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12 「共闘」(4)

 雨天に数十人の空人と雷兵が舞い上がる。


 同時に幾人分かの人間の悲鳴も上がったが、その声は多くの者が聞かなかったことにした。


 鈍く光を弾く空人の翼が、小さな光点となって遠ざかる。

 四足の姿を取る雷兵の、雷光の絡む鬣の光もまた上空遥かに遠くなっていく。



 北棟の前で雨に打たれながらそれを見送るアトルに、隣に立ったファンロが声を掛けた。


〔多分、半日もあればあちこちの仲間に声を掛けられるんじゃないかな。相当の数がきみの味方をすると思うよ、アトル〕



 この皇城にやって来た空人と雷兵は、言わずもがな種族の一部だ。

 それゆえ、各地にいるその他大勢の空人や雷兵に、ここで動いた事態を知らせて助力を請わねばならない。

 その役割を、空人と雷兵自身が買って出てくれたわけだが、さすがに人間の一人も行かないというわけにはいかない。言葉が通じないとはいえ、形式上でも頭を下げることが必要なのだ。

 それゆえ、シルヴェスターが部下の中から彼らに同行する者を選んだのだが、先ほど上がった悲鳴を聞くに、空人や雷兵に抱えられて飛行するというのは、決して楽しい経験ではないらしかった。


 空人や雷兵に同行する人間は樹国の中から選んでも良かったのだが、現在樹国の勢力は、皇城の端に留め置かれている形だ。

 リリファとディーン、ベティルが、ようやく彼らの許へ事情説明のために向かったものの、そうすぐに空人や雷兵と共に送り出すことを、リリファが断固として拒否したのだった。

 敵と教わってきた空人や雷兵と長時間を共にすることは、樹国の者にとっても雷兵や空人にとっても不幸にしかならないという言い分に、なぜか妙な説得力があったのだ。



「だといいけど――」


 不安げなアトルの頭の上で、ファンロは身の丈に見合うだけの大きさのある掌をひらひらと振った。

 どうやら、アトルに降り注ぐ雨粒を受け止めようとしているようだった。


〔大丈夫、大丈夫。あのね、伝聞ってのは伝達する側次第で相手に届く印象が変わるんだ。

 みんなきみの味方をしてほしいと思って行ってるんだから、きみの方に良い感じに話が伝わっていくよ〕


 でもねぇ、と考え深げに言葉を継ぎ、ファンロは首を傾げた。


〔僕たちが戻って報告しないとなると、ゼトにはそりゃもう明らかに、僕たちが裏切ったって分かるね〕


 アトルはファンロを見上げ、眦を下げた。


「――ごめんな」


〔大丈夫だよ〕


 ファンロはそう言って、首を巡らせて少し離れた場所に立つシルヴェスターを見遣った。


〔ねえ、いつエンデリアルザを助けに行くの?〕


 アトルは訝しげにファンロを見上げた。


「おまえらって、お互いの位置が分かったりすんの? ああやって行ってくれた人たち、ここに戻って来たときに誰もいなかったらどうすんの?」


 ああやって、と言いながら空を示したアトルを見下ろし、ファンロは玉響たまゆらの音色で笑った。


〔大丈夫、大丈夫だよ。僕たちは人間よりもずっとお互いのことがよく分かる〕


「なら良かった」


 ほっとして呟いて、アトルは雨の中で佇み、部下から何かの報告を受け取っているシルヴェスターに声を掛けた。


「デイザルト。出発はいつだ?」


 シルヴェスターは顔を上げ、降り注ぐ雨粒に目を細めてアトルに視線を向けた。


「ハッセラルトが術式を完成させてからだ」


 アトルは無意識に拳を握った。


「――レーシアが今どうなってるかも分からねぇのに……!」


 シルヴェスターは宥めるように首を振った。


「大丈夫だ。こちらも飛翔船で追うから」


「あっちも飛翔船だろ!?」


「アトル」


 声を荒らげたアトルに、シルヴェスターは根気強く説いて聞かせるように言った。


「宝国国王の目的は、あくまでもあの女を宝具にすることだ。そのためにはあの女が『諦める』ことが必要――そうだな? あの女にはそんなつもりはさらさらないらしい。となれば必然、あの男は貴君を使ってあの女に諦念を抱かせようとするはずだ。そうなれば、こちらが行動を起こしてからこそ、あちらも行動を起こせるようになると同義。無為に焦るな」


 無論、予測不能の事態によってレーシアが宝具に身を落とす可能性も無きにしも非ずなのだが、今までゼティスがひたすら待つことに専念していたことから推して、あちらもアトルを殺害するなり何なりして、レーシアに諦めるよう迫る可能性が高い。そうシルヴェスターは踏んでいた。


 ゼティスがアトルを殺害する指示を下したことがあるのは、当初はアトルをそう大した存在だと認識していなかったがゆえだ。

 また、言葉は悪いがアジャットたちでも代役は務まる。誰より効果的なのがアトルであるのは自明の理だが、それだけだ。


 また、アトルを捕らえてレーシアの目の前で殺害する――この方法がよりレーシアを追い詰める手段であるのは間違いないが、アトルはサラリスの魔力を備えている。わざわざ懐に招きたくはないだろうし、またレーシアの感情が怒りに振り切れてしまっては一切合財が水泡に帰す。

 それを考慮して、敢えてレーシアから見えないところでアトルを害し、それをレーシアに伝えて諦めるよう迫るつもりなのだろう。


 シルヴェスターは右耳を無意識に撫でた。

 レーシアから連絡はない。


 それはつまり、彼女に与えられた使命を達成する可能性が、まだあるということ。

 レーシアが真に危機的な状況に陥っていないということ。


「――大丈夫だ」


 そうアトルに告げると、アトルは理性と衝動の間で板挟みになっていることがありありと分かる顔をした。

 苛立たしげに地面を蹴り、大きく深呼吸して落ち着こうとしている。


 恐らく、内心は焦燥と不安で溢れ返っているのだろう、とシルヴェスターは推察した。

 それでなお、あれだけの言葉を並べて空人と雷兵を自陣営に引き込んだのだから、生まれが違えばアトルは高名な軍師にでもなっていたかも知れなかった。


 ファンロが、しゃらしゃらと腕輪を鳴らしながらアトルの頭の上で手をひらひらさせる。

 大丈夫? と尋ねられたのだろうアトルが、無理をしたように微笑んで答えた。


「ああ、大丈夫だ。――出発はまだもうちょっと後だ」



「――デイザルト様」


 傍で部下の声がして、シルヴェスターはそちらに視線を戻した。


「すまない、会話の途中で」


 まずは謝罪してから、シルヴェスターはしばし考え込んだ。

 それから顔を上げ、少し離れた所で三人で佇み、何かを盛んに言い合っているリーゼガルトたちに視線を向け、声を上げた。


「リーゼガルト、グラッド、ミルティア。それとアトル、来てくれ」


 四人が一斉にシルヴェスターを見て、ミルティアが最初に返事をした。


「なぁに?」


「獄塔に捕らえたミラレークスの生き残りたちなのだが、減刑を条件に協力を取り付けたい。そちらなら、有用な者とそうでない者が分かるだろう。名簿もあるのだが、名前を騙られる危険を冒したくはない。同行して協力してくれ」


 魔力の温存のため、アトルには戦わせるわけにはいかないという事情があって、反逆罪を犯した者を減刑してまで協力させねばならない程、こちらは戦力不足なのだ。


 ヴァルザスは三下と断言したが、宝士の戦力も侮れない上に、残る四人のシェレスがいる。

 そして何より、かつてミラレークスの指定魔術師もそうしていたように、宝国側に寝返っている者がどれだけいるのか、それをシルヴェスターは把握し切れていない。


「ああ、いいぜ」


 リーゼガルトがそう言って、あっけらかんと肩を竦めた。


「それに、どっちにしろアジャットと合流しねえと」


 頷いて、アトルも一歩踏み出した。

 それに当然の顔をしてファンロがついて来たのを見て、グラッドがぎょっとした顔をする。


「アトルさん、アジャットさんは――」


「……しまった」


 アトルは口許に拳を当て、しかしまずは顔ぶれを紹介せねばとファンロを振り返る。


「ファンロ、こいつらは俺の仲間。さっきも紹介したグラッドさんと、こっちがリーゼガルト。こっちがミルティア。――聞いてたと思うけど、このひとはファンロ」


 アトルの紹介に合わせてそれぞれの顔を見て、ファンロはいんいんと響く声で言った。


〔よろしく〕


「よろしく、だってさ」


 アトルが通訳し、リーゼガルトたちも一言ずつの挨拶を返す。

 そうしてから、アトルはファンロを困った顔で見上げた。


「まだもう一人、アジャットっていう人がいるんだ。そいつが、昔――別にファンロにやられたわけじゃないけど、空人と雷兵に襲われたことがある。今でもちょっと苦手みたいで――」


 ファンロが冴え冴えと輝く金色の目でアトルを見下ろし、首を傾げた。彼が纏う雰囲気が格段に冷たくなり、リーゼガルトが僅かに警戒するのが分かった。


〔だから?〕


 アトルは溜息を吐く。

 ここでファンロに、「だから顔を合わせるのを避ける意味もあって、ついて来るのはやめてほしい」と言ってしまえば、アトルは彼らに差し出すべき見返りの履行を拒んだことになりかねないのだ。


 ゆえに、アトルは肩を竦めた。


「事情を説明されるまで、もしかしたら失礼な振る舞いもあるかも知れないけど、我慢してやって」


 にこりと笑って、ファンロはアトルの頭をぐりぐりと撫でた。


〔いいよ、分かった〕


 騎士を一人伴ったシルヴェスターが彼らの傍まで来て、「行こうか」と促してから、はたと思い出した様子でミルティアを見て顎に手を遣った。


「――そういえば、きみは地下が苦手だったな」


 ここに残るか? と尋ねられ、ミルティアはぶんぶんと首を振った。二つに結われた小麦色の髪が跳ねる。


「うぅん、アジャットはぁ頑張らないとぉ駄目なんでしょ? あたしもぉ頑張る」


 危ぶむように深碧の目でミルティアを見てから、しかしシルヴェスターは小さく頷いた。


「そうか」




 厚い雲に遮られて太陽は見えないが、時刻は既に夕暮れ時だ。


 徐々に夕闇が忍び寄る中、歩き出したミルティアが欠伸を漏らした。

 数時間前には戦闘をこなし、それからも緊張の中にあったのだから、平時に比べて疲れるのは当然といえた。


 ファンロが物珍しげにまじまじとミルティアを見て、それからふと思い立ったように手を伸ばし、彼女の小柄な身体を抱え上げて左腕の上に座らせた。


 リーゼガルトとグラッドが同時に、思わずといった様子でミルティアに手を伸ばす。

 だが、抱え上げられた当の本人は、一瞬の間ぽかんとし、すぐに周囲を見渡して満面に笑顔を浮かべた。


「わああああ!」


 大声を上げたミルティアが、どんな人間よりも身長のあるファンロの腕の上で、いつもよりも遥かに高い位置にある視界に興奮しきり、下に見えるアトルたちに向かって叫んだ。


「すっごぉい! これはいいわぁ!」


〔何て言ってるの? 怖がってはいないみたいだけど〕


 ファンロが隣のアトルを見下ろして尋ね、アトルは苦笑しながら答えた。


「すげぇってさ」


〔そう? なら良かった。宝樹国の子たちにはよくやってあげてたんだけど〕


 ファンロが懐かしげに目を細める一方、リーゼガルトは脱力したように呟いていた。


「――ミルってさ、図太いよな」


「大変、勇敢な方です」


 リーゼガルトの言葉を良いように言い換え、グラッドはミルティアを見上げてからファンロに目を移し、ゆっくりと言った。


「くれぐれも、落とさないように、お願いします――と、アトルさん、伝えてください」


「おう。――ファンロ。その子を落とさないでくれってグラッドさんが」


 ファンロはむっとしたようにグラッドを見下ろした。

 アトルはひやりとしたが、その口角が微妙に上がっているのを見て、単に冗談の意味を籠めた不機嫌さだと分かってほっと息を漏らす。


〔失礼な。落とすはずがないでしょう〕


「落とすはずねぇって」


 アトルが伝え、ミルティアがうんうんと頷いた。


「うん、そんなぁ感じ。

 ――アトルぅ、ファンロにぃ“後で一緒にぃごはん食べよう”ってぇ伝えてー」


「えっ?」


 思わずアトルが訊き返すと、ミルティアはむしろ不思議そうにアトルを見下ろして首を傾げた。


「えぇっ、違うのぉ?

 さっきぃカッコつけてぇ、『俺の食卓にあんたたちを招く』とかぁ言ってたでしょ?

 あたしたちぃ一緒に食べるでしょ? じゃぁ、ファンロたちもぉ来るんでしょ?」


 アトルは息を呑んだが、リーゼガルトがぼそりと呟いていた。


「なーにが、『カッコつけて』だよ。話の流れが分からん余り、不安すぎて泣きそうになってたの誰だよ」


「ファンロぉ、こいつ蹴ってぇ!」


 言葉が通じないことを忘れてミルティアが叫び、向きになったことでリーゼガルトの言の真実を自白した。


 思わず噴出すように笑ってから、アトルはファンロを見上げて伝えた。


「ファンロ。後で俺たちと一緒にメシ食おうって、ミルティアが」


 大きく目を見開いてから、ファンロは莞爾と笑みを浮かべてミルティアの顔を覗き込んだ。


〔お招きありがとう、ミルティア〕


「ありがとう、だってさ」


 アトルは通訳してから、愚痴の口調で呟いた。


「いちいち通訳が入るのってやり難いよな。言葉を覚える方がむしろ楽かも知れねぇな」


〔きみにその必要はないけどね〕


 ファンロはあしらうように言ってから、ミルティアを抱え直してうっとりと言った。


〔この子可愛いね。昔のあの子たちを思い出すよ〕


「そうか」


 アトルは答えたが、次なるファンロの科白を聞いて空気に咽せた。


〔ねぇ、人間と仲良くなれる証明に、この子を貰って行っちゃ駄目かな?〕


 咽せたアトルに視線が集まり、アトルは思わず唸った。


「アジャットといいミルティアといい、なんでそう目を付けられるんだ……」


 シルヴェスターが横目でちらりとアトルを見た。言外に自分のことを言われていると分かった様子である。

 一方のミルティアも目を点にする。


「えっ、アトル……?」


「分かった、ファンロ」


 アトルは言って、消えない焦燥を誤魔化すように笑みを浮かべた。


「無事にレーシアが戻って来たら、俺が話をつけてやるよ」


「えっ、何の?」


 ミルティアが慌てたように尋ねる。

 一方のファンロは、アトルの返答が、半ばは切望の滲む冗談だと分かっているのだろう。〔わあ嬉しい〕と、物柔らかに笑って、右手でアトルの頭を撫でた。


〔――大丈夫、会えるよ〕


 アトルはファンロを見上げた。


〔百年くらい前だっけ。

 僕たちはサラリスがレーシアに会いに行くのを邪魔したけど、今度はきみを手伝うから。

 ――会えるよ〕





************





 アトルたちが空人を一人連れて現われるという事態に、獄塔の中で待っていたアジャットは愕然とした顔を晒した。


「……私は、この事態を避けるためにここに残ったのでは……?」


 思わずといった様子で口走ったアジャットに、リーゼガルトとミルティアがこぞって説明を始めたが、話が前後する余り、アジャットの顔に広がる困惑の色がますます濃くなる。


 それを見かねたシルヴェスターが割って入り、手短に事の次第を説明した。

 更に、空人と雷兵の協力を取り付ける上でアトルが示した条件のために、アジャットに会わせないわけにはいかなかったのだと補足する。



 それを他所に、地下の広間には徹底的に似合わない、玲瓏たる美しさを湛えるファンロは額を擦った。

 ここまで下ってくる階段の途中、その身の丈ゆえに何度か頭をぶつけたのである。


 ミルティアは階段の手前でファンロに降ろされていたものの、ごつっ、ごつっと響く重たげな音に、必死になって笑いを堪えていた。


〔もう二度とあの階段は降りない〕


 しょげた様子でそう零したファンロは、シルヴェスターの話を聞くに従って確実に顔色を変えていくアジャットを興味津々といった様子で眺め、アトルに尋ねた。


〔ね、あの人? あれがアジャット?〕


「そうだけど、まだ事の次第の説明中だ――って、おい!」


 ファンロが軽やかにアジャットに向かって足を踏み出し、アトルは思わず声を荒らげてそのトーガを掴んだ。


「待てってば。まだ説明中――」


 アトルを振り返り、ファンロは不機嫌に眉を寄せた。


〔なんで。味方になったよって、一言で済むじゃないか〕


「けど――」


 言い淀むアトルの手からするりとトーガを取り返し、ファンロは人間よりも大きな歩幅でアジャットとの距離を詰めた。


 アジャットが後退ろうとしたのを、咄嗟にその手を掴んだシルヴェスターが留めた。

 そして、極めて落ち着いた、淡々とした声音で言った。


「――アジャット。彼はファンロだ」


 ファンロが間近でまじまじとアジャットの顔を覗き込み、アジャットの顔色が蒼白を通り越して土気色を呈する。

 リーゼガルトが前に出ようとしたが、シルヴェスターが素早く口を出す方が早かった。


「アトル、通訳を。

 男性が女性の顔を至近距離で眺めるのは、礼儀に適っているとは言えない。少し下がるようにと」


 穏便な言い分に、アトルが内心でその機転に感心しつつファンロにそう伝える。


〔そうなんだ?〕


 首を傾げて一歩下がったファンロが、浅く呼吸を繰り返すアジャットの顔をもう一度見てから、鼻を鳴らして腕を組んだ。


(――やばい?)


 アトルは固唾を呑んだ。

 ファンロの言葉で大多数の空人や雷兵の心が動いたところもある現状、ファンロの翻意はそのまま、構築したばかりの空人や雷兵との協力関係の罅になりかねないのだ。


 同じことを思ったのか、アトルを嗾けた張本人でもあるところのシルヴェスターが、抑えた声でアジャットに囁いた。


「……アジャット。会釈でも何でも構わない。挨拶を」


 アジャットがシルヴェスターを見上げ、心を落ち着かせようとして癖が出たのか、フードを引き下ろす仕草をする。

 その手が宙を掴んだことに動揺した様子ではあれ、アジャットは恐怖心を堪え、ファンロに向き直って小さく会釈した。


 これで満足してやって、と、アトルは殆ど祈る気持ちで考えた。

 空人と雷兵の戦力は捨て難いが、アジャットの心の平安の優先順位は、どちらかと言えばそれに勝る。


 ファンロはしばしの間、じっとアジャットを見下ろしていた。


 耐えかねたアトルとリーゼガルトがじりじりとそちらに距離を詰め始めると同時、不意にファンロが腕を解き、おずおずとアジャットの禿頭(とくとう)に手を置いた。


 グラッドとミルティアが呻いた。


 びくり、と身体を震わせたアジャットに、困ったようにファンロが声を落とす。


〔あのね、きみが僕の仲間に何をされたのであれ、僕がやったのではないから、僕は謝るつもりはないんだ。でもね――〕


 息を詰めていたアトルは、はたと気付いて慌てて通訳に移った。


「アジャット。ファンロは、他の空人と雷兵にアジャットが何をされたのであれ、ファンロがやったことじゃねえから、謝るつもりはないって言ってる。でも――」


 アトルの通訳が終わったことを聞き取り、ファンロが言葉を続けた。


〔人間と戦争した後、人間が嫌いで仕方なかった僕も、最初はすごくゼトに冷たく当たった。でもゼトはそれを笑って受け容れてくれたから、僕は人間も別にいいかと思うようになった。

 きみが僕を見て怖がるのはよく分かるよ。でも、僕はきみに怪我をさせない。きみを殺さない。――仲良くしよう、アジャット? それが、僕がレーシアを助けることに手を貸す条件なんだ〕


 またしても出て来たゼティスの名前に忌々しいものを感じつつも、アトルはすぐに通訳を始めた。


「人間と戦争した後、ファンロも人間が嫌いで、ゼティスに冷たく当たったらしい。けどそれを、ゼティスは笑って受け容れたから、ファンロは人間が嫌いじゃなくなったんだと。

 アジャットがファンロを見て怖がるのもよく分かるってさ。けど、ファンロはあんたに怪我をさせないし殺したりしない。だから仲良くしようってさ。

 ――俺からも頼むよ、アジャット。ファンロたちが協力してくれる条件がそれなんだ」


 アジャットは視線を動かし、アトルを見て大きく息を吐いた。


「――前々から思っていたが、きみはレーシアさんのためとなると随分と大きく出るんだな」


「いやその――」


 思い当たる節もあり、アトルは微妙に目を逸らす。

 その様子に、まだ固い表情であってもくすりと笑って、アジャットは呟くように告げた。


「――慣れるのには時間が掛かる。当分は二人で会ったりは出来ないと思う。だが、ゆくゆくは仲良くしたいと私も思っている――と、そう伝えてくれないか、アトル青年」


 ほっと息を吐き、アトルはアジャットの言葉を復唱した。


 それを聞き終えたファンロが微笑んで頷くと同時、後ろから小走りで近寄ってきたミルティアが、アジャットの頭上からファンロの掌を撤去した。

 引っ張られた腕に、ファンロが訝しげにミルティアを見下ろす。


「慣れるのにぃ時間がぁ掛かるってぇ言ってる人の頭にぃ、いつまでも手ぇ置いてるんじゃぁないわヨ、――って伝えて」


 アトルが口早にそれを伝えて、ファンロは決まり悪げにアジャットの顔を覗き込んだ。


〔ごめんね?〕


「ごめんね、だってよ。――ファンロ、もうちょっと離れてやれねぇ?」


 通訳しながらも苦言を呈したアトルに、アジャットが小さく頷いた。

 まだ固い顔ではあったものの、気持ちは楽になったようだった。


「構わない、と伝えてくれ。あと、一歩下がっていただけると呼吸が楽になる」


 アトルがアジャットの言葉を伝え、ファンロは快く一歩下がった。



 これでようやく本題に移れると、些かうんざりした面持ちでシルヴェスターが切り出す。


「――アジャット。貴女にも協力願いたいのだが……」


 獄塔まで引き返してきた用件を伝えられ、アジャットは大きく頷いた。


「そういうことか。いいとも、喜んで。

 ただ、個人的に話をしたい相手もいるのだけれど、構わないだろうか」


「別に構わないが」


 シルヴェスターの答えを受けて、嬉しそうにアジャットはグラッドを振り返った。


「グラッド、お礼が出来るぞ!」


「そう、ですね」


 微笑んで答えたグラッドの手を引き、ミルティアが怪訝そうに尋ねた。


「何のぉこと?」


 グラッドはミルティアにも微笑を向けた。


「協力してくれた、方々です」


 ますます分からなくなった様子でミルティアは首を傾げ、アトルとリーゼガルトもまた、訝しげに目を細める。



〔何て、何て、ねぇ、何て?〕


 この場における最高齢のはずのファンロが、無邪気にアトルの手を引いて揺らしていた。













 獄塔の地上部分――つまりは、地上から見える塔の内部――には、客観的に見て脅威度の低い者たちが収容されている。


 反逆者となったミラレークスの者たちもその例に漏れず、一般魔術師あるいは準指定魔術師が、地上部分に投獄されている。


 つまり、味方に引き込むにしても、地上部分の者たちは宝士に匹敵するような戦力にはならない。


 ゆえにアトルたちは地下を進んだが、ミルティアはアジャットの腕にしがみ付き、顔色を悪くさせつつの道中になった。


〔ねえ、ミルティアはどうしたの〕


 ファンロの問いに、アトルは肩を竦めた。


「あいつ、地下が苦手でさ」


〔そうなんだ? どうして来たの?〕


 ファンロは驚いたように声を大きくし、その声が幾十の旋律になって地下の隧道の空気を震わせた。


 アトルは苦笑いする。

 アジャットがファンロに耐える必要があったため、ミルティアも奮起したのだ――とは、何となく言い難かったのだ。


 答えないアトルを訝しげに見てから、ファンロはミルティアに視線を向けて悔しげな顔をした。


〔ここは天井も高いし、また抱き上げてあげたいけど、アジャットにはあんまり近付かない方がいいんでしょう?〕


 ミルティアががっちりとアジャットにしがみ付いている現状、ミルティアを抱き上げに行けないことが不満らしい。

 アトルは呆れてファンロを見上げた。


「――マジでミルティアが気に入ったのな」


〔だって、あの子たちみたいで可愛いから〕


 笑ってそう答えたファンロに、アトルは何とも言い難いものを感じつつも、それを呑み下して頷くに留めた。



 アトルたちが歩いているのは、ハッセラルトが捕らえられている牢に続く隧道とは、また別の隧道である。

 こちらの隧道の方が広く、人の出入りも多い。刑吏の格好をした人々と、途中で何度か擦れ違ったのだ。

 擦れ違う度に彼らがシルヴェスターに頭を下げようとし、ファンロに気付いて愕然と固まるのを、いちいちシルヴェスターが声を掛け、ファンロを紹介していった。



 そうしながら牢の並びに行き着いたアトルたちが、効率を上げるために分かれて牢を覗き込み、その中にいる人物が戦力になるかならないかを判断していく。

 とはいえ、アトルは顔見知りの実力しか知らない。ゆえに、名簿にある名前の中から己が知っているものを選び、本人に違いないかの確認だけを任された。

 一方のアジャットたちはミラレークス内で生活していた期間も長い。大抵の指定魔術師の顔と名前は一致する。


 そうして彼らが戦力になると判断した人物をシルヴェスターとその部下が控えておき、後から纏めて減刑を条件に協力を迫るらしかった。


 ミラレークスという組織の体質ゆえか、捕らわれた殆どの者たちの目は虚ろ、茫然自失の状態のようだった。

 今まで体制側にいたものを、突然にして反逆者となったのである。

 自分が何に加担したのか、咀嚼し切れていない者が多いようだった。


 減刑を条件にされれば、恐らくは全員が飛び付いて話を受けるだろう。


 だが、中には例外もあって、リカルド・スレイ特等指定は極めて元気そうだった。

 彼の経歴はなかなか特殊ということだったので、ひょっとすると投獄も初めての経験ではないのかも知れなかった。

 アトルが彼の本人確認を行ったが、同じ房に入れられた魔術師たちも全力で距離を置くその態度に、有体にいって引き気味に愛想笑いを浮かべる羽目になった。



 そして、アジャットが気に掛けていたのは、飛翔船内でアジャット側に有利になる嘘を吐いた三人の安否である。

 飛翔船が完膚なきまでに破壊された事実がある以上、彼らもまた命を落としたかも知れず、それを気に病んでいたのだった。


 名簿を手にした騎士の隣で、文字を読むのに不慣れなアトルが名前を目で追い、顔が分かる人物の名を順に口に出し、その人物がいる牢の前に案内される。

 それを繰り返していたアトルだったが、とうとうオーレックの名前を見付けて思わず叫んだ。


「オーレック、生きてたか!」


「ここに名前があるということは、そういうことだな」


 傍の騎士――ヴェインと名乗った――が冷ややかにそう答え、「こちらだ」とその牢の前までアトルを案内する。


 正直に言えば、オーレックとリーゼガルトでは階級は同じでも、戦い慣れの面からか、それとも単に適性の問題か、戦力に差がある。オーレックでは、減刑を願い出ることが出来るだけの戦力にはならない。

 だが、世話になったということもあって顔を見ておきたい気持ちがあり、アトルは黙ってヴェインに付いて行った。


 二つ隣の房をアジャットが検分している牢の前に通され、アトルは思わず鉄格子を掴んで呼び掛けた。


「オーレック、おい――」


「アトル!?」


 牢の中で落ち着かない様子を見せていたオーレックが声を上げ、がちゃがちゃと枷を鳴らしながら鉄格子の傍まで這って来た。

 思わずアトルは顔を歪めたが、当人は全く気にしていない様子で矢継ぎ早に尋ねる。


「良かった、無事だったか。レーシアさんは? なぜここに? ――どうしてカエルムがいるんだ?」


 レーシアの名前が出た瞬間、ヴェインがあからさまに眉を顰めた。

 先程からこの騎士、アトルにやたらと冷ややかな態度で接するのだが、その理由の十割がレーシアに対する嫌悪である。


「えっ――ええっとだな。取り敢えずこのひとはファンロ……」


 アトルは咄嗟に、自分の後ろをついて回るファンロを紹介したものの、他の質問には答えようにも上手く答えられない。

 そんなアトルに、オーレックの声を聞いたらしきアジャットが素っ頓狂な声を掛けた。


「ちょっと待て!? その声――」


 アジャットがこちらに走り寄って来て、まじまじとオーレックの顔を見た。

「そう言えば同じ派閥に所属してた仲だったか」とアトルが思い出す一方、アジャットは半信半疑といった声音で確かめる。


「……飛翔船で、何やら私のはったりに付き合ってくれた――」


 オーレックはオーレックで、愕然としてアジャットの顔を見た。


「――れ、レーヴァリイン高等指定?」


 アジャットははたと気付いた様子で滑らかな己の頬を撫でた。


「ああ、顔を見せるのは初めてだったな。そうだ、アジャット・レーヴァリインだ。

 ――飛翔船の件では世話になった。貴方のお蔭で、ルーヴェルド様をはじめとする指定魔術師の皆様を誘い出せたようなものだ」


「ああ……どうも……」


 オーレックは顔を強張らせ、ぼそりと呟いた。


「やはりこう、自分のせいで味方が敗北を喫したと突き付けられると何とも言えないな……」


 面食らってアジャットを見たアトルは、「待て、話が分からん」と言葉を挟む。


「はったりってどういうことだ?」


「ああ、言っていなかったな」


 今さら気付いた様子で、云々(しかじか)とアジャットが飛翔船からルーヴェルドたちを誘い出したときの様子を手短に説明する。

 その説明を聞くにつれ、アトルは思わず顔を輝かせていた。


「本当か? オーレック、おまえ、アジャットに合わせて嘘吐いてやったんだな!?」


 勢い込んで尋ねたアトルに、オーレックは疲れた様子で頷いた。


「そうだが、余りそれをあげつらわれると――」


 皆まで聞かず、アトルは思わず拳を握り、振り返って大声を出した。


「――おい! おい、デイザルト!」


 ぞんざいな呼び掛け方に、ヴェインが眩暈を覚えた様子で額を押さえ、それを見たファンロが〔大丈夫?〕と目を瞠って気遣った。

 言葉は通じないにせよ、表情と仕草で何を言われたのかに察しを付けたヴェインが、「お気になさらず」とばかりにファンロに掌を向ける。

 何を誤解したのかファンロはその掌に自分の拳を軽くぶつけ、大真面目に頷いた。


 呼ばれたシルヴェスターが顔を上げ、大股にこちらに向かって歩み寄って来た。灯火の光に金髪がきららかに光を弾く。


「なんだ? 何か問題か?」


「いや、問題じゃねえけど」


 アトルは言って、オーレックを示してからシルヴェスターに向かって両手を合わせた。


「こいつ、下等指定魔術師のオーレック。正直に言うと宝士相手に戦うのはきついだろうけど、飛翔船からルーヴェルドたちを誘き出すのに一役買ってくれたらしい。減刑できねぇ?」


 アトルの意図を悟って、アジャットも傍から熱心に言い添えた。


「そうだ。今のミラレークスは反逆罪に問われているが、捕らわれる前からミラレークスにとって不利になる言動を見せたのだ。

 刑罰はそもそも、罪を忌避させ、罪を抑止する意味があって設けられたものだろう。ゆえに酌量の項が存在するのだ。

 罪を犯した組織にあって、その組織に反する行動を取ったということは、そもそも罪に対して忌避の感情があったということだろう。ならばこれを酌量せずに何とする」


 シルヴェスターはオーレックに視線を移し、僅かに眉を寄せた。


「酌量の余地は審議で決まるにせよ、可能性は十分にある。――他には? 他に同じことをした者は?」


 アトルはほっと息を漏らした。

 同じく表情を緩めたアジャットが、傍のヴェインの手から名簿を引っ手繰ってそこに記された名前を追っていく。


「あと二人いた。――ええと、そう、彼女だ……シェリル下等指定。良かった、生き延びていたんだな。

 ……それと、バーセル高等指定――だがバーセル高等指定は――」


「はあああ!?」


 黙ってアジャットの言葉を聞いていたアトルが弾かれたように声を上げ、シルヴェスターはうるさそうにそちらを見遣った。


「騒がしい。何だ」


「バーセル? バーセルだと? そいつは減刑しなくていい!」


 私怨丸出しでアトルが言い募り、アジャットがきょとんとして首を傾げる。


「……なぜだ? バーセル高等指定は実力も高い。わざわざ私に協力してくれたことを鑑みなくとも、戦力になるということで減刑を持ち掛けられると思うが――」


「アジャット!」


 理不尽にもアトルは怒鳴り声を上げた。


「そいつ――バーセルは! レーシアに手ぇ出そうとしやがったんだぞ! 結婚したいとか抜かしたんだぞ!」


「死刑だな」


 即座に変説してアジャットが断言する一方、シルヴェスターは疲れたように眉間を押さえた。


「――そんな勝手が罷り通るか。もちろん減刑を持ち掛ける。……だがまぁ、趣味が悪いとは思うがな」


「どこがだ!」


 叫ぶアトルに、ヴェインが混じり気なしの殺意を籠めて囁いた。


「貴様、そろそろ黙れ」


「ヴェイン。そう気を立てるな」


 シルヴェスターが穏やかに言って、名簿をアジャットから取り上げると、オーレック、シェリル、フィリップ、この三者の名前の横に小さく焦げ痕で目印を付けた。


「バーセル高等指定については必要ないが、オーレック、シェリル両下等指定に対して、審議の日程を整えるよう刑吏に伝えてくれ。酌量の余地を議論されたしと」


 ヴェインがシルヴェスターから名簿を受け取り、深く頭を下げた。


「は。承知いたしました」


「よろしく頼む」


 そう言ってからアトルに向き直ったシルヴェスターは、眉間に皺を刻んで無愛想に申し伝えた。


「――急ぐように。

 お師様の葬儀は明日行われるが、そのときには恐らく、我々は出発している。

 今夜しかお師様のお顔を拝見できないのだから」


 アトルは息を呑み、しばらく黙ってシルヴェスターの顔を見上げた。

 シルヴェスターが眉を顰め、「なんだ」と詰問の口調で言う。


「……あんた、ヴァルザスさんの葬儀に参列しなくていいわけ?」


 やっとのことでアトルが尋ねると、シルヴェスターは軽く肩を竦めた。


「その気持ちはあるが、私が各国の重鎮にお師様の自慢を散々してきたせいで、どうやら葬儀は盛大なものになるらしい。

 そんな長丁場に参列している時間はないし、それにお師様ならば、自分に構わずやるべきことをやれと、そう仰る」


 瞼の裏が熱くなり、アトルは慌てて俯いた。


「――そうだな」


 泰然と立つヴァルザスの姿が脳裏に蘇り、アトルは唇を噛んだ。


 そんなアトルを気遣わしげに見遣ってから、アジャットが涙の膜の張った群青の瞳でシルヴェスターを見上げ、囁いた。


「そうに違いない。だが、是非お会いしておきたい――急ぐとするよ」





************





 ミラレークスの生き残りは、獄塔にいる者たちだけではなく本部跡にもいる。

 そして、無論のこと大陸中に配置された支部にもまた、ミラレークスの者たちはいるのだ。


 それらの者たちがどのように遇されるのか、詳しいところはアトルたちにも話されていない。

 だが、アジャットは楽観的な見方を示した。


「――多分、ミラレークスの全職員を罪人として処罰するわけにはいかないのではないかな。国の司法制度が滞りかねない人数がいるのだし、魔術師はまだまだ稀少な存在だ。無為に牢獄で過ごさせることはないだろう。ミラレークスという組織自体、在り方は変わっても残るのではないかな」


 そう言うアジャットは、獄塔に入れられた指定魔術師たちの戦力になるや否やの選別を終え、シルヴェスターやアトルたちと共にシルヴェスター宅へ足を進めている最中である。



 時刻は既に夜。


 雨は降り止んでいたが、あの雨が季節を進める冷気をもたらしたのか、若干肌寒い。

 濡れた敷石が城内に設けられた篝火や星明りを反射して、黒々と光っていた。



 彼らと共に、ファンロと、そして獄塔を出た後に合流した空人と雷兵各一人ずつが歩いている。

 空人の方は女性でネフィと名乗り、雷兵の方はあの大広間でアトルの正面にいたルンオンである。


「へええ」


 アトルはアジャットの言に頷いただけだったが、リーゼガルトはぼそりと突っ込んだ。


「ミラレークスの処遇を決める実権がありそうな、デイザルトに聞こえる所でそれを言う辺り、あんたも善人なだけじゃねぇよな、アジャット」


 アジャットは大きく目を見開き、自分の二歩分ほど前を歩くシルヴェスターの後ろ姿を見上げてから、慌てた様子で言い募った。


「違う、それは違うぞ、リーゼガルト」


 シルヴェスターは苦笑して振り返った。


「アジャット。貴女の言に左右されはしないから安心してほしい。――だが、概ね正解だ」


 ほっとした様子でアジャットは胸に手を置いた。


「だろう?」


「飛翔船に乗っていた者たちと、アルテリア本部にいた者には、さすがに何らかの刑罰が必要になるが」


 シルヴェスターは溜息を零して呟いた。


「さすがに、ミラレークスに所属していたというだけで他の者をも処罰するのは、余りに憐れだ」


 ミルティアは神妙な顔をした。


「そう言えばぁ、あたしたちってぇまだ籍はぁそのままにぃなってたからぁ、他人事でもないわよネ」


「えっ、あっ、マジだ!」


 リーゼガルトが「いま気付いた!」と言わんばかりにシルヴェスターを見る。

 シルヴェスターはおざなりに手を振った。


「貴君らについては超法規的措置で乗り切る。

 実質はミラレークスに敵対していたのだから、当然だろう」


 アトルも含め、その場においてミラレークス指定魔術師の肩書きを有する五人が一斉に、深い安堵に肩を落とした。



 ミラレークスが国家に反逆したという話が、噂となってどれだけの距離を駆け抜けたかは分からない。


 だが、もしも耳に届いていれば、リアテードに置かれた支部に所属するミラレークス職員たちは戦々恐々としていることだろう。

 リアテード以外の国に支部があれば、リアテード皇国に対する反逆罪について他国の者を罰するのは理不尽だという理屈が立つ。

 だが、リアテードにいればその言い訳も立たない。


 しかし一方、ジフィリーアをはじめとした他国の支部に所属するミラレークス職員も安心は出来ない。

 リアテードに対する――謂わば――「申し訳」のために、他国といえども、国家としてミラレークスを放置するとは考え辛いのである。


 その点、シルヴェスターはこの百年を掛けて各国王家に伝手を作ってきた。

 どの国に対しても、ある程度は口を出せる特殊な立場にあるのだ。



「む。世間の風当たりが、十分に罰として機能すると思うが」


 気を持ち直したアジャットは考え深げに言い、夜空を見上げてぼんやりと続けた。


「――そもそも、ミラレークスが魔術師を独占し過ぎているという意見は以前からあったんだ。だから、ミラレークスに対する国家の厚遇を改めさせて、完全に独立した組織として立て直してしまえばいい。

 国境を跨いで魔術の研究をする機関は――個人的には――必要だとは思うけれども、それならば魔術を応用した技術の売買で十分に利益が上がるはずなんだ。国家予算を割かれる必要はない。

 だがもし、魔術師の育成をするとなれば、それなりに国からの支援がなければ、教育を受ける本人から対価を受け取る形になる。貴族の子女に対してはそれで構わないけれども、一般のご家庭の方に対してそれは酷かな。魔力があっても貧富の差のせいで魔術師になれないかも知れない。

 だが、そうやって育てた魔術師をミラレークスがそのまま独占してしまうのは如何なものかなぁ……」


 ミルティアが唖然とした様子でアジャットを見上げ、「壮大ねぇ……」と呟く。

 グラッドも目を見開く一方、アトルとリーゼガルトは深々と頷いて声を揃えた。


「カネ掛かんのは、一般のご家庭以下の家庭の子供にも酷だわ」


 シルヴェスターは面食らったようにアジャットを見て、ふと口許を綻ばせた。


「……貴女は面白いことを言うな」


〔ねえ、何の話をしてるの?〕


 ネフィがアトルの肩を指先でつついて尋ね、アトルは簡単に答えた。


「ちょっとした大問題を起こした組織が、これからどうなってくかって話」


 ネフィは長い睫に彩られた瞳を細めて笑った。


〔ちょっとした大問題? 面白いこと言うのね〕


 肩を竦めたアトルは、ふと思い付いて呟いた。


「――どうせなら、ミラレークスを作り変えたときに、空人と雷兵の言葉でも研究する部署を作っちまえばいいのに」


「それはいいと思う」


 アジャットが真顔で賛成する一方、ファンロたちも俄然身を乗り出した。


〔なに? 僕たちの話?〕


「ミラレークスには基盤があるのだから、研究と教育を主にする組織に作り変えるのはそう難しくないと思うんだけれども。国と交渉して――そうだなぁ。それなりに貧しい方たちには援助金を出させる形にすれば、組織としてやっていけるのではないかなぁ。魔術師は引く手数多だから、魔術師にさえなってしまえば稼いで返済できるだろうし。

 研究の一端として、カエルムやトニトルスと親交を深める部署があってもいい。通訳として出張して、その分の代金を頂けばそれも収益になる」


 真剣に言ったアジャットの言葉を、せっつかれてアトルが通訳する。

 それを聞いたルンオンがぽかんとアジャットを見て、おもむろに手を上げた。


〔すごいこと考えるんだな、きみは。

 シュウエキってのが何かよく分からんけど〕


 そのままルンオンがアジャットの背中を叩こうとしたのを、ファンロが慌てて止めた。

 アジャットはほっとしたような顔をする。


〔駄目、駄目。言ったでしょう、この子は僕たちが怖いの。慣れようとしてくれてるんだから、怖がらせてどうするのさ、あなたは〕


〔あ、そうだった。ごめんごめん〕


 ルンオンがひらひらと手を振る一方、アジャットは極めて無邪気にシルヴェスターの横顔を見上げた。


「――と、いうようなことを、貴殿から各国元首に奏上していただけないだろうか。

 巡り巡って国益にもなるし、考えに粗い部分はあるけれども、そう悪くない話だと思うのだが」


 シルヴェスターがアジャットを見下ろした。傍の篝火の明かりがその深碧の目に映り込み、そこに浮かぶ感情を打ち消して横顔を明々と照らす。


 アジャットはやや不安になったのか、口早に言葉を重ねた。


「いや、ミラレークスはこれまでも、一応は優秀な魔術師を育ててきたんだ。彼らの多くは今でもミラレークスに所属している。

 そんな魔術師を牢獄で無為に過ごさせるか、温情を与えて利益を生ませるか、賢明な為政者ならばどちらを取るかは明らかだろう?」


「――そうだな」


 シルヴェスターは認め、アジャットがほっとした顔をする。

 そんなアジャットを苦い顔で見ながら、シルヴェスターは低く呟く。


「貴女はぜひ軍に欲しかったのだが、そうやって話しているところを見るに、それは無理かな」


 リーゼガルトは思わずといった様子でシルヴェスターを凝視した。


「本っ当にアジャットが気に入ったんだな……」


「どちらにせよ」


 リーゼガルトが図星を突いたのか、それを無視してシルヴェスターは前に向き直り、言葉を続けた。



「今後の身の振り方を決めておくのはいいことだ」



 アトルは思わずシルヴェスターの後ろ姿をじっと見た。

 同時に、ミルティアが眦を下げて呟く。


「……レーシアとかぁ、アトルと一緒にいるのはぁ駄目なの?」


「エンデリアルザが私と取引した」


 シルヴェスターは振り返らず、淡々と言った。


「あの女の死刑を中止する条件として、あの女は世界を救うと抜かした。

 だが、死なずに世界を救ったとして、それからがあの女の贖罪だ」


 ようやく僅かに振り返って、シルヴェスターは告げた。


「あの女の罪は余りに重い。

 ――後悔すること。思い返し続けること。犯した罪以上の善を成すこと。善を成して何も受け取らないこと。一生罪人でいること。――それが贖罪の方法だと、あの女は言った。

 一生懸けて償うと」


 恐らくは、と言葉を継いで、シルヴェスターは続ける。


「エンデリアルザ自身、貴君らとこれからも共に行動することを望むだろう。

 だが、だからこそ、それは許されない」


 声音に怨みはなかったが、断固たる意志があった。


「言っただろう。エンデリアルザが面白おかしく生きていくような、そんなことはあってはならないと。

 あの女自身、幸せになりたいとは思わないと断言した。――だから、貴君らにはもっと有益で、幸福な人生を歩んでいただきたい」


「待て、俺は?」


 アトルが思わず足を速め、シルヴェスターに追い着きながら鋭く尋ねた。


「貴君は――」


 シルヴェスターが言い差した言葉を遮り、アトルは語調激しく断言した。


「俺はレーシアといる。レーシアといると、人生全部をあいつの贖罪に付き合うために使わなきゃならなくなるんだろ? だから、アジャットたちには酷だし許されないって話だろ? けど俺は違うからな」


 シルヴェスターは何ともいえない眼差しで、隣に来たアトルの目を見た。


「……貴君は、残念ながら、これからの計画の要だ。達成していただけた暁には、勿論全世界の人間が貴君に借りを作ることになる。

 ゆえに、好きにしていただいて構わないが、――分かっているのか? 貴君の功労でエンデリアルザの罪を打ち消すわけにはいかないのだぞ」


 レーシアが世界を救うと断言し、それを対価にシルヴェスターに取引を持ち掛けたのは、――呆れたことに――アトルの存在あってこそのものだ。

 アトルがアロ・フォルトゥーナに干渉して世界を救うことは、レーシアに生きて償う道を用意される条件なのだ。


 筋が通らない気がしないこともないが、アトルは頷いた。


「借りとかどうでもいいよ。あいつのためにやるだけだし。どうせ一生レーシアといるつもりだったし。あの馬鹿のことだから、多分誰かが傍にいないと途中で何したらいいのか分からなくなりそうだし。だから俺があいつの傍にいる」


 だからさ、と言葉を継いで、アトルはシルヴェスターの深碧の目を覗き込んだ。


「レーシアがあんたのしたで贖罪に励むっていうなら、俺だってあんたのしたになるんだ。

 だから、『貴君』とか呼ばなくていいんだぜ? 普通に『おまえ』でいいから」


 シルヴェスターはまじまじとアトルを見て、それから呆れたように息を吐いて瞑目した。


「周り中が呆れているようだから、代弁するが。――驚くほど無欲だな、アトル」



 ――異様なほど人が好くて、自己犠牲的なまでに優しい人。



 レーシアの言葉を思い出し、シルヴェスターは心ならずもそれに納得せざるを得なかった。

 戦災孤児として生まれ、控えめに見ても不幸な生い立ちとなったその半生が、アトルから贅沢な人生を送りたいという欲を削り取ったのだとしたら、それは皮肉な巡り合わせだとシルヴェスターは思う。


 アトルはシルヴェスターの言葉に周囲を見渡し、ファンロたちまでをも含む全員が自分に呆れたような――あるいは、案じるような視線を向けているのに気付き、やや怯んだ様子で歩調を緩めた。


「な、なんだよ。別にいいだろ?」


「アトル青年」


 アジャットが呼び掛け、首を傾げてアトルの手を取り、握り締めた。


「無理はしないように。時々会いに来るように」


 言葉に詰まったアトルをちらりと見てから、シルヴェスターは冷静に口を挟んだ。



「――これから誰が死ぬのかも分からないだろう。

 全てが終わるまでは、単なる机上の空論だ」



 違いねぇ、と、これから最も命が危ぶまれるだろう立場のアトルが苦笑したところで、シルヴェスターが足を止めた。



 いつの間にか、立派な邸宅の前に辿り着いていたのだった。


「ここが、アルテリアにおける拙宅で――、お師様が中にいらっしゃる」


 全員が口を閉じて、その邸宅を見上げた。

 訪れた沈黙にふと笑みを漏らして、シルヴェスターは背筋を伸ばして立つ二人の門衛に合図を送る。


 邸宅を守る門扉が滑らかに開き、シルヴェスターは一同を振り返って奥を示した。


「こちらだ。――どうぞ?」

















 アトルはヴァルザスの最期を知らないが、およそ苦痛というものが一切なかったのではないかと思うような、そんな死に顔だった。


 棺の中に横たえられ、敷布と花に埋もれたヴァルザスの身体は見えないが、シルヴェスターの口振りからすると、とても誤魔化せないだけの欠損があったのだろうとアトルにも分かった。



 貴賓室から備品を運び出し、そこにヴァルザスの棺を置いたらしいその部屋の四隅に、仄かに輝くアルナー水晶が置かれている。

 部屋にはその明かりしか灯されておらず、薄暗い部屋の空気はひんやりと冷たく、それがヴァルザスの身体の腐敗を防ぐための処置だということは明らかだった。


「――こんばんは、お師様」


 シルヴェスターが棺の上に屈み込んで声を掛け、振り返ってアトルたちを促した。


 アトルは一度、遠目にであってもヴァルザスの遺体を確認している。

 しかし他の者はそうではなく、覚悟があったとはいえ、実際に彼の姿を目にした衝撃は大きいらしかった。


 ミルティアの大きな鳶色の目に涙が溜まり、音もなく零れ落ちる。



 最初にアトルが棺に歩み寄り、縁を掴んで唇を噛んだ。


 目を閉じたヴァルザスは仄かに微笑んでさえおり、眠っているかのようだった。


 次にアジャット、それからグラッド、最後にリーゼガルトがミルティアの手を引いてアトルに続いた。



 ファンロたちには、部屋の外で遠慮してもらっている。

 故人を偲ぶ気持ちは彼らには痛いほど理解できるもので、快くそこで待つことを了承してくれたのだった。



 ミルティアがしゃくり上げ始め、アジャットが必死に涙を堪えて瞬きをするまいとしているのが分かった。

 リーゼガルトはまだどこか呆然としていて、グラッドの表情は俯いているために見えない。


 アトルはヴァルザスの顔から視線を引き剥がし、シルヴェスターを窺った。

 薄暗い部屋でなお、シルヴェスターが大きな感情の動きは見せずにヴァルザスに視線を注いでいるのが見え、その平静な様子が逆に、今まで彼がどれだけ泣いてきたのかということを想起させた。


 アトルは何か言おうと、声を出そうとしたが、出来たものではなかった。


(あのとき疑って、本当にすみませんでした――)


 唇を噛み締める鮮烈な痛みがある。


(レーシアに銃を渡して――本当にすみませんでした――)


 そのとき、微かに震える声でグラッドが小さく尋ねた。


「……苦しんで、いらっしゃいましたか」


「いや?」


 シルヴェスターは答え、ほんのりと笑った。


「機嫌の良い様子でいらっしゃった。

 最期にあれこれと私に頼んでから逝かれたが、多分どこぞでサラリス・エンデリアルザとばったり会われたのではないかな。

 二人とも、気にする人間は大体同じだろうから」


「そうですか」


 グラッドの声が嗚咽に曇った。


「そう、ですか……、――っ」


「――貴方を心から尊敬している」


 アジャットが啜り泣きながら呟き、そしてそれが言葉になった最後だった。

 リーゼガルトとミルティアはもはや言葉を発するどころではなく、アトルも言わずもがな。


 必死に堪えた泣き声が満ちる部屋の中で、シルヴェスターはヴァルザスの最期の顔を見下ろした。




 ――スライ。以前のように笑ってほしい。




 恩師の言葉が耳の奥に蘇り、シルヴェスターは微かな苦笑を浮かべる。

 かつての満面の笑みとは程遠い、僅かに口角が上がる程度の笑みを。


「……はい。いつか、おれの気が向いたときに」


 囁くようにそう言って、シルヴェスターは一歩下がって最後の挨拶を落とした。



「――おやすみなさい、お師様」



 踵を返して、シルヴェスターはアトルたちに向かって低く言葉を掛けた。


「私は休むが、好きなだけここにいて構わない。

 客室は一階下にある。使うといい。

 明日には出発するだろうから、そのつもりで」



 (いら)えはなかったが、そのことに拘泥するつもりもなくシルヴェスターは部屋を出る。



 廊下に出て扉を閉めるその一瞬、振り返って見た先に、棺に縋り付いて膝を突き、遂に耐えかねて滂沱と涙を流すアトルがいた。



 扉を閉めて、そこにいたファンロたちに「静かに」と合図をして、シルヴェスターは密やかにそこを歩み去る。















 貴方は私が、エンデリアルザを捕らえ百年戦争の片を付けることにばかり拘泥しているように思っていたかも知れない。


 ですが、私が誰よりも重んじ、いつか全てが終わった世界で共にゆっくりと、出来れば笑い合いながら過ごしたいと思っていたのは、貴方だった――お師様。



 おれの自慢の師匠であり、誰より大事な父親である、貴方だった。















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