39 『独白――罪の告白』
「……ごめんなさい……ごめんなさい――」
顔を覆ったエンデリアルザが、啜り泣きながらその言葉を繰り返す。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「エンデリアルザ」
ゼティスが名付けたその特別な名前を口にするレーシアの声は、彼女自身が意外に思う程に落ち着いていた。
――宝具となったレーシアにとって、徐々に感情が稀薄なものへとなっていっているのかも知れなかった。
そう思いながらも、そのことに対する危機感も寂寥もまた、薄く。
「あなたは何に謝ってるの、エンデリアルザ?」
宝具や封具に身を落とした人々が集うこの空間においては、エンデリアルザ以外の〈器〉は、他の者たちを認識できないはずだった。
だが、レーシアがエンデリアルザに真に連なる者であるがゆえなのか、レーシアにはエンデリアルザの姿が見え、声が聞こえる。視界の隅に見える、ぼんやりとした光で区切られた空間に、無数の人々が――かつての〈器〉たちがいるのが見える。
エンデリアルザもまた、レーシアが自分に話し掛けたことに対する驚きは覚えなかったようだった。
顔を覆ったまま、彼女は呻くようにして言葉を押し出した。
それは、レーシアの質問に応じたというよりもむしろ、独白に近い響きを持った言葉だった。
「……絶対に――、必ず会わせてみせるって、……約束したのに……!」
その声に、何よりも深い絶望が映っている。
あと一歩のところで届かなかったがゆえの、決定的な絶望が。
「なんで……なんで諦めてくれなかったの……! あんなに頑張って――あんなにぼろぼろになってまで――。それなのにどうして――。諦めてくれたって良かったじゃない! それなのに、どうして……!」
詰るエンデリアルザの声を、曇天の下を吹く風が幾百幾千に千切って流していく。
風に揺れる、白い花を戴く丈高い草は、擦れ合ってそよぐ音すら立てず、静かに靡いている。
エンデリアルザの詰問に、レーシアは答えない。
そしてレーシアの答えを、エンデリアルザは求めていない。
顔を押さえ、囁くように、押し出すようにして言葉を続ける彼女の声は、やはり独白の響きを持っていた。
「わたしがもっと……あの時に、もっとちゃんとしてれば良かったんだ――。
ごめんなさい――わたしには出来なかった……。ごめんなさい、本当にごめんなさい……!」
レーシアは息を吸い込んだ。
直接言葉にされずとも、エンデリアルザが誰に対して謝っているのか、それを察することは出来た。
「――謝らなくていいと思うよ」
呟いたレーシアの声に、エンデリアルザの肩がぴくりと揺れる。
俯いた上に掌で覆われた、その表情は窺い知れない。
彼女の長い藍鉄色の髪が、草原を吹く風に穏やかに揺れている。
「謝らなくていいと思うよ」
同じ言葉を重ね、レーシアはエンデリアルザを真っ直ぐに見た。
――器物になってしまったレーシアに、唯一できることがあるとすれば。
何の益もないことであっても、それに少しばかりの価値があるとすれば。
レーシアは、最初の宝具と成された千人の怨嗟を知っている。
耳許で絶叫した彼らの恨みの深さを知っている。
人としての死を迎えることすら出来なかった彼らを、少しでも慰撫することが出来るとすれば。
――その唯一の方法は。
今も、ここから離れた――ぼんやりとした光で区切られた空間の中で、千に迫る数の人々が、蜿蜒と恨みの言葉を並べながら彷徨っている。
――エンデリアルザは顔を覆い、俯いている。
レーシアの言葉を聞いてはいるようだが、応えるつもりはないらしかった。
「……あなたはもう、十分過ぎるくらいに頑張ったんだから」
エンデリアルザの様子には構わず、レーシアは言葉を続ける。
自分自身のために覚える悲哀も絶望も、彼女の胸が裂けんばかりのものであったはずなのに、もう随分とそれも薄らぎつつあった。
――レーシアが人間から乖離していく、その証左のように。
「あなたがどんなにあの人のことを慕って大切に思ってるのか、私は知ってる」
レーシアの声が、殆ど誠意さえ籠もったその声が、曇天の下の草原の空気を揺らしていく。
「私だって、一目であの人のことが好きになったくらいだもの」
ぴくり、と。跳ねるようにエンデリアルザの肩が動いた。だがすぐに、堪えたように彼女の態度は微動だにしないものへと戻る。
「だからね、」
エンデリアルザが自分の言葉のどこに反応したのか、痛い程に分かっていながら、――むしろそれゆえに、レーシアは言葉を続けた。
最初の宝具となった人々を、少しでも慰撫しようとするならば。
レーシアはエンデリアルザと対話する必要がある。
そしてそのためには、エンデリアルザがレーシアの言葉に耳を傾ける必要があった。
「私たちが大好きになるようなあの人のことだから、きっと、『もういいよ』って言ってるわ。『気に病まずに笑っておいで』って、『こちらこそごめんね』って、多分そう言ってくれるわ」
エンデリアルザの手指に、関節が白くなる程の力が籠められたのが分かった。
――実在しないはずのこの空間で、なぜこうも全てに現実感があるのか、レーシアはぼんやりと訝った。
訝りながらも言葉は途切れさせず、レーシアは続ける。
「あなたが大好きな、あの笑顔を見せてくれるわ」
「――違う」
呻くような、罅割れた声で、地を這うような気迫を以て、エンデリアルザが断言した。
ゆっくりと、ようやくレーシアに向けて顔を上げる、その紺碧の目が怨嗟と激情に爛々と輝いている。
「違う、違う、違うわ」
繰り返して否定を口に出し、エンデリアルザはその両手で固く拳を握った。
「知ったような口を利かないで。あなたにゼティスの何が分かる」
「私は、」
言い差したレーシアを遮って、エンデリアルザの口調は殺気を帯びて荒らげられた。
「ゼティスのために作られた人形の分際で。ゼティスのための道具の分際で! みんなのための〈器〉の分際で! 知ったような口を利かないで!!」
一際強く風が吹いた。
エンデリアルザの背後からレーシアに向かって駆け抜ける、強い一陣の風。
その風に巻き上げられた髪とワンピースを、レーシアは両手を使って押さえた。
強風に目を細めて見遣った先で、エンデリアルザは風に影響を受けた様子もなく激昂の表情。
「ゼティスに笑ってほしかった!
もう一回ゼティスに笑ってもらうために――だからわたしは封具になったの!」
絶叫して、エンデリアルザはレーシアに指を突き付けた。
「それを! どうしてあなたが! わたしが用意したあなたが!
どうして邪魔したの! どうして駄目にしたの! 何もかも台無しよ!
そんなことをしておいて! 何もかも無駄にしておいて! それでどうしてゼティスのことが好きだなんて言えるのよ!!
よくも――よくも!」
「私が台無しにしたんじゃないわ」
レーシアは断言した。
先程まであれ程に荒れ狂っていた感情は、もはや完全に鳴りを潜め、それは恐らくレーシアが、既に人間ではない証拠。
そうだと分かっていても、レーシアの中で動く感情は僅かばかり。
ただ、己と同じように宝具に身を落とした、その最初の人々の怨嗟を耳の中に木霊のように響かせながら、その木霊のために、レーシアは冷淡でさえある言葉を重ねた。
「エンデリアルザ、あなたよ。
あなたはゼティスさんに取り返しのつかないことをしたのよ」
「何を――」
反駁しようとするエンデリアルザを制して、レーシアは断固たる声で続けた。
「あなたが好きなゼティスさんはどんな人だったの?
威厳のないゼティスさんが好きだったんでしょう? すぐに拗ねるゼティスさんが好きだったんでしょう。よく笑うゼティスさんが、誰より好きだったんでしょう! 人の誕生日のために大騒ぎするゼティスさんを、大好きだと思って見てたんでしょう!」
レーシアを正面から睨み据える、エンデリアルザの表情が歪んだ。
泣き出しそうに、喚き出しそうに、叫び出しそうに。
その表情を見守りながら、レーシアは一片の躊躇いもなく、激しいまでの声音で言い切った。
「――もう全部、ゼティスさんにはない部分だわ。あなたも分かってるんでしょう?
もうゼティスさんは絶対に、昔のようには笑えない。あの人の中の、一番駄目になっちゃいけないところが駄目になってる」
エンデリアルザは唇を噛んだ。
その表情に、哀切と憤激が浮かんでいる。
――予期していなかったことを言われたがゆえのものではない。
十分に自身でも分かっていたことを改めて突き付けられたがゆえの憤激。
そしてその事実を、今もう一度噛み締めたがゆえの哀切。
「あなたがゼティスさんを独りにしたから」
訴えるようにそう言って、レーシアは容赦なく言葉を続けた。
「ゼティスさんはあなたのことが大好きなのよ、知ってるでしょう?
あなたがいなくなったから、ゼティスさんは人の気持ちが分からないようになったの。
あなたがいなくなったから、ゼティスさんは愛されていてもそれに気付けなかったの。
――あなたがいなくなったから、ゼティスさんは人を好きになっても自覚できなかったの」
「……違う」
絞り出すように、エンデリアルザが否定の言葉を唇に載せた。その唇が僅かに震えている。
「……違う、違う……。みんながいないから、ゼティスはそうなっちゃったの……みんなが戻って来れば、もう一回――いつもみたいに笑ってくれるはずなの……」
「でも、そのみんなの中にあなたはいないんでしょう」
指摘するレーシアの声音は、いっそ乾いてさえあった。
その口調が、いっそうその事実を浮き彫りにする。
「あなたを犠牲にして、あなたの犠牲の上でみんなに会えて、それで本当にゼティスさんは喜べるの?
もしそれで喜べるのだったら、あなたが封具になったとき、あの人はあんなに泣いたりしなかったと思うわ」
エンデリアルザが、震える手で顔を覆った。
「あなたはゼティスさんのために封具になった。
そのあなたのために、ゼティスさんはみんなに会おうとした。
――あなたたちのしたことは、全部お互いのためで誰も幸せに出来ない。
最初から破綻してたのよ」
宣告するレーシアの言葉に、エンデリアルザはもはや顔色を失っていた。
ゆっくりと、丈高い草の中に埋もれるようにしゃがみ込み、エンデリアルザが首を振る。
責め立てられた小さな子どものように首を振り、耳を塞ぐ。
「違う、違う、違う、違う――」
そろそろとエンデリアルザに歩み寄って、しゃがみ込んだ彼女を覗き込んで、レーシアは唇を噛んだ。
そうしてゆっくりと膝を折り、エンデリアルザのすぐ傍に、彼女と同じようにしゃがみ込む。
「……エンデリアルザ」
囁き掛けたレーシアの声音は、もはや乾いてなどいなかった。
震えて、揺れて、訴え掛ける。
「お願い。そのことでは自分を責めないで。ただ自分が何をしたのか分かっていて。
――あなたが自分を責めるべきは、もっと別のことでしょう?」
耳を塞いでいてなおその声は聞こえたのか、エンデリアルザはゆるゆると振っていた首の動きを止め、訝しげに顔を上げた。
両手を地面に下ろし、微かに眉を寄せる。その紺碧の目が、至近距離でレーシアの瞳を映した。
「……別の……?」
「エンデリアルザ」
呼び掛けて、レーシアは目を閉じた。
長い睫がその頬に、愁いを帯びた影を落とした。
――器物になったレーシアを見て、アトルはどうするだろう。
きっと嘆いて悲しんで、どうにかしようとしてくれるだろう。
けれどどうにもならないと分かれば、彼はきっと最善の手を打ってくれる。
レーシアが愛し信頼した青年には、それだけの強さがある。
もうどうにもならないのだと分かれば、アトルは、世界に害を為す宝具を殺してくれる。
そしてそのとき、他の宝具や封具をも、きっと道連れにしてくれる。
だからこそ。
レーシアは目を開いて、エンデリアルザの瞳の奥を見据える。
「あなたがこの世から解き放たれる時がきた」
断言して、レーシアはエンデリアルザの手を握った。
「あなたはもう、我慢する必要はないの。
――会いたいのなら会いたいと叫んで。怖いのなら怖いと泣いて。
そしてすまなかったと思うなら、彼らに許しを乞うて、償いがしたいと頭を下げなさい」
彼ら、とレーシアが呼称したのが誰を指すのか、それはエンデリアルザにも分かることだった。
――この世で最初の宝具と成された千人。
ゼティスとエンデリアルザのために、死すらも迎えられずにこの草原を彷徨う人々を指して、レーシアは頭を下げろと言ったのだ。
許されることのない罪を償うには、後悔すること、思い返し続けること、犯した罪以上の善を成すこと、善を成して何も受け取らないこと、そして、一生罪人でいること――それら全てを為すことが必要だと、レーシアはシルヴェスターに訴えたことがある。
だが、もはや人ですらないエンデリアルザにとっては、それら全ては不可能なことで。
けれど、もしも、ここにいる千人を僅かでも慰撫することが出来るとすれば。
その方法は、大罪人たるエンデリアルザ本人が、心から己のしたことを悔いて頭を下げる、それより他には存在しないだろう。
そう考えて、殆ど祈るような眼差しでエンデリアルザを見るレーシア。
彼女の顔をぼんやりと見詰め返す、エンデリアルザの目の中に感情が光った。
紺碧の瞳で瞬いて、エンデリアルザは戦慄く唇を開いた。
「……会いたい……」
その一言に籠められた感情は、その重さで潰れてしまいそうなほど。
濃密な、ありったけの切望を籠めた、それだけに脆い透き通った言葉。
「……とても怖かった……」
そう認めて、涙を堪えるように目を伏せたエンデリアルザは、しかしすぐにその目を上げた。
そしてそのときには、その瞳にただただ純粋な疑問を浮かべていた。
「わたしは、酷いことをした。何百人という人に、わたしがずっと怖がっていたのと同じことをした。それは分かる。
――でも、それは悪いことなの?」
「――――」
レーシアは息を止めた。
自分を純粋な眼差しで見るエンデリアルザが、かつての自分自身と重なった。
そんなレーシアの薄青い瞳の奥を覗き込んで、エンデリアルザは訥々と言葉を続ける。
「だってどうしようもなかったんだもの。あなたも知ってるでしょう? みんなに会うにはそれしかないと思った。まさか失敗するだなんて思わなかった。あのとき成功していれば、ゼティスだって寂しい思いをしなくて済んだのよ」
――相手がどんな人間なのか、善人かも知れないってこと、誰かがその人を大事に思ってるかも知れないってこと……そういうことを想像するのは、人間としての義務だ。
以前に川縁で、初めてレーシアの前で涙を見せたアトルが断言した言葉が、はっきりと脳裏に蘇った。
ゆっくりと、レーシアは頭を振った。
「――違うのよ、エンデリアルザ。あなたは……あなたとゼティスさんは、諦めるべきだったの。受け容れるべきだったの。
もう亡くしたものだったんだから。もうどうしようもなかったんだから」
「違う。どうしようもなくなんてなかった。
それに――それに、そんなの嫌だ」
頑是無く、エンデリアルザは一蹴した。
「わたしはみんなと一緒にいたかった。みんなと一緒にいられて――ただそれだけで、とても幸せだったの。――あなたには分からないと思うけど」
自嘲の念を籠めて歪んだ微笑みを浮かべ、エンデリアルザはしゃがみ込んだまま俯いた。
そうするとまるで、拗ねた小さな子どものようだった。
「わたしはゼティスたちみんなに会うまで、人間扱いされないことに、不満を抱くどころか気付いてさえいなかったの。名前が何かも知らなかったの。そんな人生、あなたには分からないでしょ」
「…………」
「空は柱で支えられてるわけじゃないって知ることが、木が生き生きしてるのは葉を付けてる間なんだって知ることが、水は地面の上を流れてるものなんだって知ることが、わたしにとってはどんなに新鮮で幸せなことだったか、――あなたには分からない」
レーシアは首を振った。
「……うん」
エンデリアルザの口調は激しさを増し、いっそ熱心さすらも漂わせていた。
「それを望んで何が悪いの?
そんな当然のことを知ることが出来る、そういう場所にいたいと思って何が悪いの?
そんな場所を愛して何が悪いの?
わたしは無茶なことを願ったの?」
また、レーシアは首を振った。
エンデリアルザの記憶が、以前に垣間見たその一部始終が、どっと溢れるように脳裏に蘇った。
答える声は否応なく掠れた。
「そんなことない」
「なのにどうして」
詰るように疑問を重ねる、エンデリアルザの紺碧の目が潤んだ。だが涙は溢れなかった。
「なのにどうして、そんな大好きで大事な場所がわたしのせいで滅茶苦茶になったの? どうしてみんな死んじゃったの。
そんなのおかしいでしょ!?」
自分の手を握るレーシアの手を振り払って、エンデリアルザは両掌で地面を叩いた。
丈高い草の根元が揺らされて、エンデリアルザとレーシアの頭上で白い花が大きく揺れる。ひらひらと、目の前に数枚の白い花びらが舞い落ちてきた。
舞い落ちた花びらはそのまま、地面に達するよりも前に白い小さな光となって中空に消えていく。
そんな光景には目もくれないエンデリアルザの声は、絞り出したように掠れていてなお、絶叫じみた激しさでレーシアの耳朶を打つ。
「忌みられのわたしの頭を撫でてくれた人が泣いたの。
わたしと一緒にごはんを食べてくれた人が死んじゃったの。
わたしに贈り物をしてくれた人が死んじゃったの。
わたしと手を繋いでくれたみんながいなくなったの。
みんなを返せと、ゼティスが叫んだの」
「――うん」
この何百年にも亘って、溜め込んでいたその全ての感情をぶつけるが如くに、エンデリアルザの言葉は止め処なく激しく溢れた。
小さな唇に、およそ似つかわしくない毒がその言葉全てに溢れていた――そして同時に、胸が痛むほどの愛情が。
「わたしはあの人たちに救われた。あの人たちがわたしの世界そのもの。
あの人たちがいたから生きていられた。
だからお返しをしないと駄目なの。
たとえあの人たちが、そんなの要らないって笑ってくれたとしても。
――だからわたしがあの人たちのために、全部捧げて出来ることを全部して、わたしの力で犠牲に出来るものを何でも犠牲にしたとして、何の不思議があるっていうの」
激しいばかりのその言葉の連なりに、思わずレーシアは目を細めた。
「……大好きなのね」
「ええ、そうよ」
断言して、エンデリアルザは再び爛々と燃え始めたその双眸でレーシアを睨み据えた。
「みんなが大好き。ゼティスが好き。ヴェルダ兄ちゃんが大好き。カインだって好きだった。だから戻ってきてほしい。
――願うだけじゃ終わらせない、その力が、私とゼティスにはあるのよ!」
レーシアはただ首を振った。
言葉は出なかったが、エンデリアルザが地面に爪を立てたのが、視界の隅に見えた。
「――心から感謝してる」
泣き出しそうに目許を歪めて、エンデリアルザは吐き出すように言った。
まるで、レーシアを納得させることさえ出来れば、今からでもレーシアを〈静〉の宝具と成すことが出来るとでもいうように。
「生かしてくれたこと、愛してくれたこと。信じてくれたこと、ときどき叱ってくれたこと。
あの人たちが感謝しなくていいって言ったら、もう何に感謝すればいいのか分からないくらい、どうしようもないくらいに感謝してる。
――だからわたしは、あの人たちのために出来ることを全部する」
「…………」
レーシアの薄青い瞳が、エンデリアルザの紺碧の目に映る。
ただただ悲しげな薄青い目は、少し潤んで愁いを帯びる。
その眼差しを正面から睨んで、エンデリアルザは唾棄するようにして疑問を述べる。
「それでもわたしのしたことは酷いことだった。分かる、それは分かる。わたしのしたことは取り返しのつかないこと。
――でも、ねぇ。わたしの後継者。それはわたしが悪いの? わたしのしたことは、本当に悪いことだったの?
わたしが取り返しのつかないことをした人たちは、みんな、被害者なの? 本当に?
わたし以上に酷い人たちじゃなかったって、そう断言できるの?」
――ゆっくりと息を吐いて、レーシアは呟くように答えた。
「……ある人が言ったの。誰かにとって誰かは大切な人だって」
「分かってるよ」
衒いもなくエンデリアルザはそう答えた。
嘘偽りの無い、ひたむきな声だった。
「わたしにとってあの人たちはすごく大事な人だもん。
あの人たちもわたしを大事にしてくれたもん」
小さく頷いて、レーシアはそっと囁く。
「そうね。でも、その他の人たちもそうなのよ。
あなたは誰かにとっての大切な人を、自分の大切な人のために犠牲にしたの」
僅かに、エンデリアルザの瞳が揺れた。
だがすぐに、エンデリアルザの瞳には影が落ちる。
「……最初に手を出してきたのは向こうだわ」
押し出すように呟かれたその言葉に、レーシアは首を振る。
「エンデリアルザ、それは違う」
エンデリアルザの紺碧の目が、明確な敵愾心を持ってレーシアを見ている。
それを十分に分かっていながら、レーシアは淡々と言葉を続けて事実を指摘した。
「あなたたちに手を出したのは、あなたの言う『正義』の人たちでしょう。手を出されたから手を出し返して復讐していいなんて、そんなこと欠片も思わないけれど。
でもそうでなくたって、――あなたたちが犠牲にした人たちは、『正義』とあなたたちの間のことに、何の関係もない人たちよ」
エンデリアルザが大きく目を見開いて、しかしすぐに、噛み付くようにして反論した。
「違う! 違う、あの人たち以外はみんな!
みんながわたしを人間扱いしなかった――」
「ううん、エンデリアルザ。
あなたは、『正義』の人たちとゼティスさんたち以外、碌に人を知らないでしょう」
言葉に詰まったエンデリアルザの手をもう一度握って、レーシアは呟くように話し掛けた。
「おじいさんたちとおばあさんたちの所から『正義』の所に移って、何も環境が変わらなくて、それでゼティスさんたち以外の人間はみんな同じだって、そう思うようになっちゃったのね」
「…………」
「でもね、エンデリアルザ。本当に色々な人がいるものなの。
みんなが誰かの大事な人になれるはずなの。そうなろうと思えば」
エンデリアルザは首を振った。
「……違う――違う、なれるはずがない。あんな――あんな獣どもが――」
レーシアは唇を噛んだ。
――『正義』を名乗った彼らが宝樹国にしたことは、余りにも残酷で許し難い。
その一点だけは、ゼティスにもエンデリアルザにも、誤ったところはなかった。
だが、それを認めたとしても、レーシアにはもう一つ、指摘すべきことがある。
「――それに、エンデリアルザ。あなたは『正義』の人たちからあなたの大事な人たちを守るために――脅してでも、あの人たちの安全を保証させることが出来たはずなの。
あなたにはその力があった。
知ってるでしょう、あなたの魔力は、当時では考えられない大きさだったのよ」
エンデリアルザの唇が震えた。
今度こそ、凄絶な赫怒がその瞳に走った。
「――わたしが――わたしが、みんなを見殺しにしたって言うの!? わたしが悪かったって言うの!?
――ええ、そうよ、認めるわ! わたしにはそれだけの力があった!」
レーシアの手を振り払ったエンデリアルザの拳が、地面を叩いて土埃を上げた。
現実の世界と違って、その土埃は巻き上げられてすぐに、きららかな光の欠片となって消えていく。
それを一顧だにせず、エンデリアルザは絞り出すように絶叫した。
「でも――でも怖かった!
本当に――あの夜、わたしがどれだけ怖かったか、人形でしかないあなたには分からないだろうけど!」
レーシアは首を振った。
エンデリアルザに振り払われた手が、針が刺さったように痛んでいた。
「ううん、分かる。私は人間だもの」
怒りの余りに言葉に詰まるエンデリアルザをじっと見て、レーシアは続ける。
「責めるようなことを言ってごめんなさい。
私にだけは、あなたを責める権利は無いの」
エンデリアルザの眼差しが、僅かに緩んだ。
それが、レーシアが謝罪したゆえなのか、それとも真っ当に責められたわけではないと分かったからなのかは、レーシアには分からなかった。
ただレーシアは、訴えるように言葉を継いだ。
「でも、あなたが出来たことを分かってほしいの。
――私もね、私が頼んだわけでもないのに私のために争いが起こるのを、自分のせいじゃないって思ってたの。だって、私は悪くないから。
息をするだけで罪悪になるなんて、そんなの酷いって思ってた。――でもね、」
息を吸い込んだレーシアの脳裏に、あの夜、川縁で泣きながらレーシアを罵ったアトルの姿が浮かんだ。
もう感情が稀薄になった胸が、それでも刺されたように痛んだ。
次に唇から零れた声が、それを受けて僅かに掠れる。
「――私の大事な人が泣いたの。
私のせいで大切な人を亡くして、大事な人たちと喧嘩をして、その人たちにすまなかったと言って泣いたの」
エンデリアルザの目が、ふいとレーシアから逸らされた。
努めて落ち着こうとしているような仕草にも見えたが、同時にそれは、急速にレーシアに対する関心を失ったようにも見えた。
だが、彼女は一応の相槌を投げた。
「――……そう」
無関心なエンデリアルザの態度を受けて、それでもなお、レーシアは訴える声音で続けた。
「すごく、すごく申し訳なくなったわ。
初めて、“私がいなければこの人はこんな思いをせずに済んだのに”って、私自身が私を否定するようなことを思ったの」
エンデリアルザは眉を上げた。
少しばかりの興味が、レーシアの言葉に対して湧き上がってきたかのように。
「あなたは悪くないのに?」
「うん。だから初めて謝ったの」
躊躇いなく頷いたレーシアに、エンデリアルザは首を傾げてみせる。
「……その人は何て?」
ひとつ息を吸い込んでから、レーシアは暗唱するようにして答えた。
「遅いって。
私が悪いんじゃなかったとしても、きちんと胸を張って生きていきたいなら、自分の価値を弁えてるなら、自分がいることの影響についてもきちんと考えて、どうすればいいのか気を付けるべきだって。
謝るのが遅いんだって。泣きながら怒られたの」
またしても興味を失ったように、エンデリアルザがレーシアから視線を外す。
霧に沈んだ地平線を見て、彼女はただ無関心に呟く。
レーシアが言い募るその一切は、自分には関係が無いのだと言わんばかりに。
「……ふうん……」
一気に感情の薄れたエンデリアルザの横顔を注視しながら、レーシアは揺らぎそうになる声音を抑えて続ける。
「――私は、怖いのも痛いのも悲しいのも嫌だったから、誰かの盾になるのも嫌だったの。
私のせいで誰かが怪我をしていても、その人の前に出て行って庇うなんて、絶対に無理だと思ってた」
ふ、とエンデリアルザの唇が歪んだ。
彼女には似合わない、皮肉げな笑みだった。
「……わたしと同じね」
「でしょ? ――だけどアトルに……私の大事な人に、ちゃんと気を付けるべきだって、私が悪くなくても私のせいで人が傷付いてることに違いはないんだって、そう言われてからは、足が竦んでも何とか動けるようになったの」
そう言って、唇を閉じて間を置いたレーシアに、エンデリアルザは胡乱な視線を向けた。
胡乱な視線のその中に、微かに警戒するような色がある。
「……何が言いたいの?」
レーシアは小さく息を吸い、呟くように答えた。
「あなたも私も、誰かを庇えるかどうかは、勇気の有無と――そう、背中を押してくれる人の有無で決まるんだってこと」
エンデリアルザははっきりと眉を寄せた。
レーシアの言葉に対して、彼女はもはや無関心ではない。
しかし一方でその表情には、明確に、レーシアの言葉を耳障りだと思っていることが表われていた。
「――結局その話」
吐き捨てるようにエンデリアルザは呟いた。
「わたしがみんなを殺したって言いたいの」
風が吹く。
しゃがみ込んだレーシアとエンデリアルザの頭上で、丈高い草を揺らす風が吹く。
生暖かい不穏な風が、渦を巻くようにして草原を渡っていく。
風が渡る音は無い。草が揺れる音も無い。
そんな中で、レーシアはゆっくりと首を振った。
「違う、違うわ。あなたが本当にあの人たちを大好きだったってこと――どんなに大切に思ってるのか、それを私は知ってるもの。
――でも、あなたは」
やんわりと断言して、しかしレーシアがそっと続ける言葉に、エンデリアルザの肩が強張った。
「あなたに酷いことをした人たちを憎むのと全く同じように、自分の弱さも恨むべきだった」
「……やめてよ」
首を振り、膝に額を押し当て、エンデリアルザはまるで殴られたかのように痛々しげに、レーシアの言葉を止めようとする。
しかしレーシアは、容赦なく言葉を続けてエンデリアルザの耳に届かせる。
「自分の弱さを恨んで、それでもゼティスさんと――カインと一緒に、次に進むべきだった」
エンデリアルザはまた首を振る。
「次なんてない。あの人たちの代わりはいない」
頑是無く、ひたむきに紡がれたその言葉に、レーシアは心からの理解を籠めて頷いた。
「分かる。私にも、サラリスの代わりはいないもの」
「…………?」
訝しげに顔を上げたエンデリアルザは、眉を寄せて記憶を辿る表情。
「……サラリス――」
たどたどしく綴られたその名前に、レーシアは銀色の髪のあのひとを見る。
名前を呼んでくれた、心から愛しげな声を思い出す。
サラリスは、と、そっとエンデリアルザに告げる、その声は否応なく震えた。
「私を育ててくれた、――心から愛してくれた、守ってくれた、大好きな私の家族よ」
私を育ててくれた――その言葉で『サラリス』が誰なのかということに思い当たったのか、エンデリアルザの表情が微かに顰められた。
自分とゼティスの計画に、サラリスが与えた計算外の打撃を思い出したのだ。
「ああ、あの子ね。あなたにとってはいい人だったのね」
レーシアから視線を逸らし、忌々しげでさえある声でエンデリアルザが紡いだその言葉に、レーシアは衒いなく頷き、真っ直ぐにエンデリアルザを見たまま応えた。
「ええ。そうよ。
――その人を、あなたたちが殺したのよ」
「――――」
エンデリアルザは滑らかに視線を動かし、レーシアを透明な眼差しで捉えた。
その紺碧の目が、レーシアが自分に向けるだろう感情に、無意識のうちに備えている。
そのことに小さく苦笑して、レーシアは微かに掠れる自責の響きの声で呟く。
「あなたたちだけじゃない。
私がもっと賢明で、もっと周りのことが見えていて、サラリスを頼るだけじゃなくて、サラリスの役に立とうとしていれば、――もしかしたら、サラリスはあんな目に遭わなかったかも知れない。分かってる。
――サラリスは、私を守るためとはいえ、それでも私に酷いことをしたことに違いはないって謝ってくれたわ。だけど、違うの。
私がサラリスに酷いことをしたのよ。
そんな自分のことは許せない。行き過ぎた信頼は暴力だわ。私は、それを分かってなかった」
懺悔するようにそう零したレーシアは、エンデリアルザの紺碧の目の奥で感情が動いたのを認めた。
レーシアの言葉の矛先が、自分とゼティスではなくレーシア自身に向いたこと。
そのことに、エンデリアルザは確かな安堵を覚えている。
小さく息を吐いて、レーシアはエンデリアルザのささやかな安堵を打ち壊す言葉を唇に載せた。
「……でも、私は私を許せないけれど、それでも。
――サラリスにあんなことをしたのはゼティスさんだし、サラリスをあんな目に遭わせる原因を作ったのはあなただわ。
それは変わらない」
エンデリアルザの唇の端が、僅かに震えた。
今度こそレーシアに罵倒されるのだと、それを予想したがゆえの無意識のその表情。
意固地になってなお怯んだような、エンデリアルザのその表情を見てもう一度苦笑して、レーシアは歌うように続けた。
「でも、私はあなたたちを憎まない。恨まない。
サラリスが、もうあなたたちを許してるから――ううん、ちょっと違うかな」
言葉を切ったレーシアは、今なお癒えぬサラリスを喪った傷に、微かに唇が震えるのを感じた。だが、声は震えず持ち堪えた。
「サラリスにとって、ゼティスさんはただただ大好きな人なのよ。
そしてあなたは、心を割くべき対象ですらないの」
「…………」
エンデリアルザは唇を閉ざし、レーシアから視線を逸らして地面をじっと見詰める。
そんな彼女に、レーシアは有無を言わせぬ口調で問い掛けた。
「ねぇ、エンデリアルザ。あなたは?」
「――――」
答えないエンデリアルザに向かって、レーシアは更に問いを投げ掛ける。
「みんなはどうだった?
みんなは、自分たちが『正義』にされたことと、生き残ったあなたたちがあれから生きていくはずだった人生の、どっちを重く見たと思う?」
エンデリアルザは、その全身を僅かに震わせた。
「……みんなは……」
呟き、しかし言葉に詰まって黙り込むエンデリアルザに向かって、レーシアは迫るように問い続ける。
「あなたのことが大好きだったみんなは、あなたたちに何を望んだと思う?」
堪え損ねたように、エンデリアルザが顔を上げた。
その表情は怯えていて、意固地で、そして何よりも幼い。
「でも、ゼティスが、」
言い差したエンデリアルザに、遂に耐えかねたレーシアは怒鳴った。
「あなたがあの人たちを大事にしたいように、あなたが殺した無関係な人たちは、みんな大事なものを持ってた!」
ここから少し離れた場所、ぼんやりとした光で区切られた空間の中で、まるでレーシアの言葉が聞こえたかのような喝采が起こったのが、微かに聞こえてきた。
喝采は怨みを叫び、喝采は制裁を望んでいる。
よくぞ言ったとレーシアの言葉を称え、それによってエンデリアルザが傷付くことを望んでいる。
その喝采に応えることはせず、レーシアは叫ぶようにして続けた。
「あなたたちが危険に晒そうとした人たちには、大事にしてるものがあるの!!」
エンデリアルザの唇が震えた。
レーシアを見る紺碧の目に、ようやく――遅きに失した、理解の光が宿った。
「――だから止めたの?
ゼティスを? ……わたしを」
息を止め、答えるべき言葉と正直な言葉を喉の奥で天秤に掛けて、レーシアはふっと息を抜いて唇を噛んだ。
そして、苦笑すら漂わせる声で、正直な言葉を唇に昇らせて声に載せる。
「……本当は、少し違う」
目を伏せ、ただ一人を脳裏に思い描くレーシアの表情。
それはただの、一世一代の恋をしている少女のものだった。
「ただ、私が心の底から大好きになった、――たった一人のあの人のために」
その答えに、エンデリアルザは声を失って瞬きをする。
馬鹿にするでもなく、感銘を受けるでもなく、ただ不意を突かれたかのように。
そんなエンデリアルザに視線を戻した、レーシアの眼差しは再び厳しいものとなった。
真実を伝える声が、淡々と草原に響く。
「――エンデリアルザは史上最悪の罪人の名として記憶に残る。あなたも私もサラリスも」
エンデリアルザの口許が歪んだ。
「罪人……?」
レーシアの言葉を繰り返してそう問い掛けたエンデリアルザの口調には、未だに仕方がなかったのだという思いが透けている。
仕方がなかった、あれ以外に方法がなかった、ゆえに自分たちは悪くないのだという。
宝樹国の人々以外の人々にも、宝樹国の人々と同じように大切にするものがあり、また彼ら自身が大切にされ得た人々なのだと理解して、まだなお。
「ええ、そうよ」
躊躇なく、はっきりと、突き付けるように、レーシアは頷いた。
「それ以外の何物でもないわ。
どんな事情があったとしても、あなたのしたことは余りにも罪深い。
私のしたこともサラリスのしたことも、到底許されるものじゃない」
エンデリアルザの表情が歪んだ。
泣き出す寸前のようなその表情で、弾けるように彼女は怒鳴った。
「あなたも同じじゃない。同じ穴の狢でしょ!?」
「そうね」
言下に認めて、しかしレーシアはきっぱりと続けた。
「でも、私の願いの結果が正しい。
あなたは判断を間違えた。みんなを喪ったとき、どうするべきかを完全に見誤った。
でもそのことは罪じゃない。だけどね、その後にあなたが――あなたたちがしたことは、とんでもなく悪いことだわ。私にだってそれが分かる」
全身を震わせ、拳を握り、エンデリアルザは全てを振り払おうとするかのように立ち上がった。
立ち上がり、地団駄を踏んで怒鳴る。
「うるさい!!」
エンデリアルザに合わせて立ち上がり、至近距離で彼女の目を見据え、レーシアは弾劾の如き言葉を吐き出した。
「あなたは今、何を後悔するべきなの?
ゼティスさんを罪人にしたことでしょ?
あなたの大事なあの人は、あなたが止めてさえいれば、この数百年を寂しく過ごすこともなかったのよ」
唇を噛み、レーシアを睨み据え、エンデリアルザは答えない。
そんな彼女に、レーシアはなおも容赦なく言葉を続ける。
「あなたは今、誰に謝るべきなの?
あなたが犠牲にした、何の関係もない人たちに対してでしょ?
あなたが奪った命の数は、余りにも多くて余りにも重い」
震える唇を開き、エンデリアルザが絶叫するように己の正当性を――もはや主張できるところとなった唯一のその正当性を叫んだ。
「ゼティスが! ゼティスが望んでくれた!!」
レーシアは息を引いた。
――さあ、戦争を始めましょ。
かつて耳許で聞いたサラリスの言葉が蘇り、殆ど条件反射じみた言葉がレーシアの唇から溢れた。
「望まれたことは正しいの?」
エンデリアルザの表情は、もはや筆舌に尽くし難いものだった。
混乱と激怒と寂寥と後悔。
それらが混ざり合って溶け合って、器物になって失われたはずの彼女の心を、天災のように揺るがせている。
「――ゼティスがわたしに全部をくれたのよ!!」
怒鳴らんばかりのその言葉に、レーシアは今までで最も冷徹な声と言葉で返した。
「あなたはそれを、何の関係もない人たちの命で返したのよ。
あなたが返したんじゃない。その人たちに肩代わりさせたの」
「――……」
初めて完全に言葉を失って、エンデリアルザは茫然とレーシアの目を見た。
そしてやがて、絞り出したかのような――彼女の嘘偽りのない本心を、震える声に載せて吐き出した。
「……あの人たちが大好きなのよ」
レーシアは頷いた。声は自然と和らいだ。
「知ってるよ」
小さく微笑んで、レーシアはからかうように――それでいてどこまでも真摯な声音で、誰が見ても明瞭に分かるだろう事実を指摘する。
「あなたの目も声も表情も、全部がそのことを叫んでる」
ゆっくりと深呼吸をして、エンデリアルザは目を閉じた。
「――同じ目をする人を、同じ声を出す人を、同じ表情をする人を、あなたは知ってるのね」
その声に、数百年の時を経てようやく彼女に訪れた、自責の念が満ちていた。
「うん」
応じるレーシアの声に、エンデリアルザは大きく息を吸って顔を覆った。
――唐突に、ずっと頭上を覆っていた雲が割れた。
空を二つに分かつように曇天が晴れ、地平を暗く沈ませていた霧が、吹き散らされるように消えていく。
中天に座す太陽の光が、一息に草原を明るく染め上げた。
さらさらと揺れる丈高い草が、白く陽光を弾いて一斉にそよぐ。
地平は花々に白く煙り、牧歌的なまでの空気が周囲を染め上げる。
唐突に晴れた視界に、レーシアは目を細めた。
彼女の濃紺の髪が風を受けて揺れ、陽光を弾いて艶やかに煌めく。
対面するエンデリアルザの、藍鉄色の長い髪が風と戯れるかのように翻って揺れ、陽光を吸い込んでいっそうの青みを帯びて光る。
顔を覆ったまま、周囲の様相が一変したことに気付いた様子もなく、エンデリアルザはしゃくり上げながらも震える声を押し出した。
「――……ゼティスは怒るかな?」
ゆっくりとレーシアは首を振った。考えるまでもなく答えは明らかだった。
「怒らないわ」
嗚咽を漏らし、エンデリアルザは小さく――喧嘩をした相手の機嫌を窺うかのように、囁いた。
「……カインは、怒るかな?」
レーシアは慈しみを籠めて肩を竦めた。
「少し怒るかも。でも許してくれるわ」
ぼろぼろと涙を零しながら、エンデリアルザは懸命に尋ねる。
「ヴェルダ兄ちゃんは……がっかり、するかなあ……っ?」
レーシアは息を吸い込んで、直接には知らない、だがエンデリアルザの記憶を垣間見て十分に知っている、彼の優しさへの信頼を声に籠めた。
「――しないわ。あなたを抱き締めてくれる」
「…………っ」
エンデリアルザは大きく息を吸った。
涙を拭い、顔を上げ、ゆっくりと身体の向きを変える。
そうして、よろめきながら数歩を進んでレーシアから離れ、彼女が向き合う先は――。
「わたしは、悪いことをしたのね」
ぼんやりとした光で円く区切られた、その空間で怨嗟を叫ぶ千人に向かって。
「ごめんなさい――」
初めて、エンデリアルザが頭を下げた。
数百年遅れの謝罪を述べて、気づくのが遅すぎた己の罪に対する悔恨を、溢れんばかりに声に籠めて。
「許してください――」
乞うことのなかった許しを、初めて乞うた。
ずっと叫んでいた千人の声が、ぴたりと止まった。
レーシアがゼティスに向かって起ったときから上がっていた快哉が――レーシアがエンデリアルザを傷つけることを望む喝采が、水を打ったように完璧に、ぴたりと。
「本当に――わたしのしたことは悪いことで、……謝る言葉なんて、どこにも無いのね」
許しを乞うて頭を下げたまま、陽光の中に影を落とすその姿勢を微動だにさせることなく、エンデリアルザは小さく――諦めさえ籠めて、疲れ切った声音で呟いた。
「――許されないってことが、よく分かる。
今までずっと、本当にごめんなさい」
深く頭を下げるエンデリアルザを、レーシアはじっと見詰めて息を吐く。
――ここで、器物となったレーシアが為すことの出来る、唯一の価値のあることが終わった。
それが、ここで彷徨う千人にとって慰撫になったのか否かは、レーシアに判断できるところではなかったけれど。
(……あとは)
随分と空虚になってしまった心の中でそう呟き、レーシアは頬を温める陽光に甘えるように目を閉じる。
そして、もはや人間としての生を望むべくもない自分を殺し切る――救済でさえあるその瞬間を。
誰よりも愛し、信頼する青年が自分を助けに来てくれる、その瞬間が来ることを確信し――、
深い呼吸を繰り返しながら、その瞬間を待つ。




