45 「夢に見た現」(2)
脳裏でアジャットの声がする。まるですぐ傍に彼女がいるように。
――必ず、レーシアさんを連れて戻って来るように。私は、レーシアさんとまた会いたい。言いたいことも沢山ある。きみとも、これ切りにするつもりは毛頭ない。
そして、銀の炎を挟んで目の前に立つあるべき定めが、嘲笑を浮かべてこちらを見ている。
――あの子以外は全部諦められるのかよ?
アトルは息を呑むことすら出来ず、瞬きすら出来ず、ただ反射のように呆然と問い返した。
「……レーシア以外を――何だと?」
問い返されたあるべき定めは、アトルのその反応が面白くてならないというように、腹を抱えて笑い声を上げる。
ひぃひぃと声を嗄らせて嗤う“アレック”、その姿がぐるりと裏返って変化した。
――そこに立っているのは、アトル自身。
“アトル”はアトルを見据え、引き攣るように笑いながらも高らかに告げた。
「だから、あいつ以外は全部、おまえにとっては諦められるものなのかよって訊いてんだよ」
今や隠しようもなく震える手を髪に突っ込み、アトルはどうしようもなく揺れる声を押し出した。
「――どういう、ことだ。あいつ以外のみんなに何を――」
その言葉を遮るように、アトルを嘲る“アトル”が右手を上げ、指をぱちんと鳴らした。
途端に、アトルとあるべき定め、そして二人の間で燃え盛る銀の火文字を残し、周囲の様相が一変した。
急速に空間が広がり、天井の高い、灰色の石造りの廊下が現われる。
窓はなく、さながらそこは要塞に似せた牢獄のような。
――ここがどこなのか、一瞬たりとも考えずともアトルには分かった。
鈍く痛む傷が訴えるように、アトルの記憶からは薄れない場所だった。
サラリスが百年にも亘って囚われ続けた牢獄。
そこへ続く廊下だった。
「そう急くなよ。説明してやるよ」
にやにやと笑いながら“アトル”は言い、アトルに背を向けて廊下を奥へと歩き始めた。本来ならばサラリスが囚われていた牢獄へと続く方向へ。
――この空間においては奥に何があるのか、アトルには分からなかったけれど。
あるべき定めの背中に追従するように、火文字が展開されていく。
あるべき定めの足取りを追い掛けて、新たな火文字が次々に空間に刻印されていく。
無音で燃え盛る銀の炎が、暗い石造りの廊下の奥へと光を呼び込んでいく。
一瞬の躊躇いはあったものの、アトルもすぐさまあるべき定めの背中を追い掛けた。
アトルが付いて来ていることは分かっているだろうに、振り返る素振りすら見せずに、“アトル”は左手を上げ、その指を一本立てた。
「おまえが支払う代償は、」
ぼっ、と、“アトル”の立てた指先に火が灯る。
その火はすぐに捩れながら伸び上がり、刻々と記されていく火文字の一部となった。
指先の残り火を、“アトル”がふっと息で払う。
「あるべき定めが与えるおまえの運命の中の、とある巡り合わせだ」
アトルは眉を寄せた。
手を伸ばせば届く距離にいるはずの“アトル”の姿は、しかしその背中に付き従って展開されていく銀の火文字の眩しさで、妙に掴みどころなく見える。
「巡り合わせ……?」
あるべき定めの言葉に煽られる厭な予感に、覚えず呟くように復唱したアトルを、初めてちらりと振り返って、“アトル”はにぃやりと笑った。
その琥珀色の目に、銀光が映って火花を散らせている。
「ああ、そうだ」
そう言って足を止め、あるべき定めはくるりと身体の向きを変えた。
己の背を追って展開されてきた火文字を正面に望み、あるべき定めは役者のような身振りで両手を広げる。
その顔貌に銀の光が照り映えて、“アトル”の顔はまるでよく出来た仮面のように見えた。
「てめぇが生まれたのも巡り合わせ、てめぇが生きてきたのも巡り合わせ、てめぇがあいつに出会ったのも巡り合わせ。
全部、全部巡り合わせだ!
つまり、俺の掌の上、俺の一部、俺自身がてめぇを今の形にしたんだ――分かるな?」
声を張り上げて断言し、そして一転、囁き声でアトルに確認したあるべき定めは、石造りの廊下に真っ直ぐに線を引くように展開された火文字の群れを、まるでとっておきの傑作を見るような目で見た。
そして、にぃ、と唇を曲げる。
「記されてる。書かれてる。ここに綴られてるのがおまえが払う代償だ。
この文字、この運命、この巡り合わせを俺が受け容れりゃあ、晴れておまえは代償を支払ったことになるってことだ」
緊張に対して初めて苛立ちが勝り、アトルは歯噛みした。
「ぐだぐだ御託を並べてねぇで、さっさと――」
ぴっ、と、アトルの姿をしたあるべき定めがアトルに向けて指を立てた。
そして凄絶に微笑むその表情に、アトルの声が喉で消える。
目の前にいるのは、あるべき定め。
運命であり、巡り合わせであり、世界を形作る意志そのもの。
――アトルがその目を見て、気圧されたのも当然だった。
凄烈な笑みを浮かべたまま、あるべき定めは静かに宣告した。
「あるべき定めの上に記されてるおまえのあるべき定め、そこからおまえを大切に思っている者を省く。そこからおまえが大切に思っている者を消す」
今度こそ、アトルは声を失った。
――あるべき定めの言葉の意味を理解したのだ。
理解したはずなのに、だからこそ衝撃を受けたはずなのに、理解が心に落ちてこない。
喉元で止まって言葉を塞き止め、アトルの思考一切を凍らせる。
(――待て。待て、待て。は……?)
取り止めもない無意味な言葉だけがぐるぐると頭の中を回る。
自分の身体が妙に遠く感じられる。
阿呆のように立ち尽くして、アトルは凄絶に微笑む“アトル”を凝視した。
――それしか出来なかった。
目を見開いて絶句する、そんなアトルを見ても、先程から一転して、あるべき定めは哄笑を上げることはなかった。
ただ微笑んで――その姿が変わる。
空間に溶け消えるように“アトル”の姿が霞む。
そして一瞬後、霞を纏うようにして幻想的に、羽衣に似た雲を引いて、アリサがそこに現われた。
金茶色の髪の幼馴染は、菫色の目を細めてアトルに笑い掛ける。
そして、言った。
「――もう、私に会えないの」
その声が、アリサの――アトルが生まれて初めて守ろうと思った相手、紛うことなき親愛を寄せる妹の声が、アトルの思考を凍らせていた理解を溶かした。
落雷のような理解に打たれて、愕然としてアトルは己の唇を覆った。
恐慌に似た感情が、津波じみて押し寄せ、アトルの感情をその一色に染めていく。
――考えてもみなかった、重過ぎる代償に、思考が言葉に纏まらない。
そんなアトルを微笑んで見詰めて、アリサがゆっくりとその場で身を翻した。
「待っ――」
思わず衝動的に声を出したアトルの、しかしその目の前で、霞を引いてアリサの姿が変わった。
薄らと掛かる霧の中から現われたのは、群青色の目で真っ直ぐにアトルを見据えるアジャット。
「私にも会えない」
姿が変わる。
小さな雲海を生じさせて、そしてその中からミルティアが現われる。
小首を傾げて、小麦色の髪の少女が囁く。
「あたしにもぉ、会えない」
霧にミルティアの姿が溶け消える。
そして現われたのはリーゼガルト。肩を竦めて、傭兵風の男が念を押す。
「俺にも、会えなくなる」
霧が立ち昇り、そして姿が変わる。
シルヴェスター・アラン・デイザルトが、微かに唇を曲げて立っていた。
「私とも、あれが最後になる」
次々に姿が変わるあるべき定めを、アトルは茫然とその瞳に映していた。
リリファが現われ、ディーンが現われる。
ゼーンやアレック、ジャスミンやデリック、〈インケルタ〉の――家族の姿が全員、入れ替わり立ち変わりアトルの前に立つ。
ファンロが現われ、ルンオンが現われ、ミアンが同じ言葉をアトルに囁く。
ステラが現われる。
エミリアやオーレック、ジークベルトがアトルに念を押す。
次々に姿が変わる。
――ここまで石造りの廊下を蜿蜒と伸びる火文字、あれが何を表わしているのか、ようやくにしてアトルは悟った。
名前だ。
アトルが特別に心を割く相手だけではない。
これまでのアトルの人生で、多少なりともアトルに影響を与えてきた者全員――そして――
「ほら、これからもだ」
再びアトルの姿を取ったあるべき定めが、愛想良くさえある表情でそう告げた。
「これからおまえが会う連中、誰一人としておまえと親しくなることは出来ない。
誰にも大切に思われず、誰の記憶にも残らず生きて死ね。
――それが、おまえが捧げる代償だ」
アトルは息を止めた。
――もうこれ以後、アトルを知る誰にも会うことは叶わないと。
声を聞くことも叶わないと。
巡り合わせがそう定めると。
レーシア一人を得る代償としてアトルが捧げる対価。
それは、これ以後にアトルに用意されていたはずの再会と、出会いだ。
喉が震えた。
目の奥が痛み、アトルは息を吐きながら、強く唇を噛んで感情を堪えた。
(――レーシアは、違うはずだ)
失うものから目を背けようとして、縋るようにアトルは考える。
(レーシアは、今はいない。あるべき定めの上に、レーシアの運命はない。今、俺が捧げる代償に、あいつが含まれるはずがない)
必死になってそう考えるのに、脳裏にはこれまでの人生が浮かんでくる。
失うものの大きさを、アトル自身が反芻して、アトルに突き付ける。
涙すら出てこなかった。
ただ、たった今宣告された代償を受け容れようと、呼吸が大きくなっていく。
詰まる胸に息を吸い込み、その息を震えながら吐き出す。
俯いて、ただ呼吸を繰り返す。
ふ、と、息を抜くような笑い声がアトルの耳を擽った。
その声音に、はっとしてアトルは顔を上げる。
――目の前に、サラリスが立っていた。
抜けるような白い肌に銀の髪を流し、白いドレスを着たサラリスが、微笑んでアトルを見詰めている。
「――――」
――命を落としてはいても、アトルに魔力を譲ったがゆえに、サラリスの存在はあるべき定めに残り続けている。
だからこそこうして、あるべき定めがサラリスの姿を取ることが出来ているのだろう。
そう判断はしても、アトルは声を出せなかった。
呆然と“サラリス”の、翠玉の瞳を見詰めていた。
アトルの視線を捉えて、“サラリス”は優しげに――そしてその実、この上なく酷薄に微笑んだ。そして、甘やかな声音で囁いた。
「断っていいのよ。言ったでしょう、あるべき定めは、ここに記されているあなたが払う代償を、まだ受け容れてはいないの。
――あの子ではなくて、他の人たちを選べばいいだけのことよ。――ね?」
************
真っ白に輝く無数の星が敷き詰められたような碧空の下で、レーシアは全幅の信頼を胸にして立っていた。
(アトルは来てくれる)
手を伸ばして、エンデリアルザの手を握って、レーシアは離れた場所にいるはずの、これまでの〈器〉たちを見ようとするように目を細める。
(この人たちは、ここで終わる)
エンデリアルザの手は温かい。
そして細かく震えていて、レーシアは彼女の手を握る指にますます力を籠める。
(アトルは来てくれる)
丈高い草がそよぐ。
その頂に咲く、小さな白い花が揺れる。
地平の彼方は、白い花と碧空いっぱいに広がる白い星とが相俟って、薄く輝く白い帳が靡いているように見えていた。
(来て、私を助けてくれる)
エンデリアルザは目を閉じている。
その唇が微かに震えている。
(これまでもずっと、アトルが助けに来てくれたもの)
傍らの少女を慰めようと、固くその手を握っているレーシアは、揺らぐことなくそう信じている。
(アトルが来てくれる。――来て、私たちを助けてくれる)
************
甘く微笑む“サラリス”を見詰めて、アトルは唇を噛んだ。
「――俺は、」
うん、と頷き、“サラリス”は翠玉の目を細める。
銀の睫に縁取られた神秘的な瞳には、サラリスの瞳にあった愛情は欠片も感じられない。
冴え冴えと麗しい宝石そのもの。
「俺は、あいつが好きだ」
サラリスの姿を模したあるべき定めは、その美しい唇で弧を描いたまま動かない。
「ずっと、あいつのために頑張ってきた。
あいつに出会ってから、ずっと。
……そのせいで大事な奴を傷つけても――ずっと」
唐突に瞼を刺した涙を堪えるために目を閉じて、アトルは食いしばった歯の間から囁いた。
「仲直りして――もう傷つけないようにしようって――決めたんだ」
あるべき定めは首を傾げる。
銀色の長い髪が、さらりと揺れる。
その見目は、その姿は、アトルが心から敬うあのひとのものだ。
「――けど、俺は、――サラリスさんの遺志を継ごうって――決めたんだ」
震える声で囁くアトルの感情を、まるで無いものとして黙殺して、あるべき定めは凄艶に微笑んだ。
「――どうするの?」
銀の火文字がうねる。
石造りの廊下に影が躍る。
「あの子を取るの? あの子以外を取るの?
あるべき定めはどちらでも構わないけれど」
アトルは瞼を上げた。
視界は妙に滲んでぼやけて、これでは現実と変わりない。
そのことを理不尽に思う。
ここが現実から隔絶された空間であるならば、せめて情動を身体と紐付けるのはやめてほしいと。
「――俺は、」
声が出ない。
感情が、声を阻む。
「俺、は……」
視界が歪む。
アトルは目を閉じた。瞼が熱かった。
「俺は、これまで散々……迷惑も掛けたし、我侭も言ってきて……」
レーシアはこれまでに随分とアトルに謝ってきたが、謝るべきなのはアトルも同様だった。
アトルがこれまでに、レーシアを守りたいと、レーシアを助けたいと、その一心で周囲に押し付けた我侭はどれ程のものだったか。
アリサを泣かせ、家族を悲しませ、グラッドを死なせ、仲間たちを危険に晒し、挙句は大陸中から集められた魔力を己のために使って。
「……けど、あいつらは――俺を大事に思ってくれたあいつらは――その度に俺を許してくれたから――」
目を開いて、アトルは滲む視界に“サラリス”を映した。
「――俺が代償を払わなかったら、レーシアは絶対に戻ってこないんだろ?」
サラリスの姿をしたあるべき定めは、典雅に頷いた。
アトルは唇を噛んだ。
アトルが彼らを大切に思っていることと同様に、彼らもアトルを大切に思っている。
アジャットが、必ず二人で戻って来いと言ったことを覚えている。
ファンロたちを食卓に招く約束をした。
――それら全てを踏み躙ることに、彼らはどれだけ怒るだろう。
どれだけ傷付くだろう。
――それでも。
「――あいつらは、それを分かってくれる」
アトルは全幅の信頼を彼らに置いている。
「俺があいつらを信じてるって分かってくれる」
アトルはアトルの心を彼らに預けられる。
「俺があいつらに会いたいことも、声を聞きたいことも、あいつらは分かってくれる。
レーシアには俺が付いててやらなきゃならねえって分かってくれる。
――俺があいつらをずっと想ってるって、分かってくれる」
彼らを思い遣る自分の気持ちが、つまらない自惚れであることを祈りながら、自分が思う程には彼らが傷付かないことを切実に望みながら、アトルは決定的な言葉を吐いた。
「レーシアにとっての俺の方が、あいつらにとっての俺よりでかいものなんだって、分かってくれるはずだ」
双方の選択肢において失うこととなるものと得るものとを、感情と先見の天秤に載せて量って。
「あいつらと俺がこれからも一緒にいられて――、その世界にレーシアがいないことと。
レーシアがいる世界で、俺があいつらといられないこと――俺がずっとあいつらのことを想ってること。
――どっちを選ぶのがあいつらが喜ぶことなのか、俺がちゃんと考えたってことを、……あいつらは分かってくれる」
あるべき定めは首を傾げた。
その表情から微笑みが消え去った。
「……代償を払うの?」
「――――」
アトルは息を吸い込んだ。
――これからアトルが失うことになる彼らは、アトルにとっては余りにも大切で、重要な存在だ。
「……あいつらは……」
抑えようもなく、堪えようもなく、アトルは囁いた。
「なに?」
短く、冷たく、あるべき定めがそう促す。
「あいつらは――」
声が詰まった。
言いたいことは決まっているのに、どうしても声に出さなければならない問いなのに、込み上げてくる思いが喉を震わせる。
今を逃せばもう尋ねることが出来ない問いなのに、突き上げる痛みに似た思いが声の出口を塞いでいる。
そして、何度も声を出そうとして、それでも漏れてしまうのは声ではない何かである気がして、何度もそれを呑み込んで。
ようやくアトルは、掠れた声で囁いた。
「――あいつらは、幸せになるか?」
「…………」
銀の火文字の光を受け、白く燃える炎のように佇むサラリス。
彼女の姿を象るあるべき定めは、答えなかった。
ただ小さく微笑んだのみで――そして、それで十分だった。
感情という概念を理解していると断言した、目の前に立つあるべき定めの一片が、初めて正の感情をその瞳に昇らせていた。
サラリス本人の瞳を彩っていたものと比べれば、随分と淡く弱くはあったものの、――確かな愛情が、その翠玉の眼差しを和らげていた。
愛情の籠もった瞳を細めて、小さく微笑む“サラリス”――その表情が答えだった。
――アトルは目を閉じ、深呼吸した。
そして、これから自分が失うことになる一切のものをもう一度反芻して、痛い程に愛おしいそれらを、手放すべきものに向ける哀惜で以て思い返して、――
声の震えを押し殺して、アトルは宣言した。
「代償を払う。――レーシアを返せ」
************
風が吹いた。
レーシアは顔を上げた。
きららかな燐光を含む風が、目に見える軌跡を辿って吹き渡り、草原を撫でて空へと昇っていく。
その風を迎え入れる碧空で、幾万幾億の星々が、なおいっそう煌めき始める。
************
にっこりと、意地が悪いまでに可愛らしく微笑んで、“サラリス”が両の掌を合わせた。
その瞳にはもはや、愛情など欠片たりとも存在しない。
「代償を払う。確かにその意志受け取ったわ」
蜿蜒と伸びる火文字が、俄かにその火勢を強めた。
天井を舐める程に伸び上がった炎を受けて、廊下に伸びる影が消えてゆく。
「では次の話をしましょう」
あるべき定めは朗らかに、そして酷薄にそう言って、今までで最も残忍な色をその瞳に昇らせた。
「あの子を返せ。あの子に新しい運命を。――なるほどあなたの要求は、先程からずっと聞いていたわ。
あなたが代償を払うと言うのなら、私は今、その要求に回答しましょう」
銀の光を受けて、幻想的なまでに美しく煌めく翠玉の瞳に、“サラリス”は強張ったアトルの顔を映す。
そして、その形の良い紅い唇に言葉を載せた。
「出来ないわ」
――と。
悪びれもせず、己が何を踏み躙っているのかということにも頓着せず。
「――――」
アトルは絶句した。
驚きや喪失感のためではなく、ただひたすらに怒りのために言葉を失った。
憤怒と激情に、アトルは思わず前へ出た。
踏み出すと同時に手を伸ばし、罪も無い風に微笑むあるべき定めの襟首を掴む。
「――ふざけんな!!」
叫んだアトルの声が廊下に反響する。
木霊となって幾十にも分かれてあちこちで響く。
襟首を掴まれ、しかし“サラリス”は動じない。
澄ました顔で微笑んで、理の当然とばかりに告げる。
「当然でしょう。新しい運命? それって新しい人生のことよ。
新しい運命を作ってしまったら、そんなものを与えたら、もうあの子はあの子じゃない、別の新しい誰かになるのよ」
どくどくとアトルの心臓が脈打った。
――捧げ損になるのは目に見えてるんだぜ?
ヴィンスの姿をしたあるべき定めが嘯いた、あの言葉が耳の奥に蘇る。
あの言葉が、アトルがレーシアを取り戻すことなど絶対に出来ないと、その前提の上での言葉であったなら――
あるべき定めの襟首を掴んだアトルの手から力が抜ける。
(……駄目だ)
呼吸が浅くなる。切迫する。
(絶対に駄目だ。そんなことはさせない)
必死になって考える。
何度となくそうしてきたように。
レーシアを助けるために、ずっとそうしてきたように。
あるべき定めは微笑んでいる。
サラリスと同じ顔をして、サラリスと対極の表情を浮かべて。
(駄目だ、させない。
レーシアは――レーシアは俺のだ)
何度も主張し、何度も念じたその言葉を、殆ど暗示のように繰り返したそのとき、アトルの脳裏に、つい先ほど放たれた、あるべき定めの言葉が蘇った。
(新しい運命を、――『作ったら』?)
どくん、と心臓が鳴った。
(――作らなければ、いいのか?)
降ってきた考えに、かっと頭に血が昇る。
視野狭窄を起こしているのがはっきりと自覚できるほどだった――深く考えることが出来ない。
(レーシアが辿る運命が、……もう既に、存在しているものならいいのか?)
――天啓のように閃いた道筋に、アトルはがばりと顔を上げた。
(――レーシアは、俺のだ)
「俺だ」
短く、息を吐くようにしてそう零したアトルに、あるべき定めが首を傾げる。
「うん?」
「俺だ」
睨むようにあるべき定めを見据えて、アトルは唸るようにそう繰り返した。
「レーシアに新しい運命を作れないって言うなら、だったらあいつに俺の運命をやる。
俺の運命は作る必要はないんだろ。だったらそれをあいつにやる。
俺とレーシアで、同じ運命を辿ればいい」
少なくともアトルには、人として生きる運命が約束されている。
己を睨み据えるアトルのその言葉に、“サラリス”はしばし無表情で佇み、そして、弾けるように笑い始めた。
玉を転がすような澄んだ声音が、廊下に響いて広がっていく。
心底可笑しげでありながら空虚な、中身の無い空っぽの笑い声。
笑うことに何の意味を見出しているのかは定かではなかったが、“サラリス”は満足いくまで存分に笑った。
そうしてから“サラリス”はようやく、わざとらしくも目尻を拭い、未だに笑みの残る眼差しをアトルに向けた。
「――あぁ、あぁ、よく考えついたわね!」
手を打ち、まるで配下の労を称える女王のような身振りで。
「いいわ、いいでしょう、そのようにしましょう!」
火文字が膨れ上がる。
質量を増し、そして同時に動き始める。
一本の鎖が巻き取られていくように、あるべき定めを指して動き始める。
石造りの廊下で、目まぐるしく影が踊る。
己に向かって動き始めた火文字の列を、まるで招くようにひらひらと手を動かしながら、あるべき定めはサラリスの声で囀った。
「けれど、いいのかしら。あの子は恨まないかしら。
あなたと同じ運命を辿るということは、あの子もあの子の大事な人には会えないということよ。
今、あるべき定めの上にいないあの子は、確かにあなたの代償の範囲には入らないわ。これから生まれる子たちでさえ、これから生まれるということであるべき定めの上にいるのにね!
――あなたとは違う、誰か別の人の運命をあの子にあげたら?
そうすればあの子はこれからも、あなた以外の大事な人に会えるのよ?」
「俺以外の、ね」
アトルは呟き、苦笑した。
「俺以外の奴の運命を辿ったら、あいつは俺には会えないんだろ?」
それが、アトルが捧げる代償だ。
無論とばかりに頷くあるべき定めに、アトルはいっそうの苦笑を向ける。
「だったら、あいつと運命を分け合うのは俺だ。
――あいつは泣くかも知れない、怒るかも知れない。
けど俺は、あいつのために命以上のものを懸けた。だったらそこを譲ってもらう。
俺と一緒にいてもらう」
それに、と言葉を継いで、アトルは初めて、あるべき定めに親愛の籠もった眼差しを向けた。
「あいつが一番大事だと思ってるのは、俺と――そのひとだよ、あるべき定め」
その言葉に、あるべき定めは虚を突かれたように瞬きをした。
きょとん、と翠玉の瞳を瞬かせたあるべき定めを、燃え盛る銀の火文字が囲み始める。
あるべき定めの周囲の空間に巻き取られるように、銀の火文字があるべき定めを囲み――囲んだ端から呑み込まれるように消えていく。
あるべき定めに、アトルが支払う代償が記され始めたのだ。
事が引き返せない局面に達したことを悟って、アトルはぎゅっと拳を握った。
そんなアトルを見て、あるべき定めは余裕を取り戻したかのように、元のような感情の稀薄な笑みを浮かべる。
「あるべき定めは代償を受け取った。
アトル、あなたにはあの子を、自分の運命を辿らせることで人に戻す権利がある」
にっこり、と、満面に酷薄な笑みを刷いて、“サラリス”は言葉を締め括る。
「まぁ、権利があるというだけで、成功するかどうかは知らないけれど」
ほっそりとした“サラリス”の指が、廊下の奥を指し示した。
もうアトルとの会話は終わりだと知らしめるように、きっぱりと。
「ほら、進んで。あちらで頑張ってあの子を見つけることね。――見付かればいいけれど」
歌うようにそう言って、“サラリス”は悪魔のように小さく囁いた。
「見付かったところで、あの子が世界で生きていける身体はもう無いけれど。
――あなたはそれをどうするのかしら、アトル」
その言葉を一旦は無視して――というよりも、反応している余裕すらなく、アトルは廊下の奥へ足を向けた。
「それに、あの子に身体を与えたとしても」
その背中に、非情な囁き声が突き刺さった。
「ただで戻れると思うな――と言ったでしょう。ここはあなたの生きる現実じゃないのよ。
――あなたの生きる現実に戻るために、あなたは何を捧げることになるのかしらね、アトル」
思わず、アトルは振り返った。
――そうだ、確かにアトルは声を聞いた。ただで戻れると思うなと。
だが、アトルは無意識に、捧げる代償は一つだと思い込んでいたのだ。
――まだ何か代償が要るのか。
振り返り、手を伸ばす。
あるべき定めに、代償について何か訊こうとしたのか、それとももう一度代償を捧げなければならないことに何か訴えようとしたのか、それはアトルにも分からなかった。
だが、その手は届かなかった。
高らかにあるべき定めが笑い出す。
朗らかに、冷酷に、残忍に、明るく。
その周囲の空間に、次々に銀の火文字が巻き取られ、呑み込まれていく。
アトルの運命が決められていく。
そしてアトルの伸ばした手のその先で、唐突に、扉が閉まった。
どこからともなく出現した巨大な扉が、アトルとあるべき定めの間を断絶するかの如くに、重い音を立てて閉じられた。
銀の光が途絶え、暗闇となった石造りの廊下に、アトルは一人残される。
「…………」
伸ばしていた手を下ろし、アトルはゆっくりと身体の向きを変えた。
そして、扉に背を向け、暗い廊下の奥へと進み始めた。
あるべき定めはアトルに、レーシアとの運命の共有を許した。
そうすることでアトルに、レーシアを人に戻す権利があることを保証した。
その権利をどこで、いつ、どのように使うのか、一切触れはしなかったけれど。
事ここに至って、何の手引きも導きもなく放り出されて、しかしアトルは自分が絶対に引き返さないと断言できる。
(俺がおまえを諦めたことがあるかよ、レーシア)
心中で断言する。
それは己を鼓舞するためでもある。
行く手にぼんやりと、アトルの記憶にある通りの扉が見えてきた。
(いつだって俺は、おまえのところに駆け付けてやっただろ)
見えてきた扉に向かって、アトルの足取りは速くなる。
暗い廊下の突き当たりは、アトルの記憶と寸分違わない。
ノブも何も無い奇妙な、重厚感を醸す扉が佇んでいる。
現実にこの扉を開けた先にはサラリスがいた。――では、今は。
アトルが扉に向かって手を伸ばすと、その扉は何の抵抗もなく、触れる必要すらもなく、すんなりと奥へ向かって開いた。
その向こうには、円蓋を持つ大広間が広がっている――ただし、そこに夥しい数で存在していた、青白い魔力の結晶は一つも無かった。
大広間の中央で、銀色の炎が燃えているのみだった。
************
レーシアが見上げる碧空で煌めく白い星。
その中の一つが碧空に白く尾を引き、流星となって空を滑った。
************
「――――」
銀の炎を見据え、アトルはしばし立ち尽くす。
――銀の炎があるべき定めであることは、これまでの経緯で十分に分かっていた。
――では、ここに灯るあるべき定めは、何を司り、何を定め、何を統べるものなのか。
疲労は限界に達していた。
まるでここに現実の身体があるかのように頭が鈍く痛み、視界が霞む。
あらゆる記憶と感情が脳裏を雑多に埋め尽くし、考えはもはや働かない。
ただ、反射のように足を動かし、よろめきながらも大広間の中央――アトルの目の高さに浮かんで燃え盛る銀の炎の傍へと歩を進めた。
――あるべき定め。
数百年の昔、エンデリアルザが百代の約束を託したあるべき定め。
その永きに亘って、ゼティスが縋り続けたあるべき定め。
これまでに生きた全ての〈器〉の誕生を定め、その誰一人にも幸せを許さなかったあるべき定め。
レーシアに〈静〉の宝具となる運命を用意していたあるべき定め。
アトルが望みを懸けるあるべき定め。
アトルが捧げる代償を受け容れたあるべき定め。
――ここで燃え盛るあるべき定めは、何を司り、何を定め、何を統べるものなのか。
ここでレーシアを見付けろと、サラリスの姿をしたあるべき定めは言っていた。
「――レーシア……」
アトルの声は低く掠れて、呼び続けたレーシアの名前は擦り切れている。
微かなその声に、アトルの目の前で燃える銀の炎が、大きくうねるように揺らめいた。
「レーシア――」
呻くように呼んで、アトルは目を閉じた。
瞼を下ろしていてさえ、その向こうで煌めきながら燃える炎の光を感じる。
(これは――ここにあるあるべき定めは、レーシアのものじゃないはずだ)
必死になって疲弊した頭を働かせ、アトルはそう思考した。
(レーシアは――レーシアの存在は――、今はあるべき定めの上に無い)
音もなく激しく、銀の炎は燃え盛っている。
(でもどうして――だったらなんで――あるべき定めはここでレーシアを見付けろなんて言ったんだ……?)
頭ががんがんと痛む。
まるでここが現実であるかのように、アトルに肉体があるかのように。
(レーシアと関係がある何かの運命がこれだってことか……?)
そう考えた瞬間、瞼の裏に純白の夜空が蘇った。
色とりどりの星雲が漂うあの空間――あそこで対話した無数の人々――
かつて宝具や封具に身を落とし、歪な存在を今日まで強いてこられた人々。
今、レーシアと最も深い関係を有し、かつあるべき定めの上にその存在が記されているものは、恐らく彼らだ。
そう確信した瞬間、走馬灯のように脳裏を過る光景があった。
牧歌的な、白い花で地平が霞んで見える草原。
碧空の天蓋を、眩いばかりの星屑が覆っている――
『――こっちだ!』
純白の夜空の中に立っていたときに聞いた、誰かの声がそう叫ぶのを耳元で聞いた気がした。
アトルは目を開けた。
――エンデリアルザ、あなたの願いは頓挫する。
何も考えず、無意識に、アトルは燃え盛る銀の炎に向かって手を伸ばした。
――何百年越しだろうと、どんな切望だろうと。
銀の炎に指先が触れた。――熱はない。
痛みもない。何も感じない。
前へ踏み出し、更に深く手を、腕を、炎の中に押し込んだ。
何かに腕が呑み込まれているかのように、炎の向こう側に突き抜けるはずの手が見えない。
肩口までが炎に埋まったそのとき、唐突に、全身を激痛が貫いた。
――いや、激痛と言ってもまだ甘い。
宝具の中に押し込まれたあの瞬間に感じた、世界から断絶されるような激烈な苦痛が、再びアトルの全身を責め苛んでいた。
――私の大事なあの人が来てくれる。
だが、止まらない――止まるわけがない。
アトルには得るべきものがある。
苦痛の余り、吼えるような絶叫が唇から漏れた。
大広間に反響した声が、まるで目に見える実体を得たかのようだった――砕けた半透明の硝子の欠片にも見える何かが、雪片の如くに円蓋からひらひらと降ってきた。
だがその美しさにも、気付く余裕などあるはずがない。
既に身体の半ばは炎に埋まっていた。
苦痛は限界を迎えている。
声すら途絶え、息をすることさえ憚られる激烈な痛み。
炎に熱はなかったが、銀の炎は実物の炎が肉体に引火する様に似て、アトルの全身を覆おうとしていた。
それが如何なる作用によることかは分かりかねたものの、この方法以外に思い付く方法などない。
ここでレーシアを見付けろと言ったあるべき定めの真意は分からない。
ここにレーシアが――見えずともいると言うのなら、彼女を見付ける方法を、アトルはこれしか思い付くことが出来ない。
ゆえにアトルも、自ら炎に身を押し込んでいく。
炎の質量はアトルという燃料を得て、大きく膨れ上がっていく。
――来て、私を助けてくれる。
遂にアトルの全身に火が回った。
苦痛はもはや感覚の域を超えていた。
目が眩み、手足の感覚が完全に失せる。
感覚が失せているというのに、四肢そのものが痛みに変わったのではないかと思える程に、鮮烈な痛みだけはある。
余りの痛みに、自分が採った行動は誤っていたのではないかと、アトルは半ば確信した。
――レーシアを見付けるための正しい手段が、これ程の苦痛を孕むはずがないと――。
眩む視界に映るのは、もはや明暗入り乱れる銀色の陰影のみ――
――私たちを助けてくれる。
何度目かに、アトルの視界が暗転した。
************
レーシアが見上げる碧空で煌めいていた無数の星が、次々に箒星となって空を滑り始めた。
地平に向かって降るように流れる星々が、白い輝線を空に残して消えていく。
エンデリアルザの小さな手が、ぎゅっとレーシアの手を握り締める。
************
目を開けたという自覚も感覚も無かったが、黒く閉ざされていたアトルの視界に、唐突に明るい光景が飛び込んで来た。
眩い草原を俯瞰していた。
アトルが余りに高所にいるために、大地は丸く反って見える。
どこまでも長閑な、光溢れる草原を、暗闇の中からアトルは見下ろしている。
(――ここは)
純白の夜空の中で聞いた話を、アトルは考えるまでもなく思い出していた。
――宝具や封具に身を落とした人々は、「草原」にいるのだと。
レーシアとエンデリアルザだけが少し離れた場所にいるのだと、彼らは言っていた。
(ここに、みんないるのか――)
そう思い至った瞬間、痛いほどの安堵がアトルの胸を締め付けた。
――あるべき定めは、レーシアを見付けろと言った。
そしてアトルは今、レーシアが居ると思しき場所を見ている。
「――レーシア」
呼び掛けるつもりで声を出した。
――しかし、発したはずの声は、アトル自身の耳にすら届きはしなかった。
完全な静寂。
落ちていくでもなく、遠ざかっていくでもなく、アトルは光溢れる草原を見下ろしている。
レーシアが居るはずの場所を。
(……あるべき定めは、)
自分でも驚くほどに焦ることなく、アトルは考え始めた。
つい先程まで、あれほどに視野狭窄を起こし、焦燥に駆られていたことが嘘のようだった。
(――レーシアを見付けろと言った。
生きていくためのレーシアの身体を、何とかしろって言ってた。
生きていくための現実に戻るのに、俺に代償を払えと言っていた)
アトルは息を吸った。
(何とかしろって言われたからには、何とか出来るはずだ)
考える。
眼下の草原は、妬ましいほど眩しく煌めいている。
「……レーシア」
また、声のない声で呟いて、アトルはぎゅっと目を閉じた――つもりだった。
目を閉じた感覚はなく、眼下の草原もまた厳然と、そして幻想的に、アトルの視界に居座り続ける。
「……レーシア――」
おまえのために俺は、ここまで遠くに来た。
準シャッハレイの安宿でおまえを見付けたとき、確かに面倒なことになったとは思った。
だが、これほどまでの大事になるとは思ってもみなかった。
「――レーシア」
もう一度身体を与えて――どうやって。
どうやってレーシアを連れ戻せばいい。
――思考が行き詰まり、アトルは息を止めた。
(何かあるはずだ、何か――)
諦めるという選択肢を意識の埒外に置き、記憶と思考の全てを振り絞って考える。
ここでレーシアに至るための手段。
レーシアを取り返すための方法。
この先、アトルが最愛の人の傍で生きていくための――
『――こっちだ』
また、声がした。
『こっちだ』
純白の夜空で聞いた誰かの声。
『こっちだ、約束しただろ?』
痺れを切らしたかのように訴える、切実な声。
『こっちだ、僕たちはこっちだ――約束しただろ、来いよ』
厭世的でいて泣き出しそうな、まだ幼さを残した声。
『来いよ、助けに来いよ』
この声はロジアンだ。
『来いよ、言っただろ』
繰り返される声に、アトルは息を吸い込んだ。
――一筋の光明のように、行く手を照らす朧げな考えの道筋が立ち始めた。
問題は、その権利がアトルにあるか否か。
「――頼む……」
誰にも聞こえない声でそう囁いて、アトルは拳を握り締めた。だが、握った感覚は、やはり無い。
「頼む、頼む、――あるべき定め」
どんな樹国の信者よりも敬虔にそう呟いて、アトルは誰にも聞こえない声で訴えた。
「あんたに感情があるなら、俺と話したあんたの一部が感情を理解してるなら、」
あの一瞬に見せた淡い愛情が、本物だったと信じて良いなら。
「これだけ許してくれ――俺に譲ってくれ」
『頼むよ、助けに来いよ、もう終わりにしたいんだよ』
ロジアンの声が聞こえ続けている。
耳朶に響く泣き声を孕んだ訴えが、否応なくアトルの感情を急き立てる。
『来いよ。――助けに来いよ』
「今ここで、あの人たちを自由にさせてくれ――殺させてくれ」
祈るように囁いて、アトルは遥かな高みの運命に向かって言い募る。
「宝具も封具も全部、今ここで、魔力に戻させてくれ」
魔力は、それを具現化する生命力なしに、この世界に留まることは出来ない。
命を既に失った人間の成れの果てである宝具と封具。
それらを魔力に戻せば、結果は宝具と封具に大量の魔力を注ぎ込んだときと同様。
――宝具と封具は破壊される。
その媒体となったかつての〈器〉たちには、ようやく安寧が訪れる。
そして、
「レーシアが――あの宝具が、魔力に戻ったら」
必死に続けるアトルの言葉は、アトル自身にすら聞こえない声で綴られる。
だがその声を、あるべき定めは聞いているに違いないと、半ば以上は縋るように確信して、
「あいつを苦しめ続けた魔力だけど――あいつにとっては呪いでしかなかった魔力だろうけど、――それでも、」
史上最大にして最上の、純粋にして最強の――絶世の魔力。
「あいつの魔力は他の〈器〉とは格が違う」
ゼティスとエンデリアルザが、最後の望みを懸けるために生まれさせたレーシアの魔力は、生まれるずっと以前からその格を保証されていた。
「だから、その魔力を全部使えば、――あいつの身体を作れるはずだ」
断言する。
煌めく草原を見下ろしながら、アトルはその権利を叫ぶ。
「俺はレーシアに、もう一度身体を与えてやれるか訊かれた。あんたにだ、あるべき定め。あんたが俺に、どうするのか訊いたんだ。――俺は答えたぞ、あいつに身体をやる方法を答えたぞ。
――今度はあんたの番だ。応えろ、あるべき定め!」
無茶だと分かっている。屁理屈だと分かっている。
だがそれを叫ぶより他に、アトルには打つ手が無い。
ここまでの無理も屁理屈も許された。ならばこの最後の一手を、アトルは無茶と屁理屈で貫き通す。
「あの人たちの運命の前に俺を通しただろう!
あの人たちの運命は今日で終わる――それが分かってたからじゃないのか!!」
アトルが叫ぶ。吼える。その声すらも聞こえない。
「俺がこうやってレーシアを取り戻すって、あんたには分かってたんだろう!」
唐突に、高らかに響く哄笑が、アトルの周囲から巻き起こった。
何千何万の人々が、一斉に嘲笑っているかのような哄笑。
――そして。
目の前に火文字が現れた。
銀の火文字が、アトルの視界から煌めく草原を隠すように展開される。
まるで隠されていた文字が次々と露わになっていくかのように、凄まじい勢いでアトルの眼前の空間が燃え上がる。
――叫んだために息を荒らげながら、アトルはその意味を理解した。
宝具と封具が死んでいく。
************
世界が震えたその瞬間を、アジャットは生涯忘れない。
何が起こっているか分からず、世界そのものが鳴動する衝撃を味わったこと。
――眠っていた宝具と封具が、その存在を反転させて魔力に還っていく。
規格外の魔力が顕現し、そしてそれを維持する生命力を失い、世界を震わせながら消滅していく。
空が揺れ、大地が慄く。
アジャットはただ、心から案じ祈る二人の無事を願って、必死に両の手を握り合わせている。
その目に、崩壊した丘の上に厳然と君臨していた最後の〈動〉の宝具が、まるで空中に解け、溶け消えるように反転していく様が映った。
レーシアの史上最大の魔力が、宿主の身体という容器もなく純粋に、そこに立ち現れていた。
透明でありながら絶対の存在感を持つ、異界の風を織って編んだかのような、不定形の造形物。
空が捩れ、大地がその異常な力から逃げようとするかのように振動する。
風すらそこから退こうとしているかのように、魔力から周囲に向けて暴風が吹き荒れた。
雷光に似た煌めきを発しながら顕現する、史上最大にして最高の魔力――。
しかしその絶世の力は、宿主の生命という存在の条件を失って、徐々に徐々に弱まっていく。消えていく。
内側に収斂していくかの如くに折り重なり、世界から追放されようとしているかのように――
リーゼガルトとミルティアが悲鳴を上げる。
上空の空人と雷兵がどよめき、泣き叫んだ。
シルヴェスターですら激しい衝撃と動揺に深碧の瞳を見開く中、アジャットは不思議と落ち着いていた。
――アトルが諦めるはずがないという確信がある。
アトルが最後まで足掻くだろうという確信がある。
「――いつだって……、」
しかし、囁いた声は震えていた。
「……きみが守ってきただろう? ――アトル青年」
************
レーシアが見上げる空は、もはや無数の輝線から成る籠のようだった。
幻想的なまでに美しく、白い輝線が碧空を飾って、星は次々に流れていく。
「――本当なのね」
レーシアと同じ光景を見上げながら、エンデリアルザが呟いた。
「本当に、あなたの大事な人は来たのね」
覚えず、レーシアは視線を空からエンデリアルザへと移した。
「……え……?」
その耳に、喝采が聞こえてきた。
――誰かが、いや、無数の人々が叫んでいる。
雄叫びを上げ、歓声を上げ、遂に訪れた救済に向かって喝采している。
救済が訪れたことが、なぜ分かったのか――それは明らかだった。
レーシアにも、己の変化がはっきりと分かった。
――薄く、淡く、消え掛けていた情動に火が点いた。
人間という存在から乖離し、器物となっていた彼らに、生き生きとした感情が戻った。
心臓の鼓動すら感じられるほどに、温かな情緒が帰ってきたのだ。
(――アトル)
胸を焦がすほどの恋心の中でそう呼んで、レーシアは胸元で手を握った。
――アトルが何をしたのか、この変化は何故に起こったのか、それはレーシアには分からない。
だが、ただ一つだけ、明確に分かること。
それは――
(アトル、アトル――)
――一度ならず二度までも、アトルはレーシアの信頼に応えた。
最初に会ったときからそうしてくれたように、またしても、アトルはレーシアを助けに来たのだ。
レーシアは周囲を見渡した。
居ても立ってもいられない焦燥は熱い。焦がれる想いは圧倒的な恋慕の情だ。
「――アトル」
そんなレーシアを、何とも言えない感情を湛えた紺碧の眼差しで見詰めて、エンデリアルザはぽつりと言った。
「わたしはこれから向こうへ行って」
弾かれたように、レーシアがエンデリアルザに視線を戻す。
アトルへの恋慕の情に、今だけはエンデリアルザの言葉を聞くべきだという理性が差し挟まった。
エンデリアルザにとっては百代の約束のためだけに誕生したその薄青い瞳と、最も永きに亘って歪な生を辿ってきたエンデリアルザの紺碧の視線が合わさった。
「ゼティスを慰めて、カインにごめんなさいをして、ヴェルダ兄ちゃんに抱き付いて大好きだって言うの」
レーシアは頷いた。
この場所で何が起ころうとしているのか、ようやくにして彼女も悟ったのだ。
――いよいよ、宝具と封具が殺されようとしているのだと。
エンデリアルザの唇が震えた。
「……本当に、ずっと、ただそれだけがしたかったの」
空が割れた。
箒星が刻んだ輝線が、空に走った罅であったかのようだった。
割れ、砕けていく碧空から、なおも星々が落ちてくる。落ちるその軌跡に従って、更に空が割れていく。
割れて剥がれた空の向こうに、純白の夜空が広がっているのが見える。
そして次々に、この草原に囚われていた人々が地面を蹴った。
やっと訪れた解放に向かって、待ちかねた人々が宙を泳ぐ。
望むに値する最上のものが死となった、憐れむべき多くの人々が、しかしその憐憫すらも撥ね退ける力強さを持って、歓喜を爆発させて解放へ向かって宙を蹴る。
星が落ち、白い光の罅が走る空に向かって、この場所を殺す余りにも美しい終焉へ向かって、自ら飛び込んでいく。
草原に立っているのは、今やレーシアとエンデリアルザの二人だけだった。
エンデリアルザが眦を下げた。
今にも泣きそうな顔だったが、もう怯えているわけではなかった。
――彼女の紺碧の目に、心からの悔悟の念が浮かんでいた。
「レーシア、ここでお別れだわ。
――サラリスを殺して、あなたに酷いことをして、本当にごめんなさい」
レーシアは首を振った。
「――いいえ」
答えて、微笑む。
「エンディ、私を生まれさせてくれてありがとう。
――どんな生まれであっても、私が生きて感じたことは全部本当だったわ。
死ぬほど悲しいこともあったけれど、でも――」
エンデリアルザの手を握り締めて、レーシアはにっこりと笑った。
「サラリスに愛された、アトルを愛した、みんなに出会った、私の人生が私は好きよ」
エンデリアルザが微笑んだ。
生前によく似た、ゼティスに救われたがゆえの、明るい微笑みだった。
「――あなたの大事な人が、きっとあなたを捜してる」
微笑んで囁いたエンデリアルザは、割れ砕け、幻想的なまでに美しい最後を迎えようとしている空を振り仰いだ。
そしてもう一度レーシアに視線を戻し、目を細める。
「あなたもちゃんと捜して、会いに行くのよ」
レーシアが頷いた。
その瞬間、草原が砕けた。
割れ砕けた空の欠片が、一斉に草原に向かって降ってきた。
空の欠片を受け止めた草原が砕け、光の飛沫を上げながら崩壊していく。
白い花々が一斉に、光の粒になって消えていく。
その中でレーシアは、エンデリアルザが上へ向かって飛ぶのを見た。
先に解放へ向かって飛び込んで行った人々の後を追うかのように、今や上空一面に見える純白の夜空へ向かって宙を走って行くのを見た。
対するレーシアは、下へ。
砕けた草原の大地がゆっくりと落ちて行く。
その先は黒々とした暗がりだ。
所々には銀河のように渦巻く銀色の光が見える――
その同じ場所へ、レーシアも落ちて行く。




