02 その影響
耳が痛くなる程の沈黙が落ちた。
レーシアは動かない。
アトルに頭を押さえられたまま、許容範囲を大幅に超えた事態に固まっている。
対するアトルもまた何も言わず、仏頂面でレーシアを見据えていた。
窓の外は今や完全な闇、風が渡って窓枠を揺らす。
隙間風が蝋燭の灯を揺らし、それで壁に映る影が躍るように捩れて揺れた。
上階で誰かが何かを落とす音さえ聞こえ――
「はあああっ!?」
驚愕と否定と恐慌を一度に表す叫びを、レーシアが上げた。
後ろに下がろうとして何もない所に躓き、それを支えようとアトルが一歩近付くと、そのことで混乱に拍車が掛かり、更に下がろうとして今度は荷物に躓いた。
尻餅をついたレーシアだったが、幸いにも荷物の上だったので、それほど痛い目は見ずに済んだ様子である。
「おい、レーシア」
「待って! 待って!」
近付こうとしたアトルの方へ必死に手を突き出し、レーシアは尻餅をついたまま、じりじりと後退ろうとした。
「違う、なんか違う、アトル、勘違いしてる!」
「おまえな」
半眼になったアトルに、レーシアは恐れ慄く眼差しを向けた。
「ほんとに、違う! 私が何をしたか――」
「何したわけ?」
否定の言葉に続けた一言に、アトルが眉を顰めて問い返す。
それに対してレーシアは言葉に詰まった。
自分が何人殺したのか――いや、何人を殺したのかすら知らないということを告白すれば、きっとアトルは自分を嫌いになる。
本来ならば歓迎するべきはずのその状況を、レーシアは心から避けたいと思ってしまう。
口を閉ざして目を逸らしたレーシアに溜息を零し、アトルは腕を組む。
「まあ、どうでもいいけど。
おまえが何をしたんであろうと、俺はおまえが好きだ」
眩暈すら感じながら、頬が熱くなるのをレーシアは自覚した。
嬉しいのか嬉しくないのか、どう反応するべきなのかすら分からず、うわ言のように口走る。
「……だって、私は化け物で――」
「あのな、」
アトルはその場でしゃがみ込み、膝に頬杖を突いた。
「おまえが化け物だって言うんなら、俺もだから」
「…………!」
レーシアが〈器〉の魔力量を指して化け物と称するのであれば、確かにそうである。
それに初めて気付いたらしく、雷に打たれたような顔をしたレーシアが、いやいやいやと首を振る。
「だってほら、〈糸〉が――」
「あーもう、うるせぇな。だからなんだよ。
惚れちまったもんは仕方ねえだろ」
レーシアが、言葉もない様子で口を開閉した。
それを見ながら、アトルは更に言葉を重ねる。
「だからな、俺にとってはサラリスさんの魔力も有り難いものなんだよ。
おまえを守れるし、なんか認めてもらえた感じがして嬉しい」
相手の正気を疑うような眼差しを、レーシアはアトルに注いだ。
「――命を狙われることになってるんだけど……?」
「別にいい」
あっさりと言ったアトルに、レーシアは顔を引き攣らせた。
自分の許容量を凌駕するこの事態に対処するに当たって、まずは話が思わぬ方向に転がったという事実のみに焦点を当てようと思い付いたのか、しどろもどろに会話を最初に戻そうとする。
「え……っと、私は、これ以上アトルに迷惑を掛けないために、ここでお別れしようって言いに来たんだけど……」
「却下だ」
断言して、アトルは不機嫌な、燃えるような琥珀の目でレーシアを睨んだ。
「俺は、おまえに惚れてるから離れたくないって言った。
――二度とそんな提案はするな」
アトルの科白の前半を、扱い切れぬとして見事になかったことにしたレーシアは、アトルの虫の居所が良くないことを察して逃げを打った。
「じゃ、じゃあ取り敢えず明日に持ち越し――」
「明日も明後日も、おまえは俺と離れる話はしない」
アトルが断言し、ふっと笑った。
お世辞にも人の好さそうとは言い難い、柄の悪い笑みである。
「それから、この腕輪」
アトルが左腕を揺らすと、腕輪がしゃらんと揺れて蝋燭の光を弾いた。
「ヴァルザスさんと合流したら譲るつもりでいたけど、それもなしだ」
どうしたらいいのか分からなくなった様子で、あたふたとレーシアが立ち上がった。
それに合わせてアトルも立ち上がると、彼女はなぜかアトルに背中を見せないように、じりじりと扉を目指して部屋を回り込む。
「と、取り敢えずもう寝る! お、おやすみなさい!」
「おう、おやすみ」
応えながら、アトルは予想以上に平常心を失ったレーシアを見て、思わず続けて声を掛けていた。
「しっかり寝ろよ?」
何度も頷いてそれに応じ、逃げるように部屋を移ったレーシアだったが、翌日の朝にはその目の下に、薄らと隈が浮いていた。
恐らく、今まで一度も遭遇したことのない事態に動揺する余り、眠れなかったのだろう。
しかも、部屋から出てアトルと顔を合わせた直後から、アトルの視線を避け続ける。目を合わせようとしない。いつも通りの会話にさえ吃る。
極め付けに、屋内だというのにしっかりと上着を着て、フードを被り込んでいた。
ここの宿には食堂が付属していないため、外で何か食べようかと歩き出すと、その様子はますますおかしかった。
朝日の差す通りを下りながら、アトルは呻くように名前を呼ぶ。
「レーシア」
「なに?」
アトルの呼び掛けに、声音はいつも通りに答えたレーシアが、しっかりと被ったフードの下からアトルを見上げる。
しかし、アトルは思わず眉間を押さえて指摘していた。
「右手と右足が同時に出てるけど、わざとか?」
はっとして己の歩き方を見下ろしたレーシアが、何とか正常な歩き方に戻そうとして少しの間まごついた。
その様子に、アトルは思わず息を吐く。
「昨日は色々言ったけどさ」
その「色々」を思い出したのか、レーシアがまた何もない所で躓いた。
何とか体勢を立て直したレーシアに、アトルは噛んで含めるように告げる。
「あれはちょっと忘れてくれ。俺を好きになれって件。
――無理に俺を好きになる必要はないし、意識する必要もない。そんなことされても、俺は全く嬉しくない。おまえが、こう――俺に掛けた負担とか、そういうものに報いようとしてるなら、なおのことそうだ」
レーシアが困惑気味の瞳でアトルを見上げてくる。アトルは肩を竦めた。
「俺がおまえの傍にいたい理由だけ分かってくれればいい」
「――――っ!」
物の見事にレーシアが赤くなった。
想いを寄せられていることは理解しているようだが、それに対してどう報いればいいのか分からないらしい。
だがそれでも、口籠もりながらも懸命に言った。
「けど、お礼をしない訳には――」
「そういうのやめろって。礼は要らない。何回も言ってるだろ?」
アトルは言って、いつもならレーシアの頭を撫でているところを自粛した。
「今すぐどうこうなろうなんて、思ってないから安心しろよ。
誓って言う。手を出したり襲ったりしない。
だからおまえは、これまで通り気楽にしててくれればいい」
レーシアが不安げにアトルを見上げる。
それでいいの? と言わんばかりに首を傾げるレーシアに、アトルは頷き掛けた。
「おまえが自由でいてくれることが、俺にとっては最高に幸せなことだし、おまえが俺に報いる最良の手段だってこと、覚えててくれればそれでいいんだよ」
レーシアは自分の意見と、自分の心臓の平安を秤に掛けた。
――この方面に関する経験値のなさが、嵐の如くレーシアを襲っていた。
つまり、アトルが告白めいたことを言う度に、眩暈がするほどどきどきするのだ。――今もまさに。
人はそれを「ときめく」という。
だが、生憎とレーシアは「ときめく」という言葉と現在の自分の状態を比較できる精神状態ではなく、ただただ臆病になっていたのである。
そこでレーシアは、ひとつ頷くとこのように述べた。
「――納得は出来ないけど、分かったって言っとくわ」
半ば予想したことではあったが、それからもレーシアの挙動不審振りは留まるところを知らなかった。
その様は微笑ましいというのを通り越して、もはや閉口ものである。
注目を集めるにも程があるため、アトルは数回、真面目に彼女を注意した。
「目立ってどうすんだよ? まともに歩けよ」
レーシアは半ば涙目になっている。
「しょうがないじゃない! なんでアトルは落ち着いてるの!?」
これは重症だ、とアトルはこっそり考える。
挙句の果てに、到着した大衆食堂では、緊張のためか食事が喉を通らないという始末。
「――あのな」
アトルは、一向に減らない食事と睨み合うレーシアの向かい側で頬杖を突き、とっくに食べ終えた自分の食器を横手に押し遣った。
「並んで歩くだけで頻繁に躓くとか、俺がちょっと触っただけで跳び上がるとか、そういうことはこの際いい。けどな、メシは食え」
周囲は、アトルたちと同じように朝食を摂る人々でそれなりに混み合っている。
長い間席を独占するのは褒められた行為ではないし、何よりも空腹で倒れられては困る。
「は――はい」
頷いたレーシアだが、顔を上げない。
アトルは溜息を零し、店内の空席がまだ残されていることを確認した。
そこでアトルはゆっくりと待つ態勢に入り、小動物のような仕草で口に料理を詰め込むレーシアを眺めていた。
やっとのことでレーシアが食事を押し込み終えると、二人は昨日に引き続いてヴァルザスを捜し始める。
だがその間も、もはやアトルは驚嘆する勢いでレーシアを観賞していた。
歩いているだけで躓き、アトルに話し掛けられて言葉に詰まり、言い間違え、軽く触れるだけで跳び上がる。
「おまえ、疲れないか?」
しみじみとそう尋ねると、レーシアは顔を赤くして力説した。
「リンフィーとジョーゼフの舞台は好きだったけど、あれは観客の立場だったからなの!」
つまり、自分が当事者になるとは一度たりとも思っていなかったらしい。
「しかも、なんなの!? なんであの話の流れでああいう話になったの!?」
ここぞとばかりに、昨夜は言えなかったらしい不満をぶつけてくるレーシアに、しかしアトルはあっさりと答える。
「おまえが馬鹿なこと言い出すからだろ」
レーシアはフードの下で不機嫌な表情を作った。
あの提案は、レーシアとしても苦渋の決断であって、涙を呑んだ結果だったのだ。
「人が悩んで決めたことを、馬鹿なことって……」
「もっとマシなことで悩め」
にべもなく言い放ったアトルをちらりと見上げて、レーシアはぼそりと呟いた。
「だって一緒にいても、アトルが得することが一つもないって気付いたんだもの……」
アトルは手を振ってそれをあしらった。
「ふうん。俺がおまえと一緒にいたいと思ってて良かったじゃねえか」
それはそうなんだけど、とさらりと本音を零してアトルをどきりとさせてから、レーシアは素朴な口調で言った。
「アトル、趣味悪い……」
「レーシア、鏡を見ろ」
アトルは断言した。
「俺は顔で惚れた訳じゃないから割とどうでもいいが、自分がどういう顔してるのかは弁えとけ」
唇を尖らせてレーシアは申告した。
「知ってるわよ。サラリスに散々言われてきたもの」
足下を見て、レーシアは溜息混じりに呟く。
「それでも中身がこれだもの」
前に垂れてきた濃紺の髪の一房を押し遣り、フードをアジャットのような仕草で被り直す。
アトルはレーシアに反駁しようとして、思い留まった。往来で話し込む話題ではないからだ。
だがその代わり、ふとした悪戯心を発揮する。
「俺のことを趣味悪いって言うんなら、」
アトルはレーシアを覗き込み、にっと笑った。
「こんな趣味悪い奴は二度といないかも知れねぇぞ? どうだ、俺で手を打つっていうのは?」
アトルの悪戯心の代償は、レーシアの瞬間冷却だった。
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これ以上レーシアを連れ歩けば、要らぬ注目を集め続けることになると判断し、アトルは午後には宿に戻った。
無論、レーシアを一人で宿に残しておく訳にもいかないので、二人揃って宿で待機するということになる。
だが、それが時間の浪費であるという感覚は少なかった。
ヴァルザスがシャッハレイに到着すれば、彼の方でもアトルたちを捜すはずだ。
そしてアトルは、捜索の技術においてもヴァルザスが自分より優れていると、一片の疑いもなく信じることが出来る。
レーシアはさすがに、アトルが早々に宿に引き揚げた理由を察したとみえ、ばつが悪そうな顔をする。
だがそれを顧みて彼女の態度が改まったかといえば、答えは否だった。
白昼とはいえ何が起こるか分からないため、一応アトルの部屋に二人で入っている状態だが、視線を泳がせ服の胸元のリボンを弄り、落ち着かないことこの上ない。
アトルが長椅子に腰掛け、レーシアは同じ長椅子に座ることさえ躊躇って、出窓に肘を乗せて凭れ掛かっていた。
(――これ、勢いで言っちまったけど、まずかったよな……)
二進も三進もいかなくなっている様子のレーシアに、アトルは思わず嘆息。
世話になっている自覚があるだけに、余計にどうしたらいいのか分からないのだろう。
そしてアトルとしても、恩義や感謝を恋情と履き違えてほしくはない。
「なあ、レーシア」
アトルが声を掛けると、レーシアの肩が跳ねた。
「な、なに!?」
振り返って目を見開き、アトルを見る。
窓の外の明かりを弾いて、レーシアの左手首で水晶と銀鎖が煌めいた。
「ひとまず保留ってことで置いとけよ、俺の気持ちは。
取り敢えず昨日までくらいには落ち着いてくれ」
事も無げに差し出されたアトルの提案に対して一呼吸の沈黙を挟み、え、とレーシアが瞬きする。
「ほ、保留!?」
口に出し、レーシアが目を瞠った。
「え、ええっと、けど――」
「おまえがそわそわし過ぎなんだよ」
アトルは呆れた声を出した。
「こっちまで落ち着かない」
レーシアはおろおろと眦を下げた。
「でも申し訳ない――」
「俺に謝る必要はないって、何回も言ってるだろ」
アトルは言って、それでも眉を寄せるレーシアに、立ち上がって近付いた。
「それともおまえ、今すぐ俺のこと好きになってくれるわけ?」
レーシアが軽く仰け反った。
予測していた反応だったので、アトルも手を振って自分の発言を否定する。
「冗談だよ。――けどおまえ、ホントのところ一杯一杯だろ?」
こくこくと小刻みにレーシアは頷いた。素直なことである。
アトルはレーシアの隣で壁に凭れ掛かり、苦笑する。
「おまえが馬鹿なこと言い出すから、俺もああいうこと言ったんだよ。だからあんまり気にするな」
そう言いながらアトルは内心で、自身の忍耐力に拍手喝采を送っていた。
「かなり前から好きだったんだ。それをおまえが知ったってだけで、昨日までと変わらない。普通にしててくれ」
レーシアは薄青い目を見開いた。
「かなり前から?」と驚愕したように呟き、一度たりともその可能性に思いを馳せていなかったことがよく分かる、愕然とした表情を晒している。
そしてその事実に、急激な気恥ずかしさに襲われたらしく、頬に血を昇らせて目を逸らし、窓の外を見た。
窓の外から差し込む光にレーシアの横顔が照らされ、整った顔貌を際立たせた。
薔薇色に彩られたその相貌は、まるで一つの芸術品に命が吹き込まれたかのようだ。
照れて目を伏せたその表情さえ、彼女の美貌を上品に飾り――、
「あっ!?」
不意にその表情が激変し、レーシアが窓に向かっていっそう身を乗り出した。
「――おじいちゃん」
「えっ!?」
その呟きを聞き、アトルが思わず顔色を変え、レーシアと顔を並べて窓の外を見下ろした。
至近距離にアトルの顔が来ても、今のレーシアに気にする余裕はない様子だ。
アトルたちがいるのは二階だから、通りを上から見下ろすことが出来る。
そうして一望した目の前の通りに、アトルはヴァルザス・グレインを見付けた。
ずっと着ていた黒い外套を脱ぎ、中に着ていた白いシャツを露わにしている。
足早に通りを歩いているが、周囲を見回す風を見せており、彼もまたアトルとレーシアを捜しているのだと分かる。
彼が連れているはずの二頭の馬は見当たらず、彼もまた宿を取ったのだろうということが窺えた。
「マジだっ!」
アトルは思わず声を弾ませ、躊躇いなく窓の掛け金を外して窓を開け放つ。
ジフィリーア一の商業都市の騒がしさが、窓から部屋の中に滑り込んできた。
開け放った窓から身を乗り出して、アトルは声を張り上げた。
「ヴァルザスさんっ!」
シャッハレイの喧騒の中で、老人が鋭敏な聴覚でその声を拾い、顔を上げた。
二人の目が合う。
ヴァルザスが大きな傷を負っている様子はなく、アトルは覚えず安堵の息を漏らした。
宝国で置き去りにしてからずっと残っていた、罪悪感によく似たしこりが、その息に溶けて体外に滑り出していく。
アトルの顔を確認して、ヴァルザスもまた安堵の滲んだ柔和な表情を浮かべ、
「おじいちゃんっ!」
続いてアトルの横から身を乗り出したレーシアを見て、その顔が歪んだ。
泣き出しそうに悲痛な。
叫び出しそうな呵責の浮かんだ――そんな顔。
「おじいちゃん……?」
彼のその表情に、レーシアが困惑したように呟いたが、既にヴァルザスは動き始めていた。
つまり、アトルたちのいる宿に入ったのだ。
アトルもまた窓から身を翻し、部屋を出ながらレーシアに声を投げた。
「窓閉めといてくれ。ヴァルザスさんを連れて来る!」
「うんっ」
そう答えたレーシアは、おおよそいつも通りの態度に戻っていた。




