07 少年の名
身に着けていたもの一切を、外す余裕もなく横になっていたことが上手く働いた。
いちいち服や小物を着脱することもなく、アトルは部屋の外に出られたのである。
ただし、無駄に重い銀貨の袋はその場に置いておく形となった。
ここにまた戻って来るとも限らないが、アトルの給料の残額からすれば、銀貨三十枚程度ははした金である。〈インケルタ〉にいた頃からすれば信じられない金銭感覚だが、今のアトルに金のことを考えている余裕はなかった。
リリファの大剣を鞘に収めたまま杖代わりにして、アトルがよろめきながら一階に下りる。
発熱のせいか冷や汗がひっきりなしに浮かんできた。
何度か階段から転落しそうになり、その度に念動魔術を起動しようとしては出来ず、ひやりとした思いを味わうこととなった。
(魔術が使えねえって、こんなに不便だったっけか……)
見るからに熱の下がっていないアトルの様子に、彼を見た職員の一人が仰天して、受付から飛び出して駆け寄って来る。
「と、特等指定魔術師さま!」
視界が定まらず、吐きそうになりながら、アトルはもはや執念で声を絞り出した。
「――俺の、連れは」
「お、お連れ様ですか?」
戸惑ったように目を瞬かせる彼に、本調子であれば手近な物を投げ付けたくなるほどアトルは苛立った。他に誰がいるんだと、八つ当たり気味に内心で悪態を吐く。
そんな彼の内心を知る由もなく、職員はあっさりと言った。
「お連れ様でしたら、少し前にお迎えにいらした方々と一緒に出発なさいましたよ。
ああ、そうです、『今までお世話になりました』と伝言を――」
アトルの表情を読み、職員が口を噤んだ。
彼の表情に、極度の動揺と激怒と困惑が同時に浮かんだのだ。
「あ、あのぅ……なにか……?」
おずおずと発せられた問いを一先ず無視し、アトルは呻いて額を押さえた。
思わずよろめいた彼を、職員が手を伸ばして支える。
しかしすぐに、杖にしている大剣に体重を掛け直し、アトルは職員の手を離れた。
「――迎えってのは、誰が」
アトルは辛うじてそう尋ねた。
彼もやはり、これがアジャットたちの意思ではないかということを考慮したのである。
「指定魔術師さま――ということでしたが……。
赤い髪の女性と、黒い髪の男性の二人連れでいらっしゃいました」
アトルは絶望して目を閉じた。
明らかにアジャットたちではない。黒い髪の男性という条件にリーゼガルトは当て嵌まるが、連れの女性に当て嵌まる人間は、アトルの仲間の中にはいない。
だが念のために、押し殺した声で尋ねた。
「――男の方。風体は?
そうだな……長髪だったか? 傭兵っぽかったか?」
まさか、というように、職員は大きく目を見開いた。
「いいえぇ、短髪でいらっしゃいました。
傭兵のようには、とてもとても。むしろ御両名とも、どちらかといえば軍人らしい格好をなさっていましたよ」
軍人、という語句に、アトルの喉が引き攣る。
デイザルトの顔が脳裏にちらついた。
「……名前は? 確認しなかったのか?」
「は? ええ、していません……」
アトルは歯軋りした。
立っていることも辛い高熱に、更に怒りの熱が加わった。
「――ってことは、身分証の確認も、しなかったんだな?」
「はい……」
さすがに何かまずいことをしたらしいということが分かったのか、職員の表情がどんどん居た堪れないものになっていく。
「その二人が贋者だってことは考えなかったのか!? あいつは――!」
激情のために怒鳴り、しかしすぐにアトルは口を閉じた。
くらくらと眩暈がする中で、呟くように謝罪を入れる。
「……悪い。あいつが誰か、あんたらは知らねぇよな」
アトルが考える最悪の場合は、レーシアを連れて行ったというその二人が、ミラレークスの人間ではないということだ。
最悪の中の更に最悪を言うならば、それが宝国の人間であるということだ。
しかし一方で、それがミラレークスの人間であったとしても、アトルとしては十分に悪い事態である。
レーシアの身柄が、どこのものであれ何かの勢力に、彼女単独の状態で押さえられたなど、悪夢にも程がある。
アジャットたちが傍に付いているならまだしも、レーシアが一人で、彼女の身と自由を守り切れるとは思えないのだ。
しかし、レーシアからの伝言があったということは。
(脅されて言わされた……? それとも本気か?)
本気でないとは信じたいが、確認は必要だろう。
「……俺の、連れは、どんな様子だった?」
職員は特等指定魔術師の機嫌を損ねたらしいとあって首を竦めていたが、アトルの声が大人しいものに戻ったので、ほっとした様子で話し始めた。
「ええ、ここにいらしたときと変わらない様子でしたよ。
淡々と付いて行かれましたし、お迎えがあるとお伝えしたときも、特に考えられた様子もなく、行くと」
だからこそ、必要以上に、迎えに現われた者の身元の確認をすることもなかったのだと訴える。
再びアトルは呻いた。
(あのやろう――!
俺に一言の相談もなく!)
アトルがよろよろと支部の出口を目指し始めると、職員が泡を食った様子でそれを止めに掛かった。
「い――いけません! お休みにならなくては!」
「いいから」
ごつり、ごつりと、リリファの大剣の鞘と床との間で硬質な音が鳴る。
「いいから!?
いえ、あの、協会の指示ですし、何も問題はないと思いますよ!」
ですから落ち着いて! と職員が半ば叫ぶように言う。
その騒ぎに、周囲からも視線が集まり始め、その鬱陶しさに、アトルは心底うんざりした。
ただでさえ熱に浮かされている頭に、職員の叫び声が突き刺さって痛い。
(とにかく、あの馬鹿を捕まえねぇと……)
捕まえて、どういうつもりなのか問い詰めなくては、アトルの気が済まない。
レーシアが今どこにいるのか、それが問題だ。
職員がまた数名、騒ぎを聞き付けて受付の向こうからこちらへやって来た。
状況を見て取り、病人を出歩かせる訳にはいかないという常識と、指定魔術師の機嫌を損ねる訳にはいかないという職務意識との間に挟まれて、しばし葛藤した様子である。
しかし僅かな逡巡の末、その葛藤は常識の方へ傾いた。
「いけません、取り敢えず今はお休みになって」
「お連れ様のことが心配なのでしたら、こちらから本部に確認を入れておきますから」
「協会の指示ですし、何もおかしいところはありませんよ」
魔力さえあればこいつらを今すぐ黙らせてやるのに、と思いながら、アトルはそれらを無視して、よろめきながらも支部の外に出た。
途端に目を刺す夕日の光に目を細める。頭痛がいっそうひどくなった。
さすがに指定魔術師の腕や肩を掴んで引き戻すのは如何なものかと思ったらしく、職員たちは支部の玄関で顔を見合わせ、対処に困った様子を見せている。
彼らを一度振り返って、アトルは呟くように言った。
「俺がぶっ倒れようと、……あんたらのせいじゃねぇし、大丈夫だぜ」
責任を逃れるというその言葉に、職員たちの意識が動いた様子である。すなわち、特定指定魔術師の意向を尊重するという方向に。
それを察して、アトルは熱を持った息を漏らして尋ねた。
「――で、俺の連れはどっちに行ったんだ?」
躊躇いながらではあったが、職員たちが顔を見合わせた。その中の一人が代表して半歩前に出る。
馬車であちらに、という言葉と共に指し示された方向を見て、アトルは眩む視界を瞬きで抑え、ひとつ頷いた。
「――どうも」
大剣を杖にして、明らかに重病人といった顔色でよろよろと進むアトルは、当然ながら目を引いた。
馬車を使うなら、まず間違いなく大通りに出たはずだと考え、大通りに出てその隅を通っている形だが、数分のうちに何度か「手を貸そうか?」という申し出を受けたくらいである。
この時間、誰もが家路を急いでいるだろうということを鑑みると、相当酷い姿を晒していると考えてよいだろう。
尤もアトルは、その全てを断った。
亀の歩みの速度で進んでいることを思えば、手を借りたい気持ちは山々だったのだが、万が一ミラレークスとの間で話が拗れると、恐らくその親切な人まで巻き込んでしまうことになるのである。自粛するべきだった。
(追い着いて――どうすっか。あいつを取り敢えず怒って……ミラレークスに、穏便にお引取り――やっぱり無理だよなあ)
そもそもの問題は、追い着けるか、ということだ。
馬車と徒歩でさえ速度の差は如何ともし難いというのに、今のアトルと馬車とでは、比べ物にもなりはしない。
(どうすりゃいい……)
熱と痛みで考えが纏まらない。足元も覚束ない。
今にも倒れそうだ――と思った瞬間、肩に衝撃を感じて、実際にアトルはその場に引っ繰り返った。
「――――!?」
目を白黒させたが、なんのことはない。横手から人が衝突してきたのである。
普段の――というか、多少調子が悪くとも、アトルなら避けるなり支えるなり出来るはずだが、今の彼にそれは到底無理だった。
ちょうど、脇道との交差点だった。
アトルが脇道の出口を通り過ぎようとしたのと、脇道からその人物が飛び出して来るのとが、全く同時の出来事だったのである。
余りにも見事な衝突に、周囲から声が上がった。
大丈夫か、という声もちらほら聞こえてくるものの、当事者は両名、それに応えるどころではない。
後ろに倒れ、銃と道具箱を下敷きに腰を強かに打って、止めに大剣の柄で頭を打ち、アトルは無言で悶絶した。
同じように、アトルに衝突してきた方の人物も、頭を押さえてしゃがみ込んでいる。両手をポケットに突っ込んで突き進んでいたことが仇になったようで、どうやらアトルの肩に頭がぶつかったらしい。
「――いぃってぇえ!」
その人物は盛大にそう叫び――その叫び声の柄の悪さで、こちらを心配していた周囲の人々を追い遣り――、涙の滲んだ濃灰色の目ではっしとアトルを見た。
「どこ見て歩いて――んん?」
剣呑な光を宿していた目が、アトルの様子を見てぽかんと見開かれる。
「ん? なんだ兄ちゃん、具合悪ぃの?」
アトルは答えるどころではない。
それを見て取って、相手は「まずった」と表情で語った。
それは、十四か十五といった年頃の、細身の少年だった。
年齢の割には背が高いが、しゃがみ込んでいる今、それは目立たない事実である。
全体的に黒い印象の服を着ているが、シャツだけは白い。シャツの襟元は寛げられて、彼の雰囲気を怠惰そうなものにしていた。
背中に小さな荷物を背負っている他は軽装である。
彼の漆黒の髪は短く切られてあちこちに柔らかく跳ね、前髪が目に掛かってしまっている。その下で、おろおろとした表情が形作られていた。
「え、マジで具合悪ぃの? え? 俺、悪いことした?」
立ち上がって、二、三歩分のアトルとの距離を詰め、少年はアトルのすぐ傍で屈み込んだ。
痛覚と衝撃に止めを貰って、そちらを見るどころではないアトルには、その様子は一切見えていない。
屈み込んだ少年の胸元から、長く太い銀鎖に下がった煙水晶が垂れた。
完璧な球形に整えられ、虹色の光を宿す工芸品である。
その煙水晶が、こつ、とアトルの頭に軽く当たった。
「おっと」と気怠げに呟いて、少年は煙水晶を右手で掴んで襟の内側に滑り込ませる。
「兄ちゃん、おい、大丈夫かよ?」
アトルはようやく顔を上げた。
眩む視界に相手の姿もよくは見えなかったが、遠慮なく言う。
「せめて、助け起こせ」
「はいよー」
罪悪感を覚えているのか危うい口調でそう答えると、少年は立ち上がって右手を伸ばし、左手をズボンのポケットに突っ込んだ。
その状態で、伸ばされたアトルの右手を取って立ち上がらせる。
足元がふらついている状態で、片手のみを支えとして立ち上がった結果、当然ながらアトルはよろめいた。
「おおっと?」
自分よりも身長の高いアトルを楽々と支えた少年は、片手をポケットに仕舞ったままではあり、なおかつかなり気怠げな表情ではあったが、にぃ、と微笑んでみせた。
「すんげぇ熱じゃん。兄ちゃん大丈夫」
「誰かさんのせいでさっぱりだ」
アトルの呻くような切り返しに、ははっと少年は笑った。
「病人が何してんだよ、寝てろよー」
「人捜しだよ」
荒い息に紛らせて、アトルはそう呟いた。
「え、マジ?」
少年はなぜか嬉しそうに、人懐っこい笑顔を浮かべた。
そうすると笑窪が出来て可愛らしい印象の顔になる。
「俺もなんだよなー。一緒に来てた連中と逸れっちまってさあ。
あ、俺、ここの地元の人間じゃねえんだけど」
知らねぇよ。
内心でそう呟きつつ、アトルは杖代わりの大剣を握り直す。
それを見て、少年は興味を覚えた様子を見せた。やや身を乗り出す。
「うわあ、かっけぇじゃん。――ん……?」
はしゃいだ後、何やら訝しげに首を捻った少年を無視して、アトルは右手を少年から離した。
「……前見て歩けよ。じゃあな」
そのまま進もうとしたアトルを、「あー」と、どこまでも怠そうな声を出しながら、少年が引き止める。
「待って、待て待て、待てって兄ちゃん」
振り返るのも難しいアトルはただ足を止める。
とっ、と軽い足取りでアトルの前に出た少年が、にぃ、とまた笑った。
その顔に、ふとアトルは既視感を覚えた。
――この顔を、どこかで見たことがあるような。
そんな、ほんの僅かな違和感。
「俺もさあ、他の連中がどこ行ったか分からねえからさ。
見付かるまで、そっちの人捜し手伝ってやんよ?」
「……は?」
アトルは眉を寄せ、その仕草にさえ痛覚を刺激されて呻いた。
痛みが落ち着いてから、首を振ることも憚って、言葉のみでそれを謝絶する。
「いや、気持ちだけで……十分だ」
「いやいやいやいや」
少年は右手を伸ばしてアトルの左手を掴んだ。
それだけでがくんと前に体勢を崩したアトルを見て、これ見よがしに溜息を零す。体重を片足に掛け、少年はやれやれと首を振ってみせた。
「ほらー、兄ちゃんふらふらじゃん。倒れるぜ、その辺で。
病人のくせにうろついてるとか、兄ちゃんもここが地元じゃねえんだろ?」
「いや……」
ここまで食い下がってくる親切も珍しい。
罰当たりなことにそれに苛立ちつつ、なおも拒否しようとしたアトルに、少年は両手をポケットに突っ込んで、にっと笑った。
「いいじゃん、別に困ることないだろー。
それともなに、あんたが捜してるの、あんたの女? この美少年に女盗られるかもって思ってんの?」
両手を仕舞いこんだまま、踊るような調子で肩を左右に揺らす。
自信があるのか冗談か、計りかねる口調である。
「いや、じゃなくて、俺は今、結構な揉め事を抱えてて――」
アトルが切れ切れに言うと、少年は胸を張った。
夕日に照らされて、その様子には確かに、かなりの美少年としての風情が漂っていた。
「んなもん、大丈夫だろ。俺、結構強いんだぜ」
何とも言えずにアトルが言葉を呑み込むと、それを了承と受け取ったのか、少年は先程とは反対側の足に体重を掛けて、口角を上げた。
「そんじゃあしばらくよろしく。
多分、今頃俺の連れが涙目になってんだろうから、そんな長いお付き合いにはならねえと思うけど」
首を傾げて、目許に掛かる髪を鬱陶しげに右手で払い除け、少年は名乗った。
「そうそう。俺、ジークベルトな」




