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06 かつて連中がしたように

「おじいちゃん大丈夫かなあ」


 レーシアが城壁に寄り掛かりながら呟いた。

 傍に立つアトルは顔を顰める。


「大丈夫じゃなかったら色々とやばいだろ……」


 六頭の馬を引き連れて、彼らは城壁の傍に佇んでいる。

 シャッハレイの中ではなく、そこは既に準シャッハレイ――シャッハレイの外である。


 目の前の通りに人影はない。

 準シャッハレイはシャッハレイとは違い、雑然とした並びの通りが多く、深夜でも人通りの絶えない区画はある。

 だが、ちょうどこの辺りはその区画から外れているようだった。


 ヴァルザスが成功しようがしまいが――成功することをアトルは固く信じていたが――、本部に潜り込んだ後、のんびりとシャッハレイに居座ることなど有り得ない。

 それゆえ、馬を引き連れて最初からシャッハレイの外で待機しておくことを、彼と打ち合わせたのである。


「そうなんだけど」


 レーシアはアトルに答えて俯く。


 時刻は既に夜半を回っている。

 白昼から本部に乗り込む愚を、誰一人として犯したがらなかったがゆえだった。


 頭上には下弦の月が掛かり、シャッハレイと準シャッハレイに灯されている明かりが、星明りを打ち消してしまってその月は随分と寂しそうだった。


 アトルは髪を掻き上げた。

 その右耳で、琥珀の耳飾りが揺れて光を弾く。


「おまえが心配してもどうにもならねぇから、気楽にしてろよ」


 そう言われて、レーシアは肩を落とした。


「なんか……ほんとに迷惑しか掛けてない……」


「何を今更」


 アトルは思わず言ったが、レーシアはうじうじと続けた。


「私さえいなかったら、なんかこう、丸く収まってたことがいっぱいある気がするのよね……」


「なあ、レーシア」


 アトルはそう呼び掛けて、レーシアの頭に手を置いた。


「別に丸く収まってなくても、俺はおまえがいてくれて良かったと思ってる」


 てっきり赤くなるかと思いきや、レーシアは難しい顔だった。


「だけど、最初から私がいなかったら――」


「それを考え出すとキリがねえだろ」


 アトルは溜息混じりにそう言って、表情を改めると真顔で言った。


「サラリスさんはおまえが大好きなわけだろ? 俺もそうだよ。多分、おまえが相手じゃなかったら、俺はこんなに好きになったりしなかった。サラリスさんも多分そうだ」


 レーシアは俯いた。照れたのではなく、打ちひしがれたような俯き方だった。

 そのことに少しばかりの焦りを感じつつも、アトルは言葉を続ける。


「サラリスさんもそうだったって分かる。俺もそうだ。

 俺は、おまえがいると幸せだ。だから、おまえがいてくれて良かったと思う。

 おまえがいなかったら、俺のその分の幸せはなかったんだから」


 言った一瞬後には赤面するようなその言葉に――実際、アトルは静かに片手で顔を覆ったが――、しかし、レーシアは動じなかった。


「――足りないよ」


 照れもせずに彼女が呟いたその一言に、顔を埋めた掌から上げて、アトルは訝しげに眉を寄せる。


「なんだ?」


 アトルを見上げて、レーシアはお道化た顔をする。

 だがその薄青い目に、確かな苦痛が宿っていた。


「足りないの。ぜーんぜん足りない。あなたが私にしてくれたことも、してくれてることも、そんなちょっとの幸せじゃ返し切れないくらいのものなの。――それに、」


 呟いた先の言葉を呑み込んで、レーシアは力なく手を伸ばしてアトルの袖を掴み、俯いた。



「私が何をしたことがあるのか、知ったらさすがにアトルも私を嫌いになる」



 小さな声で囁かれたその言葉には、いっそ空しいほどに確信が籠められていた。


「別に、それはねぇと思うけど」


 即座にアトルはそう答えて、レーシアに掴まえられていない方の手で彼女の頭を撫でる。


「それにおまえ、自分が何したか、俺に言いたくないんだろ? ならいいじゃねえか。俺はおまえが好きだよ」


 一切の躊躇いを含まないその声に、俯いたままのレーシアは一瞬その身体を強張らせ、


「……んん――っ!」


 声にならない叫びを上げて、アトルから飛び離れるようにして距離を置いた。


「だ、駄目、やっぱり駄目! ちょっと真剣な話だから耐えようと思ってたけど! これは駄目!」


 真っ赤になった顔を手でぱたぱたと煽いで、レーシアはへらりと笑って見せた。

 そんなレーシアに苦笑して、アトルは手を伸ばして彼女の腕を掴み、自分の傍に引き戻す。


「はいはい、分かったから、あんまりふらふらするな」


 はい、と真面目くさって頷いたレーシアは、アトルから視線を逸らして上空を見上げる。そうして火照った頬を冷ましているようだった。

 レーシアが口を噤んだため、手持ち無沙汰になったアトルだったが、ふと不穏な音を耳にして眉を寄せた。


 琥珀の耳飾りが、ざりざりざりと、微かな雑音を運んで来ている。


「……ヴァルザスさん?」


 アトルは琥珀を爪で弾き、通信の魔術を起動しながら呼び掛けた。

 ――返事は無い。


 レーシアがアトルの様子に気付き、不安げに彼を見詰めた。


「ヴァルザスさん?」


 怪訝そうな彼の声に、レーシアの顔色がはっきりと変わった。


「どうしたの!?」


 アトルの表情もまた、極度に緊張した、深刻なものになっていた。


「――返事がない……っつうか、変な音が入ってる」





************





 軽々と塀を越え、扉を易々と開けて、ヴァルザスはジフィリーアにおける魔力法協会の中枢に侵入していた。


 一体どこに何があるのか、彼とて知っている訳ではない。


 一階を見れば、そこが仕事に使われている階層なのだと分かる。

 広がる受付と、魔力試金石が並んだ空間。更に、講習に使うのだろう部屋が数室。


 二階も恐らくは仕事で使われているのだろう。

 魔力の訓練に使われているらしき、殺風景な部屋が数室と、会計のための部屋がある。


 三階は資料室か。立派な書架が並んでいる。


 軽やかに階段を昇りながら、ヴァルザスは更に上へ向かう。

 この階段は建物の端に設けられており、踊場で向きを変えながら続いている。


 四階には、職員たちが寝起きする部屋があるようだった。

 この中にアジャットたちがいる可能性を、ヴァルザスは僅かの間に考慮する。


 出した答えは、限りなく否。

 ――だが、僅かなものであれ可能性があるならば、見ておかない訳にはいかないだろう。


(――が、後でいい)


 アトルたちの前では口に出さなかったものの――そして、アトルも同じ可能性を考慮しているだろうと確信してはいたが――、ヴァルザスは、アジャットたちがミラレークスで厚遇されているとは、欠片も思っていなかった。

 それどころか、恐らくは冷遇――あるいはその更に下をいく待遇を受けているはずだ。


 つまり、もしもこの階層にアジャットたちがいるならば、それはミラレークスが彼らを必要以上に冷遇してはいないということに他ならない。

 放置しようと、さして大事はない。



 ヴァルザスは顎に手を当てる。

 外部から見た限り、この建物には五階層目がある。だが、階段はここで終わっている。


 足音を殺して、しかし動作は軽々と、ヴァルザスは廊下を闊歩した。

 アトルやレーシアには散々心配されたが、それですら微笑ましい。

 かつてここよりも数段、警戒を要する場所に赴いたこともある。そのときと比べれば、今回のことは児戯にも等しかった。


 床は灰色の石造り、下手をすれば足音が響き渡りかねないが、ヴァルザスの長身は全く無音で廊下を進み、建物の中央部分に辿り着いた。


 そこから螺旋階段が上へと伸びている。


 ひとつ頷き、その階段に足を掛けた。ゆったりと一回転するその螺旋を辿りながら、ヴァルザスは苦笑を漏らした。


 本音を言えば彼は、琥珀の耳飾りに籠める魔力には相当の気を遣った。

 魔力法協会の本拠地ともなれば、相応の魔力防御を纏っていると考えたからだ。


 だが、その気配がまるでない。

 ヴァルザスからすれば、ここに佇む都市の中の要塞は、無防備極まりない砂上の楼閣だった。


 五階の床を踏み、ヴァルザスは扉の数を確認する。三枚。間隔が異様に広い。そして扉自体も、細工の施された立派なものだ。

 つまりここに置かれているのは、最上級の地位の者のための部屋。


(ここにはいない――だろうな)


 少なくとも組織に従順とはいえない行動を示した四人を、機密も多く扱われるだろう部屋の近くに置いておく利点がまるでない。


(あと見ていないのは、――地下はあるかな)


 踵を返したヴァルザスは、軽やかな足取りで階段を降り始めた。


 無音で、それこそ影のような動きで来た道を引き返し、一階にまで降りたヴァルザスは、緊張感の欠片もない動きで地下へ降りる昇降口を探し始める。

 一階を闊歩し、遠慮なく全ての部屋を覗く。昇降口らしきものがなかったため、ヴァルザスはもう一度外に出た。


 春の盛りとはいえ、まだ夜気は涼やかだ。

 その風に柔らかく撫でられながら、ヴァルザスは建物の周囲を一周するように歩き始めた。


 この建物は完全な四角柱の形をしている。

 所々には衛兵の如く佇んでいる姿が見られたが、軍人でもない人物の見張りなど、ヴァルザスにとっては見咎められる方が骨が折れるというものだった。


 散歩でもするかのような足取りで建物の周囲を半周したとき、ヴァルザスは目当てのものを見付けて微笑んだ。


 地下室の採光と換気のために造られた空堀が、そのまま地下室への入り口となっている。

 そこに降りるための数段の階段があり、空堀に雨水が侵入することを防ぐため、腰壁が設けられていた。


 さすがに無警戒に降りていくことはせず、ヴァルザスは腰壁に寄り掛かるようにしてその下を窺った。


 ちらり、と光が地下で瞬いて、そこに人がいることが察せられる。

 ヴァルザスは少しだけ顔を顰めた。誰もいない方が好都合であることに疑いはないのである。

 だが行かない訳にはいかないので、彼は慎重な足取りで腰壁を回り込み、階段を降り始めた。


(――おや?)


 違和感を覚え、ヴァルザスは最初の一歩で足を止めた。

 耳許で揺れる琥珀に指先を触れ、そこに仕込んだ魔力が異様な震え方をしていることを確かめる。


(魔力防御――か。ここにだけ?)


 地下室に踏み入ろうとした瞬間に魔力防御の中に入るとは面妖なことである。

 つまり、この本部は地下のみが魔力防御を纏っているのだ。


(別段、おかしなことでもないのか?)


 ヴァルザスは咄嗟の感想を振り払い、眉を寄せてそう考えた。


 魔力防御が消費する魔力量は半端なものではない。

 恐らくはアルナー水晶で維持しているものだろうが、その水晶にどれだけの魔力を注がなければならないのか、ヴァルザスでさえ計算には少しの時を要するのである。


 つまり、本部全体を覆う魔力防御を形成するよりも、本部の中核を覆う魔力防御を形成する方が、理に適っているといえば理に適っている。


(ということは、ここが中核)


 内心で呟き、ヴァルザスは歩みを再開した。

 耳飾りに付与した魔力には気を遣った。つまり、ヴァルザスが琥珀に付与した魔力は、この魔力防御の中であってなお、きちんとその効果を発するよう調整済みなのである。


 階段の最後の一段を残し、地下室を覗き込む。

 空堀と地下室とは、硝子を惜し気もなく使った大きな明り取りの付いている扉で隔てられており、その明り取りから、限られた範囲とはいえ中の様子が見て取れた。


 中は殺風景な部屋だった。

 天井から角灯が吊り下げられて闇を払っており、その明かりに、地下室を占領するような大きさの丸机が照らされている。丸机の縁には蔦模様の彫刻が施されており、値が張るものだろうと思われた。


 その丸机の向こう側に、人影が見えていた。

 丸机に置かれた何かを――ヴァルザスからはよく見えないが――、頻りに弄っている様子で俯いている。


(……なんだろう?)


 極めて呑気に、観客のような心持ちでヴァルザスはそれを見ていた。

 とはいえ油断なく気を張っており、周囲に感じる気配を探りながらのことである。


 これから何かが始まるのかと思いきや、間が悪かったようだ。

 中にいる人物が何をしていたのであれ、それは今し方終わったところらしかった。

 人影が顔を上げ、てきぱきとした動きで机の上の何かを、地下室の隅に運んで行く。ヴァルザスからは、それは箱のように見えた。


 地下室の隅ともなれば、それはヴァルザスからは見えない範囲だ。

 しばらくそこでじっとしていると、後片付けが完了したらしきその人物が、灯りを消した上できびきびとした足取りで外に出て来た。扉を施錠し、軽く呻き声を上げて肩や首を回している。


 普通ならば慌てふためくこの場面で、しかしヴァルザスは一切動じなかった。

 扉が開くと同時に相手に精神系の魔術を飛ばし、彼の認識からヴァルザスという一人の人間を抹消する。


 魔術の余波に気付いたのか、相手が怪訝そうにヴァルザスがいる方向をじっと見た。


 魔術が成功し、相手にヴァルザスの姿は認識できていない。

 だがそれでも、そのような視線を喰らうことが、ヴァルザスにとっては大きな驚きだった。


(――これは誰だろう)


 こちらも興味深げに相手を眺め、ヴァルザスは顎に指先を宛がった。


(階級――指定魔術師だろうね)


 この部屋で何が行われていたのか、ヴァルザスには分からない。

 だがこの人物が誰なのか、それによって向けるべき関心の度合いも変わってくるというものだろう。


 部屋から出て来たその人物は、濃灰色のローブを纏った初老の男性だった。

 彼はヴァルザスから視線を逸らし、何かの気のせいだったと結論したらしい。軽く眉間を揉むなど、疲れた様子を見せている。


 そちらに向かって、ヴァルザスは足を踏み出した。


 大きく二歩で彼に肉薄し、ぽん、とまるで労うように肩を叩く。

 その掌から淡く薄紫に輝く魔法陣が展開され、一秒後、男性の全ての動きが静止した。


 瞬きもしない。身動ぎもしない。

 念動系魔術と精神系魔術の合わせ技で、彼の体感時間を一時的に停止させたのである。



 ――ここにアトルなりアジャットなり、魔術について少しでも知っている誰かがいれば、その魔術の高度さに眩暈を起こしたはずである。



 尤も、ヴァルザスといえども、そう長くこの時間を保てる訳ではない。比較的落ち着いた状況だからこそ使えた術でもある。

 彼は素早く男性の懐を探り、その身分証を取り出した。


 月明かりに透かして、それを読む。

 ――イオデリック・バーニアン、階級は最高指定魔術師(・・・・・・・)


(最高指定魔術師?)


 ヴァルザスは――彼らしくもなく――身分証を見直した。

 その瞳が、紛うことなき驚きに見開かれている。


(最高指定魔術師!?)


 ミラレークスの階級における最上位、全てのミラレークス加盟国を合わせても、五人しかいない最高戦力にして最高権力者。


 ヴァルザスの驚きには、三つの理由がある。


 まず一つ目が、単純にここで最高指定魔術師を捕まえてしまったという事実に対する驚きだ。

 五人しかいない階級の人間の一人と鉢合わせするなど、そうあることではないだろう。


 そして二つ目が、この部屋で行われていたことは、最高指定魔術師自らが出て来る程に重要なことである、その事実の認識に対する驚愕。


 そして三つ目が――


(……ミラレークス、大丈夫だろうか)


 ぴくりとも動かない最高指定魔術師を一瞥し、ヴァルザスは首を振る。


(こんなことで不意を突かれるような人間を最高指定してしまって――)


 嘆かわしげな溜息を漏らしつつも、ヴァルザスは身分証を元あった場所に戻す。

 そしてバーニアン氏の背後に回ると、軽くその背中を指先で押した。


「――――」


 何事もなかったかのように、バーニアン最高指定魔術師は動き始めた。

 やはりヴァルザスには気付かず、きびきびとした動きで階段を昇り、姿を消す。


 それを見守ってから、ヴァルザスは扉の前に立った。

 ノブに触れ、僅かに眉を寄せる。


 ただ施錠されているだけではない。魔術によって鍵が掛けられている。

 ノブに埋め込まれた小さなアルナー水晶から展開される複雑な術式が、鎖の如くに扉を雁字搦めにしていた。


 物理的な鍵を一瞬で外すと、今度はゆっくりと慎重に、ヴァルザスはその術式の解除を始めた。

 本来、この部屋に立ち入る権利を持つ人物がなぞるであろう手順を、術式から緻密に予想し、金庫破りのような職人色まで感じさせる手際で、着実に開錠していく。


 開く、と半ば確信した瞬間だった。



『警告します』



 術式が発声した(・・・・・・・)



『規定の術者ではありません』


 さすがのヴァルザスも息を呑んだ。


 術式が発声するなど、聞いたこともない。

 男性とも女性ともつかない、落ち着いた声色で、術式が滔々と言葉を綴っている。


『警告します』


 アルナー水晶から、濃紫の魔法陣が小さく展開され始めた。

 幾つもの円形の魔法陣がその中心を共有しつつ、少しずつずれて、その円周で球を成すような形で。


『正当な入室希望者ではありません』


 魔法陣の中を、純白の光の粒が走り始めた。


『警告します』


 煌、と魔法陣が強く輝き始める。


『身分を証してください。術式(わたし)に従い攻撃が開始されます』


 硝子を割っていれば良かったと悔やむも遅い。

 ヴァルザスは考え得る限りの知識を、瞬時に捻り出さなくてはならなかった。

 だがそれでも、この術式がどのような組み立て方をされているのかは分からない。


 そのため彼は、アルナー水晶に仕込まれた術式の一時停止を考えた。

 間違いなくアルナー水晶を壊せば術式も破棄されるだろうが、これを砕いてしまう訳にはいかなかった。


 当然だ。侵入の証拠を明々白々と残してしまうことになる。


 ゆえにヴァルザスは、持てる知識と技能を振り絞って、アルナー水晶の術式に干渉し始めた。

 組成の分かっていない術式に干渉するなど、自殺行為の賭けもいいところだったが、四の五の言ってはいられないのである。


 算術でいうならばその作業は、数式の結果を零にするために、何か分かっていない数字に零を掛けることに似ている。

 尤も魔術では掛けるべき術式が明確でないため、その何倍もの機転を利かせなければならないが。


 殆ど年の功とも言うべき機転で以てその作業をやり遂げ、ヴァルザスは呟いた。


「――黙っていなさい」


 魔法陣が完全に沈黙し、濃紫の輝きを停止させる。


 それほど魔力の消費の激しいことではなかったが、不意打ちの驚きに、ヴァルザスは大きく息を吐いた。


 沈黙した術式を見下ろし、煌々と輝いたままでその動きを止めた濃紫の魔法陣を、怪訝そうに眺める。


(この術式を組み上げたのは、誰だ?)


 誰であれ、それは相当の知識を持つ人物だった。

 そのことを確信しつつ、ヴァルザスは空堀の外を振り仰いだ。


 夜半にこの輝きは目立つ。もしも誰かがここを覗き込むようなことがあれば、侵入が一瞬で露見することになる。

 ――そうなったところで切り抜ける自信は有り余る程にあったが、騒ぎは起こさないに越したことはない。


 人の気配はない。

 そのことに軽く頷いてから、ヴァルザスは魔法陣を無視してノブを捻り――扉を開けた。


 ざりざりざりざり。


 部屋に一歩足を踏み入れると同時に聞こえた耳障りな音に、ヴァルザスは思わず琥珀を押さえた。

 そこに付与した魔力も、ここに張られた魔力防御の前では歪み、捻れ、本来の機能を果たそうとしない。

 それゆえの、鼓膜を突き刺す雑音だった。


(地下室に入った途端にこれとは――露骨なことだ)


 目の前に淡く光る小さな光球を浮かべ、彼は地下室を見渡した。

 視線を動かせばそれだけで一望できる、決して大きくはない部屋だ。

 アジャットたちがいないことは確信できたが、ヴァルザスは敢えてその中に留まった。最高指定魔術師がここで何をしていたのか、興味を引かれたのである。

 知っていて損ということもないだろう。


(――まあ、まず間違いなくアジャットたちはシャッハレイにはいないようだし……。

 やはりアルテリアにいるのかな)


 明り取りから見えた通りの、大きな机が目の前にある。

 視線を横に滑らせると、壁際に棚が造り付けられているのが見えた。

 一見して机の上には何も置かれていない。ゆえにヴァルザスは滑るような動きで棚に歩み寄ると、そこに置かれた箱のようなものに、覚えず大きく頷いた。


(これだね、先程の最高指定魔術師が使っていたのは――)


 それは、一抱えほどもある大きさの、木で出来た箱だった。

 ヴァルザスが抱え上げてみると、それは意外にもずっしりと重い。


 机までそれを運び、ヴァルザスは箱を下ろした。

 しばしの逡巡の末に掛け金を外して箱を開くと、中には大きな――四角柱の形に整えられたアルナー水晶が鎮座していた。長方形の面を上に向け、箱の中いっぱいを占領して、中に敷かれた青い天鵞絨の上に横たわっている。


 まじまじとそれを観察し、ヴァルザスはアルナー水晶に仕込まれた術式が精神系――伝達のための術式であるということを察した。


(誰と?)


 特定されない誰かと話すためのものである――ということは、まず考えられない。

 最高指定魔術師の実力で、通信の魔術をアルナー水晶に頼っていたのがその証だ。


 この水晶は、誰か特定の――しかも、通常の通信の魔術が弾かれる程に魔力防御の行き届いた場所にいる人物と、間違いなく話し合うためのものだ。


 ヴァルザスは最初に、他国のミラレークス本部、あるいはジフィリーア王宮を想定した。それしか考えられなかったと言って良い。

 ミラレークスは、国と馴れ合うことはあっても他の組織とは馴れ合わない。


 軽く水晶を指先で弾き、ヴァルザスはそこに仕込まれた術式を起動した。

 上手くすればここからアジャットたちの居場所が探れると考えたのだ。

 最悪をいっても、彼の技量ならば、相手からの通信を一方的に断絶することも可能――。


『――やあ』


 耳に心地いい男性の声が、水晶の向こう側からそう言った。


『イオデリックとの話は先ほど終わったところだ。

 不法な侵入があった警告も届いている――察するにきみかな?

 ヴァルザス、と呼ばれていたっけ』


 ヴァルザスは息すら詰めて沈黙した。


 なぜ気付かなかったのか、と思う。

 ――気が遠くなるほど研鑽を積んだヴァルザスが、初見でその組み立て方の見当すら付けられない術式を組む人間。


 そんな者は一人しか心当たりがない。


「――貴様……」


 押し殺した囁きに、宝国国王ゼティスは軽やかに答えた。


『何か用かな? 悪いが今は時間も余りないのだけれども。夜も遅いしね』


「ミラレークスと、貴様は――」


 ヴァルザスの声を遮って、ゼティスは面倒そうに答えた。


『分かり切っている答えを求められるのは嫌いだよ』


 そう言って一拍置くと、何を思ったかゼティスは、やや冷たいその声を一転させて、いっそ温かみさえ感じられる声を出した。


『飛翔船のことなら怒っていないよ、安心しなさい。連絡もくれたことだし、何かお願いの一つでも聞いてあげたいところだけれども』


「――――」


 らしくもなく、ヴァルザスは絶句した。


 たった二箇月前に殺そうとした相手に向かって言うには、余りにも不似合いなその言葉に。

 嘘の欠片もない、その口調に。


 彼が絶句している間にも、ゼティスの声は続く。


『サラリスがいなくなって随分と寂しいからね。昔馴染みの声は誰のものであれ嬉しい』


 軽やかにそう続けたゼティスに、ヴァルザスは脳裏が真っ白になる程の怒りを感じた。


「貴様が――貴様が殺したんだろう――!」


『少し違う』


 悪びれなくゼティスは言った。


『会いに行ってはいけなかったのにレーシアが会いに行ったりするから。あれは私にとっても、とても残念なことだったよ』


「死ね」


 ヴァルザスは言葉を吐き出した。


「今すぐ死ね。

 ――レーシアが、会いに行ったから? 貴様はそれもレーシアの所為にして逃げるのか! あの子がサラリスさまに会いたいと望んで、一体なんの罪があったという!」


『おかしなことを言う』


 ゼティスの声は涼やかだった。


『私がいつ逃げた? それに……、あの子がサラリスと会いたがることに罪があるか?

 ――あるに決まっている』


 溜息の気配さえ漂う声音で、ゼティスは噛んで含めるように言った。



『言っただろう? レーシアは私の物だ。

 それが私の許可もなしに、一体なにを望むことが許されるという』



 怒りの余り言葉も出ず、ヴァルザスは息を吸い込んだ。ただ、軋むような声を上げた。


「――ミラレークスと何のために連絡を取っている」


『そうだね……』


 存外に真剣に考え込む様子の声を出して、ゼティスは唐突に絶対零度にまで冷えた声音で答えた。



『かつて連中がしたように、利用された挙句に滅びる痛苦を味わうがいい。

 ――そう思ってね』



 意味を掴めず――尤も、そう易々と真意を教えるような人間ではないと分かってはいたが――ヴァルザスが眉を寄せる。

 そんな彼の様子は見えていないはずだったが、まるで見えているかのように、ゼティスが上げた可笑しげな笑い声が伝わって来た。


 だがそれも僅かの間のことで、ふとゼティスは声を潜め、秘め事を明かすかのような口調で囁いた。


『そんなことより、ねえ、きみ。あの――アトルといったっけ、あの青年のことだけれども』


「…………」


 ヴァルザスの沈黙に何を聞き取ったのか、ゼティスは苦笑の気配を声に載せる。


『サラリスのおいた(・・・)について、彼を叱るつもりはないよ。あれはサラリスの意志だから。――けれども、ねえ』


 ヴァルザスの手の下で、握り締められた箱の縁が軋んだ。

 見えないはずだというのに、ヴァルザスはゼティスの微笑みを見た気がした。


『どう思う? 彼は〈器〉ではない。〈器〉の魔力は特異なものだ――きみが思っている以上にね。

 それに、魔力は意志の干渉を受けるというけれど、』


 続けられたゼティスの声はあくまでも淡々としており、悪意もなければ嘲りもなかった。



『逆はどうだろうね? 彼は〈器〉ではない。

 その彼が、本当にあの魔力に、真の意味で耐え切れると思うかい?』



 大きなアルナー水晶が、ヴァルザスの浮かべた光球の明かりを揺蕩わせて、きらりと光った。


 ゼティスの言葉も声も、その全てがヴァルザスの神経を逆撫でする。

 かつて忠誠を誓ったその男の声を、これほどに疎ましく憎く感じるとは、当時のヴァルザスには想像も出来なかったことだった。


 囁くように声にする。確信と赫怒と憎悪を。


「――貴様にサラリスさまのご意志が分かるものか……」


『あの子も私の物だというのに』


 気分を害した様子もなく苦笑混じりにそう言って、ゼティスは意味深に付け加えた。


『きみが思っている以上にね』



 歯を食いしばり、ヴァルザスがアルナー水晶を殴り付けた。

 ご、と鈍い音がして通信が途切れる。


「……黙れ」


 既に繋がりが切れた相手に向かって、ヴァルザスは怨嗟の呻きを漏らした。


「黙れ……」


 光の揺蕩うアルナー水晶が、静かにその声を吸い込んでいった。













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