02 お昼のお供にお歌はいかが
アジャットは料理を毒に変えてしまうようだった。
手伝うと言っては食材に手を伸ばす彼女を、グラッドが必死に止めては別の仕事を頼んでいる。途中からアジャットの行動に気付いたリーゼガルトとミルティアも慌てたようにグラッドの援護に向かった。
リーゼガルトとミルティアが本の山を崩しながら外に駆け出して行くのを見送り、アトルは慎重に身体の向きを変え、寝台に腰掛け直した。足元に置かれていた靴に足を突っ込む。枕元にアトルが着ていたシャツとベストが畳んで置いてあったので、それを手に取って傷に響かないようにそっとシャツを羽織り、苦労しながら袖を通す。
「大丈夫?」
レーシアがおずおずと言い、アトルは頷いた後、ボタンを留めながら躊躇いがちに言った。
「おまえ、封具――だっけ、使ったら倒れるって分かってたのか?」
こくりとレーシアは頷く。アトルは言い辛いながらも疑問に思って尋ねた。
「それなのに、なんで――助けた?」
レーシアはその質問が意外だったようで、きょとんと目を丸くすると笑った。
「だって回り中知らない人ばっかりで、あなた以外に誰を頼ればいいのか分からなかったんだもの」
アトルは思わず笑った。
どうやらこのレーシアという少女、今まで人に頼りきりで、身の振り方一つ自分で決めたことはないらしいと確信したアトルは、にっこり笑ったままで言った。
「よし。じゃあこれから、あの四人をちゃんと頼れるようにしていこうな」
レーシアがうっと頬を引き攣らせたが、見なかった振りをする。
三つの窓から燦々と陽光が差し込み、何だか外では修羅場のような物音がしているが、取り敢えずは穏やかな午後である。
やがて、何度か部屋と外とを往復し、木箱や調味料を持ち出し、外で何やら壮絶な争いを演じたらしき、心持ち疲れたような顔のミルティアが顔を覗かせ、独特の抑揚も弱くなった口調で、「ごはん出来たから、来て」と言った。
動くに動けないアトルは困惑したが、正直ミラレークスの中等指定魔術師を舐めていた。
指先ひとつでアトルを介助したミルティアは、後ろで呑気に「すごい」と言っているレーシアに、ふふんと鼻で笑って得意げに言っていた。
「指定魔術師ならぁこのくらいお手の物よー」
はあすげえな、と感心しながら三段の階段を下りて扉を出て、外の陽光に目を細めたアトルは、振り返って素っ頓狂な声を上げた。
「えーっ? これって馬車だったのか!」
そう、アトルが部屋だと思っていたそれは、巨大な馬車だった。しっかり車輪が付いている。
「大き過ぎるだろ……」
目を見開いているアトルを見て、リーゼガルトがはは、と笑う。
「馬車って言っても、馬に引かせたら馬がへばるぜ。まあ一応、前を走らせちゃいるが」
言われて見ると、確かに馬車(?)には馬が六頭繋がれていた。二頭ずつ並んで三列になっている。毛並みの艶やかな馬たちである。
「実際はどうやって動いてんの?」
アトルが尋ねると、アジャットが手で馬車を示した。
「床下に当たる空間にアルナー水晶を五つほど蓄えてある。術式は念動。車輪はそれで動く。馬たちはまあ、介助と、怪しまれないためと――」
ここで少し言い澱んだアジャットに代わり、リーゼガルトが溜息交じりに言った。
「ミルが大の馬好きなんだよ」
ミルティアが胸を張った。
「悪いってぇのぉ?」
アジャットたちが同時に重々しく首を振る。どうやらこの件に関しては論争済みらしい。アトルは少し笑い、レーシアは首を傾げた。
そんな流れで昼食になった。
辺りは森だった。
木々は、密生しているというわけではないが疎らというわけでもなく、適度に空地を作りつつ広がっている。どうやらここは、その空地のうち一つのようだった。
この大きな馬車がどうやって周囲の木々を薙ぎ倒さずにここに来られたのか、アトルはかなり疑問に思った。大きさだけを言うならばぎりぎり可能だろうが、車輪というものはそう小回りが利くものではない。この大きさの馬車を支える円周の大きな車輪はなおいっそうそうだ。角を曲がるのも大回りになるはずなのである。
馬車を降りたところに即席の焚き火があり、そこに鍋が掛けられて中からいい匂いがしている。鍋を囲むようにして木箱が六つ置かれていた。椅子替わりだろう。
「食うぞ、特にアトルはしっかり食えよ」
リーゼガルトがどっかりと腰を下ろしながら言った。彼の大刀は足元に長々と、かつ堂々と横になっている。
「レーシアはちゃんと食ってたのか」
アトルが訊くと、レーシアはうん、と頷いた。アトルの横にしっかりと腰掛け、もう片方の隣に腰掛けたミルティアを警戒の目で見ている。
レーシアが腰を落ち着けたのを見てから、アトルは隣のリーゼガルトに合図した。すかさず察して立ち上がったリーゼガルトと、リーゼガルトに手を貸してもらって席を交代する。結果隣同士になったグラッドと会釈を交わした。
腰を下ろしたまま悠々と大刀を足元に引っ張って来たリーゼガルトをぽかんとした眼差しで見てから、レーシアは半ば立ち上がった。
「え、ちょっ、ちょっと!」
アトルはわざとらしく鍋を覗き込み、レーシアの方は見ずに言った。
「いや、俺も特別給与ほしいし。そこで仲良くやってくれ」
「そうよう。まぁまぁ座ってぇ?」
肩を掴まれて座り直させられたレーシアは、未だによく知らない二人に挟まれ、肩を掴まれ、哀れなほど硬直していた。
てっきり振り解かれると思っていたらしいミルティアが意外そうな顔をする。
「まあそう固くなりなさんな」
リーゼガルトがのんびりと言ったが、レーシアはあわあわと口を開け閉めして怯えている。こんなんでどうやって俺が寝ている間過ごしてきたんだろう、とアトルは真面目に不思議に思った。
グラッドが甲斐甲斐しく全員分の器に鍋の中身を入れていく。中身は簡単なシチューのようだった。
湯気の立つ椀を受け取り、差してある匙を持つ。予想以上に力が落ちていることを自覚した。ふうっと息を吹き掛けて冷ましてから、小さく一口含む。
美味かった。
恐らく主に調理したのはグラッドなのだろうから、彼の料理の腕前が相当なものであるだろうと分かる。
「美味い」
思わず呟けば、グラッドが眉を寄せる。何か気に障ることを言ったのだろうかと思ったのだが、どうやら照れただけらしく、彼は頬を掻いてそっぽを向いた。
レーシアは椀を両手で包むようにして持ち、息を吹き掛けて冷ましながら、両隣をちらちらと見ては落ち着かない顔をした。ようやく食べられる温度になったらしいシチューを匙で掬い、口元に運ぶ。そしてやはり美味しそうにした。
それを見たグラッドが嬉しそうにする。
レーシアは元々の顔貌が整っているせいか、嬉しそうにすると異常に可愛いということが判明した。陽の光に照らされて、はっきりと濃紺と分かる髪が緩く巻きながら流れている。
「なあ、レーシアさん」
リーゼガルトが声を掛け、レーシアが咽た。ごほっごほっと咳き込む彼女に、リーゼガルトは申し訳なさげにする。
「あ、いや……すまん」
レーシアは呼吸が落ち着くと、涙目ながらもリーゼガルトを見上げた。
「な、なに?」
「そんなに怖がらなくてもぉ、大丈夫よう」
ミルティアが笑いながら言い、レーシアがびくっとした。
「あいつが変なことしたらぁ、あたしがちゃぁんとやっつけるから。あたしの方が実力は上だしぃ、もっと言うならアジャットもぉいるし」
レーシアはびくびくしながら頷いた。リーゼガルトは苦笑しながら言った。
「あれ、何なんだ? アトルを助けたときに何か歌ってただろう?」
レーシアはやはりびくびくしながら小刻みに頷き、はっとしたように口を開いた。どうやら余りのパニックに、返答を求められているということを忘れていたらしい。
「あ、あの。そのぅ――久し振りだったもので、同調が切れていたの。だから、封具の力を使うにはああするしかなくて……」
リーゼガルトもミルティアも、何が何でも会話をする気らしく、今度はミルティアが尋ねた。
「どういう意味があるのー?」
レーシアはアトルを見たが、アトルがあからさまに「自分で何とかしろ」という顔をしたため、観念したように説明を始めた。
「あ、あれは、その――封具が懐かしがるから、こっちを向いてくれるの」
「封具が懐かしがる?」
リーゼガルトが語尾を上げ、レーシアはこくこくと頷いた。
「そう。封具は宝具と違うから。懐かしいと思ったり、してくれる。宝具はただ、こっちを向くだけだもの」
「ではここでもう一度暗唱を頼んだら、きみは封具の力を使うことになってしまうのかな?」
アジャットが興味深げに言い、アトルは眉を顰めた。もしそうならば止めねばなるまい。
レーシアはこくんと頷いた。
「うん。きっとそうなる」
「暗唱するなよ」
アトルがすかさず釘を刺し、レーシアはうんうんと頷いた。
「残念だ」
アジャットが呟いた。
「とても綺麗な声だったのに」
レーシアはきょとんとしてアジャットを見詰め、それから褒められたと分かったのかにっこりした。それから、おずおずと言い出した。
「別ので良ければ歌おうか。サラリスよりも上手いのよ」
アジャットは、顔は見えないけれど確かに笑ったのだろう。弾むような声を出した。
「本当か! きみに害がないならば是非」
リーゼガルトもミルティアも、グラッドも驚いたような顔でレーシアを見る。まさかそんな申し出があるとは思わなかったのだろうが、やがて笑顔になった。
アトルも驚いたものの、前の歌ははっきり言って聞いていられなかったので(何しろ胸に穴が開いて血を吐いていたのだ)、興味を示してレーシアを見詰めた。
レーシアは緊張したのか一瞬詰まってから、古風な歌を紡ぎ始めた。
「あめつちほしそらわれをみたまへ
いとほしげなるこえきこしめせ
かぜふきかしらそよがせる たまもののうみもみえなふて
やまかはみねたにわれをわらふて
そのこえわがせのみもとまで ながれながれてつたはるやう
みねふきわたるかぜにこへ
そがわづかでもわがせこの とぎをつかうまつるやう
われをいとほしがりたまへ
こけのむすまでこのおもひ かくごしおいて ねがはくは
わがたまのをのたえたるが いにしへのこととなるとても
おぼしおきたまへわがおもひ
うつくしきあがなせのみこと」
古風過ぎてアトルには何を言っているのか断片的にしか分からなかったのだが、アジャットとグラッドにははっきりと分かったようだ。リーゼガルトとミルティアも意味は分からなかったらしい。
しかし全員にはっきりと分かったことは、レーシアの声が極上のものだということだった。節を付けて歌えば、透明な声が澄み渡って煌めき、町中で歌えば賞賛のコインがさぞ投げられることだろう。
アトルは物も言えない感動というものを始めて味わったし、周囲も同じ感情のようだった。
しかし緊張したレーシアにしてみれば、沈黙は別の意味を持ったらしい。
「う――歌が気に入らなかった?」
ほう、と息を吐いたアジャットが、ゆっくりと首を振った。
「いや、素晴らしかった。それにしても切ない歌だが」
レーシアがうん、と頷き、はにかむようにアジャットを見た。それを見てアトルは、「可愛いじゃねえかこいつ」と今更ながらに噛み締めていた。
「私もそう思う。悲しい」
「綺麗だったんだけどさ、どういう歌なの」
リーゼガルトが言い、アジャットは困ったようにグラッドと視線を合わせてから、腕を組んだ。
「む。意味は――そうだな。とある女性が、恋人と離れて悲嘆に暮れる歌だ。豊作で風に揺れる麦――だと思うが、別の作物かも知れん――も涙で見えない。大自然に対して自分を笑えという。その笑い声が風に乗って恋人の所へ流れていって、少しでも彼を慰めるように」
少し考えて、続ける。
「これからもずっとこの恋を覚えている。願うのは、自分が死んでしまったことが遠い昔になったとしても、恋人がずっと、彼女が彼に恋をしていたということを覚えていることだ、と」
「切ない……」
ミルティアが思わずといったように呟いた。口調は「うわぁ……」と言うときとほぼ同じだ。
「その男は何をやってるんだ」
アトルは真顔で言った。アジャットは少し笑ってから、ちなみに、というように切り出した。
「きみならどうしてやるべきだと思う」
「はあ? そんなの、やることさっさと終わらせて帰るに決まってんだろ」
シチューを食べながら即答したアトルを横目で見てから、ミルティアが尋ねた。
「最後のぉ、うつくしきあが――何とかかんとかってぇ、あれぇどういう意味なの?」
「愛しき吾が汝背の命」
レーシアが言い、小首を傾げてから言った。
「意味――。愛しい私の伴侶」
「男から言うときはぁ?」
ミルティアが訊き、レーシアはきょとんとしてから答えた。
「愛しき僕が汝妹の命」
言ってから、両手で持っていた椀を片手で持ち直し、匙を手に取ってシチューを口にした。もう十分に冷めているだろうそれを、少しずつ口に運ぶ。
恐らく、ミラレークスの四人に囲まれながらレーシアが口を開いていた時間で最長を記録したのだろう、リーゼガルトがかなり嬉しそうにしている。
レーシアの人見知りは何とかしなければ日常生活が危うい、と改めて感じ、アトルは溜息を吐いた。
ゆっくりと食事をしていくうちに、アトルは自分が重要な情報を与えられていないことに気付いた。
「なあ、そう言えば、ここってどこなんだ?」
アジャットが「ああ」と言う。
「ここはシャッハレイの近くだ。少し行くとアゼンタ街道に出る」
アゼンタ街道は三大都市を結び、ルルセット王国とリアテード皇国に通じる街道である。アトルも何度も使用したことがある。
同じく三大都市を結び、ヤルセク王国と海へと通じる街道は、ソーティ街道と呼ばれる。尤もヤルセク王国は廃墟となった部分が多いため、ソーティ街道を使って北上する者は余りいない。
二つの街道は公道なので、通行料を払う必要がない。強いて言うなら毎月払う税金こそが通行料である。
「じゃ、半月もすればケルティだな」
アトルは一般的な行程を述べてから、自分でそれに注釈を付けた。
「順調にいけば」
「順調にいかない可能性の方が高いが、希望的観測も大切だ」
アジャットが真面目な声音で言い、ふふっと笑った。
「これから冬になるが、雪が積もろうと馬車は止まらないから、その点は安心してくれ」
まだ秋の気配を感じ始めたばかりで暑い日も多いこの頃、雪が積もるにはまだ数箇月あると思う、と言おうとしたアトルだが、何となく不吉な気がしてやめた。
順当にいけば半月の道程を、数箇月掛ける心積もりをしておけということだな――と納得し、少しばかり遠い目になる。
食事が終わると、グラッドが甲斐甲斐しく後片付けを始める。アトルは今度はリーゼガルトに介助されて馬車に戻った。
元いた寝台に戻されてから、アトルはふと思いついて尋ねた。
「なあ、俺が寝台一つ取っちゃったら、寝られない人が多くなるんじゃねえの?」
リーゼガルトは肩を竦めた。
「あ? ああ、気にしなくていい。寝台は二つだろ? いつもそこに俺とアジャットとグラッドが交代で寝て、あぶれた一人が不寝番することになってたんだよ」
「ミルティアは?」
「あいつ? あいつまだ十六だから不寝番はさせない。ハンモック吊るして寝てるよ」
「俺がここ使ってたらあぶれる人が三人になるだろ?」
アトルが言うと、リーゼガルトが微妙な顔をした。
「いや――あんたが寝てる間、レーシアさんがあんたから離れなかったからなあ。ハンモック一つ増やしただけで対処できたぞ」
ハンモックをどこに吊るすのだと思ったりもしたが、彼らは魔術師である。アトルはそこは黙殺することに決めた。
「レーシア、座ったまま寝てたのか?」
尋ねると、リーゼガルトは首を捻る。
「多分な。病人の付き添いみたいな感じだったぞ」
話を聞くに、レーシアが四人に怯えすぎて、朝食の準備が出来たときに四人で「どうする? 誰が起こす?」「おまえやれよ」「なんであたしが。あんたやれば?」「えっ……?」「私がやろうか……」といった遣り取りが展開されたらしい。そして起こされたレーシアは予想に違わず悲鳴を上げたとか。
「あいつすっげえ迷惑掛けてるじゃねえか」
アトルが思わず声を上げれば、リーゼガルトが声を立てて笑った。
「んなことねえよ。無理言って来てもらったんだ」
アトルは脚をばたばたと振って靴を脱いだ。その後爪先で靴を揃える。
「明日から移動し始める。のんびりしててくれ」
リーゼガルトはそう言って、何か話があるのか外に出て行った。
レーシアもまだ外にいて、馬車の中にアトル一人になる。傾き始めた陽の光が後ろの窓から差し込み、馬車の中の陰影をはっきりと付ける。
「はぁ……。なんかすげえことに首突っ込んじまったなあ……」
しみじみと呟いたアトルは、右の前腕で目を覆うようにしてから、瞼を下ろした。
傷から回復しておらず、極度の貧血を経験したばかりの身体は休眠を要求しており、アトルはあっさりと眠りに落ちた。




