14 互いの意思
馬車をその場に置き去りにするとしても、騎乗用の馬具がないのは痛かった。
アトルは仕事柄、かなり無茶な乗馬も経験したことがあるが、長時間に亘ってそれを継続したことはない。
レーシアは言わずもがなである。
しかしながら、壊滅に近い打撃を受けたガルデラックで、それらのものを買い揃えようとするのは無謀である。
ゆえに、馬具が手に入るまでは馬を引きながら徒歩で行くことを余儀なくされた。
出発前に馬車を漁って、食糧やアルナー水晶、地図など、使えるものを収集する。
見付けてきた皮袋にそれらを入れ、馬の背に乗せた。皮袋は合計で四つほどになったが、一つ一つはそう大きい訳でもない。
レーシアは数冊の本を罪悪感に駆られた目で見ていたが、堪えて何も言わなかった。
その本に、魔力を制御する素晴らしい方法でも書いてあれば別だったのだが。
馬車から切り離してしまえば、馬が裸馬に近い状態になる。
この状態で四頭を纏めて歩かせることが、果たして出来るのだろうかということが次なる問題だったが、こちらは全く問題にならなかった。
レーシアには及ばないものの強大なサラリスの魔力は、獣からすると畏怖の対象になるらしく、馬たちはアトルの挙動によく注目して従ったのである。
レーシア曰く、サラリスにさえ獣がそのような反応をするのを見たことがないらしいが、それはアトルが元々、ある程度は馬などに号令を与えることに慣れていたためだろう。
アトルは地図を広げてまじまじと見て、次の町まで掛かる時間をざっと概算した。
(半日程度――ってとこかな)
夕暮れ――つまり、城門が閉まるまでに到着できるかどうか、危ういところである。
野宿を避けたいというアトルの気持ちはかなり切実だった。
いつ何時、刺客が差し向けられてくるのか分からないのである。
馬車を置いて行くことにした大きな理由も、それと同じだった。
巨大馬車は、確かに役には立つが、それ以上に目立ち過ぎるのである。
馬を四頭連れ歩くだけでもかなり目立つことは目立つが、馬車の比ではない。
「どうしたの?」
レーシアが首を傾げて、地図を凝視して顎に指を当てるアトルを窺い、アトルは曖昧に微笑んで誤魔化した。
アトルが今現在危惧していることを、レーシアには伝えない方がいいような気がしたのである。
地図を折り畳んで皮袋に突っ込みながら、アトルはいつも通りの声音で尋ねた。
「なんでもない。
――今から出発すると野宿になる可能性もあるんだが、どうする? 一晩ここに泊まるか?」
ここ、と言いながらアトルが馬車を示したが、レーシアは控えめながらもはっきりと答えた。
「出来れば早く行きたいけど」
息を吐いて、アトルは頷いた。
「分かった」
舌を鳴らして合図すると、馬たちは従順に歩き始めた。
しかしそれでも、必要以上にレーシアに近付こうとはしない。逃げたりはしないが、好んで近寄りたくもないようだった。
そのようにして出発したアトルとレーシアは、シャッハレイまでの最短経路を辿った。
レーシアは今までのように町を避けたがったが(また何かに巻き込んでは洒落にならないからである)、アトルは葛藤を強いられた。
野宿となると落ち着けず、下手をすれば一晩中起きていなくてはならないからである。
だが、アトルのせいで町が壊滅でもしようものなら、罪悪感でアトルは悪夢を見る自信があった。
そのため、馬具を手に入れてからこちら、アトルとレーシアは町を避けつつシャッハレイを目指した。
町に立ち寄るのは、食糧事情などから止むを得ないときに限り、そのときでさえ、宿泊は避けるようにした。
季節は春を迎えており、冬の野宿ほど無謀という訳でもない。
レーシアは案の定、一人で馬に乗せようものなら一秒と保たずに転落するので、常にアトルが相乗りし、振動に跳ねる彼女の身体を支え続けた。
レーシアもその間はかなり必死にアトルにしがみ付くこととなり、一週間もすると仏頂面で「身体中が痛い」と申告した。
「そりゃまあ、そうなるよな」
アトルは笑って言い、呻くレーシアに忠告した。
「身体、伸ばしとけよ」
揺れる馬上で同じ体勢を保ち続け、アトルにしがみ付き続けたのである。一日で身体中が痛んだはずだ。
それを、一週間経つまで何も言わなかったのは、彼女が学んだ忍耐としか言い様がない。
しかし一方で、常にレーシアを抱えて彼女に気を配り続けるアトルもまた、通常の乗馬よりも何倍もの負担を強いられていることも、紛れもない事実であった。
そうして半月が過ぎた頃、町を避け続けたアトルとレーシアの正しさを証すが如く、遂に二人に追い着いた宝国の追手が彼らに見えた。
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ふと頭上に違和感を覚えて、アトルは顔を上げた。
中天の太陽の光に目を細めて目庇を作りつつ、視線を上へと向ける。
そこに豆粒ほどの大きさの銀の煌めきを見て、アトルは顔を顰めた。
「――げ」
「どうしたの?」
レーシアがやや疲れた声を出した。
そうしながらアトルの視線を追い掛け、しかし眩しいばかりでよく分からなかったのか、説明を求めるようにアトルの顔を見上げる。
「何かあったの?」
「あー」
アトルは曖昧に呻いた。
「多分、飛翔船だ」
「飛翔船……」
繰り返したレーシアの声も緊張を孕む。
飛翔船は高価な移動手段であるが、宝国と樹国が所有していることは分かっている。
つまり、今上空を飛んでいる一隻は、宝国のものであるか樹国のものであるか――あるいは軍のものであるか。
全く関係のない一般の大富豪のものであるという可能性も、無きにしも非ずである。
このまま通過してくれないか、と見守るアトルの視線の先で、しかし飛翔船は徐々に高度を下げ始めた。
その船の輪郭がはっきりと見えてくるに至って、アトルは馬の脚を止めさせた。
「アトル?」
レーシアの訝しげな声に、アトルは腹を括って答えた。
「逃げててもしょうがない。足の速さで敵う訳ないしな。ここで対処しよう」
アトルが身軽に下馬し、そのままレーシアにも下りるように合図する。
レーシアは殆ど転落じみた動きで下りてきたが、アトルが問題なく彼女を受け止めて地面に立たせた。
辺りは荒地である。
道から逸れているためか人影もなく、大きな障害物も見当たらない。隠れようもない場所であった。
飛翔船が相当の破壊力を誇る攻撃を放つ場面を、アトルは目にしたことがある。
しかし今はそれが撃たれる心配はなかった。傍にはレーシアもいるのである。
「――あれ、ゼティスさんの?」
レーシアが心細げに囁き、アトルは首を捻った。
「さあな。こっちに下りて来ようとしてるってことは、無関係な一般人じゃないだろうけど――宝国か樹国か軍か、全部有り得るんじゃねえか?」
宝国所有の飛翔船だった場合、問答無用で敵である。
軍が相手でも同様のことが言える。デイザルトがレーシアに向ける憎悪は尋常なものではない。
だが、これが樹国のものであった場合にのみ、事情が少し変わってくる。
アトルは背負った大剣の鞘を、身体の脇で撫でた。これはリリファのものである。
ラズの話では、リリファたちも一纏めにミラレークスに連れて行かれたということだった。
つまりあの飛翔船が樹国のものであった場合、単にリリファたちの所在を確かめようとして遣わされたものであるという可能性もあるのだ。
無論、レーシアを前にした樹国の勢力がそう易々と引き下がるわけもなく、そうなると戦闘に発展する可能性もあるが、最初にリリファたちに関する質問がくるならば、答えないほどの冷血漢にはなり切れない。
飛翔船がその銀の船体を煌めかせながら、アトルたちの頭上で旋回した。
旋回しながら、徐々にその高度を下げている。着陸するつもりのようだった。
四頭の馬が怯えた嘶きを漏らしたが、アトルが軽く首筋を叩いて落ち着かせる。
風を巻き上げながら、飛翔船がその質量からは信じられないほど静かな動きで着地した。
その上構から小さな甲板に出て、地面に向かって縄を下ろす人影があった。
アトルが半歩前に出て、レーシアを庇う位置に立つ。
彼の緊張を反映して、ばちッとその体表で銀の火花が散った。
レーシアの魔力のように常時垂れ流されたりはしていないが、サラリスの魔力は、少しの感情の昂りで溢れ出しかねない量なのである。
そんな彼の様子が見えているのかいないのか、縄を下ろした人影は、素早い動きでその縄を伝って地上に降り立った。
飛翔船の方を向いて地面に立ったその人物が振り返ると、長い金色の髪が広がりながら靡いてその姿を彩った。
二十代後半、あるいは三十代前半と見える女性だった。
健康的な浅黒い肌の上に、濃紫のドレスを身に着けており、その裾には大胆な切れ込みが入っている。
踵の高い靴を履きこなして足を踏み出し、アトルとレーシアの方へ歩み寄ろうとしており、その姿を見てアトルは、これが軍人であるという説を永久に頭の外へ放り出した。
近付いて来ると、彼女の身長がかなり高いことが分かる。
アトルも男性として決して背丈は低くはないが、そのアトルより更に高い位置に頭があるのだ。
靴の踵の分を差し引いたとしても、相当な長身だった。
格好としては、ディアナの例があるので、彼女が樹国の人間であるということは十分に考えられる。
アトルは視線を彼女の腕に移した。そこに金の腕輪があれば、まず間違いなく宝国の人間――そうであるならば先制攻撃を加えるに吝かではなかったのだが、女性は身体の後ろで手を組んで歩み寄って来ていた。
アトルたちの目の前まで来て、女性は嫣然たる微笑を浮かべた。
目鼻立ちのはっきりとした、成熟した美貌である。
垂れ目がちの大きな目の、長い睫に彩られた虹彩の色は赤み掛かった紫。
そして彼女は口を開いたが、彼女の声は掠れ気味の低い声で、それはそれで魅力的な声ではあった。
「初めまして――アトルさん、でよろしい?」
レーシアがアトルの服の裾をきゅっと握り、それを感じながらアトルは眉を顰めた。
レーシアではなくアトルの方を名指しとは、珍しいにも程がある。
「そうだけど?」
「ああ、良かった!」
女性は言って、よりいっそう笑みを深めた。
「確かめたいことがあって来たの。
手を出していただいてよろしい?」
「先に名乗れ」
半ば喧嘩腰でアトルが言った。
女性は困ったように眦を下げたが、ふう、と艶っぽくため息を零すと呟いた。
「名乗ると怒らせてしまう気がするのだけど。まあいいわ」
にこりと微笑んで、右腕を前に出して掌を胸に当てる。
「エリフィア・シェレスというの」
即座にアトルが魔術を撃とうとしたが、エリフィアは軽業師並みの身の軽さで後ろに下がり、展開座標のずれからアトルの動きが止まった。
一方のエリフィアは、下がったその距離の分だけ声を大きくしてアトルに話し掛ける。
「待って、気の早い。別に今回はあなたを殺そうとしている訳でもないし、レーシアさまをあなたから引き離そうとしているのでもないのよ」
アトルの琥珀の目の中に、緑の燐光が瞬いた。
「だから?」
すっと持ち上げられたアトルの手、その指先から爆発的な勢いで魔法陣が膨れ上がった。
赤金色に煌めく魔法陣が煌々と輝き、次の瞬間、そこから大火が渦を巻きながら吐き出される。
たった一人の魔術師が生み出すものとしては規格外の、戦術級の魔術――戦場で、切り札として使われるに足る威力である。
目を見開いたエリフィアが、しかし間一髪でそこから逃れてみせる。
だが、飛翔船はそうはいかない。
大火の奔流に船体を貫かれ、大音響と共に大穴を穿たれ、そこから火柱を噴き出して炎上した。
炎はその向こう側にまで炸裂し、荒地に点々と爆発を起こしながら消えていった。
黒煙が上空に昇り、高熱に耐えかねた飛翔船の船体が溶け出す臭いが周囲に漂う。
「ああ、これは」
エリフィアが飛翔船の残骸を一瞥してさらりと言った。
中にいただろう他の乗組員のことを、歯牙にも掛けない口調だった。
「主上の仰った通りみたいね。
サラリスさまの魔力なしに、あなたがこんなことを出来るとは考えられない」
アトルは呆れ返った眼差しを送った。
その背後でレーシアがアトルの服の裾を握ったまま、飛翔船を一撃で破壊した魔術に目を丸くしている。
「それを確かめに来たってか?」
「実は、そうなの」
エリフィアは認め、にこりと笑った。
「私、アディエラちゃんたちみたいな攻撃力はなくて。だから色々と情報収集をすることが多いのだけど、その過程で飛翔船を壊されたのは初めてだわ」
「ああ、そうか」
アトルは冷めた声音で呟いた。
その眼前に、もう一度、今度は白い魔法陣が構築されていく。
「死ね、この――」
アトルの言葉半ばで魔法陣が発動し、彼の言葉の続きはレーシアにさえ聞き取れなかった。
爆音と共に吐き出された氷塊が――一つ一つが民家の大きさ程もあるそれが、弾丸さながらの勢いでエリフィアに襲い掛かったのだ。
「ああ、もう。これでは大味過ぎて当たらないわよ?
ま、私にとってはありがたいけれど」
エリフィアが最低限の動きで氷塊を避けながら尤もらしく言い、蟀谷を引き攣らせたアトルが右手を高く上げ――振り下ろした。
その瞬間、日が翳った。
薄い雲が太陽を覆ったような翳り方。
不自然な明るさの変化に、エリフィアも、そしてレーシアも頭上を仰いだ。
そしてそこに、落ちて来る巨大な氷塊を見た。
分厚い氷が、中途半端に日光を透して鈍く輝いている。
風切り音を立てながら落下してくる、凄まじい質量と冷気を誇る氷河。
レーシアは思わずぽかんと口を開けたが、これにはエリフィアも度肝を抜かれたらしい。目を見開き、いっそ呆れたように呟いた。
「――なんてこと」
轟音と共に氷塊が地面に衝突する。
冗談抜きに地面が揺れた。
巻き上がる砂塵と氷塵に、アトルにしがみ付いたレーシアが思わず息を止める。その背後で馬が恐怖に嘶き、泡を吹く。
これは確実に死んだだろうと思い、レーシアがアトルの後ろから顔を出してそちらを窺う。
しかし、アトルは強烈な舌打ちを漏らしていた。
一点突破。
氷の、自分にぶつかる部分にのみ穴を開け、無事を確保したエリフィアが、軽い動きで氷塊の上に攀じ登っていた。
氷塊は地面にめり込み、傍の大地に亀裂を走らせている。
「こちらの確認したいことは確認できたので、お暇させていただくけれど、」
氷塊の上に背筋を伸ばして立つエリフィアは、そう言って長い金髪を払い、自信を籠めて微笑んだ。
靴の踵が氷にぶつかり、かつん、と音を立てる。
「落ち込むことはないわ。私、ジークベルトちゃんの絶対防御のような凄いことは出来ないのだけれど、回避の技術は主上にも褒めていただいているの」
そこまで言って、エリフィアは初めてレーシアに注目した。
婉然と、それでいながらはにかんだように敬虔に微笑み、軽く膝を折る。
「ご機嫌よう、レーシアさま」
その語尾に被って、ぱき、と微かな音が鳴った。
硬いものに亀裂が走る音。結晶が壊れていく音。
「――あら?」
自信に満ちた笑顔が薄れ、エリフィアが訝しげに自身の左手首を見下ろす。
正確には、そこに嵌めた金の腕輪を。
腕輪に象嵌された水晶が罅割れ、その罅割れから、薄らと空気を歪ませつつ魔力が漏れ出していた。
密やかな音を立てながら、その魔力が螺旋を描いて移動を始めている。
その魔力の本来の主が選んだ、新しい所有者の下へ。
アトルの中の、魔力の根源に、水晶に閉じ込められたままだった魔力が反応したのだ。
川が海を目指すように、水晶から逃れた魔力がアトルに向けて螺旋の指を伸ばしていく。
「……えっ?」
目を見開いたエリフィアが、反射的に手を伸ばした。
魔力を掴んで戻そうとするかのように伸ばされた手、広げられた五指が、しかし敢え無く宙を掻く。
「――これは、予想外だわ」
事態を理解したエリフィアが平坦な声を漏らした。
手を下ろし、固く拳を握り締める。
そして顔を上げてアトルを見たが、その赤紫の眼差しには、今は敵愾心だけが浮かんでいた。
激烈な敵意の滲んだ眼差しで、今しもサラリスの魔力の欠片を受け取ったアトルを睨み据える。
「ねえ、あなた。アトル。ちょっとは予想してたでしょう?
あなたがサラリスさまの魔力を奪った時点で、」
「……違う」
「奪った」という表現に反応して、レーシアが短く呟いたが、その声はエリフィアには届かなかった。
アトルはエリフィアが続ける言葉に見当を付け、思わず声を上げる。
「黙れ――」
だが、エリフィアは昂然と言い切った。
「あなたは間違いなく主上の敵になったのよ。
これから覚悟なさい」
レーシアの肩がびくりと揺れ、その視線がすっと泳いでアトルを捉えた。
ずっとアトルの服の裾を摘んでいた指が離れ、レーシアの手がおずおずと――怯んだように引かれる。
レーシアの挙動には気付かず、アトルが舌打ちを漏らし、三度魔法陣を構築しようとした。
が、それより早くエリフィアが防壁を構築していた。
しかし、サラリスの魔力の前でそのようなものが用を成すわけもない。
一瞬すら掛からずに粉砕された防壁が、真っ白な破片を散らして砕け散る。
だがその奥に、エリフィアの姿はなかった。
「あ、――っのやろ……!」
アトルが歯噛みした。
砕けた防壁が煙幕の役割を果たし、エリフィアが素早く姿を眩ませたことが分かったのだ。
炎上し続ける飛翔船の方へ駆け寄り、上手く炎を避けながら移動している様子だ。くぐもった爆音が轟いたところをみるに、地中に潜ることさえしているのかも知れない。
追うにしても、レーシアを連れて行くには危険だった。
そしてアトルが単独で追おうとすれば、レーシアをここに一人で残すことになる。
「くそ……」
悪態を漏らしながらも、アトルはここは諦めるしかないと判断した。
同時に、自分に対して猛烈に腹が立ってくる。
(もうちょっと上手く制御できれば、あんな奴は一撃だったのに――!)
サラリスの魔力を使うと、魔術が大味になり過ぎるのである。
回避を得意とするのだろうエリフィアを相手にするには――というよりも、冷静に現状を見極め、立ち回ることの出来る魔術師を相手にするには、狙いが定まらないにも程がある。
しばらく自分自身の不甲斐なさに憤った後、アトルはレーシアに視線を向けた。
「レーシア。――レーシア?」
俯き、肩を落として、レーシアが悄然としている。
アトルは慌ててレーシアに向き直り、肩を叩いた。
「どうした? レーシア?」
「……なんでもない」
明らかに嘘と分かるその言葉だけを返し、レーシアは顔を上げた。
その瞳に漂う悲愴感に、アトルは大いに狼狽えた。
「レーシア……?」
目を閉じて首を振ると、レーシアは小さく呟いた。
「本当にごめんなさい、アトル」
「謝るなってば。――っていうか何を謝ってる」
アトルはレーシアの謝罪を一刀両断し、彼女の頭をぐりぐりと撫でた。
「こっちこそ、取り逃がして悪かったよ。もうちょっと練習が要るみたいだ――けど、下手に練習とかしたら、周りの被害がやばいことになるからなぁ」
敢えて明るい声を出したアトルに、レーシアは心底申し訳なさそうに、微笑んだ。
「……そうね」
――サラリスの遺志を継いだアトルの意思は疾うに定まっている。
レーシアを自由にしてやり、安心できる所へ連れて行くこと。
そしてこのとき、レーシアの意思も確定したのだ。
互いの意思の擦れ違いを、アトルはシャッハレイで思い知ることになる。




