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09 「共闘」(1)

 アトルの言葉を聞き、決意を汲み取って、シルヴェスターは大きく息を吐いた。


 そして、なんとも言い難く不快そうに顔を顰めつつも、浅く会釈してみせる。


「――いちいちあの女のためというのが、若干気に障るが。……貴君の協力に感謝する」


(『おまえ』から『貴君』に格上げになった……)


 丁寧な二人称に慣れておらず――そしてまた、シルヴェスターのことは長らく仇敵と睨み続けただけあって、凄まじい違和感がアトルを襲う。

 だがその違和感を呑み下し、アトルはどうしても訊いておかなければならないことのために身を乗り出す。


「おい、さっき言ってた――」


「そちらの四人は」


 アトルの言葉を遮って、シルヴェスターがアジャットたちの前まで進んで彼らに視線を向ける。


「これから、私たちはアトルを宝国に連れて行くための準備に掛かる。

 もしも同行されないというのであれば、城下に引き返してもらいたいと思うが――」


 四人の顔に一様に、「冗談じゃない」という表情が浮かぶ。


 その表情を見て取ったアトルが、素早く、「来るよな?」と確認。

 四人一斉の頷きを得て、アトルはシルヴェスターの横顔を見る。


 シルヴェスターはアトルに向き直って、少しばかりの距離を挟む中、小首を傾げて問い掛けた。


「遮ってしまって済まなかった。――何だろうか」


「レーシアを殺す手段があるとか言ってただろうが。どういうことだ」


 自分を睨み上げるアトルの琥珀色の目に、シルヴェスターは肩を竦めた。


「ああ、確かに。――あの女を宝国に引き渡した後で、貴君がここに来る可能性もあったわけだ。その上で、貴君の協力が得られないことも十分考えられることだった。また、貴君が目的を果たせずに死亡する可能性も無きにしも非ず。

 ――そんな場合の保険を残さずして、私があの女を行かせるはずがないだろう」


 流れるようにそう言ったシルヴェスターに、アトルをはじめアジャットたちまでもが蒼くなった。


 それを尻目に、シルヴェスターが指を鳴らす。


「――そうだった。アトル、傷を見せろ」


「はっ? いや、そんなことよりちゃんと説明を――」


 素っ頓狂な声を上げたアトルに、シルヴェスターは彼の言葉を遮って溜息を零す。


「エンデリアルザから聞いている。命が危ない状況なのだろうが。

 これでも人より長く生きている分、知識もある。見せてみろ」


 怪訝に思ってアトルはシルヴェスターの深碧の目を見た。


「――人より長く……?」


 だが、それについての質問を完成させる前に、素早くミルティアとアジャットがアトルの後ろに回って彼を押し出した。

 前によろめいたアトルの腕を掴んだリーゼガルトが、そのまま彼をシルヴェスターの前に引き摺り出す。

 そして最後にグラッドがしおらしく言った。


「お願い、します」


「おまえら……! レーシアのことの説明が先だろうが!」


 リーゼガルトの腕を振り放そうとしながらアトルが喚いたが、その場の全員がそれを黙殺した。


 リリファとディーン、ベティルは、「命が危ない状況?」と、今まで知らされていなかったその事実に、驚愕と興味と衝撃を混ぜ合わせたような顔になっている。


 リリファは床に転がる大剣に歩み寄り、その柄をとんっと踏んで大剣を床から跳ね上げ、屈むこともなく空中でその巨大な得物を捉えた。

 そうしてから、興味津々といった様子でアトルの傍まで寄って来る。


「なになに? どういうこと? アトル、何を黙ってたの」


 大剣を肩に担いだ樹国上騎士から、アトルは条件反射で一歩分の距離を取る。

 そして、どうやらアジャットたちにもシルヴェスターにも、アトルの問題を後に回す気はないらしいと見て取り、溜息と共に肩を竦めて、ここに来るまでに随分と汚れたシャツを持ち上げた。


 てらいもなくシルヴェスターはアトルの前に膝を折り、アトルが持ち上げたシャツの向こうに見えた、脇腹と背中の結晶を見て驚きの声を上げた。


 リリファも同様に、屈み込んでアトルの傷を見て大きく目を見開く。


「うわ、なにこれ……」


「これは……」


 真剣な表情を見せ、指先で結晶に触れながら、シルヴェスターはふと呟いた。

 先ほど自分の言葉で、アトルが引っ掛かりを覚えていたことを思い返したらしい。


「あぁ、私が人より長く生きているということ――疑問に思っても仕方がないが。

 ――私もお師様も、エンデリアルザと同じ百年前の人間だ」


 アトルは思わず口を開けた。

 アジャットたちもそれと同様、それどころかリリファたちまでが、驚愕を露わにシルヴェスターを見た。


「――え」


 リリファが代表して声を出し、ぱっと立ち上がってシルヴェスターから飛び離れながら、改めて大声を出した。


「ど、どういうこと!? そんなの聞いてないけど!?」


 アトルの傷を一つ一つ見ていきながら、シルヴェスターは気のない声で答える。


「そちらで言う、老師くらいになれば知っているんじゃないか?

 こちらも気を付けたが、お師様はともかく私の生き方は人目についた。隠し通せはしなかっただろう」


 リリファが無言で口を開け閉めし、思い当たったアトルは声を上げた。


「だからか! レフェ老師が矢鱈とヴァルザスさんに怒ってた――」


「待て」


 ディーンが口を挟み、やや強張った顔で確認した。


「ヴァルザス――というのは、イリやガルデラックにいたあの老人だろう。

 そちらの口振りでは、ヴァルザスという人物が師匠だと言っているようだが、デイザルト」


 シルヴェスターは頷いた。


「ああ、そうだ。百年前はレイドラスと名乗っていたがな、お師様は」


 レイドラス――確かにそう、レフェはヴァルザスに向かって絶叫した。

 だからか、と納得する一方で、アトルの瞼の裏にまたしてもちらちらと映像が過る。



 “自分”(サラリス)の前に立って剣を揮う、黒い肌の宝士。

 火傷を負い、石の床に突っ伏す金髪の少年。

 炎に包まれる市街。

 見上げた夜空に舞う、空人と雷兵。



 レイドラス――宝国を裏切った宝士、ヴァルザスがその張本人。



(……え? 待てよ、じゃあなんで、サラリスさんはヴァルザスさんのことを、レイドラスの子孫だなんて言い方をしたんだ?)


 違和感を覚えてアトルは眉を寄せる。


「――ヴァルザスさんは、なんでレイドラスって名前を使わなくなったんだ?」


 尋ねたアトルの後ろに回り、背中の傷を見ながら、シルヴェスターは軽く肩を竦めたようだった。


「さてな。元の名前がほとほと嫌になったと仰っていた。

 だから、前倒しでサラリス・エンデリアルザに貰った名前を使うのだと」


「サラリスさんに」


 復唱したアトルは、身体を捻ってシルヴェスターを見た。


「サラリスさんは、ヴァルザスさんの名前を聞いたとき、レイドラスの子孫だと思うって言ってたぜ」


「それは、レーシア・エンデリアルザがお師様を恨むのを止めるためだろう」


 サラリスの名前に顔を顰めつつも、あっさりと答えたシルヴェスターに、アトルはますます困惑の色を深くする。


「ヴァルザスさんは、サラリスさんに何したんだ」


 その瞬間、考えたくもない最悪の可能性がアトルの脳裏を掠めた。


 恐らくアジャットたちも同様だったのか、四人の顔にさっと緊張が走った。


「えっ――まさか……」


 口走ったミルティアの頭の上に、宥めるようにアジャットが掌を置く。


 一瞬で乾いた口の中を感じつつ、アトルは決定的な質問を放った。



「――ヴァルザスさんを殺したのは、誰だ」



 シルヴェスターは手を止め、深い色の目でアトルを見て、ふと微笑んだ。


「ああ、お師様の葬儀はまだなんだ。後で挨拶に行くといい。お師様もきっと喜ぶ」


「挨拶――させてもらうけど……、なぁ」


 やや弱々しく問い詰めるアトルに、シルヴェスターはわざとらしくも考え込む仕草をして数秒後、重々しく言った。


「簡単に言ってしまえば、お師様を殺したのは運の悪さとお師様ご自身だ。

 ――おまえが案じている可能性はつまり、エンデリアルザがお師様を殺したのではないかということだろう? ――断じてそれはない」


 矜持を籠めて断言し、シルヴェスターは小さく笑った。


「確かに、エンデリアルザは私を撃った。間の悪さから、私はそれを防げなかった。お師様はおれを大事にしてくださっているからな。思わず間に入ってしまわれたようだ」


 アトルは眩暈を覚えた。

 ――あのとき、護身用にと銃を渡したのは、他でもないアトルだった。


「エンデリアルザに、〈静〉の宝具を使えと言ったのだが、お師様が拒否されてしまってな。

 ――いいか、これだけは言っておく。エンデリアルザ如きが害せるような、そんなお師様ではない」


「……ごめん」


 アトルは震える声を出した。


「俺が――俺が、銃を渡した」


「そうか」


 あっさりと言ったシルヴェスターは、存外に優しく続けた。


「余り気に病むな。お師様が私を大切にしてくださっていたというだけの話だ」


 アトルは唇を噛んで肩を落としたが、そこに低いリリファの声が掛かった。


「ちょっと待って。――それだけぺらぺら喋れるってことは、ほんっとーにあんたは百年前から生きてた人間ってわけね?」


 シルヴェスターは軽蔑の色も露わに、アトルの傷から目を逸らさずに答えた。


「そうだと言っただろうが」


 リリファ、ディーン、ベティルの三名が、同時に低い声を出した。


「――人に与えられた時間より長く生きる……? アロ・フォルトゥーナへの冒瀆――」


「黙れ」


 シルヴェスターは素気なく言い、氷点下の眼差しで三人を見た。


「望んでこの生き方を選んだと思うなよ。

 ――そう目くじらを立てなくとも、どうせあと数十年の命だ。

 サラリス・エンデリアルザが死んだ以上、封具の力も私たちには及ばん」



 ――石の床の上で、全身に酷い火傷を負った少年が倒れている。その金色の髪が、煤けて焦げていてもなお美しく光を弾く。



 またしても瞼の裏に蘇った情景が余りにも鮮やかで、同時に、三日前の夜にシルヴェスターを間近にしたときと同様、謂れのない罪悪感が心臓を走って、アトルは思わず声を出していた。


「……あんたもしかして、すげぇ火傷とかしたことある?」


 全員の目がアトルに集まる。


 シルヴェスターもまた、深碧の目でアトルの目を見上げ、このときばかりはその目が純粋な驚きに瞠られた。


「……なぜ分かる」


「俺は――」


 言い澱み、それから別に隠すこともないだろうと思って、アトルは慎重に言った。


「俺は、サラリスさんの魔力と一緒に、記憶もちょっと受け継いでる」


 その瞬間、シルヴェスターの緑碧玉の目に、紛うことなき嫌悪が浮かんだ。


「――それはお気の毒に」


 苦々しく呟き、シルヴェスターは指先に魔法陣を浮かべ、それでアトルの結晶と化した傷に触れながら吐き捨てた。


「あの女の記憶など、害悪以外の何物でもないだろうに」


「てめえな!」


 アトルは思わず、状況を忘れて怒鳴り声を上げた。


「サラリスさんがどれだけ――」


「記憶を継いだなら分かると思うが」


 アトルを遮り、シルヴェスターは頑として言った。


「あの夜、あの女は、レーシア・エンデリアルザを助けるためにお師様の助力を要求した。

 そのときに、全身に火傷を負っている私を見て、私のその状態を取引の材料にしたんだ。

 殺してやれと促すでもなく、痛みを和らげるでもなく、そのまま放置して、私からお師様を引き離して利用した。

 ――悪魔だと思ったね」


 言い切ったシルヴェスターの声に、嫌悪以上の憎悪が、憎悪以上の苦痛が、苦痛以上の哀切が滲んでいた。



 ――シルヴェスターを見たときの、謂れのない罪悪感。

 あれはアトルの感情ではない。


 そうであれば、あれは。



(……サラリスさんは)



 アトルは怒気を失って呟く。


「……だから、サラリスさんが嫌いなのか」


「百年前に戻れたら、迷い無く叩き斬るが」


 そう言ってから、シルヴェスターは立ち上がった。

 シャツを下ろすようにアトルに合図して、腕を組んで淡々と言う。


「その結晶、確かに魔力の塊だな。

 元に戻す方法は、私に分かる範囲ではたった一つだが、実現不可能だ。

 よって、私には打つ手が無い」


 自分でも驚くほど、アトルは衝撃を感じなかった。


 それは、心のどこかで既に打つ手が存在しないことを予感していたからかも知れなかった。


「……そうか」


 物静かに言ったアトルに、リーゼガルトが叫ぶ。


「そうか、じゃねえだろ!」


「その一つの手というのは!?」


 アジャットが怒鳴るように尋ねた。

 シルヴェスターはそのアジャットを見て、懇々と説明を始める。


「まず、この部分を抉り出せないかということだ。術式で調べてみたが、恐らく無理だ。奥まで癒着しているから、抉り出せば命に関わる。

 次に、魔力の塊の消滅を促すことだ。だが、これはどうやら独立してここにある。つまり、魔術を使うときであっても、この塊から魔力を吸い取ることは出来んということだ。自然消滅は望むべくもない。

 ――つまり、元に戻す方法はただ一つ、この魔力を指定して、この魔力の分だけ性質を反転させればいいんだ。

 つまりは宝具か封具かを造る術式を、途中まで使うということだな」


 だが、と言葉を継いで、シルヴェスターは断固として言い切る。


「そんな危険な手段を採って良いはずがない。また、幸いにも私はそのための術式を知らない。

 知っているのはただ一人、宝国国王ゼティスだ。――よって、私に打つ手は無い」


 ミルティアがよろめいてグラッドにぶつかった。

 グラッドが何か言おうと口を開いたが、それよりも早く、ある重大な事実に気付いたアトルがまくし立てるように叫んでいた。


「待て! デイザルト、絶対に早まるな。いいか、俺は確かに先は長くないかも知れない、でも! 今日明日に死ぬと決まったわけじゃない! だから、何をどう罷り間違ってもレーシアは殺すな!」


 リリファが口許を押さえ、「あ」と声を上げた。



 レーシアが提案し、シルヴェスターが受諾し、そしてアトルが乗った計画。


 ――その根幹は、アトル一人に任せられている。


 つまり、アトルが死ねばアトルが計画に乗らなかったと同義。

 計画は遂行不可能になり、シルヴェスター言うところの「保険」の真価が発揮されてしまうのだ。



 まくし立てられたシルヴェスターは、完全に呆れ果てた表情を見せた。


「――自分が死ぬことよりも、あの女が殺される方が心配なのか」


「そうじゃなかったらここにいねぇよ!」


 絶叫したアトルに、シルヴェスターは嘆息する。

 そして、騎士装束の懐から砕けた銀細工の欠片を取り出し、円卓に歩み寄ってその上に並べた。


 五つの欠片がきらりと煌めく。


「この五つの、どれか一つでも砕けばエンデリアルザは死ぬんだが――」


「離れろよ!」


 銀細工の欠片に目が釘付けになった、アトルとリーゼガルトが完全に重なった叫びを上げた。


 シルヴェスターは額を押さえ、その五つを指差して言葉を続ける。


「これを、五人の人間に渡して――」


「なんでだよ!」


 恐慌に陥ったアトルが前に飛び出し、シルヴェスターを円卓から引き離そうとしながら叫んだため、シルヴェスターは噛んで含めるようにして、レーシアが死ぬべき場合の話をする。

 そして、いざというときにシルヴェスター自身がレーシアに手を下せる場合にあるかが分からないため、複数人にその手段を持たせることが肝要だと。


 ぐうの音も出ないアトルは、シルヴェスターの襟首を掴んで殆ど懇願するように言っていた。


「頼むから! 頼むからあんたの部下には持たせるなよ!」


「落ち着いてくれないか」


 シルヴェスターがアトルの手を自分から引き剥がし、嘆息しながら言う。


「落ち着いて話を聞け。

 ――いいか、一つは私が持つ。一つは貴君が持て。残り三つだが――」


 銀細工の欠片を一つ投げ渡され、アトルは心臓の止まる思いでそれを受け止め、叫んだ。


「乱暴にするな!」


「分かった、分かったから。

 ――残り三つのうち一つは、おまえが持て」


 銀細工の欠片を投げ渡されたリリファが、きょとんと青い目を瞠る。


「投げるなってば! リリファ、それに傷一つでも付けてみろ――」


「私? なんでまた」


 アトルの声を黙殺して尋ねたリリファに、シルヴェスターは肩を竦めた。


「無闇にエンデリアルザを殺そうとはしないだろうが、いざとなったら躊躇いなく殺す冷静さがありそうだから、だ」


「ご明察ー」


 あっけらかんと笑って、リリファが銀細工の欠片を掌で弄ぶ。


 アトルは失神しそうになった。


 そんなアトルを一瞥してから、シルヴェスターはあとの二つを見遣る。


「私の部下にも一つ持たせるが――冷静で判断力があり、感情に走らない者を厳選するが」


 アトルの表情を見て付け加えてから、シルヴェスターは残り一つを軽くつついた。


「おまえ喧嘩売ってんの!?」


 またしてもアトルとリーゼガルトの声が重なり、アジャットが前に出て、有無を言わせずシルヴェスターの手首を掴んだ。


「――こんな程度では壊れないというのに。……これは貴女に」


 シルヴェスターの手首を掴んだ掌を裏返され、そこにぽん(・・)と欠片を載せられて、アジャットが群青色の目を瞬かせた。


「――私に?」


「私の部下に一つ以上を渡すのは危険だ。意味なくエンデリアルザが殺されかねない。

 樹国の諸君にもう一つ――というのも、余り効果はない。見たところ、上騎士リリファの独裁体制のようだしな。それでは一人に二つを渡すのと変わらない。

 そこで貴女に」


 流れるようにそう言ったシルヴェスターに、アジャットは銀細工の欠片を丁寧に胸に抱いた。


「……ありがたい」


 アトルはまだはらはらしていたが、ようやっと頭は働いて、シルヴェスターを見て尋ねた。


「――今、俺たちにこれを渡したってことは、今はレーシアを殺す気はないんだな?」


「そういうことだ。――来い」


 シルヴェスターは円卓から離れ、扉に向けて歩を進めた。


「私には出来ないことでも、可能にするかも知れん人物に心当たりがある。ただ、決して大人しい奴ではないがな。

 あれにアトルを治すことが出来るかも知れんし、よしんばこの考えが外れていたとしても、どのみち奴にはさせねばならんこともある」


 しっかりと銀細工の欠片を握り締め、シルヴェスターの後に続きながらアトルは口を開いたが、今度はレーシアの命を云々するためでも、引き合わされるのが誰なのかを問うためでもなかった。


「――あのさぁ、デイザルト。余計なことかも知れねぇけどさ」



 アトルは、レーシアに生きていてほしいと思っている。


 そして、シルヴェスターがレーシアの命をいつでも奪えるこの現状にあって、少しでもシルヴェスターの、レーシアに対する心象は良くするべきだろうと弁えている。



「なんだ」


 扉を開け、無人の廊下に踏み出しながら、振り返りもせずにシルヴェスターが答える。



 先ほどの話を聞けば、シルヴェスターの悪感情の殆どはサラリスに向けられたものだと分かる。

 レーシアに対しては、恐らく百年戦争を引き起こしたことに対する義憤の他にも、彼女を助けるために自分が取引の材料にされたという、その(わだかま)りもあるだろう。


 だがそれも、元を質せばサラリスに対する怨嗟だ。



 シルヴェスターに続いて廊下に出て、後続もまた廊下に出て来るのを背後に気配で感じつつ、アトルは言った。


「三日前だっけ。俺、あんたを見たとき本気で申し訳ないと思ったんだ」


「…………?」


 怪訝そうに横目で振り返るシルヴェスターに、アトルは真剣に告げた。


「俺があんたに申し訳なく思う謂われはどこにもないだろ?

 だからあれは、サラリスさんの感情だ」



 アトルはサラリスを非常に重んじている。

 サラリスの遺志に忠実であろうとしているし、サラリスが尊敬に値する勇敢な女性だと知っている。


 そのために、シルヴェスターがサラリスを悪く言う度に腹が立つ。


 だが、サラリスがシルヴェスターにした仕打ちは、確かに責められて然るべきものだ。

 そしてだからこそ、アトルはサラリスの、その残虐の理由をシルヴェスターに知ってほしいと思ってしまったのだ。


 サラリスの理由をシルヴェスターに知らせることで、シルヴェスターがサラリスに向ける感情が変わるか――変わりはしなかったとしても、せめて緩むことがあるか。

 それは分からない。だが、何も言わないよりは数段ましだと思えた。



 アトルの言葉を聞いた、シルヴェスターの眉間に皺が寄っている。


「サラリスさんの魔力があんたを覚えてたんだ。

 サラリスさんは、ずっとあんたに申し訳ないと思ってたんだ」


 真っ直ぐに前に向き直ったシルヴェスターに、アトルは努めて真摯な声音で言った。


「サラリスさんは、悪気があってあんたを取引の材料にしたんじゃない。

 あんたよりもレーシアが大事だっただけだ。

 サラリスさんには、他の選択肢が無かった。本当にぎりぎりの状況だったんだよ。

 ――でも、あんたにしたことがどれだけ酷いことだったのか、サラリスさんは分かってた。

 忘れてなんかいなかったし、仕方がないことだと割り切ってもいなかった」


「――そうか」


 短く、頑是無い子供のようでさえある口調で、シルヴェスターは繰り返した。


「そうか」





************





 皇城の中枢である尖塔を出たシルヴェスターに、外で待機していた騎士がすかさず水溜りを蹴立てて駆け寄り、口を開いた。


「――デイザルト様! 負傷者は概ね運び終えましたが、治癒を使える魔術師が足りません。

 しかし、重傷者はほぼ――あれ(・・)の働きで治癒されていましたので、命に関わる怪我人はいないものと」


「死者の数は? 把握は終えたか?」


 問い返すシルヴェスターの後ろから、総勢八名がぞろぞろと現われたのを見て、報告のために口を開けていた騎士が、そのまま口の閉じ方を忘れたような顔を晒した。


 兜の上を雨粒が滑る。


 その数秒後、騎士は怖々と囁いた。


「……あの……、デイザルト様? これは、あの、どういう――?」


「なぜエンデリアルザを宝国に行かせたか、その理由は話しただろう?」


 シルヴェスターは雨の中に歩き出しながら平然と答え、まずはアトルを示した。


「これが今回の計画の中枢、その四人が協力者。あとの三人は樹国の人間で、喜べ。今回の計画において、我々は樹国の勢力という最高の盾を手に入れた」


「然様でございますか」


「ちょっと!」


 冗談なのか本気なのか分からない口調のシルヴェスターに、騎士が心底から感嘆したように同調したため、すぐさまリリファの声が飛んだ。


 それを無視し、シルヴェスターが騎士を促す。


「それで? 死者の数は?」


「はい。――各小隊長の報告を纏めましたところ、軍の被害は、……死者六十三名。そのうち二十二名の家族には、既に連絡がつきました。軍以外の被害については、まだ――」


 俯いた騎士の肩に、シルヴェスターは感謝を籠めて手を置いた。


「悲しい仕事を頼んですまない。引き続き頼めるだろうか」


 きりりと顔を上げ、騎士は首肯した。


「はっ!」



 尖塔を囲む広場には、他にも騎士たちが控えている。

 それぞれアルナー水晶を手に誰かと連絡を取っていたり、自分より位階が下なのだろう騎士たちに指示を飛ばしていたりと、雨の中でも忙しい。


 シルヴェスターの指示を受けた騎士が走り去ってすぐ、そんな騎士たちのうち一人がシルヴェスターに走り寄った。

 シルヴェスターの隣を歩きつつ、雨音の中でもよく透る声で報告を始める。


「デイザルト様! たった今、ミラレークス本部制圧が終わったようです!」


 アジャットたちが、さすがにぴくりと反応する。

 それを気配で感じたのか、小さく振り返ってから、シルヴェスターが心持ち遠慮がちにその騎士に尋ねる。


「――そうか。それで、本部の様子は」


「はい。――最高指定魔術師一名、特等指定魔術師一名ほか、負傷、消耗した魔術師たちが総勢四十三名、本部の――というよりは、本部の廃墟というべきですが――そこにおりました。殆ど戦闘にもならず、無事制圧完了いたしました。今は現地で身柄を押さえて監視しております。

 下働きの者で逃げ損ねていた者たちにつきましては、事情を聞いた後に家へ帰しました。職を失う恐れもありましたので、自分たちの独断ではございましたが、心づけに幾らかを渡しました。またその額を申し上げますゆえ、給金から引いていただきたく」


 きびきびと答えた騎士に、シルヴェスターは緩く首を振る。


「いや、よくやった。私の私財から立て替えよう」


「いえ、しかし――」


 言い差した騎士はシルヴェスターの表情を見て、小さく息を吐いた。


「……では、お言葉に甘えまして。――それと、飛翔船に乗っていた者たちですが」


 アジャットとグラッドが、若干身を乗り出した。


「ああ、飛び降りていた者もいたな。――生き残りはどれ程だ」


 滴の伝う金髪を掻き上げながらのシルヴェスターの問いに、騎士は淀みなく答える。


「はっ。かなり早期に危険を感じていたらしく――また船尾から船底に掛けてが先に燃え上がった影響で、上に逃れる時間はかなりあった様子です。

 高等指定魔術師五名、中等指定魔術師九名、下等指定魔術師十二名、準指定魔術師十名をはじめといたしまして、総勢四十七名が生き残っております。なお、特等指定魔術師につきましては、本部にいた一人と合わせまして六名の生存が確認されております。

 全員の身柄を拘束し、獄塔に移送いたしました」


 アトルとグラッドを合わせて八名。

 ――特等指定魔術師は全員が生き残ったということになる。


「分かった。後で、生き残った者たちの名簿を私かヴェインに届けるように」


 オーレックたちを案ずる気持ちは少なからずあったが、口を挟むべきではないと判断して、アトルは黙ってシルヴェスターの後ろを歩き続けていた。


「はっ、畏まりました!

 続きまして、飛翔船から先んじて下りていた魔術師たちにつきましては、ルーヴェルト最高指定魔術師を除く全員が死亡。

 ――なぜ、多数の魔術師が先んじて飛翔船を下りていたのか、訳を訊いたのですがどうも要領を得ず……」


 きびきびと報告を続けていた騎士の声が困惑を滲ませ、シルヴェスターが眉を上げる。


「ほう? 要領を得ない?」


 アトルは思わずアジャットとグラッドを見た。

 飛翔船から先んじて指定魔術師たちを誘き出したのは、彼ら二人がしたことだからだ。

 ミルティアとリーゼガルトも二人を見ており、ミルティアが声を潜めてアジャットに囁いた。


「――ちょっとぉ、何ぃしたのヨ」


 後方でのその密やかな遣り取りは雨に紛れたため、それには気付かず、騎士は困惑を深めながら報告を続ける。


「はい。――えぇ、地上から決闘に呼び出されたという話と、脅迫されたという話が混在しておりまして……」


「脅迫?」


 シルヴェスターの反問に、アジャットが「違うんだ仕方なく、そこまで悪辣なことはしなかったし」とぼそぼそと弁解を始めたが、声が小さ過ぎた。


「はい、なんでも、通信魔術の補助道具が、別の魔術の介入を受けたとか――」


「そんな馬鹿げたことが」


 シルヴェスターが言い差したところで、とうとう耐え切れなくなったらしきアジャットが恐る恐る手を挙げた。


「あの、飛翔船から連中を誘き出したのは私なので、良ければ私から話そうか……?」


 騎士はアジャットを見てからシルヴェスターに視線を移した。


「――こちらはどなたでしょう……?」


「アジャット・レーヴァリイン。ミラレークス高等指定魔術師だ」


 真顔で名乗ったアジャットに、リーゼガルトが水溜りを思い切り踏みながら、「ぐふっ」と呻いた。

 言わずもがな騎士は身構え、シルヴェスターが静かに額を押さえる。


「貴様、ミラレークスだと!? デイザルト様、一体どういう――」


「違ぁう! 待って、待って待って!」


 ミルティアが叫んで大きく手を振り、その場で飛び跳ねて騎士の注意を引いた。


 彼女の着地の度に雨水が跳ね、傍にいた全員に水滴が掛かる。

 リリファがうんざりした表情になり、ディーンに「これ乾かして」と雨の中では甚だ無意味な要求をし始める一方、アトルとリーゼガルトがここぞとばかりにまくし立てた。


「ミラレークスが反逆行為に走ったまさにそのとき、こいつは監禁されてたし!」


「今回のこととは無関係! 無関係に近い! ――俺たち全員」


 周囲が大騒ぎをし出したことで己の名乗りの拙さに気付いたか、ぽむ、とアジャットが掌と拳を打ち合わせた。


「ああ、しまった。つい習慣で。ミラレークスは今現在、組織ごと国家反逆罪の重罪人だったな。

 ――ええっと、余り気にしないでいただきたいな」


 首を傾げて愛想笑いを浮かべるアジャットの口許に、小さな笑窪が出来たのが見えた。


 噴出しそうになったのを危うく堪えたかのように、シルヴェスターが小さく咳払いをする。

 そして、いつも通りの平静な顔で騎士に向き直って微笑んだ。


「――気にしなくて構わない。この女性が反逆者ではないことは私が保証する」


 騎士は腰の剣に遣っていた右手を下ろし、気まずげにアジャットを見て頭を下げた。


「デイザルト様が仰るのでしたら。――無礼をお許しいただきたい」


 こそ、と隣を歩くグラッドの影に隠れるようにしつつ、アジャットは答えた。


「えぇっと……。構わない、構わないよ。頭を下げないでくれ。騎士さまにそんなことをされると調子が狂う」


 はあ、と騎士が顔を上げたところで、今度は場を仕切りなおすためにシルヴェスターが咳払いをした。



 そうこうするうちにアトルたちは広場を抜け、南棟の脇の道に入っている。

 道は僅かに傾斜しているのか、雨水がアトルたちの進行方向に向かって、緩やかに流れていた。



「――アジャット。では貴女から事の説明を願いたい」


 シルヴェスターはそう言って、やや意外そうにアジャットを見る。


「そもそも、貴女が飛翔船から連中を誘き出したこと自体、私は初耳なのだが?」


「えー、すまない。言う機会を逸していたというか」


 アジャットは視線を泳がせながらそう言い、しかしすぐにきっぱりと言った。


「最初に言っておきたいのだが、そこまで悪辣な真似はしていない。

 騙まし討ちに近いことはしたが、卑怯さにおいてはどっちもどっちだ」


「構わないから話してくれないか?」


 余りに必死に言い募るアジャットに笑いが込み上げてくるのか、シルヴェスターの口角は微妙に上がっていた。


「む、分かった。――地上から、彼らの通信魔術の補助道具を基点として魔術を使ってみたんだ。ちょっとした爆発を起こしたわけだが、それを脅しに使って、この場から連中が撤退することを賭けて決闘を申し込む、とこう、ルーヴェルド最高指定に言ってみたわけだ。案外簡単に出て来たぞ」


 口早に話したアジャットに、グラッド以外のその場の全員が沈黙した。


 その沈黙が数秒に及んだときになって、グラッドが控えめに言った。


「……驚かれる、気持ちは分かります。私も、とても、驚きました。

 恐らく、成功の事例どころか挑戦の事例さえない、術式の応用ですから」


「やはりそうか」


 アジャットは嬉しそうに呟いた。


「実はどこかで実用化されていたらどうしようかと思った。これで論文が書けるかな」


 シルヴェスターがアジャットを見下ろし、甚だ疑わしいといったような口調で確認した。


「――つまり、貴女は、通信魔術の補助道具を介して魔術を使ったわけか?

 魔術を遠隔地に飛ばしたのではなくて、術式構築の場を自分から離れた場所に置いたと?」


「そうだ」


 誇らかかつ伸びやかにアジャットは頷いた。


「消耗は激しいが、汎用化したら便利だと思うぞ。今度教えるからやってみてくれ」


 ここまで素直に胸を張られると、疑う気も起きないというものである。


「――なるほど」


 呟き、シルヴェスターは騎士に目を向けた。


「これで疑問も解消したことと思うが、他に報告は?」


 騎士は目を瞬き、シルヴェスターに視線を向けて頭を下げた。


「いえ、もう……。失礼いたします」


 広場の方へ戻って行く騎士を見送ってから、シルヴェスターは改めてアジャットに目を遣った。

 歩調を調整してアジャットの隣を歩く形を取ると、身長差のある彼女を見下ろしてしみじみと言う。


「驚いたな、そんなことが出来るとは」


「ふむ」


 アジャットは呟き、無意識にだろう、フードを引っ張って深く下ろす仕草をし、手で宙を掴んでしまったことに気まずげな顔をした。


「――まあ、人間、怒りと義務感とその他諸々が臨界点を突破すると何でも出来るんだ」


「先ほど、論文がどうとか言っていたが、貴女はミラレークスでは研究者の立ち位置だったのか?」


 シルヴェスターの声が、アジャットに対する興味を窺わせるものだったため、アトルたちの顔に一気に警戒心が浮かんだ。


 だが、アジャットは気にせずあっさりと答える。


「まあ、そうだな。殆ど引き籠っていた」


「ほう……」


 シルヴェスターが歩を進めながら考え深げに顎に手を当て、雨粒の滴る金髪を掻き上げ、アジャットを見下ろすと言った。


「ミラレークスは今後、存亡の危機に陥ると思うが、――身の振り方は考えているのか?」


 アジャットはきょとんとしてシルヴェスターを見上げた。


「身の振り方? ああ、出来ればアトル青年やレーシアさんに付き合っていきたいけれども」


 シルヴェスターは顔を顰めた。


「たとえエンデリアルザを人間として助け出せたとしても、面白おかしく生きていかせるわけにはいかないんだがな」


 アトルが思わず、シルヴェスターの後ろ姿を凝視する。

 アジャットも表情を曇らせた。


「そうか……」


「そこで」


 シルヴェスターが唐突に口調をがらりと変えた。極めて熱心な声音である。


「ぜひ軍に来てほしい」


 その場の全員の目が点になった。

 誰も口を挟めないでいる中、熱心でいながら淡々と、シルヴェスターが勧誘を続ける。


「軍と聞くと戦闘の印象が先立つかも知れないが、そんなことはない。私をはじめとして、いわゆる指揮官に当たる人間が、戦争がそもそも起こらないように奔走するのを仕事としているのだから。今回の宝国との戦が終われば、恐らく大規模な戦争はそうそう起こるまい。

 だから貴女には軍から支給される資金を使って、これからの人々の役に立つ研究をしていただきたいのだ。

 家名を聞くに、レーヴァリインのご息女だろうか? 社交の場には出ないと噂だったが、もしもそういった煩わしいことが嫌いならば、無理はしなくて結構だ。

 軍の研究職には女性の魔術師もいるし、決して男社会というわけでもない。どうだろう?」


「……どうだろう?」


 アジャットが繰り返し、意味なく周囲を見渡した。


「どうだろ――どうだろう。どうなんだろう」


 その場の、リリファまでをも含む全員が唖然としているのを見て取って、アジャットはシルヴェスターに視線を戻して真顔で答えた。


「そうだな、給金にもよるけれども、話を聞く限り悪くはないな。

 それに、貴殿のような人物を上に戴くのは悪くないと思う」


「そうか」


 シルヴェスターは嬉しそうに目を細めて微笑んだ。


「では、軍籍に入る手続きを進めても?」


「えっ?」


 アジャットが訊き返すと同時、ようやく我に返ったリーゼガルトが呟いた。


「……いや、急過ぎねえ……?」


 はっ、とアジャットも我に返った。


「そうだな、急過ぎる」


「っていうか、今そんなこと話してる場合かよ……?」


 アトルが呆然と呟いたことで、アジャットはぴんと背筋を伸ばした。


「そうだ。レーシアさんの安否も分からないというのに」


「……今のところ、あの女には何の問題もないと思うが」


 シルヴェスターが一転して不機嫌な声音で呟き、右耳を軽く擦るような仕草をした。


「あちらでまずい事態が起こりそうになれば、私にそれを知らせるはずだ」


「レーシアと連絡取れんの!?」


 色めき立ったアトルに、シルヴェスターは冷ややかな目を向ける。


「私とは一方通行だ。あちらからしか連絡を取れん。

 ――貴君はその腕輪があるだろうが、あちらの状況が分からない以上、無闇に話し掛ければ取り返しのつかない事態になることも有り得ると、敢えて助言しておこう」


 かちんときて、アトルは答えた。


「――分かってるよ」



 その左手首で、水晶が雨粒に濡れて煌めいている。

















 そうして雨に濡れながらアトルたちがシルヴェスターに連れられたのは、皇城中枢の五つの建物から南に進んだ位置にある、石造りの高い塔だった。


 南に進むにつれて地面が傾斜して低くなっていき、その塔を目の前にして振り返れば、あの五つの建物がある位置は遥か上に見えた。

 坂道と階段の連続である。


 そんな場所に立つその塔は、さながらそれ自体が一つの城の如く、堀と城壁に守られている。


 深い堀に掛けられた跳ね橋を渡り、その向こうの城壁を潜ると、そこに地面を穿って続く下りの階段が口を開けている。

 その傍には兵士が二人立っており、デイザルトを見て手に持った槍を収め、敬礼した。


 その兵士たちの他にも、あちらこちらに騎士や兵士が見受けられた。

 戦闘に参加していた者ばかりらしく、血塗れになっている者もある。

 囚人は、だとか、移送に漏れは、などといった言葉が聞こえてくる。


「――ここ何?」


 アトルが声を低めてアジャットに尋ねる。

 アジャットはきょろきょろと周囲を見渡しながら答えた。


「獄塔――、死刑囚を筆頭に、特に罪の重い罪人を捕らえておく場所だ」


「さっき、ミラレークスの連中がぶち込まれたって言ってた所か」


 アトルが納得したところで、シルヴェスターが階段を降り始めた。


「えぇっ!? ちょっとぉ、ここぉ入るの!?」


 ミルティアが叫んだが、シルヴェスターの無言の頷きを以てそれを肯定され、生唾を呑むような顔をした。


 十段ばかり下ったところに鉄格子の扉が嵌められており、錠に掛けられたアルナー水晶にシルヴェスターが軽く手を触れると、無音で扉が開いた。

 どうやら、予め限られた人間の魔力を覚えさせておき、それに応じて扉が開くようになっているらしかった。


 暗く湿った階段を数分に亘って下る中、最後尾を歩くリリファが剣呑に呟いた。


「誰に会わせるの? マジで面倒なんだけど。っていうかこれ、私が誰かの背中蹴ったら、みんな仲良く素早く下まで辿り着けるよね?」


 ディーンが頭を抱え、哀願の口調でリリファを振り返って囁いた。


「頼むから大人しくしておいてくれ。疲れたなら背負ってやるから」


「こんな程度で疲れる私だと思う? 面倒なだけよ」


 ディーンに向かって傲然とリリファは言ったが、


「いっそ気絶させてやろうか」


 先頭のシルヴェスターが低く呟き、リリファもさすがに黙り込んだ。

 力量で及ぶ相手ではないと、弁えているからこその行動だった。


 雨に濡れた服や髪を魔術で乾かしつつ、それからは全員が無言で階段を下った。


 魔術で雨を避けるよりも、濡れた服や髪を乾かす方が、結果的には魔力の節約になるのである。



 そうして最下段に辿り着いたアトルたちは、そこが魔術光で明々と照らされていることに若干の驚きを覚えた。


 階段のすぐ下は広間になっており、そこから五つの隧道が伸びている他、広間の中心からは螺旋階段が上へ向かって続いている。どうやら地上から見えた塔内部へと続くのはこの階段のようだった。


 広間には人が大勢おり、あちこちで声が上がっている。


「――一般魔術師! 脅威度低し!」


「地上部分でいい! 五人部屋に押し込め!」


「特等指定! 脅威度高い!」


「地下! 南東の隧道を進んで!」


「起きたぞ、高等指定!」


「気絶させ直せ!」


 周囲の会話を拾うにつれ、アトルにも事態の理解が及んだ。

 ――ミラレークスの者たち、つまりは国家反逆罪に問われている者たちが、牢獄に振り分けられていっている最中なのだ。


 思わず周囲を見渡したアトルに、シルヴェスターの冷淡な声が掛かる。


「行くぞ、こちらだ」


 シルヴェスターの姿を認めた兵士たちが、次々に頭を下げた。


「デイザルト様、こちらは順調です」


「ああ、分かっている。用があって来ただけだ、気にするな。邪魔をして済まない」


 中の一人の言葉に鷹揚に頷き、シルヴェスターが最も左に位置する隧道に向かって歩を進める。


 ミラレークスの者たちからの罵声をアトルは予想したが、そんな気力も尽きたのか、それとも意識を刈り取られているのか、ミラレークス側からの声は聞こえてこなかった。



 隧道にも、一定間隔で光を放つアルナー水晶が掛け燭の如くに設けられており、決して足下は危うくはない。

 明かりを手にして夜道を歩くようなものだ。


 ――と、


「……うぅ」


 背後でミルティアの弱々しい声が上がり、アトルはぱっと振り返った。

 ミルティアはグラッドの腕にしがみ付き、顔を伏せて僅かに震えている。


(しまった、こいつ――)


 アトルはほぞを噛んだ。

 ――ミルティアは地下に投獄されていた期間が長い。


 恐らくはそのことがあって、こういった空間に恐怖を覚えるのだろう。

 明るいとはいえ、ここは地下深い。


 ミルティアはまだ十七歳になったばかりなのだ。


 先頭を歩いていたシルヴェスターもミルティアの異変に気付き、足を止めて引き返して来た。

 訝しげな表情の中で、鮮やかな深碧の目が煌めいている。


「どうした?」


「なんでも――」


 言い差したミルティアを遮って、アジャットが強い口調で言った。


「すまない、この子は地下が余り好きではない」


「早く言え!」


 声を荒らげたシルヴェスターは尤もだが、ミルティアがこの歳の少女にしてはかなり堪え性があることが裏目に出たのである。

 階段の辺りから堪えていたに違いなかった。


「全員でぞろぞろ行かないと駄目なの?」


 リリファが尋ねたが、ミルティアに対する気遣いからではない。

 その顔いっぱいに、「空気が悪い、ここから出たい」と書いてあった。


「いや、万が一にもあれが暴れた場合、戦力は多い方がいいと思ったのだが――」


 シルヴェスターはそこで言葉を切り、隧道を引き返して騎士を一人呼ばわった。


「ダニエル、来てくれ」


 はいっ、と返事があって、シルヴェスターに伴われた騎士が一人、隧道をこちらに向かって来る。

 壁に設けられたアルナー水晶の光に、その影があらゆる方向に落ちて見える。


「大したことぉないってぇ……」


 ミルティアが呟いたが、明らかに顔色が悪い。

 グラッドがその頭を遠慮がちに撫でた。


「ミルティアさん……。気付かなくて、すみません……」


「大丈夫だって……。馬っ鹿みたぁい……」


 ミルティアは情けなさそうに呟いたが、アジャットはよしよしとその頭を撫でて囁く。


「誰にでもあることだよ。私は今でもトニトルスやカエルムが怖いし、アトル青年なんて見てみろ。レーシアさんの命が懸かった途端にあの取り乱しようだぞ」


「アジャット黙れ」


 自覚があるだけに苛立ってアトルは噛み付いた。


 シルヴェスターは、ダニエルと呼んだ騎士をミルティアの前まで導くと、端的に指示を与えた。


「彼女を塔の外へ。城壁の内側で待たせろ。どこかに行かないよう、付いているように」


「信用なぁい」


 ミルティアはお道化てみせたが、顔色は明らかに悪い。

 リーゼガルトがおろおろと彼女の背中を擦った。


「大丈夫か? ミル、辛かったら負ぶってもらえよ?」


「やだぁ。鎧ってぇ硬そうだし」


 そう言いながら、ミルティアは見ず知らずの騎士の手をしっかりと握った。

 無愛想なのか甘えているのかどっちなんだ? と訝るような顔でダニエルがミルティアを見下ろす。


 シルヴェスターが冷ややかにリリファに視線を遣った。


「おまえも出ているか?」


「ううん! 行く!」


 リリファは青い目を煌めかせて答えた。

 その顔いっぱいに、今度は「暴れるって誰だろう、興味ある」と書いてあった。


 シルヴェスターはざっと同行者たちを見渡した後、ダニエルに向かって頷いてみせた。


「――では、頼んだ」


「はっ!」


 敬礼し、踵を返したダニエルに、ミルティアがとことん偉そうに縋っているのが聞こえてきた。


「ちょっと、ちょぉっと! 速いってぇ。おじさん、もうちょっとぉゆっくり歩いてヨ」


「――元気そうだな、よし」


 頷いたシルヴェスターが、再び進行方向に向き直った。







 隧道には、広間と違って人の姿はなく、静寂に満たされていた。


 靴音の反響する隧道を長々と歩いた果てに、ミラレークス本部の地下にあったものと似た牢の並びがある。

 相変わらず灯りは設けられていたが、それでますますその造りはよく見えた。

 アジャットたちが捕らえられていた牢を彷彿とさせる造りに、アトルはアジャットとグラッドを横目で窺う。だが、二人とも極めて平気そうにしていた。

 リリファとディーンは言わずもがな、気にも留めていない。

 ベティルだけが、あの場でウィルイレイナに遭遇したことを思い出したのか、やや及び腰になっていた。


 牢の中には灯りはなく、人がいたとして奥にいれば見えない。

 そして人がいたとして、(しわぶき)一つ起こらない、完全な沈黙を守っている。


 それゆえ、この牢にどれだけの人が入っているのか、アトルたちには想像すらつかなかった。



 シルヴェスターは牢の並びを足早に抜け、最後の一つの牢の前で立ち止まった。


 その牢には兵士が二人見張りとして立っており、他とは違う厳重さを感じさせる。


 シルヴェスターの姿を見てなお、鉄格子の扉の前で槍を交差させている彼らに、シルヴェスターが告げた。


「――外は雨だ。明日の夕方が待ち遠しいだろう」


 沈黙に慣れた耳に、その声はやけに大きく聞こえた。


「…………」


 恐らく、外の天候について告げることが合言葉だったのだろう。


 二人が槍を収め、そのうち一人が鉄格子の扉の鍵を開ける。

 その間に、もう一人が低く囁いた。


「――また暴れておりました。デイザルト様、油断なさらず、お気を付けて」


「承知した」


 シルヴェスターが短く答えた。



 そうして開け放たれた扉の奥に踏み入ったアトルたちの背後で、がしゃんと錠が下ろされる音が響く。

 さすがにそれには肩を跳ね上げ、アジャットが半ばそちらを振り返った。


「……閉じ込められた気分だ」


「脱獄防止のためだ。仕方がない」


 そう答えたシルヴェスターが、目の前に光球を浮かべて足下を照らす。


 牢の中は無人と見えたが、シルヴェスターのすぐ足下に、更に地下に続く階段が口を開けていた。


「ねえ、ほんとに、誰――」


 リリファが言い差したとき、その階段の下から呻き声が這い登ってきた。


 シルヴェスターは顔色も変えず、躊躇いなく階段を下りていく。

 彼が浮かべた光球も、その動きに従って階段を下へ移動した。


 アトルはしばし躊躇い、アジャットたちと視線を合わせた。

 ――今の声に、聞き覚えがあるような気がしたのだ。


 アジャットたちも同じように思っていたのか、その面差しは不安げなものだった。


 その嫌な予感はあれど、続かないわけにはいかない。

 小さく深呼吸してから、アトルは階段に足を掛けた。



 十数段の階段を降り、シルヴェスターの光球を頼りに闇の中の虜囚を見て、アトルは思わず呻いた。


 ――十割が、怨嗟のための呻きだった。


「――おまえ……!」



 地下の地下で、暗闇の中、牢の奥に繋がれた囚人。


 両足は鉄の枷で地面に縫い付けられ、左手は背後の壁から伸びる鎖に後ろ手に縛められている。

 そして右腕は無残に断たれて存在しない。


 唐突に差してきた光に鮮やかな青い目を細め、険しい怨恨に染まった表情を、いっそう暗くしてこちらを睨み据えているのは、蜂蜜色の髪を汗と泥に汚し、病的なまでに白い肌をますます青白くした、二十三、四歳と見える青年。



 かつてイリの町を単独で潰滅まで追い込み、アトルの家族を殺し、他にも数多の命を奪った殺人鬼。




 そこにいるのは、ハッセラルト・シェレスだった。
















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