32 かの国からの使者
うらぶれた地区のうらぶれた建物に案内され、レーシアはそれをまじまじと見上げた。
「ぼろいでしょー?」
レイヴィがけけっと笑いながら言い、先頭に立って扉を押し開けた。
このアルテリアでは、火災になった場合を警戒し、木造の建築物には石造の建築物よりも高い税が課される。
ゆえに殆どの建物は石造である。
今レーシアの目の前にある、アルテリアにおける〈インケルタ〉の拠点である建物も、その例に漏れず石のブロックを積み上げて造られていた。
背が低く、両隣の似たような建物に寄り掛かり合うように、全体的に傾いている。
戸口は小さく、木の戸板は板同士の間に僅かに隙間が空いてしまっていた。
背が低い、と一見してレーシアは思ったが、実際にはその建物は二階建てになっていた。
二階部分が一階部分に比べて面積が小さく、一階部分が張り出しているのだ。
「……ここにお客さんが来るの?」
素朴な疑問を示すと、レーシアの背後に立つアトルは肩を竦めた。
「ここじゃ依頼は受けねぇな。アルテリアに用事があることが多いから持ってるってだけの場所」
入るぞ、と促され、レーシアはそろそろと足を踏み出した。
ケルティでの〈インケルタ〉の事務所のように、ざわめきに溢れていることを予想していたのだが、意外にも中はしんとしていた。
だが無人というわけではない。
入ってすぐ、居間と食堂を兼ねたような場所には、数人が座り込んで煙草を吹かしていた。
充満する煙の匂いに、礼儀正しく口許を掌で覆いつつ、俯いてレーシアが咳き込んだ。
「おーい、みんな、これ読んで」
レイヴィが気怠い雰囲気を打ち破って声を上げ、その声に室内の彼らがのろのろと目を上げる。
その中の一人がアトルを見付け、おざなりに手を振った。
「よお、アトル。
――と、その美人誰だ?」
「よぅ、久し振り。こいつはレーシア。手紙読んだら誰か分かるから」
アトルもそう応じ、レイヴィの手から手紙が彼らに渡るのを見ていた。
きょろきょろと周囲を見渡すレーシアは、心持ちアトルに身を寄せている。
如何にもゴロツキの住まいでござい、というような場所である。順当な防衛本能といえよう。
そんな彼女の肩を叩いて注意を自分に向け、アトルはその場の数人を指差して名前を呼び上げていった。
「ジャック、ヴァズ、イアス、バルファ、エヴァ」
レーシアはおずおずと頭を下げたが、それに応えたのはヴァズだけだった。
かさかさと紙が鳴り、読み終えたジャックが次のヴァズに手紙を受け渡す。
ジャックが物言いたげにアトルを見据えたが、アトルは微かに首を振って「待て」と唇を動かした。
位置関係上、それが見えなかったレーシアはジャックの視線に目を瞬かせる。
全員が手紙を読み終えるまで手持ち無沙汰に待ち、アトルはぽん、とレーシアの肩に両手を置いた。
窺うように視線で振り返ったレーシアを、レイヴィの方へ押し出すように歩かせる。
「わ、ちょっと、アトル?」
慌てた風情のレーシアに、アトルは言い渡した。
「俺はこいつらと話があるから、おまえはレイヴィと遊んでろ」
形の良い眉を顰め、レーシアはアトルに物申した。
「ちょっと、子守を頼むみたいにしないでくれない?」
「レイヴィのどこが子供だ」
「だから私が子供みたいな言い方なんだって」
二人の遣り取りに声を上げて笑い、レイヴィが身を乗り出してレーシアの両手を取った。
「まあいいじゃない。仲良くなりましょ、レーシアちゃん」
「は、はあ……」
しどろもどろになり、レーシアはアトルに助けを求める視線を送るも、アトルはさっさと適当な席に座ってしまっている。
手を引かれるままに、レーシアは食堂兼居間を連れ出された。
どこに連れて行かれるのかと身構えるレーシアに、レイヴィがけけっと笑い声を上げる。
「ほーんと可愛い。あいつが惚れるのも分かるわぁ」
「…………っ!」
よろめいたレーシアに、レイヴィは更に大きく笑い声を上げた。
そのまま、建物の奥に位置する階段を上がるように促す。
がたがきた階段は、一人分の体重にさえ呻き声を上げたが持ち堪えた。
レーシアが踏んだ段が殆ど音すら立てないため、レイヴィは感心しきりの様子で何度も頷いていた。
「あー、マジだったんだー。レーシアちゃん、ほんとに体重無いのねぇ」
アトルの手紙にそれも書いてあったらしい。
〈器〉が如何に異常な魔力を保持しているのかを示す、端的な現象ではあれ、レーシアは引っ掛かるものを覚えて真顔になった。
「そんなことまで書いたの……?」
何しろ目方という、繊細な問題である。
階段の上に到達したレーシアの後ろから、「よっと」と自分も二階に上がったレイヴィは、にやにやとからかう笑みをその顔に昇らせた。
耳許を飾る金の輪をしゃらしゃらと鳴らしながらレーシアの顔を覗き込み、「ふっふっふ」と含み笑い。
「もーっと凄いことも書いてあったけどねぇ」
「えっ!?」
レーシアの顔が強張った。
「え、何が!? ど、どんな――」
「内緒ー」
ふふんと笑って胸を反らし、レイヴィはとん、とレーシアの背中を押した。
「はい取り敢えず、座って座って」
二階部分は仕切りのない一部屋のみで、古い長椅子が三脚、てんでばらばらな配置で置かれていた。
そのうち一脚に腰掛けさせられたレーシアは、真剣な表情で並んで腰掛けたレイヴィを見詰める。
「何が書いてあったの?」
「教えなーい。知りたきゃ自分で読めばいいでしょ?」
長い爪を弾きながら答えるレイヴィに、レーシアはむっとしつつも反論した。
「暗号でしょう、あれ? 読めないもの」
「そっかそっか。――読み方、教えてあげようか?」
人当たりのいい笑顔を浮かべたレイヴィに、レーシアは思わずぱっと表情を晴れさせた。
「ほんと? いいの?」
「いい訳ないでしょ、ばーか」
鮮やかに表情を切り替え、レイヴィはあっさりと言った。
がく、と項垂れたレーシアの肩をぱんぱんと叩きながら、けけっと笑う。
「まー単純ね。からかい甲斐があるわ、楽しい!」
「……楽しくない」
しゅん、とレーシアが呟くと、レイヴィは「ごめんごめん」と大して申し訳なさそうでもなく謝りつつ、長椅子を降りてレーシアの正面に屈み込んだ。
項垂れたレーシアの頬を両掌で掬うようにして顔を上げさせ、「ふわぁー」と珍妙な声を上げる。
「かーわいぃっ!」
「…………」
なんとなく、ではあったが、レイヴィの言う「可愛い」は、サラリスの言う「可愛い」、あるいはアトルの言う「可愛い」とは違う気がした。
言うなれば、「からかって楽しい」というのを「可愛い」と言っているかのような。
ぎゅうっと顰められたレーシアの顔を見て、またけけっと笑いながら、レイヴィはあっけらかんと言った。
「あのねー、あんな大事な暗号の読み方を、部外者に教えられる訳がないでしょ、お嬢ちゃん」
部外者、と断言されて、少しばかりレーシアの眦が下がる。
それを見てまた笑い、レイヴィはあっさりと言った。
「あんたがアトルの嫁になるなら、教えてもいいけどね」
「よ、嫁……っ!?」
慄いたレーシアの表情に、レイヴィは今度こそ爆笑した。
実を言うと手紙には、アトルがレーシアをどう思っているかは書いていなかった。
だが、態度を見ればそれは明白。
そして第三者から見れば、レーシアがアトルをどう思っているのかも明々白々に分かる。
(ま、当事者ってこともあってかアトルは分かってないみたいだけどー)
立ち上がってレーシアに背を向け、レイヴィは腕を組んだ。
人差し指でとんとんと頬を叩きながら、悪戯っぽくにやりと微笑む。
(教えてあげてもいいけど、まっ、面白いからこのままにしとこうかな)
――後にアトルとレーシア、両者の誤解が原因で大惨事が巻き起こるのだが、それはレイヴィには窺い知れないことである。
そしてその大惨事すら、レイヴィが聞けば腹が捩れる程に笑うものなのだから、この考えは覆りようがなかった。
レーシアとレイヴィが二階に行ったのを確認してから、イアスが声を低めて口火を切った。
「――色々と訊きたいことはあるが、アトル。
もうすぐ死ぬかも知れんってどういうことだ」
手紙にはその他にも山程の情報を詰め込んだはずなので、真っ先に出て来た言葉がそれだったことに、アトルは少々感動した。
「これ見てくれ」
アトルが服を捲り上げ、シャレイエルに刺された箇所――そこに張り詰める薄青い結晶を露わにした。
「背中にもある。手紙に書いたと思うけど、これが魔力の塊――」
「――こんなんで人が死ぬのか?」
愕然としたバルファに、エヴァが拳を落とした。ごつっ、と鈍い音がする。
「亡くなった人がいるって書いてあったでしょ」
「俺のことは今どうこう言ってもしょうがねえから置いといて」
アトルのあっさりした物言いに、「なんだよそれ」との声が複数上がる。
「もっと深刻そうにしろよ」
「今いきなり死んでも、そんなんじゃ葬儀もやってやらんぞ」
「しかも、レーシア、だったか? あの子をレイヴィに押し付けたってことはおまえ、あの子には言ってねえのか?」
ぐ、と言葉に詰まり、アトルは頷く。
「……ああ、まだ言ってない」
「馬鹿か」
吐き捨てたイアスに、アトルは琥珀の目を向けた。
「しょうがねぇだろ! 言ったらあいつは――」
「はいはいはい、話を進めるよー」
エヴァが割り込んで強引に話を進める。
アトルのことが心配ではないという訳ではないようだが、アトルがここでのんびりしていられる身分ではないということを把握してのことだった。
「まずあんたからのお願い三つ、しっかり受け取りました。安心なさい」
ミラレークスに警戒してほしいということ。
文中でヴァルザスの特徴を教え、それと合致する人がいれば宿の提供などで協力してほしいということ。
そして、いざミラレークスから脱出したときに出来る範囲で助力してほしいということ。
アトルは軽く頭を下げた。
「――ありがとう」
「いいっていいって」
肩を竦めたエヴァは、深々と溜息を吐いた。
「……よりにもよって、こんな事情持ちの娘にあんたが惚れるとはねぇ……」
アトルは小さくなった。
「す、すみません……」
更なる溜息が空気を震わせ、アトルはますます小さくなった。
それから細々とした話を詰め、アトルは上階までレーシアを呼び戻しに行った。
「――アトル!」
自分の顔を見るや嬉しそうな声を上げたレーシアに、アトルは思わず頬を緩める。
「話が終わったから戻るぞ」
「うんっ」
立ち上がってアトルに駆け寄り、レーシアは笑顔のままで尋ねた。
「――手紙に、私のこと変な風に書いてないよね?」
「は? 書くわけないだろ」
面食らってそう言ってから、アトルはレイヴィに視線を移して嘆息した。
「からかって遊ぶなよ」
「ごめんごめん。可愛いからつい」
けけっと笑ったレイヴィはお道化た仕草でアトルを拝み、アトルはもう一度溜息を落としてからレーシアの腕を取った。
「行くぞ」
************
〈インケルタ〉の拠点から出たときには、既に時刻は夕方だった。
茜に染まりつつある空を仰ぎ、レーシアは隣のアトルを窺った。
「アトル、もう戻る?」
「まだ見て回りたいだろ?」
そう答えて、アトルは笑ってレーシアを促した。
「行こうぜ」
ぱっと顔を輝かせて、レーシアはアトルの手を引いた。
「ここに来る途中でちらっと見えたんだけど、辻占いのお店があったわ。行きたい」
「辻占いー?」
アトルは思わず不服げに語尾を上げた。
ああいうものは大抵ぼったくりかつ出鱈目で、金を出すだけ馬鹿らしいと、彼は今までの経験上知っているのだ。
ついでに、「明日運命の人と出逢えます!」という辻占い師の予言を信じて大枚を叩いてお守りを購入したアリサが、その予言が外れたとのことで辻占い師の店に殴り込み、大立ち回りを演じたという記憶も、その反応を後押ししていた。
「なに、おまえがサラリスさんといた頃もそういう店に行ってたわけ?」
思わず尋ねると、レーシアは首を振った。
「ううん、駄目って言われた」
「だろうな……」
さすがサラリスさん、とアトルは内心で賛辞を贈る。
禁止されていたからこそ、いっそう行ってみたいのだろう。
溜息を落とし、アトルは言い渡した。
「一回だけな」
「うん!」
そんなわけで辻占い。
如何にもそれらしく飾り立てられた店の前で、「何を買うように言われても絶対に断れ」と言い含めた上で、アトルはレーシアを店内に送り出した(レーシアが絶対に同伴は嫌だと言い張ったためである。「何を占ってもらうつもりだ」と、アトルはかなり動揺した)。
数十分の後に出て来たレーシアは大変機嫌を良くしており、「この先の運命は安泰だって」と意気揚々とアトルに報告した。
運命は安泰、などと言っている時点でここの辻占い師は似非占い師だな、と判断しつつ、アトルは「良かったな」とあしらっておいた。
適当な返答に気を悪くした様子もなく、レーシアはにこにこする。
「次はどこに行く?」
アトルは空を仰いで時刻を確かめた。
夜になったアルテリアを見ておきたいということもあり、ある程度ならばレーシアの希望を叶えてやれる。
「腹減ってるだろ。なんか食いながら見て回ろう」
わざわざ店に入って食事をするというのも面倒だったので、立ち食い出来るものを探しながら通りを歩く。
そうしながら、ふと思い出したようにレーシアが呟いた。
「そういえば、まだアトルとごはん食べてない」
「は?」
一瞬面食らって瞬きした後、アトルは「ああ」と合点した。
決闘の後に言っていたことである。
祝勝会のせいでお流れになった食事を言っているのだ。
「じゃあ、明日にでも一緒に食うか」
アトルの提案にレーシアは満面の笑みで頷いた。
「うんっ!」
釣られてアトルも笑った――そのとき突然、アトルの目の前に誰かが立った。
人波に押されて偶然そうなった、という訳では絶対になかった。
アトルをアトルであると識別して、意識してそこに立った様子だった。
ぐい、とレーシアを自分の背後に押し遣って、アトルは目の前に立った男を見据えた。
深緑の髪を、目許を隠すように伸ばした男だった。
上背があり、アトルよりも背が高い。
草臥れた外套を羽織っており、それはこの季節にはかなり周囲から浮いていた。
誰何の声を上げようと、アトルが口を開く。
だが次の瞬間、目にも留まらぬ速さで動いた男の手で口をがっしりと押さえられ、それは未遂に終わった。
不可抗力で呻き、迷わず男の手を払い除けたアトルが、後ろ手にしっかりとレーシアを確保する。
そのまま、多少乱暴な手段を使ってでも目の前から男を排除しようと、素早く術式を構築し始めた。
だが、
「あ、アトル……!」
レーシアの囁きに周囲を見れば、人波の中で明らかにアトルたちを見て、二人を囲むように立っている者たちがちらほらと窺えた。
自分の迂闊さに腹を立てながらも、怯える要素は一切ない。
アトルは溜息を零して術式を破棄すると、心底から面倒そうに目の前の男に言った。
たとえ戦闘になったところで、今のアトルが負けることはまず有り得ないと踏んでのことである。
「用件は?」
目の前の男に、身構える様子は見られない。
深緑の髪に目許を隠したままゆるりと立ち、敵意も見られないが答える様子もない。
アトルは目を細めた。
「場合によっては、それなりの覚悟はしてもらうけど」
ちかッ、と煌めく翠玉の色をアトルの目の中に認めて、深緑の髪の男は小さく息を呑む。
それから、先程とは打って変わってゆっくりと片手を持ち上げ、アトルに握手を求めた。
「――ゲルドと申す。
しばし人の目のない所で話したいのだが……」
握手には応えず、アトルは不機嫌にゲルドと名乗った男を睨む。
「用件は、って訊いたよな」
す、と目を泳がせて周囲を窺ったゲルドは、アトルとの距離を詰めて声を低めた。
「協力の打診に参った」
アトルが眉を寄せる。
「は?」
ゲルドはいっそう声を低め、早口で囁いた。
「――囚われた仲間の件について……、我ら樹国と貴殿との、協力の提案に参った」




