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26 今、ここで

 森の中を疾駆しながら、エミリアは想定外の展開に心臓を高鳴らせていた。


 決闘が始まる前、アトルには闘志というものがまるで見られなかった。

 それは、いざ決闘が始まってからも変わらず、さすがにルーヴェルドの代闘士であるタイレスを気の毒に思った程だった。

 介添人を買って出たりと、それなりの手伝いをしてやったにも関わらず、戦う意思も勝つ意思もないアトルに、エミリアは苛立ちすらしていたのだ。


 だが、それが今や。


 行く手で轟音が響いている。間違いなく魔術戦の音――しかも、かなり大規模な魔術戦の音だ。

 何度か、梢を突き抜ける高さに達する魔術の光も確認している。


「嘘でしょ、もう……」


 足下に魔法陣を煌めかせ、出来得る限りに加速しながら、エミリアは悪態とも賛辞とも取れる呟きを漏らした。


 何が起こったのかは分からない。

 防戦一方だったアトルがなぜ、唐突に闘志を漲らせて反撃に出たのかは分からない。

 しかし分かっていることは――いや、最大級に不可解なことは――。



 アトルの反撃の度が過ぎていた(・・・・・・・)、ということだ。



 決着が着くと思われたそのときに放たれたアトルの反撃は、極めて一般的な念動系、衝撃波の術式だった。

 少なくとも、そのように見えた。


 だがその一撃は、タイレスの防壁を割り砕くに留まらず、彼を森の上空まで打ち上げ、本部から離れた方向へ吹き飛ばすだけの威力を持っていたのだ。


 その一撃は明らかに、魔術師一人が放つことの出来る威力を凌駕していたようにも思われた。

 だが、アトルの特等指定事由は精神系の魔術に対する適性と、独創的な術式を編むことである。何らかの術式を用いて、タイレスが撃った分の攻撃の威力をも乗算する一撃としたのかも知れなかった。



 そして今、エミリアが何よりも注目しなければならない事実は、


「あれはもう、殺す気としか思えないんだよね……!」


 地面を蹴り、森の中を突っ切る。

 幸いにも、細いものではあったが、アトルが通った道筋が木々をへし折って続いており、この森の中でも真っ直ぐに進むことが出来ていた。


 タイレスを吹き飛ばし、間髪入れずにアトルもそれを追ったため――その際にこの通り道が作られた訳だが――、決闘の場がかなり移動してしまっている。


 エミリアとリカルドは現在、それを追っている状況だった。

 本音を言えば、アトルの反撃一発でタイレスが死亡してしまっていることもエミリアは危惧したのだが、魔術戦の音がするということは生きているのだろう。何よりだ。


 ちらり、と振り返ると、リカルドは目をきらきらさせていた。


「もうこれは、俺たちが割り込んでも文句は出ねぇよなっ!」


 エミリアの視線を捉え、リカルドがにこにこしながら言う。


 同じ速度で走っているにも関わらず、エミリアよりは彼の方に余裕があるように思われた。傭兵として鍛えられた体力があるためだろう。


 エミリアは正面に向き直り、更に加速のための魔法陣を描き出しながら答えた。


「戦況によるわよ!」


 通り道の傍の木の幹に手を突き、そこに魔法陣を構築、発動。加速を得てエミリアの身体が前に飛ぶ。


「――ったく、あんな戦い方しちゃ、証人の皆さんが付いて来られてないじゃないっ! なに考えてんのよ、アトルくん!」


 この場にいない人物に向かって苦言を呈しつつ、宙を泳いだ身体が着地する地点に更に魔法陣を描き出す。そこを踏んだエミリアの身体は、生身では有り得ない距離を一歩で稼いだ。


「そろそろだぞ!」


 魔術戦の音が近くなってきたことを受け、傍目にもわくわくした様子のリカルドが声を上げた。

 エミリアも、左手で細剣の柄に近い部分の鞘を掴み、万が一に備える。


「分かってる!

 ――って、ええ!?」


 リカルドにそう返し、しかし直後に目に入った光景にエミリアは驚きの声を上げ、手近な木の幹に掴まるようにして急停止した。

 その後ろでさしものリカルドも動きを止めている。


 エミリアの目の前、彼女が縋り付く木を円周の一端として、森に円形の穴が開いていた。

 エミリアが声を上げたのも無理はない、その円の内側の木々が根こそぎになっている、凄まじい現場である。


 倒された木が、根を剥き出しにして横たわっている。

 真っ二つに裂かれた木もあれば、粉々に砕けた木もある。

 地面のそこここが抉れ、濛々たる粉塵が上がっていた。


 その只中で、脇目も振らずに戦い続ける二人がいた。


 粉塵と、ひっきりなしに生成され続ける色とりどりの魔法陣の光のせいで、視界が利き辛い。

 今、どういった戦況なのか、咄嗟には判断しかねた。


 戦況の判断などする気もなく、意気揚々と前に出ようとしたリカルドの腕を捉え、エミリアは目を凝らした。

 少なくとも二人が、命に関わる重傷を負っている様子はない。動き回っていることから、それは明らかだ。


 そのことにまずは安堵の息を吐いてから、エミリアは決闘の本旨に関わる忠告を叫んだ。


「アトルくん! タイレス高等指定! 場所を戻して! 証人の皆さんが付いて来られてません!」


 弾かれたようにこちらを見たのは、エミリアから見て左手にある方の人影だった。

 背格好からしてアトルだと判断した、エミリアの考えに誤りはない。


 だが、


(違う……?)


 その眼差しに捉えられ、エミリアは息を呑む。



 粉塵を貫くようにこちらを見る眼差し――余りにも異様な眼差し。


 滲むような光を放って、粉塵越しにはっきりとエミリアを見ている。



 耳の奥で鼓動が鳴った。

 全身が、呪縛でも受けたように固まった。



 エミリアはアトルの目を知っている。

 褐色と黄金の間を透かし取った、琥珀の色を知っている。



 しかし今、エミリアを眺めるその眼差しは、間違いようもなく――、


 燃え盛るような翠玉の色だった。





************





 互いに――決闘の場では本来あってはならない――殺意の表明をした直後、アトルは迷いなく衝撃波を撃った。

 辛うじて術式を弱めようとはしたものの、サラリスの魔力の質がその攻撃の凄絶さを保証する。


 傾いた角度で上空へ打ち上がった衝撃波は、タイレスが咄嗟に構築した防壁をいとも容易く割り砕いた。

 それどころか、その身体を打ち上げる。


「あ」


 思わず声を漏らしたアトルだったが、即座にタイレスが防壁を構築するのを見て取り、殺してしまうことはないだろうと判断した。

 腐っても高等指定魔術師、生き延びる公算は大きい。


 そうであるならば、アトルがすることは一つだ。


 介添人のことも証人のことも、全てを意識の外に置き、アトルは目の前の地面に魔法陣を描いた。


 極限まで小さくした魔法陣が、きらりと小さく赤く光る。

 その魔法陣を踏んだアトルの身体が、勢い良く前方に射出された。タイレスを追う方向である。


 あれだけ小さくした魔法陣から吐き出される術式の効果は、しかし指示した「アトルの身体を移動させる」ことに留まらない。

 アトルと同方向に向かって、幾筋もの念動波が放たれた。指示した効果の、いわば余波である。


 その余波が、アトルの狙い通りに進行方向の木々を薙ぎ倒した。

 ばきばきめきめきと、それなりの大音響が轟く上を、アトルの身体が吹き飛んで行く。


(よしっ!)


 開いた空間を、およそ人間がすっ飛ぶ速度としては過ぎた速度ですっ飛ぶ。

 その速度を殺すため、途中で何度かの宙返りを挟み――


「死ねぇッ!」


 既に落下し、待ち構えていたタイレスの、真正面に着地した。


 足裏から痺れが這い上がってくるのは、制御できていないサラリスの魔力がもたらした移動が、意図したよりも遥かに勢いが良かったがため。

 ざりり、とアトルの足の下で地面が削られ、土埃を上げる。


 同時に足下が爆発させられたが、左手を振って念動属性を与えた魔力を小さく爆発させることで事無きを得た。


 サラリスの魔力は、レーシアの魔力以外の全ての魔力を無効化させかねないだけの質を誇る。


 タイレスの顔が、苛立ちと不可解さに顰められる。

 ざまあみやがれ、と、言葉にならない思考の隅でアトルは微かに思う。


 だがそれよりも、仲間と認めた者たちを侮辱された怒りが遥かに勝っていた。



 アトルは拳を握り固め、


「こっちの科白だ――くたばれ!」


 大きく踏み込み、タイレスの横面に拳をめり込ませた。



 純粋な、魔術など使っていない暴力に、タイレスは意表を突かれた形でよろめき、頬に手を遣った。


「な――、貴様……」


 愕然とした様子のタイレスに、アトルは口角を上げて見せた。


「殴る蹴るはありなんだろ? なぁ?」


「ふざっ――ふざけるなぁッ!」


 魔術師同士の決闘で、実際に「殴る蹴る」の暴力が行われることなど皆無だ。

 それは魔術師の持つ自尊心の結果であり、決闘という、見目に拘るべき儀式における礼儀でもあった。


 それを踏み抜かれ、タイレスの緑青の目が怒りに燃える。


「クソがぁ……っ、もう――死ねッ!」



 言うまでもないが、決闘で「クソ」だの「死ね」だの「くたばれ」だのは禁句である。

 名誉を賭けた決闘はあくまで、見目に拘るべき儀式なのだ。



 タイレスの右手が翻り、上から下へ、目の前の空間を指先が撫でた。

 撫でたその軌跡に小さな魔法陣が幾つも白く浮かび上がる。浮かび上がった魔法陣が、一瞬後にその円周を各々拡大した。

 ぎゅんッ、と軋むような音と共に、アトルの顔を黄金の光芒が照らし出す。


 木々の梢を超える高さから足下まで、整列した魔法陣が煌々と輝き、くっきりとした陰影を周囲に描き出す。


 さすがに目を見開いたアトルが飛び退り、仰け反る――その顔面に、縦に並んだ魔法陣から吐き出された雷霆が襲い掛かった。


 規模も強さも、とても個人に向けるものではない。


 炸裂する光と弾けるような音、そして激烈な電撃を間近で受け、皮膚のぎりぎりに防壁を張ったアトルが後ろに体勢を崩す。


「思い知っ――」


 たか――と続けようとしたタイレスは、もはや理性の相当な部分がどこかへ飛んで行っているとしか思えないが、生憎とアトルは後ろへ倒れようとしていたものの、全くの無傷だった。


 サラリスの魔力で張った防壁は、どれだけ即興のものであろうと、どれほど薄いものであろうと、大抵の攻撃を防ぎ切る。


「――――!?」


 アトルに新たな傷が加わった様子がないことに、タイレスが驚愕の余り目を見開く。

 だがすぐに驚異的な状況把握力を発揮して、追撃のための雷霆を、目の前に並んでいる魔法陣から更に吐き出させた。


 アトルの防壁はそれをも防ぐ――が、アトル自身が体勢を崩して倒れることまでは回避できていない。


 しかし伊達に、荒事の多い環境に身を置いてきた訳ではない。

 アトルはそのまま地面を蹴って後方に手を突き、そこを支点に身体を回転させて立ち上がった。ついでに爪先でタイレスの顎を蹴り上げようとしたのだが、魔法陣に阻まれることに気付き、敢え無く実行に移すことを止めた。


 目を回すこともなく、アトルが迎撃のための氷撃の魔法陣を組み立てる――


 その魔法陣が指示する事象が顕現する前に、片手の一振りで魔法陣を解除したタイレスが念動系魔術で己の身体を前に飛ばした。


 一瞬でアトルの懐に入り、


「――――ッ!」



 華麗な膝蹴りがアトルの左脇腹に決まった。



 咄嗟に後ろに飛んで衝撃を殺したアトルには、それほど大した打撃は入っていない。

 だが、思わず彼は突っ込んでいた。


「殴る蹴るに対してついさっき、おまえ『ふざけるな』とか言ってなかったか?」


「貴様の流儀に合わせてやったんだろうが!」


 そう返しつつ、タイレスは怪訝そうにアトルの左脇腹に視線を注いだ。


「貴様……、何か仕込んでいるのか?」


「――――」


 どきりとして、アトルは左脇腹に手を遣った。



 衣服越しにも分かる、結晶化しつつある部分がそこにはあった。

 着替える度にまじまじと見ては、どうにかならないものかと、祈る心地で考えるそれが。



 アトルの動作に、事実とは違う推測を強めたのか、タイレスの顔に侮蔑が広がった。


「はッ、なるほど。貴様は性根もやる事成す事も、全てが等しく汚いらしいな!」


「――黙れ、口を閉じろ」


 言い放ち、アトルはタイレスを指差した。


 その指先に、胡桃大の――しかしもはや塗り潰されたようにすら見える密度の、凍えた青い魔法陣が煌めいた。



 アジャットたちのことを侮辱されたときと比べれば、驚くほど腹は立たなかったが、それでも苛立ちのようなものを感じた。


 サラリスと同じ死に方で、レーシアを置いて逝ってしまうことへの恐怖を、アトルは常に感じている。

 そうなったとき、レーシアを守ってくれる人がいないかも知れないことを、何よりも強く危惧している。


 そのことを欠片も知らないくせに、偉そうなことをいうこの人間を、


(失せろ――)


 間違いなく鬱陶しいと思った。



 ――莫大な魔力は莫大であるがゆえ、遣い手の意思に敏感に反応する。



 タイレスに突き付けられたアトルの指先、そこに展開される魔法陣が、きゅいん、と小さな音を奏でてその円周を三倍にまで拡大した。

 そこから次々に吐き出されるように、青白い氷弾が数十撃ち出される。

 空気を裂いてタイレスに殺到するその飛礫の、鋭利で冷ややかな煌めき。


 その術式が、意図したよりもずっと強く、殺意に満ちていることに――


(しま――ッ!)


 明確な焦りがアトルの顔に浮かんだ。


(殺しちまう!)


 この男には、アジャットやグラッド、リーゼガルトやミルティアを侮辱された。

 死ねばいいと、確かに思った。


 だが、今ここで、アトルがルーヴェルドの代闘士を殺してしまえば――


(まずい!)


 間違いなくアトルは罪に問われる。

 下手をすれば殺人防止のための介添人――エミリアとリカルドにも累が及ぶ。

 リカルドに気を回してやる義理はないが、エミリアには借りがある。


 せめて半殺し。

 そこで止めておくべきだった。

 そのつもりだった。


 慌てて防壁を、タイレスを庇う形で展開する。

 だがその防壁に、あろうことかタイレスが衝撃波をぶつけた。


「貴様、何のつもりだ!?」


 アトルに向けられる眼差しに、激昂が燃えている。


「違――」



 蒼白になったアトルの目の前で、アトルが張った――タイレスの命を守っていた防壁が決壊した。



 アトルの目には、光景が緩慢になって映った。



 タイレスからすれば、確かにアトルの行動は意味の分からないものだっただろう。

 決闘における敵に情けを掛けられたような気がして、腹に据えかねたのも頷ける。


 だが、それでも、高等指定魔術師ならば――自分に迫る氷弾を形作る、その尋常でない魔力に気が付くべきだった。


 タイレスの衝撃波と、アトルの氷弾の先頭――この二つが相俟って、アトルの防壁を砕いた。


 凄まじい音がした。


 決壊する防壁も、そこに襲い掛かる氷弾も、どちらもが規格外の魔力で創造されているのだ。


 防壁にぶつかって砕けた氷弾と、耐えかねて砕けた防壁と、その二つの間で甲高い悲鳴のような音が上がる。


「――――っ!」



 目を逸らすことも出来ず、アトルは、自分がサラリスの遺産で、殺すべきではない人を殺す瞬間を覚悟した。



 いや、覚悟しようとして、


(駄目だ――!)


 地面を蹴った(・・・・・・)



 襲い来る氷弾に、すかさず防壁でそれを防ごうとしたタイレス、彼の防壁の構築速度にも、その強度にも、何の問題もなかった。


 問題があったのは、氷弾の方であって。


 己の目の前に張った防壁が二秒と保たなかったことに、タイレスが驚愕の声を上げた。


 その声さえ打ち消して、消し飛んだ防壁の上を越えて、氷弾がタイレスに撃ち込まれようとする。


 タイレスの青緑の目に、迫り来る氷弾が大きく映った。




退()け、この――愚図がッ!」



 地面を蹴って肉薄したアトルが、体当たりでタイレスを突き飛ばした。



 予期しない衝撃にタイレスが倒れ込み、必定、事無きを得る。

 しかし、タイレスを突き飛ばしたアトルはそうはいかない。


 ぐぁ、と、アトルの喉の奥から呻き声が上がった。


 氷弾は、それを撃ったアトルを容赦なく打ち据えたのだ。

 打ち据えられ、貫かれ、横様よこざまに倒れるアトルが一瞬で血塗れになる。


 意識的に左脇腹を向けるようにしたためか、氷弾の幾つかは結晶化した部分に当たり、硬質な音と共に弾かれた。

 だが少なくとも数弾は背中に喰らった。


 うつ伏せに倒れ伏したアトルの身体の下に、たちまち血溜まりが広がっていく。


「何の……つもりで……」


 立ち上がったタイレスが呆然と声を出す。



 さすが、サラリスの魔力で練成した氷弾。威力が今まで受けた攻撃の中でも上位に入る。

 自分自身が撃った攻撃に当たりに行き、しかも傷を負うという間抜けな事態に、アトルは内心で自棄気味の賛辞を送った。


(さすがだよ、マジで。俺がこんなに馬鹿だったとはな! 感心だまったく!)


 魔力の制御が出来ていないことが、ここまで足を引っ張るとは、ほとほと嫌になる。

 自分自身の魔力を使って撃っていたならば、相当な怒りに晒されようとも加減を誤りはしないものを。


 だが、無言で耐えられるものでもなかった。

 アトルが痛みに絶叫し、拳で地面を殴る。小石が拳に痛みをもたらしたが、現在進行形で背中を灼く痛みに比べれば物の数にも入らなかった。


 そうしてなんとか腕の力で身を起こすと、アトルはタイレスを睨め付けて吐き捨てた。


「てめぇが――俺が思ったよりも愚図だったんだよ!

 さすがに今ので死なれたら寝覚めが悪いからな!」


 悪態に腹を立てることも忘れ果て、タイレスが茫然と言葉を綴った。


「どういう――貴様、今のは――いや先程から、貴様の魔力は――」


 タイレスがアトルの傍に膝を突き、応急処置の念動魔術を起動する。

 出血多量でアトルが死ぬことを危惧したためだ。


 彼の頭にも、決闘の相手が命を落とした場合――ルーヴェルドの庇護があるとはいえ――、自分自身が無事では済まないだろうという確信があったのだ。


 徐々に出血が収まることを感じながら、アトルは痛みに震える声を押し出した。


「うるせぇ……さっきのは、なしだ……」


「そうは出来るか!」


 止血だけして治癒を差し止め、タイレスはアトルを睨み据えた。


「貴様、閣下に申し上げていないことがあるだろう! あの魔力は尋常ではなかった!」


「うるせぇ! 気のせいだ!」


 アトルは叫び、早速タイレスを助けたことを後悔し始めた。


(要らねぇ詮索招いちまった! くそっ!)


「気のせい!?」


 タイレスの中にアトルに対する感謝があったにせよ、アトルのこの言い分でそれも消し飛んだ様子である。


「ふざけるな、貴様――魔力の質は魔術の才能だぞ!? なぜそれを閣下に申し上げない! 指定魔術師の魔力は協会の財産だろうが!」


(まずい)


 アトルは唇を噛んだ。


(まずい、まずい、まずい!)


 詮索を招いてしまったどころか、このままではアトルがサラリスの魔力を受け継いだことがルーヴェルドに知られる。


 それは避けなければならない。


 そう思うのに、痛みと出血のせいで頭が回らない。

 口走ったのは何の言い分でも説得でもなかった。



「ふざけんな……あのひとが俺に譲ってくれた……その気持ちがてめぇに分かんのか……」



 タイレスの目が、怪訝そうに細められた。


「何の話を……している……?」




 そのときアトルははっきりと、「ああ、これはまずい」と思った。


 そして、この事態を綺麗に抹消する方法が、タイレスを殺害することであるということを認識した。


 出血と痛みが、アトルを通してその魔力に、アトルが危機的な状況にあることを教えた。




(――……だったら(・・・・)、)




 覚えのある白い靄が、視界を下から覆い隠していく。


 瞬きをしてそれを追い払おうとするも、まるで効果はなく、アトルに出来たのは微かに俯くことだけだった。



 アトルの周囲で、散らばった氷弾が軋むような音と共に消し飛び、魔力に還元されて微かに景色を歪めて漂う。



 絶対に離してはいけなかったものが、意識の中から零れ落ちる感覚――。

 アトルではない何かの意志が、凄まじい速度でアトルの頭の中を支配する――。



 ばきん、と、何か硬い物が割れるような音がした。


 ばきん、ばきん、ばきん。


 立て続けに響くその音は、間違いなくアトルの傷口――今、新たに負ったその傷口から発せられていた。


 ばきんッ(・・・・)


 傷口から、あえかに魔力が漏れ出している。




「……どう……した……?」


 さすがに異様なものを感じたか、タイレスがアトルの顔を覗き込もうとする。


 その瞬間、アトルが滑らかな動きで顔を上げた。



 タイレスが咄嗟にその場から飛び退る。

 その表情に、これまでの比でない驚愕と怪訝、そして畏怖が、穿たれたように強く漂っていた。


「アトル特等……指定……?」



 囁くように呼ぶ彼の視線の先では、翠玉の色に変じた瞳で、アトルがじっとタイレスを見詰めていた。










 タイレスが一生涯知ることのない事実だが、彼の命を救った要因がある。

 それは、レーシアがこの場にいなかったことだ。


 サラリスとアトルの、共通の庇護の対象たるレーシアがこの場にいなかったことで、アトルが即時抹消すべき対象を見付けることにならなかったのである。



 だが、アトルの意識があるうちに、彼が最後に意識したのは、タイレスを殺害することの利点だった。


 ゆえに、ケルティで同じ状態に陥ったときに比べれば、甚だ精彩を欠いた動きではあったものの、アトルは緩慢な仕草でタイレスに向かって腕を持ち上げた。


「アトル特等指定……?」


 タイレスがもう一度、確かめるようにその名を呼んだ。


 その瞬間、アトルの指先から光弾が飛んだ。


 これをタイレスが躱し切れたのは偶然という他ない。

 タイレスが躱したその光弾が、背後の木々に命中し、その幹を中央から爆ぜさせた。


 振り返る余裕もなかったが、爆裂音からそれを察したタイレスが、さすがに悲鳴じみた声を上げる。


「ア――アトル特等指定! これは決闘だぞ!? 殺し合いではない!」


 アトルは答えない。

 答えるべき理性が、今の彼の中にはない。


 その指先から、花が綻ぶような動きで、白、赤、紫の魔法陣が複数ずつ、軽やかに閃き出でた。




 ――凄まじい威力の攻撃が、辺り一帯にばら撒かれ始めた。


 その攻撃には一切の手加減がなかったが、同時に――タイレスにとっては生死を分けた僥倖だったが――、レーシアがいない今、アトルが攻撃の照準を、正確に定めることもなかった。


 雨霰と降り注ぐ魔術が、周囲の森を穿っていく。

 木々を圧し折り、粉々に砕き、あるいは真っ二つに切り裂き、根を地面から引きずり出して無残に倒す。



 色とりどりの魔法陣が、目まぐるしく展開された。


 アトルは全くの無表情で、周囲を見渡しながら指をぽん、ぽん、と軽く振ってそれらを展開させている。


 対してタイレスからすれば、人生最大の危機もいいところだった。

 降り注ぐ魔術に対して防壁を形成することは無駄であり、ゆえにタイレスは回避に全神経を傾けていた。

 回避しながら、倒れてくる木や間近で爆散した木切れなどを、魔術で以て弾き返す。

 それら全てが間に合っていることが、もはや奇跡ですらあった。


 魔術で競り合うことをしていないため、魔力の磨耗は大したことがない。

 だが精神力が、緊張と危機感でごっそりと削られていく。


「アトル特等指定! ふざけるな! これは――これはどういう――!」


 周囲の森に、円形の穴が開いている。

 ぽっかりと開いた頭上から曇天が見える。

 しかしその曇天も、立て続けに穿たれる地面から巻き起こる粉塵で、すっかり煙って見えている。


 その空に向かって魔術の光が幾筋も突き立ち、タイレスは知らないことだったが、それは本部からもはっきりと見えていた。



 この戦闘の轟音と光は、本部にしっかりと届いてしまっていたのである。



 爆音と共に地面が抉れる。いっそうの砂塵が巻き上がる。

 爆裂音と共に倒れていた木が引き裂かれる。木片が噴水のように四散する。


「アトル特等指定!」


 掠れた絶叫で名を呼んだそのとき、介添人たるエミリアとリカルドが、森に穿たれた円形の穴の縁に現われた。


 どちらも魔術を使って移動して来たのだろう、足下に燐光を伴っている。

 エミリアが何かを叫んだが、タイレスの脳はその内容を理解する余裕を失っていた。



 だがその声に反応して、アトルがそちらを、滲むように輝く翠玉の瞳で見た。



「――――!」


 タイレスが息を呑む。

 今のアトルが正気のようにはとても見えず、ゆえに介添人に対して、彼がどのような行動を取るか計りかねてのことだった。



 警告を発さなければならないと、タイレスの理性が判断した。

 余計な行動を起こしてアトルの気を引くべきではないと、タイレスの本能が判断した。



 アトルに見据えられたエミリアが、一切の動きを止めて目を見開く。

 リカルドすら、笑みを消して身構えた。



 タイレスの背筋を、絶対零度の戦慄が駆け抜ける数瞬がゆっくりと流れ――。


 そして、タイレスの予想を裏切るような結果が訪れた。



 エミリアを見たアトルが動きを止め――彼がばら撒いていた魔術の一切が、音も無く消え失せたのだ。



「……は……?」



 唐突に訪れた静寂の中で、アトルが身震いし、大きく息を吸った。


 その瞳の色が瞬く。



 琥珀色。翠玉色。琥珀色。また翠玉色。

 目まぐるしく変わるその色が、競り合い、混ざり合い、虹彩の中で(せめ)ぎ合う――。





************





 エミリアの顔を――彼女だと認識した訳ではなかったが――見た瞬間、アトルの中で僅かに残っていた正気が騒いだ。


 全身を魔力に明け渡していた無我の状態から、僅かに戻って来たような。


 だがそれでも、分厚い膜を間に挟んだようにしか、現状を認識できない。

 アトルとアトルの身体の間に割り込む、重く冷たい、分厚い膜。


 その膜のせいで、妙に考えが重く、纏まらない。



 この顔を見て何を感じ、なぜ動きを止めたのかすら、分からない――。



(見覚えがある――)


 アトルは、少なくともアトルであるべき思考は、そのように述懐した。

 声もない述懐は、実際には非常に重く、粘つくような倦怠感の中にあったので、「み、おぼ、え、が、ある――」と、途切れ途切れに形作られたものだった。


 続いてアトルは、どこでその顔を見たのかを考えた。


(世話になった気がする――)


 やはり重く、途切れ途切れに、アトルはそのように考えた。



 ――世話になった、恩義を受けた――。



 考えがそこに至って、この状態にあってなお鮮やかに、レーシアの顔が脳裏に浮かんだ。


 アトルの中には思い浮かぶべきレーシアの顔が複数あって、たとえば彼女は喜怒哀楽、それぞれの感情によって全く違う表情を見せる。

 そのそれぞれの顔が、いちどきに脳裏を染め上げたのだった。



 世話になったと感じるならば、彼女が絡んだこと以外にあるだろうか?



 だがレーシアの顔が浮かんだことで、思考は別の方向へずれた。


 視界にある顔は、単にレーシアを思い出すきっかけに過ぎず、そうそう思考を留めておけるだけの誘引力があるものではなかったのだ。


(しばらく会ってないような……)




 なぜだ?


 会わなければ。

 そうしなければレーシアが。


 きっと不安がって。


 レーシア――?




 思考が怒涛の勢いで回転し始めた。

 ちか、ちかちかッ、と、視界に光が瞬く。




 なぜ会っていない?


 会うために何かしなければならないことが。

 確かそれは――





 ――身震いし、アトルは大きく息を吸い込んだ。


(そうだ、会わないと)


 分厚い膜を、絡み付いてくるその膜を、振り払おうとする。

 その意識の動きさえ緩慢で。


(確か会うために世話になった人で)


 思考が遅い。遅々として進まず、鈍く濁って働かない。

 それでも。


(今ここで誰かを殺したら、会えなくなる――)


 なぜなら、確か、そう――


(この人に間に割り込まれたら、駄目になる)


 その警鐘だった。



 レーシアに会うために、決して間に割り込ませてはならない存在として、この状態であってなお、アトルはエミリアをそう判断した。



(会わないと、)


 呼吸を意識する。

 まだ意識に張り付く分厚い膜を、どうにかして振り払うために。


(守らないと、)


 目に映る景色に、一向に現実味が湧かない。

 そのことに焦る気持ちすら薄いものだったが、それでも。


(だってそれは、)






 ――レーシアをお願いできますか?






 脳裏に閃く、青白い光に包まれた綺麗なあのひと。

 その翠玉の瞳。


 凛と穏やかに、信頼と懇願を宿して、迷いもなくアトルを見詰めている。



「――――あ、」


 声が、最初の一声が、ようやっと喉を破って飛び出した。



(それは、あのひとの頼みで(・・・・・・・・)



 絡み付く分厚い膜のせいで、現実感こそないものの、それでもアトルはアトルとして、彼の身体を動かそうとしていた。


「おお、お――」




 こうして意識と身体が分断され、正気すら失ってしまったのは、間違いなく譲られた魔力を、アトルが使いこなせていないがゆえ。


 膨大な魔力を、甚大な魔力を、強靭な魔力を、アトルがあのひとの期待に副うことも出来ず、ただただ持て余していたがゆえ。


 だが、もう、甘えた言い訳は許されない。猶予はない。今だ。

 今、ここで、魔力を(くだ)して正気に戻らなければ、もう絶対にレーシアの傍には近付けなくなる。



 ――サラリスの遺産が、たとえこの身に過ぎた魔力なのだとしても、この魔力を扱うに足る器を、アトルが備えていなかったのだとしても。


 この魔力がアトルの傷や命の危機や、殺意に反応してしまっていることが、(ひとえ)にアトルの度量不足なのだとしても。



 それでもアトルがこの魔力を受け継いだのは、レーシアを守ろうとする意思が、サラリスに認められたからである。


 あの勇敢な女性の遺志に従うだけの度量を、アトルは示すべきである。



 今、この魔力がサラリスの遺志、その最後の命令に服しているのだとしても。



(戻れ、戻れ、戻れ、戻れ戻れ戻れ、戻れ!)



 狂ったような叫びを、正気に戻るために繰り返す。


 今ここで、正気に戻る。

 魔力に己を喰わせてはおけない。

 なぜならばそれは、あのひとの信頼を踏み躙ることだから。



 あのひとがアトルに魔力を譲ったのは、こんなことのためではない。




(……俺が魔力を継いだのが、サラリスさんの遺志だっていうなら――!)




 瞳の色が変わる。

 琥珀に、翠玉に、そしてまた琥珀に。




(なら俺が、俺のこの意思が、サラリスさんの遺志そのものだろうが――!)




 甚大な魔力は、甚大であるがゆえ、その本来の主の命令に、未だに従い続けている。


 甚大な魔力は、甚大であるがゆえ、その遣い手の意思に過剰に反応し、その身を乗っ取ることすらする。



 その魔力に、アトルは、新たな主として意志を示さねばならない。

 サラリスの遺志に縋るのではなく、アトル自身が主として、この魔力を使いこなさねばならない。



 精神が、魂が、意識が、アトルがアトルとして存在する、目には見えないその全てが、遺志を示すために吼える。




(だったら、俺の、――!)




 意志を示すのは、もはや声にならない咆哮。




(――俺の言うことくらい、きっちり聞きやがれ!)






 ――はい、絶対に!






 アトルはサラリスに、そう応えたのだ。



 過ぎた魔力であったとしても、数百人分の魔力であったとしても、化け物と呼ばれるだけの魔力であったとしても。



 サラリスに託された、レーシアを守るためのものならば。



 レーシアの傍にいるために、今ここで使いこなせずして――



(なにが男だ!)








 分厚い膜が弾け飛んだ。



 目に見える彩りが元の精彩を取り戻し、頬を撫でる風の感触を、生まれて初めて感じるものであるかのように新鮮に覚える。

 吸い込む空気の森の匂いを、信じられないほど芳しいと思いながら吸い込んだ。

 手足の重みと心臓の鼓動を、過去最高に意識する一瞬。



 息を乱し、目を怒らせ、琥珀(・・)の目のアトルがたたらを踏んで、倒れそうになる足元を固め直した。



「――戻った……!」


 確かめるように呟く、その小さな声が確かに唇から出て耳朶に触れる。



 今度こそ自力で、宝具の力を借りることなく、アトルは自分自身に戻ってきたのだ。



 視線を滑らせ、エミリアとリカルドを確認する。

 二人の表情には驚愕と怪訝が強く浮かんでいたものの、決定的な場面を見られたということはなさそうだ。

 まだ誤魔化しが効く。


 そうであれば。


 アトルはタイレスに視線を向け、自嘲の溜息と共に髪を掻き上げた。


「あー、なんだ、悪いな色々と」


「は……?」


 タイレスが唖然と声を零す。

 唐突に理性が戻ったアトルの変化に、瞬きも忘れて呆気に取られている。


 幸いにも重傷を負った様子はない。

 あの魔術の嵐の中を軽傷で切り抜けたタイレスは、確かに魔術師としては一流なのだろう。



 そんな彼に向かって、アトルは吹っ切れた笑みを浮かべて見せた。


「失礼な態度は後で重々詫びを入れるよ。

 さっきまでの、……なんだあれ、なんつーかまぁ、あれについても、取り敢えず説明する」


 嘘と誤魔化しが十割を占めるだろうが。

 ――そう思いつつ、アトルはいっそうの笑みを浮かべてタイレスを見た。



「たった今、きっちり決闘が出来るようになったからさ――、負けてあいつらに手を突いて謝れ。

 タイレス高等指定、本番といこうぜ!」












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