11 自分のために泣く
宝士とアトル、三対一ではあったが、優勢なのは明らかにアトルだった。
優勢という言葉ですら甘い。
もはや、勝負になってさえいなかった。
魔力を顕現させるには、生命力――一般には、体力で賄える程度だが――を消費する必要がある。これを回避する術は一つ、魔力で生命力を肩代わりすることだ。
しかしそれが許される魔力の質も量も想像を絶すると言われており、理論上、そのようなことを可能にする魔術師はいない――今のアトルを除いては。
サラリスの〈器〉としての膨大な魔力を受け継ぎ、かつ〈糸〉を繋いでいないがためにその全てを扱える魔術師であるアトルは、実質的には体力の消費なしに魔力を顕現させ続けることが出来るのである。
水晶に閉じ込められたサラリスの魔力の断片を使っていた、シェレスたちとも扱える魔力量に圧倒的な差がある。
サラリスの魔力を結晶に籠めた分だけ扱っていたシェレスたちと、自分自身の魔力とサラリスの魔力が入れ替わったアトルとでは。
その膨大な魔力の扱いにまだアトルは慣れておらず、そのため魔術の規模が大きくなっている。
術式によって指定された事象を引き起こす魔力の質が高いからだ。
そのため、アトルは常に術の余波を纏って立っているように見えていた。
リリファの大剣を傍の地面に突き刺し、徒手となったアトルの起こした暴風が宝士の防壁を割り砕く。
その防壁の残骸であるきららかな光の雨を降らせて、宝士の背後――先程アトルが消火と共に叩き潰した範囲の更に向こう、持ち堪えていた木を数本、根こそぎに倒して、暴風が獰猛に渦を巻いた。
喰らった宝士は物の見事に地面に叩き付けられ、首の骨を折って絶命している。
残り二人となった宝士の表情が、明らかな恐怖に彩られた。
無意識にだろう、一歩を引いた彼らを、しかしアトルは容赦する気を持たなかった。
魔法陣が煌々と輝く。
アトルの正面、伸ばした手の指先を中心として、花開くように薄緑の魔法陣が展開されていく。
それほど大きな魔法陣ではない。
だが、拳四つ分程度の大きさの魔法陣が、その一瞬に数十、目の前を埋め尽くす勢いで展開された。
重なり合い、触れ合いながら、アトルの周囲で仄かに輝く魔法陣がびっしりと浮かぶ。
既に夜陰に包まれた森の中、その光に照らされて、アトルだけが人ならざるものであるかのように立っている。
ヴン、と低く唸る音がした。
一つ一つの魔法陣がその音を奏で、まるで空間そのものが唸っているかのような一瞬の後――
魔法陣が発動した。
生み出された衝撃波が、たった一人の魔術が生み出したとは到底信じられない威力で走り――宝士の防壁など、物の数にも入らず粉砕され――、文字通り、二人の宝士を吹き飛ばし、その先の地面に叩き付け、それに留まらず押し潰した。
骨の欠片も残りはしない、完璧な圧殺である。
普段であればアトルも、ここまで残酷な手段を採りはしない。
サラリスを殺し、その尊厳を踏み躙り続けた、宝国に対する冷徹な激怒が、その術式に溢れていた。
闇の中ではっきりと見えるものではなかったが、その死に様の凄惨さは尋常ではない。
それを一顧だにせず、リリファの大剣を地面から抜き、左手に持っていた鞘に収めたアトルが、身を翻して振り返る。
その周囲では、魔法陣の残滓の光が、まだ薄らと、儚い花弁のように散っていた。
常軌を逸した魔力の行使に及び腰になっているルエーナを真っ直ぐに見て、アトルは軽く首を傾げる。
「――で?」
背後の凄惨な光景をまるで感じさせない声で、彼はやや不機嫌に言った。
「なんであんたらがここにいるわけ?
レーシアがここにいるって、なんで分かった?」
質問の体を取ってはいたが、ルエーナからすれば答えを強要されていることに等しかっただろう。
生唾を嚥下して、小声で答える。
「――ルーヴェルド最高指定魔術師閣下から、指示を受けて。
レーシアさんを見付けたのは偶然で……、近辺のミラレークス支部に、軒並み連絡を取った結果で」
「なんでそんなことしたんだよ?」
アトルが歩を進め、ルエーナを近い距離で見据えながら更に訊いた。
「――ガルデラックに、出動した際に……近辺を当たれと」
ガルデラック、という町の名に、アトルの眉がぴくりと動いた。
「ガルデラックに? 何の用だった」
アトルは、アジャットたちが協会に現在地を知らせていないことを知っている。それゆえの質問だった。
だが、指定魔術師といえどもそこまでの情報を与えられていないらしく、ルエーナは先程とは違う意味での涙を目に溜めて、夢中で首を振った。
「し、知らない。本当に――ただ、出動を命令されただけで!
私自身はガルデラックに行ってすらいない!」
「……ふうん」
アトルは呟き、矯めつ眇めつルエーナを見た。
そして彼なりに、彼女から得られる情報はもう何もないと判断すると、くい、と顎をしゃくって馬車の方を示した。
「取り敢えず、もう帰れ」
ルエーナが言葉を呑み込み、視線を下げて、座り込んだまま、まだ感情の整理がつかない顔でアトルをじっと見詰めるレーシアを、その柘榴石色の目でちらりと見た。
その視線の向きに敏感に反応して、アトルの口調が威圧的なものに変わった。
琥珀の目がすっと細められ、そこに緑の煌めきが走る。
鞘に収めた大剣で地面を強く叩き、もう一度、一音一音を強めて言ったのだ。
「帰るよな?」
後退り、ルエーナは首を縦に振った。
その視線がアトルの背後――宝士の成れの果てに向けられて、明確な恐怖に強張る。
アトルが行使した暴力に対する恐怖であるというよりは、アトルそのものへの畏怖が強く匂う恐怖だった。
なまじ中等指定の実力があるだけに、アトルが使った魔力の、別格の質に気付いたのだろう。
森の中を、殆ど転びそうになりながらルエーナが走り去るのを見届けてから、アトルはレーシアを見下ろした。
まだ、彼の周囲で仄かに光る花弁が散っている。
その明かりが、ぼんやりと周囲を照らしている。
レーシアに視線を向けた瞬間に、ずっとアトルを見ていた彼女と目が合い、覚えずアトルはたじろいだ。
薄青い目が花弁の光を映して、不思議な色合いに輝いている。
一言の相談もなくルエーナたちに付いて行ったレーシアに、散々悪態と説教をぶつけるつもりではあったが、アトルにはその前にどうしても話しておかなければならないことがあるのだ。
アトルがサラリスの魔力を使っていることについて、これはサラリスの意思なのだと、アトルが宝士やシェレスたちのように、彼女の尊厳を踏み躙っている訳ではないのだと、絶対にその点についての理解を得なければならない。
――そうしなければ、アトルは二度とレーシアの目を見て話し掛けることが出来ない。
「……レーシア」
呼び掛けると、レーシアが瞬きした。
その薄青い目に浮かんでいる感情が何であるのか計りかね、アトルは声を詰まらせる。
「違うんだ、これは、確かにサラリスさんの魔力だけど、俺が使ったけど、けど、違う――」
「アトル」
彼の言葉を遮って、レーシアが呟いた。
彼女は地面に座り込んだままで、軽く両手を上に広げてアトルに向けた。
躊躇いながらアトルが、レーシアの前で膝を付いてそれに応えると、レーシアは衒いもなくアトルの背中に手を回した。
額を、やや呆然としているアトルの肩に付けて、レーシアは押し殺した声で囁いた。
「アトルが、」
全部分かっているというように。
「いてくれて、」
全身全霊の感謝を籠めて。
「本当に良かった」
アトルが息を呑んだ。
レーシアは、要らないと言われた感謝の言葉を避けて、何より的確に自分の気持ちを伝えたのだ。
その語尾と共に湧き上がる涙を堪え切れず、声を震わせながらも言葉を綴る。
「アトルの、お蔭で、サラリスが何をして欲しがってるのか、分かったの。私に、生きててほしいって言ってる。まだ会いに来ちゃ駄目って言ってる。だから、まだ行かない」
アトルは目を見開いた。血の気が引くのをはっきりと感じた。
(こいつ――本気で――)
アトルの様子に気付く余裕はなく、レーシアは涙に肩を震わせてしゃくり上げる。
「どうしよう。泣かないでって――言われたのに。止まらないの、どうしよう」
咄嗟に大剣を身体の横に放り出し、アトルはレーシアを抱き締め返してその頭を撫でた。
解れてなお、花弁の微かな光にさえ艶を弾く、サラリス自慢の可愛い女の子の髪を。
「いいんだよ」
言い聞かせるように。いつものように、説いて聞かせる口調で。
「おまえが泣くのは、サラリスさんの所為じゃない。おまえが悲しい所為だから。
――おまえは十分悲しいんだから、おまえのために泣いていいんだ」
うっ、と嗚咽が漏れて、それからはもう留めようもなく、レーシアの双眸から涙が零れ始めた。
「サラリス、サラリス、サラリス――」
母とも姉とも慕う彼女、レーシアの世界の中心を占めて彼女を守り続けた、死してなお無償の愛を貫くエンデリアルザの名を呼びながら、レーシアがようやくその死を悼んで泣き叫んだ。
小さな背中が慟哭に震えるのを、抱き締めたまま、ずっとアトルは掌に感じていた。
溢れた悲しみと、胸がいっぱいになる程の感謝が、レーシアの小さく浅くなっていた心を、もう一度元の大きさに戻す。
死んでいた情動を蘇らせて、彼女の心に息をさせる。
アトルとレーシアの傍にサラリスがしゃがみ込んでレーシアの頭を撫でるのを、アトルは殆ど見たような気さえした。
透き通る美しさと優しさで。
与えた愛情の価値を誇りすらせず、ただただ溢れんばかりの慈しみをもって。
************
レーシアの涙が止まる頃には、アトルの周囲で散っていた花弁も消えていた。
しかしアトルの少々乱暴な消火活動のため、二人の頭上はぽっかりと開いていたから、星明りと月明かりは、惜しげもなく二人の上に降り注いだ。
泣き止んだレーシアがそろそろとアトルから離れる。
その表情から、宝士との間に割って入ったアトルの科白を思い出したと見える。
アトルは完全に地面に座り込んで(それまでは膝立ちの状態だったのだ)、立てた膝に肘を突き、半眼でレーシアを見据えた。
「――で」
アトルのその声に溢れる不機嫌さに、レーシアの顔が強張った。
「は、はい」
「おまえ、なんでこんな所にいるわけ?」
レーシアは愛想笑いを浮かべてみせた。
「あの、ミラレークスから、お迎えが来たから……」
「阿呆」
アトルは軽くレーシアの頭を叩いた。
「アジャットたちと一緒じゃねぇと、ミラレークスでのおまえの扱いの保証はどこにもねえだろうが」
レーシアはやや大仰に頭を押さえ、身を縮めた。
「ご、ごめんなさい……」
「俺に一言の相談もなく!」
憤懣やるかたないといった口調のアトルを、レーシアはそっと上目遣いで見遣る。
「だってアトル、倒れてたし――って、大丈夫なの!?」
アトルは息を吐き、自分の身に起こった異変の推察を、一通り話した。
それを聞いて、レーシアの表情が徐々に曇っていく。
話しながらアトルはその表情の変化にはらはらしたが、レーシアは感想を述べることはなかった。
「――そう……」
ただそうとだけ漏らして、心持ち肩を落として見える。
「レーシア?」
アトルが彼女の顔を覗き込むと、レーシアはふるふると首を振った。
(まあ、複雑――だよな)
アトルがサラリスの魔力を使っていたのは分かっていた様子ではあったが、それが一時的なものであると判断していたのだろう。
まさか、アトルの魔力がサラリスの魔力に置き換わったのだとは思わなかったに違いない。
そしてその事実は、レーシアにとっては、受け容れるのに時間が掛かることでもあるだろう。
アトルとしては、レーシアにサラリスの意思を――ひいては、アトルを受け容れてもらうために、これまで以上に努力しなくてはならないところだ。
――そう考えたアトルは、その考えがまるで的外れであるということに気付かず、話題を他に移した。
他の、絶対に訊いておかなければならないことに。
「――なあ、レーシア」
「……えっ? な、なに?」
何かを考え込んでいたレーシアがはっと顔を上げ、そこにアトルの渋面を見て怯んだ顔になった。
「聞き間違いじゃなけりゃ、おまえ、死のうとしてなかったか?」
「…………」
あからさまに返事に詰まり、レーシアが視線を逸らした。
アトルは思わず地面を殴った。
「馬鹿か、おまえ!? なに考えてそうなった!?
ああもうこの――ど阿呆!」
頭を抱え、ついでレーシアの肩を掴んで揺さぶる。
「てめえは! ああくそっ、そんなことしたら俺が報われなさ過ぎるだろうが!」
がくがくと揺らされながら、目を見開いたレーシアがこくこくと頷く。
「二度とそんなことしようとするな! この馬鹿! いいな!?
死にに行くのも死のうとするのも絶対、二度とするな!」
レーシアの目を真っ直ぐに見て言葉を強く重ねる。
「いいな!?」
念押しされ、レーシアは小刻みに何度も頷いた。
アトルの眼差しに本気を見て、いつになく必死な様子だった。
「うん、絶対しない。ほんとに!」
「――よし」
アトルがレーシアから手を離し、レーシアがほっと息を吐く。
そこでアトルが大剣を左手で拾って立ち上がり、レーシアに向けて右手を伸ばした。
「ほら、行くぞ」
レーシアの大きな目がアトルを見上げ、微笑に緩んだ。
手を伸ばしてアトルの手を握り、レーシアが立ち上がる。
それを右手で支えたアトルは、ふと違和感を覚えて首を傾げた。
「レーシア、おまえ、ちょっと重くなったか?」
その瞬間、割と本気で横腹をどつかれ、アトルはよろけた。
「いてっ」
「違うから!」
アトルの小さな呻きと、レーシアの大声での弁明が重なった。
アトルが見ると、レーシアは耳まで真っ赤になっていた。
「違うから! もう、信じられない! 普通言わないでしょ!?
宝具と封具が増えた分だもの! 垂れ流しの魔力が、ちょっと減っただけだから! 私が重くなったんじゃないから!」
もはや涙目。
悪い悪いと謝るべき場面ではあったが、アトルは思わず顔色を変えて問い詰めていた。
「増えた!? いつだ!?」
「サラリスから受け取ったの!」
そう叫ぶように答えると、レーシアはまたしゃがみ込んで頭を抱えた。
「信じられない……普通そんなこと言わないでしょ……」
一方のアトルは泡を食ってレーシアの隣に膝を突いていた。
「おい、大丈夫なのか?
いつもの、記憶が混乱するやつ、あれは――」
「ないから大丈夫! お、重くなっただけよ!」
レーシアに半泣きでそう言われ、アトルはさすがにばつの悪そうな顔になる。
「わ、悪かったって。実際の体重が増えたか訊いたわけじゃねえって」
ちらりと恨みがましく顔を上げたレーシアに、真剣な表情で重ねて謝罪する。
「悪かった。ごめんな」
「――……うん」
お許しが出て、アトルは大きく息を吐く。
そうしてから、しゃがみ込んだままのレーシアに、もう一度念押しした。
「大丈夫なんだな? おかしいところはないんだな?」
「うん、大丈夫」
レーシアが答え、アトルに向かって試すように手を伸ばした。
その意図を察して思わず苦笑する。
アトルは自分が立ち上がってから、今度こそ余計なことは言わず、レーシアに手を伸べて助け起こしたのだった。




