらしなかった。
「それの何が悪いの?」
声に本気の疑問を滲ませて、しかもその疑問は利用されることの是非を問うよりも、そもそも利用されることに対して何の感慨も抱いていないがゆえのもの。
「サラリス」の手紙の文章が、危機感すら伴って脳裏に蘇る。アトルは絶句していた。
レーシアは本当に、利用されることを何とも思っていないのだ。アジャットが更に声を掛けるが、レーシアは最早答えもせずに――、
「エンデリアルザ!」
怒号が轟きレーシアの目の前を真一文字に炎が走った。その熱気にレーシアのワンピースが翻る。
今までこんなことがあっても、驚くが怯えるかが妥当な反応だと思われていたレーシアが、震えるほどの怒りに拳を握った。その目が炎の発生源、離れた所に立つ男を見据え、背中を震わせてレーシアが叫んだ。
「邪魔しないで!」
レーシアを中心として、透明な光の漣が空中を走った。
「私はエンデリアルザじゃないし――!」
凄まじい密度の、上質な、圧倒的な魔力が球状に膨れ上がって爆発する。その内側にあるレーシア以外一切のものを拒絶し、荒れ狂う。
「サラリスに会うのを――邪魔しないで!」
一瞬で炎が消し飛んだ。
住人たちが慌てて逃げ出し、ぽっかりと空いた空間であんぐりと口を開けて絶句するリリファが見えた。
「レーシアさん……これはちょっと凄すぎる……」
「サラリスに会えないなら――」
レーシアが絶叫した。魔力が弾け飛んで爆発を終える。
「私が生きてる、意味がないでしょう!」
そして、レーシアはリリファに駆け寄った。
アトルはそれを、心臓に穴の開く思いで見ていた。
アジャットに至っては凍り付いている。
リリファも若干驚いたようではあったが、すぐに一礼したのはさすがと言うべきか。
「レーシアさん、お会いできて光栄――」
「サラリスはどこ」
レーシアは切羽詰まった様子で問い質した。
「サラリスはどこにいるの」
「待ってくださいね、我々の拠点に来ていただいてから、あなたが知っているところから現在に至るまでの、我々が知っている限りのことをお伝えしますから」
レーシアは顔を強張らせた。
「どういうこと? サラリスのいる場所を教えてくれるんでしょう? 私はそれだけでいい」
リリファの笑顔が凍り付いた。
「いや、あの、――」
リリファの立場からすれば、レーシアに付いて来てもらわなければ困るのだろう。しかし、レーシアの言葉通りにしてしまえば、ここでレーシアが離れて行ってしまうことも十分に有り得る。
レーシアは断固として言った。
「全部、サラリスから聞きたい」
「私たちからじゃ駄目なんです?」
リリファが強張った苦笑で尋ねれば、レーシアは驚くほど透明な眼差しで答えた。
「サラリスだけは、私に嘘を吐いたりしないもの」
アジャットはかなり切羽詰まった声でアトルに言っていた。
「まずい、アトル青年、何とか出来ないか」
アトルは一瞬詰まり、それから噛み付くように言い返した。
「なんで俺に言うんだよ!? 分かるだろ、あいつの――」
レーシアの方へ顎をしゃくり。
「あいつにとって一番重要な情報が目の前にあるんだぜ? 喰い付かない方がおかしいだろうし、それに……」
レーシアがリリファを問い詰めている。サラリスはどこ、サラリスはどこ、そのことのみを、必死な声で訊いている。
「あいつの幸せを考えるなら――放っておく方がいい」
それを聞いて、アジャットが首を傾げた。
「何を言っている?」
アトルが眉を寄せる。アジャットは無感動な声で言った。
「今現在、レーシアさんを血眼になって捕らえようとしているどの勢力も、レーシアさんの幸福など考えてはいないぞ?」
覚えずアトルは息を呑んだ。
――忘れていた。あいつがあんまりにも普通の人間みたいな顔をしているから。
アトルは思わず、レーシアを振り返る。
――レーシアは兵器になる。
リリファはなんとかしてレーシアを宥めようとしているようだったが、効果はないようだ。
――レーシアが人に利用されることを、「サラリス」は恐れた。
心臓が音を立てている。全身が痺れたようでいて、それでいて頭は冷静だった。
――誰も信用するべきではない。アジャットたちでさえ、一緒にいる間に親近感すら湧いてきたけれど、それでも、根本的にはレーシアのことなど考えてはいない。
レーシアを目の届くところに置いておかなければ、どうなったところで助けてやれない。
――レーシアを安心できる所へ連れて行くと、決めたのだ。
「レーシア!」
声を掛けた、その瞬間、あの炎を放った男がリリファに向かって魔術を放った。
距離があるからこそ分かった、念動系の魔術だ。
「おわ!?」
珍妙な声を発し、リリファはすんでのところでそれを躱した。
「やめてよ!」
レーシアが泣き叫ぶようにして怒鳴った。
「サラリスに会わせてよ! お願いだから!」
「レーシア! 巻き添え食うぞ! 取り敢えずこっちに来い!」
アトルが叫んだが、レーシアは聞いていない。
男が更に魔術を放った。彼が手に持つ槍の柄で、きらりと光るあれはアルナー水晶だろうか。
氷の槍がレーシアとリリファの方へと放たれた。
アトルは胆を冷やしたが、それはリリファも同じだった。躊躇いなく前に出てレーシアを庇い、障壁を張って槍を叩き落していく。
「なに考えてんのよこの野郎! 〈器〉に代えはいないのよ!?」
男は無反応で、更に魔術を撃ち出そうとしたが、その背後から思い切り蹴りを見舞った人物があった。
ディーンである。
リリファは感謝するどころか、彼に向かって怒鳴った。
「おっそい! ディーン、レーシアさんを確保したらとっとと行くよ!」
「馬鹿を言うな!」
アジャットが叫ぶと同時、ディーンの背後で火花が炸裂した。グラッドだ。
アトルはただひたすらにレーシアを見ていた。レーシアはただの一度もアトルを見なかったが、リリファを見る目に不信が膨れ上がっていくのが分かった。
「サラリスがどこにいるか、本当に知ってるの?」
レーシアは呟くように尋ねたが、リリファにはしっかりと聞こえたと見えて、彼女はレーシアに向き直った。
「もちろんですとも?」
挑戦的に語尾を上げたリリファを辛そうに見て、レーシアははっきりと、低く呟いた。
「――嘘だったら許さない」
リリファが凍り付いた。彼女は間違いなく、レーシアが宝具を発動させればどうなるか知っているのだろう。
「嘘なんかじゃ――」
「リリファ!」
ディーンが鋭く警告し、リリファがはっとしてグラッドの攻撃から回避行動を取って逃れる。
この状況に、遂にアジャットが参戦した。
軽く片手を挙げてリリファ、ディーン、そして槍を持った男を指差す。
リリファは咄嗟に躱したものの、あとの二人は念動系の緊縛の術式で足元はおろか両腕まで固められ、完全に身動きを封じられる形となった。無論、二人とも即座にそれを破ろうとしたが、高等指定魔術師の仕業である、僅かな綻びさえもない。
「この役立たずっ!」
リリファが罵り、レーシアの腕を掴んだ。
「まあいいや、行きましょレーシアさん。大丈夫です、私嘘ついてませんからっ!」
レーシアは一瞬躊躇ったようだったが、これを逃せば後はないと思ったのだろう、頷いて、リリファに付いて走り出した。
全身の血が逆流した。
「レーシア!」
「レーシアさん!」
アトルとアジャットが同時に叫び、更に同時に走り出そうとして、アジャットの集中が途切れた隙を突いたディーンの巻き起こした突風に巻き込まれた。
視界が利かなくなった上、聴覚までも奪うほどの突風。アトルは数歩よろめき、魔術師であれど女性であるアジャットもそれは同じだった。アジャットがすぐさま逆方向の風を呼んで相殺したものの、そのときには既にレーシアの姿はない。
アトルは歯噛みした。
彼がレーシアの目を覚まさせてから初めて、レーシアがアトルの傍からいなくなった。
「くそっ!」
アトルは悪態を吐き、迷うことなくレーシアたちが進んだ方向に向けて駆け出した。
アジャット、グラッド、槍を持った男、そしてディーンもそれは同様であり、結果として争いが収まることは一切ない。
セルダの鐘塔の、五つの鐘が一斉に鳴らされた。遅すぎるくらいだ。セルダはこの抗争を脅威と判断したのだ。
高い音が低い音が、重い音が軽やかな音が、荘厳な音が。一つになって耳を聾するような警告の声を轟かせる。
事態をまだよくは分かっていなかったであろう住人たちが、有事の際のために定められた経路を通って避難を始める。
その人々を巻き込むわけにはいかず、アジャットとグラッドの手が鈍った。
しかし、いざとなれば一般人の犠牲も辞さない構えのアジャットたちに対し、槍を持った男は完全に戦闘行動を封じられていた。どうあっても市民を巻き込むことはならないらしい。
よって抗争の場から離れるように動きつつ、レーシアを捜す素振りを見せたが、そうは問屋が卸さない。
ディーンは一般人を端から無視し、怪我人が出ることも厭わず魔術を放ち続けている。言わば逃げ腰である槍の男を逃がすつもりはないとばかりに、周囲一帯に強力な魔術を穿ち始めた。
一方のアトルはと言えば、抗争に参加するだけの技量はないため、ひたすらにそれを避けつつ、レーシアを捜していた。
槍の男が、取り付けられたアルナー水晶の術式を駆使しつつ逃げているのに比べ、純粋に体力と勘のみで逃げている分、分が悪い。実際、既に何発か食らい、腕と足と背中に痛みがあった。
ディーンはレーシアたちを追っているのではなく、アトルたちの足止めをしようとしている。ゆえに動きに制約がなく、随分と有利に戦局を運んでいた。
槍の男は勿論、アジャットとグラッドも魔術の使用を控えめにしている。実質ディーンの独壇場だった。
ディーンが放った衝撃波をアジャットが殺し、炎をグラッドが消し止める。足元の微細な変化からディーンが地面を隆起させようとしていることに気付いたアジャットと槍の男が同時にそれを阻止し、しかしアジャットの魔力が大き過ぎたために地面が罅割れた。
魔術が巻き起こす衝撃波やその余波で、近隣家屋の窓硝子が立て続けに割れていく。悲鳴があちこちで上がり、しかしそんなことを気にしている余裕はない。アトルはそれこそ血眼になっていた。
まだそれほど遠くへは行っていないはずだ。レーシアの足の遅さは、何度もその手を引いて走ったアトルがよく知っているのだ。
「レーシア――」
声に出したその瞬間、ディーンの放った今までで最大級の突風に背中を押され、冗談抜きにアトルは吹っ飛んだ。
アジャットは防御が間に合ったらしいが、アトルを含む他の三人は見事に別々の方向に飛ばされ、それぞれ腰や胸を強打して呻いている。
アトルは腰を強打し、痛みに喘いだが、何とか数秒で立ち上がった。今の今まで争っていた五人がアジャットとディーンを除いてばらばらになり、あっと言う間に人に紛れて互いに見えなくなった。
これ幸いと、アトルはレーシアたちが進んだと思われる方向に向けて疾走した。
ディーンの攻撃とアジャットの防御がぶつかり合って、通りに響く音を奏で、空気を震わせている。
腹に響くその音を聞きながら、アトルは心持ち腰を屈め、目立たないようにしつつ走り続けた。
鐘の音が響き続けている。アトルは眩暈さえ覚え始めた。
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足が縺れそうになって、レーシアはすかすかする息を必死に吸い込んだ。
「ど――こまで、走る、の?」
自慢ではないが自分に体力はない。それを知ってか知らずか、腕を掴んでぐいぐいと引く金髪の女性は足を止めることさえもなくすらすらと答えた。
「追手がいなくなるまでですよー。まったくみんなしつこいですねっ」
レーシアはくらくらする視界で瞬きをする。
先程まではこのリリファたちが追手だったはずなのだが、今は違うのか。逆なのか。頭に酸素が足りていないせいで余計に考えが纏まらない。
「も、無理……」
レーシアが息絶え絶えに訴えると、リリファは振り返って目を見開いた。
「え、ちょっとまだそんなに走ってないじゃないですか」
力なく首を振り、レーシアは何とか言葉を紡いだ。
「――死に、そう……」
うぇえ? と珍妙な声を発したリリファは、さすがに死なれては困ると思ったのか、通りを左折して、人の少ない場所にレーシアを誘導し、地面に座り込み、塀にもたれる彼女の背中を擦った。
「だ、大丈夫です?」
「うう……」
レーシアは呻いたものの、頭の位置を低くしたことで持ち直し始め、ふう、と息を吐いて顔を上げた。
リリファは案じるようにその顔を覗き込み、気遣わしげに尋ねた。
「立てそうです?」
「うー、うん……」
レーシアは曖昧な返事をすると、上目遣いにリリファを見た。
「今のうちに、サラリスがどこにいるか教えて?」
リリファは顔を顰めた。
「あのですねー、こちらとしましても、命令遵守の義務がありましてー」
顔を伏せ、レーシアは黙り込んだ。リリファが「ご理解くださいます?」と言いながらその顔を覗き込む。
レーシアは完全な無表情だった。虚を突かれたリリファが瞬くと、レーシアは確認するように言った。
「つまり、こういうこと? あなたの上にいる人は、私とサラリスを会わせたくないと」
リリファは慌てて手を振った。
「そんなわけないじゃないですかぁ。ただ、ほら、色々ややこしくて。だからその、早く、来ていただきたいんですけれども」
「…………」
レーシアは黙っていた。サラリスに会うことに待ったを掛けられたという、そのことしか頭にない。
気付いたら百年が過ぎていた。覚えているのは、サラリスがいない寂しさと、あの最後の瞬間の混乱と激痛。
そして、目が覚めてから覚えたのは、周囲にいる人々への恐怖と不信。
何よりも、自分をこんな目に遭わせた誰かへの、隠しておかなければ気が狂ってしまうだろう程の憎悪。
いつまでこのままで耐えればいい。
サラリスしかもう、真に知っていると言える人はいないのだ。
それなのにどうして、サラリスに会えないのだ。たった一言、サラリスがどこにいるかだけを教えてくれれば、後はもう何としてでも会いに行く。
誰に嫌われても責められても、失望されてもそんなことは知ったことではない。
サラリスに会えさえすれば、後はもうどうにでもなればいい。
サラリスは何があっても味方でいてくれるはずだ。好きでいてくれるはずだ。そうでなければならない。
だからあの最後の瞬間に、彼女の顔を見たような気がするのは間違いなのだ。
そうでなければ今度こそ気が狂う。
だから早くサラリスに会って、そんなことあるわけないじゃないのと、いつもの口調で言ってもらわないと困るのだ。
なのにどうしてサラリスの居場所が分からない。
感情の昂りに合わせて、体内に封じた宝具と封具の〈糸〉がぴんと張られていくのが分かる。どくどくと心臓が脈打つたび、宝具と封具が身近に感じられていく。
「あの……、レーシアさん?」
ふざけるな。
どうして百年という時を飛び越えてまで、こんな争いの只中に突っ立っていなくてはならないのだ。
どうして、エンデリアルザなどと呼ばれなければならないのだ。それはサラリスだ。自分ではない。断じて違う。
ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるな。
「立てないんですか? 困ったなぁ。――あ」
リリファがぽんと手を合わせる。
鐘塔の鐘が一斉に鳴り響き始めた。
「封具を使えば! あれは未然の事象を否定するんでしょう? じゃあ、レーシアさんの疲労も否定してくれるのでは?」
レーシアは顔を上げた。
「ふざけないでよ」
この憎悪も激怒も、封じておかなければ宝具と封具が暴れ出す。
「宝具も封具も絶対に使わないようにって、サラリスが言ったのよ」
だからこそ、海に行こうと言ったのだ。
「ふざけないでよ。どうしてサラリスに会うのを邪魔するのよ」
歯を喰いしばる。
「ここで封具を使うくらいなら、宝具を使ってやる。それで脅してでもサラリスの居場所を教えてもらう」
〈動〉の宝具の圧倒的な力を、レーシアはこの目で見て知っているのだ。
それでも、サラリスに会うためならば、そのサラリスの言い付けでも破ってしまう。
「待ってください、落ち着いて」
リリファは言って、真摯な仕草で頭を下げた。
「ごめんなさい、軽はずみな発言でした」
「もう嫌だ。サラリスに会わせて」
レーシアが抑えた声で言うと、リリファは唇を噛んだ。考えあぐねているようにも見えるが、ただ苛立っているようにも見える。
「そうは言われましても――」
彼女が言い差したその瞬間。
鮮やかに中空に閃光を走らせて、音はなくただ衝撃を伴って、レーシアがもたれ掛っていた塀が爆散した。
「誰よもうっ!」
リリファが怒髪天を衝く形相で誰何したが、レーシアはそれよりも早く相手の見当を付けた。
最初に、あの食堂を出たとき扉を爆散させたのは、後のリリファの言動からしてリリファたちではない。
あのアルナー水晶の付いた槍の男かとも思うが、彼らは一般人を傷付けることを極端に忌避する。彼らがあのようなことをするとは考え難いのだ。
では誰か。
この町に、ミラレークスでもなくデイザルトの手の者でもなく、またリリファたちの味方でもない誰かがいるのだ。
その誰かがレーシアに追い着いたのだ。




