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厄災少女と百代の約束 ―百年後、あなたに出会う―  作者: 陶花ゆうの
Chapter-11 The Promise Get Over Several Thousands Nights
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19 ヴァルザス・グレイン

 ヴァルザス・グレイン。


 その名前を呼ばれる度に、その名前を口に出す度に、罪悪感が足下から這い上がって心臓の辺りを冷たくする。



 ――まだ、使ってはいけないはずの名前だったから。












「あなたはいい人ね。大丈夫よ。私が――これから、あの人に勝ちに行くのだもの。あの人を殺しに行くんだもの。

 あなたはそれを見逃すだけよ。何もしなくていいの。大丈夫。

 明日になったら全部終わってて、あなたが忠誠を捧げる人はもういなくて、その仇の私はいるけれど、私を追い掛け回していればそれでいいの、あなたの忠誠は証される。

 そんな世界であなたは、あの坊やとその家族と、幸せに暮らせばいいのよ」



 サラリスの言葉をはっきりと覚えている。


 血塗れで、両手両足を枷に(いまし)められて、それでもなお真っ直ぐに前を見る、強い翠玉の眼差しを。



「大丈夫よ。私に任せて。

 だって、あなたは私に脅されて、大事な坊やを人質に取られただけだもの。

 そう、あなたは裏切ってなんかいない。

 あなたの忠誠心には、なんの問題もない。あなたの愛情にも、なんの問題もない。

 あなたは何もしなくていいの。大丈夫よ」



 自分を刺し、最愛の妹、最愛の娘へ辿り着くことを阻んだ張本人に、その上でなお厚顔無恥な願いを口にした馬鹿な男に、どうしてそんなことが言えたのか、ヴァルザスには未だに分からなかった。


「幸せになる、その世界で使う名を下さい」


 当時レイドラスという名で生きていた彼のその願いに、サラリスは微笑んで頷いた。

 そして、少し考えてから応えたのだった。


「――ヴァルザス。ヴァルザス・グレイン」


 明日になったら使います、と、彼はそのとき言ったのだ。

 貴女が下さった明日で使います、と。


 サラリスが大切にする全部が、笑っていられる幸せな明日に。


 あの夜、瞼を閉じた先に見えた明日という世界で。



 その世界がまだ訪れていないのに、彼はヴァルザス・グレインと名乗っている。







 あの日、あの炎の夜、倒壊した建物の下敷きになっているシルヴェスターを見付けた瞬間に心臓が凍ったこと――そのときの心情は筆舌に尽くし難い。


 宝士が個人的に弟子を取ることは禁じられていたが、非番の日に偶然に出会った少年を、レイドラスは弟子にしていた。

 限られた宝士の仲間にはそのことは知られていたが、レイドラスの主への忠誠が厚いことは皆が知っていることであり、その程度ならばと黙認されていたのが現状だった。


 ゆえに、忘れ物を届けに来たと言ってシルヴェスターが訪ねて来たとき、本来ならばレイドラスは、すぐにでも彼を追い返すべきだったのだ。

 だが、このところ彼に構ってやれる時間が少なくなっていたのは自覚していたところであり、そのことを寂しく思う気持ちもまたあった。


 だからシルヴェスターを自室に招き、軽く茶を喫するに至ったのだ。


「お師様、忙しいの?」


 シルヴェスターは首を傾げて問うたものだった。


「この頃、全然おれに構ってくれてねーじゃん」


「スライ、私にはお役目がある」


 苦笑して答えたレイドラスに、シルヴェスターはつまらなさそうに天井を仰いだ。


「けっ。主上主上主上ってさ。この国の王様ってそんなに偉いわけ」


「スライ。主上を侮辱することは許さないよ」


 そんな遣り取りがあり――そのうちに宝士の仲間が呼びに来た。

 緊急の任務だということで、レイドラスはシルヴェスターに、部屋から出ないよう言い含めて外に出た。


 任務とは、空人・雷兵を使ってサラリス・エンデリアルザが仕掛けた、ゼティスへの反乱の鎮圧だった。

 サラリスの捕縛でその任務は終了し、大きな役割を果たしたレイドラスは、ゼティスより直々に褒賞の言葉を賜った。

 当時の彼からすれば、とんでもない栄誉だった。


 その栄誉の余韻も冷めやらぬまま、空人や雷兵は随分と派手に暴れていたことを思い出し、レイドラスはシルヴェスターの無事を確認しに急いだ。

 そしてそこでレイドラスは、全身を火傷に覆われ、虫の息になったシルヴェスターを見付けたのだった。



 生まれて初めて、頭が真っ白になったのを感じた。

 余りに酷い傷であり、呼び掛けても反応はなかった。


 ――ゆえに、ここで楽にしてやるべきだと判断した。

 任務で同じような傷を負った仲間には、微塵の逡巡もなくしていたことだ。

 実際に剣を抜きさえした。


 だが、出来なかった。


『おれの母さんは花を売ってて――って、変な意味じゃねーぞ。普通に、普通の花を売ってるだけだからな。で、父さんはいない。妹が一人いて、頭いいんだ。字教えてやりたいからさ、お師様、今度ウチに来てよ』


 嬉しそうに話していた顔ばかりが目に浮かんで、レイドラスは少年一人を殺すことが出来なかったのだ。


 助けるための唯一の手段として、サラリス・エンデリアルザに縋った。


 そしてそのことが、レイドラスの人生を大きく変えることとなった。



 ――何の武術も嗜んでいない、魔術など以ての外。

 サラリス自身に戦う術は無いも同然だったというのに、ゼティスは彼女を利用するために生かして捕らえるよう指示し――手枷足枷で彼女の自由を奪った。


 それにも関わらず、まだ懸命に立って戦おうとするサラリスに、心が動かないはずがなかったのだ。





 皆が笑っていられる明日を勝ち取りに、ゼティスの許へサラリスが出向く前に、サラリスはレイドラスに最低限のことを頼んだ。

 すなわち、レーシアが目を覚ましたとき、最低限の金銭を得られるようにしてほしいこと。レーシアを捜しに来るだろう他の宝士たちから、彼女を隠してほしいこと。宝樹玉を、幾つか彼女の傍に置いておいてほしいこと。


 念動魔術で動かせる限りの物を、レーシアがいる部屋に運び込み、櫃も兼ねた巨大な時計に彼女を隠したのはレイドラスだった。


 レーシアの全身を高度な念動系の魔術で包んだのもまた、レイドラスだ。キリシャが仕掛けた時を留める魔術に念動魔術を絡め、半永久的にレーシアの身体を保護したのである。

 その保護を解く鍵は、彼女に向かって彼女の名を呼ぶこと。そのように設定した。


 箱の類に絹や書籍、宝石を詰め、レーシアの当面の生活を確保しようとしたのも彼だ。


 そして、宝士だからこそ知っていた宝樹玉の在り処から、数個の宝樹玉を持ち出したのもまた。



 宝国と樹国を襲った大異変――人口の消失から、シルヴェスターとレイドラスが逃れられたのは全くの奇跡と言って良かった。


 あの時間を忘れたことはない。

 どうかサラリスが無事でありますよう、どうかサラリスが勝ったのでありますようと、全身全霊で祈ったあの時間を。


 ――その祈りは、無情なまでに届かなかったが。


 サラリスがゼティスに敗れ、シルヴェスターを治療する最後の条件を示したとき、レイドラスの胸中を襲ったのは強い怨嗟だった。


 レーシア・エンデリアルザ。


 彼女一人のために戦争が起き、彼女一人のためにサラリスがこうも傷だらけになり、そして彼女一人のためにシルヴェスターが利用されたのか。


「私は――私は、ただ、レーシアに。

 ――いつもみたいに笑ってほしい」


 そう囁いたサラリスが、微塵の理解さえ求めてはいなかったから、レイドラスは怨みを口にすることしか出来なかった。


 それでもなおレイドラスとシルヴェスターを守ろうと、サラリスが二人を宝国から脱出させた後、数年は二人で身を潜めて暮らした。


 あの夜に負ったシルヴェスターの心の傷は深く、元のように明るい笑顔でこちらを見上げる顔は、ついぞ見ることが出来なかった。

 宝国にいた彼の母と妹が、無事でいる可能性が全く無かったことが、シルヴェスターから完全に笑顔を奪ったのだ。



 あの夜に失われたものは余りにも多かった。


 大勢の無辜の人々の命。

 宝国と樹国の殆どの住人たち。

 シルヴェスターの家族。

 レイドラスの忠誠と信頼。

 サラリスの自由。



 そして数年の後、宝国に侵入してサラリスとの再会を果たしたとき、シルヴェスターは口汚くサラリスを罵った。

 レイドラスはそれを厳しく嗜めたが、サラリスは表情を動かさなかった。


 数年経っても、サラリスは何も変わっていなかった。

 眩いばかりの長い銀色の髪。白皙の肌。ずば抜けて整った目鼻立ち。翠玉の色の目。


 理由を尋ねれば、封具の作用だという。

 つまりは宝国国王、ゼティスと同じ。


 レイドラスはサラリスを助けるつもりでそこへ行っていたが、サラリスは苦笑して呟いたのみだった。


「やめた方がいいと思うわ。私、あの人にいつ心臓を止められてもおかしくないのだもの。ここから逃げるのは夢物語だわ」


 ゼティスの目的は聞き及んでいたから、レイドラスは何としてもそれを阻むつもりでいた。


 だからこそ、サラリスと同じ延命を望んだのだった。


 サラリスの表情が初めて崩れ、必死になってそんなことは望んでいないと言い募る。


 泣きそうになってなお、見事に美しい容貌だった――この日が、レイドラスがサラリスの顔を見た最後の機会になった。


「全部忘れて幸せに過ごして。お願いだからもう関わらないで」


 それでもレイドラスの心が動かないと分かると、サラリスはやはり泣きそうな顔でそれを受け容れた。

 だが、交換条件が出された。


 レーシアをどこに隠したか教えること、そして、術式の構築方法を教えることだった。


 これが後に、アトルをレーシアの下へ導くあの声を生むことになる。






「――お師様。どうしてこんなことを願い出たんですか」


 宝国を脱出したシルヴェスターが、どこか投げ遣りな口調で尋ねる。

 この数年の間に少年の域を脱した彼が。永遠にその姿で生きることが決まった彼が。


「――必ず、必ずあの男を止めてみせる。そのためだ」


 レイドラスはそう答えた。

 サラリスを救い出せないままに宝国を脱出し、この先どうしていくべきかも分からなかったというのに。


「そのために必要なら、あの(ひと)の願いを踏み躙ることも厭わない」


 レーシアをここに近付けないで。私とレーシアは、二度と会うべきではないの。

 ――そう、サラリスは言ったけれど。


 ゼティスの目的がレーシアの莫大な魔力であるならば、その魔力を削れば良いのだ。

 サラリスの宝具や封具を、何とかしてレーシアに移し替えることが出来れば。


 レイドラスにとってレーシアは、ただの莫大な魔力の保有者であり、道具だった。


「――そのために長い寿命が必要だったってわけ」


 シルヴェスターが気のない声音でそう言った。

 深碧の目が暗く伏せられていて、心から申し訳ないと、レイドラスはそのときから思っていた。


 サラリスに利用されて、あの苦痛を何時間にも亘って味わわなければならなかったことも。

 こうして、巻き添えにして永遠に近い命を手に入れさせてしまったことも。


「――余りにも広すぎるこの世界を、あの男が招く危険から守るためならば、どんな苦痛も疎みはしない。

 何千分の一の可能性であっても、私は、人が生きる方に賭けたいと思う」


 綺麗事を並べながら、レイドラスは慎重に付け加えた。


「――その決断が、どのような辛苦を招くことになろうとも」


 裏切っても構わない。――そう、告げたつもりだった。





 だが、シルヴェスターはその日から、人が変わったように精力的に動き始めた。


 まずは、百年戦争の最中だったことから、傭兵として戦場に潜り込み、凄まじい働きで名を上げた。

 師匠であるレイドラスは知っていたことだが、シルヴェスターには剣の天稟があった。

 その武勇が戦場の端々まで伝わる頃には、シルヴェスターは傭兵の身でありながら英雄視され、リアテードの皇族に謁見を許されるまでになっていた。

 それを利用して各国王家に顔と名を知らしめ、シルヴェスターは十年が経とうと変わらないその姿を、隠すことなく見せ付けた。


 その秘密は胸に仕舞いつつ、そうして特異な存在として自分を印象付けたシルヴェスターは、やがてジフィリーアの王族から家門を授けられた。


 たった一人で永遠に続く、デイザルトの家柄が誕生した瞬間だった。


 決して表の華やかな社交界には出ない。

 それでも、圧倒的な影響力と権力を持つ、特別な家柄が。


 そうしてのし上がったシルヴェスターは、百年戦争が終わって数年経ってからようやく、彼が心から望んでいた仕事を得たのだった。



 ――各国の連合軍を組織し、百年戦争最大の戦犯、レーシア・エンデリアルザを捕らえること。



 ヴァルザスの名を使い始めた彼は、軍に所属することもなく、シルヴェスターを介して入手する情報を元に、なんとかしてレーシアの目を覚まさせ、サラリスの下へ連れて行くことだけを考えていた。

 その目的からすれば、シルヴェスターとは利害の一致しない関係だったと言える。

 しかし、シルヴェスターは相も変わらず彼をお師様と呼び慕い、非常時――例えば、アロ・フォルトゥーナに心酔する余りにシルヴェスターやヴァルザスのことも敵視する、樹国の者たちに素状が知れたときなど――には、軍の指揮権を一部ヴァルザスに譲る規定を設けることさえした。


 そして、レーシアの身柄の確保に動くこと。

 ――それは、シルヴェスターが先手を打った。


 ジフィリーアの近衛を動かし、近隣一帯で悪名勇名ともに高い、運送屋〈インケルタ〉に宝国への侵入を依頼したのはシルヴェスターだった。

 軍を動かしては余りにも目立つと考えたのだろうが、この一手が事態を思わぬ方向へ動かした。


 シルヴェスターの手の者にレーシアの身柄が渡る直前、準シャッハレイで、レーシアの目が覚めたのだ。


 そしてあろうことか、運送屋の青年が彼女を守り、重傷を負った挙句にミラレークスに身柄を押さえられたのだ。


 その報告が入ったときのシルヴェスターの荒れようは、ヴァルザスのみが知っていることである。


 シルヴェスターはそれからも、度々レーシアの身柄のために軍を動かした。

 それには理解を示しつつ、巻き込む人々のことを考えれば、そうそう看過できるはずもない。

 ヴァルザスは一度、次の機会にレーシアを捕らえることが出来なければ、それからは静観せよとシルヴェスターに勧告したことさえあった。


 そしてようやくヴァルザスが宝国への侵入を果たすに至って、やっと、とうとう、サラリスを自由に出来ると思った矢先。


 サラリスを介して振るわれていた、封具の恩恵が消失したことを感じた。


 ――それが意味することはただ一つ、サラリスの死。



 あのひとは、思い描いた明日へ行くことなく逝ってしまったのだ。

 そして、あのひとに散々助けられたヴァルザスは、その死に顔すらも見ることは出来なかったのだ。



 宝国の飛翔船を強奪し、ガルデラックに向かってから、シルヴェスターに会いに行く。


 シルヴェスターも同じことを感じていたようで、ヴァルザスの手前口には出さなかったものの、滅多に見ない程に嬉しそうな顔をしていた。


 永遠の命が終わることが嬉しいのだろうと、ヴァルザスはそう思った。


 いや、そう思いたかっただけなのかも知れなかった。



 ――この日、ミラレークス本部において、シルヴェスターの本気の怨嗟を聞くまでは。

















 本当に申し訳ないことをした。



 かつてアトルに、私はシルヴェスター・アラン・デイザルトを恩人であると言ったことがある。


 それがなぜか、おまえにはきっと分かるまい。


 一人でも強く生き抜けただろうおまえとは違う。

 私は、おまえが共にいてくれなければ()うに気が狂っていた。


 この百年、おまえは私の支えだった。



 サラリス・エンデリアルザを、私は最も尊敬し、感謝を捧げる人だと言った。


 尊敬の意味は分かるだろう。

 あのひとが、どんなに痛め付けられても前を見て、決して諦めずに足掻いたからだ。

 その上でまだ、私を気遣ってくださったからだ。


 だが、感謝の意味がおまえに分かっているだろうか。


 この命をくれたこと、この人生をくれたこと。

 ――確かに感謝はしているが、最大の感謝はそれではない。



 あのひとがおまえの命を繋いでくれたこと、そのことを感謝している。



 おまえは私が、サラリスさまやレーシアばかりに目を向けているように思っているのかも知れない。


 だが、私が何よりも大切にし、あの炎の夜にサラリスさまが語った明日に共に行きたいと思っていたのは、おまえだった――スライ。



 私の自慢の弟子であり、私の可愛い息子である、おまえだった。





************





 轟いた銃声の後、恐ろしい程の沈黙がその場を覆った。



 レーシアの手から銃が零れ落ち、重々しい音を立てて地面に落ちる。

 その薄青い目が大きく見開かれ、彼女の呼吸が止まった。



 円形に穴を穿った形で土石流が防がれたその場で、デイザルトが――シルヴェスターが、初めて怨嗟や赫怒以外の感情を露わにし、剣を取り落としてその人を支え、絶叫した。


「――お師様!」



 レーシアの魔力爆発が、デイザルトの防壁を砕いていた。

 弾丸はその後からデイザルトを捉えんとして放たれており、土石流を防いだことにより、レーシアの規格外の魔力を抑え込む集中力と余力が、シルヴェスターから削がれていた。

 また、弾丸を躱す間などあろうはずもなかった。


 ゆえにシルヴェスターは、被弾し、恐らくは命に関わるだろう重傷を負うことを覚悟した。


 だがその彼が、無傷を保っている。



 ――ヴァルザスが、彼を庇って被弾したのだ。



 シルヴェスターを庇うように抱き締めたヴァルザスが、彼に支えられながらもずるりと下に滑った。


 レーシアが引き金を引く数瞬前から、そのために動いていたのだとしか思えない素早さであり、いっそ怪訝さえ覚える程の躊躇いのなさだった。


「お師様! お師様!」


 絶叫し、シルヴェスターは止め処なく出血するヴァルザスを地面に横たえた。

 素早くその傷の状況を見て取り、今度こそ絶望に呻く。


「肺が――」


 レーシアが膝から地面に崩れ落ちた。



 乱戦の魔術光が遠くで瞬いている。

 喚声がどこかで上がっている。


 だがそれも何もかも、別世界の出来事のように遠く。


 土石流から円形に穿たれたその地面の上には、レーシアとシルヴェスター、そしてヴァルザスしかいない。



 背中を撃たれたヴァルザスをうつ伏せにしながら、シルヴェスターは茫然と座り込んだレーシアを見て叫んだ。


「何をしている! 宝具――〈静〉の宝具だ! 使え!」


 はっと、打たれたように反応し、レーシアが懸命に息を吸った。


「な……、(なむじ)の望む一生(いっせう)に――」


 震える声を聞いたのか、ヴァルザスが身動きした。



 アトルがレーシアに渡していたあの銃は、アルナー水晶によって衝撃波を撃ち出す銃だ。

 ヴァルザス本人が威力を抑える術式をアルナー水晶に仕込んだが、レーシアが撃ったその威力は、アトルが使ったときとは比較にならなかった。


 ヴァルザスの背中一面が裂け、爆ぜて肺が傷付いている。

 心臓が無事だったのが奇跡だ。

 脊椎も完膚なきまでに破壊され尽くし、脊髄も損傷している。

 恐らくもう下半身は感覚があるまい。


 出血多量と呼吸困難で、助かる見込みはまずない。

 そして万が一にも助かったところで、一生の間自力で動けなくなることは必至。


 ――通常の治療では。


〈静〉の宝具が、不可能を可能にしてのける。

 そのことを、シルヴェスターは身を以て知っている。



「……スライ……」


 血を吐きながらヴァルザスが呟いた。


 シルヴェスターはその手を強く握り、震えそうになる声を叱咤した。

 こんなことは何でもないのだと、すぐに片付くのだと言わんばかりに。


「お師様、無茶をなさる。――大丈夫です、すぐに――」


 レーシアが、膝でヴァルザスににじり寄った。足が立たなかったためだ。

 (つか)えながら、懸命に〈静〉の宝具のための歌を詠い、レーシアがヴァルザスの命を繋ごうとしている。


「――レーシア、もういい」


 ヴァルザスが、聞き取れない程の声で呟いた。

 実際にはその声はレーシアに届いていたが、レーシアは聞こえなかったことにして、歌を続けて喉を震わせた。


「お師様、お師様」


 シルヴェスターの声に、ヴァルザスがうつ伏せのままに顔を横に向け、少しばかりの苦笑を唇に載せた。


「――スライ、怪我は」


「ありません。お師様、貴方もすぐに――」


 反射の速度で答えたシルヴェスターに、ヴァルザスは微かに首を振った。


「……もういい……」


「何を――」


 シルヴェスターの反駁に、またヴァルザスが小さく笑った。

 血を吐いて咳き込み、ヴァルザスが微かに眉を寄せる。


 ヴァルザスの身体の下で魔法陣が弱々しく煌めき、その身体を持ち上げた。


「お師様、駄目です――」


 シルヴェスターの制止も聞かず、ヴァルザスは地面の上に胡坐を掻いた格好を取った。

 一気に出血が激しくなり、見かねたシルヴェスターが念動魔術で止血のみを施す。


 腕に取り縋るようにしてヴァルザスの身体を支え、シルヴェスターは混乱と恐怖の滲む目をヴァルザスに向けた。


「お師様、何を考えて――」


 また血を吐いてから、ヴァルザスがレーシアに向けて囁いた。


「おいで、レーシア」


 歌いながら、レーシアが膝でヴァルザスに近付いた。


 ヴァルザスは微笑んで彼女を見て、ゆっくりと――非常な苦労を窺わせる動きで手を持ち上げた。あるいは自力ではなく、それさえも念動魔術の補助を使ってのことだったのかも知れない。


 そして、極めて優しい手付きで、ヴァルザスがレーシアの唇を塞いだ。


 歌が途切れ、シルヴェスターがはっきりと焦燥を滲ませた。


「お師様、何を――」


「スライ、もういい」


 ヴァルザスが呟いた。

 本当に辛そうな、疲れ切ったような声音だった。


「……おまえにしたことは――本当に申し訳なかったと思う……」


「お師様、明日聞きます。それは明日聞きます。

 ――エンデリアルザ、何をしている。さっさと歌え」


 急かしたシルヴェスターをぼんやりと見上げて、ヴァルザスは囁いた。


「――スライ。以前のように笑ってほしい」


 虚を突かれた顔をして、シルヴェスターが愕然とヴァルザスを見下ろした。


「お師様……?」


「――レーシア」


 ヴァルザスが掠れた声で呼び掛けた。唇を塞がれたレーシアが、呆然とヴァルザスを見る。


「……きみを許す。だからレーシア、どうかきみが殺す人を、……私で最後にしておくれ」


 レーシアが首を振った。

 その動きでヴァルザスの手が振り払われて、地面に落ちる。


 その手を恐る恐る握ったレーシアの声が、喉に詰まったように掠れて震えていた。


「おじいちゃん、違うの。ごめんなさい、違うの。助ける、助けるから」


「スライ、この子を殺してはいけない」


 シルヴェスターの止血のために、僅かの時間を得たヴァルザスが吐息の如き声で呟いた。

 血が喉に迫り上がってくるのを感じ、それを飲み下して、途切れ途切れに。


「……おまえは、人を殺した剣を責めるのか? ――違うだろう?

 このむすめは、……非常に狭い世界で育てられた――意思などない兵器()()()のだ」


 シルヴェスターの唇が戦慄いた。


「……お師様……」


 ヴァルザスはシルヴェスターを見て、また口を開いた。

 唇から血が溢れて、ヴァルザスの命の残り時間が如何に少ないのかということを知らしめる。


 伝えたいことは山程あったが、もはや血で喉が詰まって声が出なかった。


(怒りのない悲しみに沈んだ人々に、怒りを強いることはあるまい?)


 多くの人々が、百年戦争が誰によって始められたのかを知らない。

 その人物に向ける怒りなど端から持たない。


(このむすめもまた、一人の命ある人間――。そのことは、認められるだろう?)


 神経が絶たれて痛みもない。

 ヴァルザスは声を出そうとしながら出せず、届くはずもない言葉を心中で連ねる。


 シルヴェスターもレーシアも、急変した事態に震えを隠せず、ただ動揺しているというのに、当事者のヴァルザスが最も冷静であるようだった。


 傍に膝を突き、深碧の目に混乱と恐怖を浮かべて、必死に唇を噛み締めるシルヴェスターを、ヴァルザスは眩しいものでも見るかの如くに視界に収めた。


(おまえは、強く、真っ直ぐな子だ)


 ヴァルザスの黒曜石の目が細められて、心から誇らしげにシルヴェスターを見る。


(理不尽に殺された者たちのことを、私はただ悲しいと受け容れた。――だがおまえは違うね。……おまえはその理不尽を叫び、理不尽な死を齎された者たちのために怒る……)


 震える唇で、レーシアがまた〈静〉の宝具の歌を詠い始めた。

 ヴァルザスがそちらを一瞥し、血を吐いて呼吸し、喉に喘声を混じらせながら、声を出そうと咳き込む。


(――だがね、スライ。届かないものがあるということも知りなさい)


 目を閉じて、呼吸の度に口から血を零しながら、喘声に血泡の弾ける音を交えながら、ヴァルザスは声を出そうとする。

 なかなか彼の言うことを聞かない喉は、血ばかりを吐き出して声を出さない。


(他の全てにおいておまえが正しかったとしても、これだけは覚えておいてほしい)


 シルヴェスターが、ヴァルザスが何かを言おうとしていることを悟って、まるで幼かったときのように従順に、ヴァルザスの言葉を待っている。

 レーシアに歌えと急かすこともしばし忘れて、魅入られたように彼の師匠を見詰めている。


(……死んでしまった者たちは、二度とこの世界の大地を踏むことはない。もう、いなくなってしまったのだよ)


 宝樹国の人々がそうであるように、サラリスがそうであるように、シルヴェスターの家族がそうであるように。


(だからそうやって、おまえが必死になってまで為すべきことは、怒ることではない)


 血を吐いて、生涯で初めて負う重傷にいっそ苦笑すらしながら、ヴァルザスは瞼を上げ、霞む視界にシルヴェスターを映した。


 一際大量の血を吐いたヴァルザスに、彼の血を浴びて騎士装束をどす黒く染めながら、シルヴェスターが何かを言おうと口を開けた。


 だがシルヴェスターが言葉を発する前に、ようやく声が出たヴァルザスが、小さな掠れ声で告げていた。



「……許すことの美しさを、譲ることの大切さを、――おまえは知っているね」



 シルヴェスターが息を呑んだ。

 緑碧玉の目が大きく見開かれ、瞳が揺れて彼の師を映す。


 ヴァルザスの視界が揺らいで、まだ少年だったときのシルヴェスターの姿が目の前の彼に被った。

 どうやら死に際というものは感傷的になるらしいと、ヴァルザスは血で濡れた唇で微笑む。


「――もう明日にはこの世にいない、……この至らなかったおまえの師を、どうか失望させないでおくれ」


 目を閉じる。目を閉じれば何も見えなくなるはずだったが、瞼の裏には幼い頃のシルヴェスターがいて笑っていた。


「……どうか笑って、見送っておくれ」



 愕然と、シルヴェスターは彼の師を見ていた。

 師が目の前で血塗れになっている現実が、唐突に受け容れ難いものとして彼の心臓を揺さぶった。


 それでも、百年共にいたその経験が、ヴァルザスの言わんとすることを理解させる。


 唇を開くと、軋むような声が出た。


「――虫のいい。……そんな、そんな――貴方はいつも、私の気持ちは考えてくれない……」


 ヴァルザスの、血に塗れた唇が綻んだ。


「本当にすまない。――だが、おまえは優しいから」


 瞼がもう開かない。ヴァルザスの声も、徐々に小さくなっていく。


「……私が、命と引き換えに頼んだことは、――聞いてくれるだろう?」


 レーシアが、また歌を詠い始めた。

 声が震えて韻律が定まらず、またやり直す。


 その声が聞こえているのかどうか、ヴァルザスは気に入りの歌を聴く好々爺のような穏やかな顔で、ゆっくりと、血泡交じりの呼吸をしている。


「――お師様」


 シルヴェスターが呼び掛けた。


 ヴァルザスが息を吸い――その動きが止まった。


 レーシアの歌が早口になる。何度も躓きながら、それでも最後まで歌おうとする。

 そんなレーシアをもはや一瞥だにせず、シルヴェスターは(こうべ)を垂れて呟いた。


「……おれの師匠は、本当に我侭だ」



 ヴァルザスが、最期の息を吐き切った。



 前のめりに頽れるその身体を、シルヴェスターが抱き留めた。


「おれの師匠は、本当に、馬鹿だ」


 囁くように吐き捨てたシルヴェスターの深碧の目に、透明な涙が盛り上がって頬を伝った。



 レーシアの歌が止まり、ヴァルザスの手が離される。

 やがて、嗚咽が小さく空気を震わせた。















 座り込み、両手で顔を覆い、今まさに自分が命を奪った人のために身体を震わせて泣くレーシアを、シルヴェスターは歯を食いしばって眺め遣った。



 ――許すことの美しさを、譲ることの大切さを、おまえは知っているね。



(お師様、おれは)


 必死に声を殺して慟哭するレーシアから、シルヴェスターは腕の中のヴァルザスに視線を移す。


(おれには、これが正しいのか、分からない)


 そして、ヴァルザスをきちんと地面に横たえる。


 それがただの遺体ではなく、ヴァルザス・グレインという人間なのだと誇示するように、行き届いた手付きで彼を横たえる。



 そうしてから、シルヴェスターは立ち上がり、座り込んだレーシアを見下ろして口を開く。














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