fin. 瞼を上げた先にある
これは何?
手紙。
誰からの? 誰宛の?
僕たちの友人からの。渡せば分かるってさ。
友人? 知ってる人?
いいや、知らない人だった。
どういうことさ。
その人を知ってる人とは、会えないんだってさ。
だから、どんどん他の人に渡して繋いでいってくれってさ。
で、誰を目掛けて繋いでいってるわけさ?
――ファンロさん。
出来れば彼まで届けてほしい、だってさ。
傍にいる人間にも見せろって。
え、人間?
うん、そう。その人間たちは多分、僕たちを食卓に招いてくれるって。
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昼下がりの陽光が大きな窓から差し込む。
その窓は開け放たれて、冬を目前にした季節の、やや肌寒い温度の風を室内に呼び入れていた。
常であれば行儀よく長机が並んでいるその部屋は、食堂だった。
それも大国、ジフィリーア王国の王宮の食堂である。
王宮には、無論のことだが食堂は複数ある。
そしてその食堂は、最小の食堂ではあった。
だが、最小とはいえ一国の重鎮が集うことすらある食堂である。
だがそれが今や、戦場も斯くやという慌ただしさを見せていた。
「なーんか、悪いわねえ」
ばたばたと動き回る周囲の人間たちを見て、長椅子に反っくり返り、目の前の机の上に脚を載せているのは、長い金髪を一つに束ねた女性――リリファである。
ちなみに彼女の目の前の机には、一国の機密文書を含む書類が散乱している。
行き交う役人のうち数名が、ただ一人悠然と寛ぐ彼女に殺意を抱いた眼差しを向けていたとして、何ら不思議はなかった。
「――おまえ! ちょっとは働けよ!」
そう怒鳴りながら、リリファの向かい側から大量の書類を抱えて現れたのはリーゼガルトである。
どさり、とその書類を机に置いたリーゼガルトは、その拍子に傍に置いてあった小さな額を倒し、泡を食った様子でそれを立て直す。
そうしてから、リーゼガルトは心底迷惑そうにリリファを見遣った。
「元はと言えば樹国がいきなり開国したせいでこんなに忙しいんだろうが!」
「あー、条約の整理とかでしょ? あとこっちの大使との会合の日程の調整とか、貿易のあれこれとかでしょ?
でもそれ、更に元はと言えばデイザルトの野郎が平和条約突き付けてきたせいだから」
悪びれず、けろりとしてリリファは答えた。
そして、大使って言っても私とディーンなんだけどねぇ、とけたけたと笑う。
デイザルトの野郎、というリリファの発言に、リリファの背後で書類仕事に勤しんでいた役人たちの数名が、殺意を籠めた目で立ち上がり、制服の袖を捲り上げ始めた。
それに気付いたリーゼガルトが、まぁまぁ、と相手を宥める視線をこっそりと送る。
――宝国を相手とした出兵は、ジフィリーアやリアテードをはじめとした大国、そして樹国の国力にも大きく影響を与えた。
その中で、百年戦争がもたらした仮初の平和が脅かされることを警戒し、シルヴェスター・アラン・デイザルトが締結に奔走した条約が、今リリファが発言した平和条約だった。
「んなことしなくてもこっちには戦争する気なんてないのにねぇ。
じゃなきゃ宝国の後始末なんかでのこのここんなとこまでお呼ばれしてないわよ」
やれやれ、と言いたげに首を振り、リリファは左手を右手で叩いた。ごぅん、と鈍い音がする。
――リリファの左腕は、アルナー水晶を関節ごとに埋め込んだ金属製の義手となっていた。
「そんなことより、アジャットはどこよ? 会いに来たんだけど。アルナー水晶の調整してほしくて」
リーゼガルトは諦めたような溜息を零す。
「アジャットなら、ミラレークスの件でデイザルトに会いに行ってるよ。すぐ戻るってさ」
開け放した窓から風が吹き込み、数枚の書類が舞い上がった。
窓を閉めて、という誰かの指示に、慌てたようにリーゼガルトが、すまんそのままで、と声を飛ばす。
「もうすぐのはずだから! 終わったら閉めるから、悪いな!」
リーゼガルトの声に、窓を閉めようとしていた初老の男が肩を竦め、書類を拾い上げ始める。
そのやり取りを見てから、ふと気付いたようにリリファは尋ねた。
「ミルティアは? 五体欠損仲間のミルティアは?」
いけしゃあしゃあとそう言うリリファに、リーゼガルトは額を押さえた。
「おまえ、ゴルソン特等指定よりしつけぇな……。
ミルは外! 例によってファンロに呼び付けられてる」
ふうん、と声を零して、リリファは今しがたリーゼガルトが立て直した額縁に視線を向けた。
額縁の中には、数行の文章が几帳面に綴られている紙が入れられている。
――生きていくこと。
――恩に報いること。
――この顔を悔やまないこと。
――親切にしてくれる人たちを大切にすること(人たちと書けるのだから私は恵まれている)。
――もしもダイに会えたなら、気にしていないと伝えること。
――それが事実となるように、生きていくこと。
――グラッドを助けること。
――リーゼガルトくんへの中傷を彼の耳に入れないこと。
――ミルティアさんを笑顔にすること。
――グラッドに報いるために生きること。
――アトル青年とレーシアさんを忘れないこと。
その中の一文に目を留め、リリファはぽつりと呟いた。
「……今日だっけ?」
リーゼガルトは顔を上げ、唇を曲げた。
「ああ、今日だ。
――そろそろだと思うぞ。だから窓を開けてる」
ふうん、と、先程よりはやや神妙な声でそう言って、リリファは首を傾げた。
「ま、良かったでしょ。手紙だけでも何とか届いて」
リーゼガルトの頬に、苦笑じみた愛情の色が広がった。
「――まぁ、そうだな」
そのとき、鐘が鳴り始めた。
――リーゼガルトは目を閉じた。
シルヴェスターと対面し、話していたアジャットが窓に駆け寄り、開け放たれたその窓枠に手を掛け、殆ど涙ぐみながら目を閉じた。
その背後で、シルヴェスターもまた、束の間瞼を下ろす。
王宮の広い庭園で、ファンロの肩に担ぎ上げられたミルティアが顔を上げ、大気を渡る鐘の音色に小さく微笑む。
そして、覚えたばかりの空人の言葉で、「静かに」と告げた。
そこから遠く離れた一つの都市でも、同じ鐘の音が順々に鳴らされ、それを合図に祝いの杯を上げる人々の姿があった。
宝国を相手取った出兵において、多くの犠牲を払いながらも連合国側は辛勝した。
その立役者といえる者たちが、褒美を願い下げてでも進言したのが、この日、彼らがいる町――ジフィリーアの王都アリーフ、そして、その手紙の送り主の、最も身近な人々が帰り着いたであろうケルティで、この鐘を鳴らすことだった。
たった一枚の手紙を読んで、彼らはそれを願った。
五つの鐘には名前がある。ドーヌム、フェーリークス、フォルトゥーナ、テンプス、ヴィア。
音色の違う鐘が一斉に鳴らされればそれは厄災、順に一つずつ鳴らされればそれは祝福。
かつて一人の少女が、愛情ゆえに招いた大戦の、その名残。
瞼を上げた先にある、いつだってそこにあったその明日を、数え切れないだけの夜を越えて願った彼らが聞く。
――海辺の町の鐘が鳴る。
五つの音が、順番に大気を震わせる。
祝福の音色が、百年の時を越えて出会った二人の頭上で風に乗る。
ご愛読ありがとうございました。
最初から最後まで読んでくださった方がいらっしゃれば、
この上なく嬉しく思います。




