01 章始め 上/特別給与の出る話
今日からここに住む、と言われた日のことを覚えている。たくさんの場所を巡って来たけれど、初めて訪れる国だった。
人々は柔らかい笑顔で会釈をしてくれて、この国を気に入っていただけるなら嬉しいことだけれど、と言った。
そんな風に歓迎されるのは初めてだったけれど、あのひとがしみじみと、この国ではこれが当然なんだと言って、そういうものかと納得したものだ。
王宮は見上げるような丘の上にあって、登らなければならない階段の段数には顔が強張ったけれど、王宮からのお迎えの人たちが、輿を二つ持ってきていて、それに乗るように言われた。
溢れる魔力が重さを相殺してくれているからということもあって、何の気兼ねもなく乗り込んだ。
輿は案外揺れて、あのひとが、落っこちないか心配しているようにじっとこちらを見ているのが見えた。
見えてきた王宮は大きく、豪華で綺麗で、小さな国なのにこんなに王宮が大きいなんてと思って、わくわくしながら探険したいと言った。
あのひとは少し考えてから、いつものように笑った。――じゃあ、一緒に行こうか。
あちこちにあのひとを引っ張り回し、厨房や使用人の部屋まで覗こうとするとさすがに止められた。あのひとは自分を軽く小突き、こら、ちょっとは考えなさい、とお道化た口調で叱った。
誰かに怒られるの、と自分が訊けば、あのひとはくすくす笑って答えてくれた。――怒られるのなら、一緒にね。
そう、いつも一緒だった。
片時たりとも離れず、二人で一人の人間であるかのように扱われ、そのことが堪らなく嬉しく、誇らしかった。
だから、置いて行かれるなんて思っていなくて、そう告げられた時には随分拗ねて、冗談だと固く信じようとしたのだ。
実際にあのひとが行ってしまってから、二、三日は拗ねて不貞腐れていた。あのひとがいないことが不安だったし、いくら宝士がいたって、独りだという感情は拭えなかった。
私とあのひとは、この世界で二人きりの「化け物」なのだから。
私は、置いて行かれた。だからあのひとが、あの場にいたはずがない。
何かの見間違いに違いない。そうに違いない。見間違いでなければならない。
もしも見間違いでないとすれば、それは――
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レーシアの言葉に、ミラレークスの四人が眉根を寄せる。
「聞いたことないわぁ」
ミルティアが四人を代表して口を開いた。レーシアも「なんでだろう?」という顔をしつつ、きちんと説明をすることにしたらしい。
「ええっと、〈動〉の宝具は事象を起こすでしょう? それに対して〈静〉の宝具は起こった事象を打ち消すわけでしょ? 封具は起こる前の事象を否定するから、〈動〉の宝具に対しても〈静〉の宝具に対してもよく効くの」
もはや完全に蚊帳の外に置かれたアトルは、道具箱の中身の確認を終え、他にすることもないので中身をせっせと整理し始めた。「サラリス」の手紙は一番下に置いておく。
「一昨昨日に私が彼の血を止めたのも、封具の力なの。あれ以上の出血を防いで、窒息を防ごうと思って」
この言葉には反応して、アトルはひょいと頭を下げる。
「その節はどうも――ッいてっ」
胸の傷を押さえて呻いたアトルに「動かない方が……」と言った後で、レーシアはアジャットたちに向き直った。
「彼の怪我は、出血とか窒息とか、あの場で起こるはずだったことは全部回避されてる。怪我の悪化も。だから大人しくしていれば治るの。だけど痛みは、その都度痛覚が刺激されてしまうから、全部は消したりできないの。傷そのものの痛みはなくなっているはずなんだけど、何て言うんだろう……。彼が痛いと認識していることは痛いの」
アジャットが頷いた。
「ほお。つまり今、彼が『頭を下げれば傷が引き攣れて痛むはずだ』と認識したからこそ、痛みがあったというわけだな?」
「うん、多分」
レーシアが自信なさげに言い、アトルは思わず多分って何だよと突っ込み掛けたが、リーゼガルトがそれよりも早く言っていた。
「〈器〉でもよく分かんねえのか」
レーシアはこくりと頷いてから、神妙に言った。
「私の中には宝具の〈糸〉と封具の〈糸〉があるでしょう。よく分からないけれど、それで宝具の力を、生じる前からひたすらに封具が相殺してくれてるらしいの。そうしている間は封具も暴れたりはしないし。だから本当は、封具であれ宝具であれ、使ってはいけないものなんだけど……」
「それでか」
アジャットが平然と言った。
「アトルくんと一緒にレーシアさんまで倒れたので、一体どうしてだろうとは思ったが」
罪悪感でアトルは固まった。
それを見てから、リーゼガルトが嘆息して言う。
「アジャット……あんたホント空気読まねえな」
「ここは黙っておいてあげるところでしょぉう?」
ミルティアまでが窘める口調で言い、グラッドはますます眦を下げる。
やっとのことで硬直から回復したアトルが、どもりながらも声を上げた。
「倒れたって、えっ? なっ、なんで、いや、大丈夫だったのか!?」
ここで良識ある大人ならば、実際にレーシアは無事だったのだからはぐらかし、レーシアが「気にしないで」と言えるような空気を作る。
しかしアジャットは真面目に答えていた。
「ふむ。レーシアさんは倒れてから一日ほど眠っていたが、その間と目が覚めてからちょっとの間、発熱していたな。今はご覧の通り元気なようだが」
アトルは勢いよく姿勢を正し、レーシアに向き直ると全力で頭を下げた。傷が引き攣れてまたしても意識が飛び掛けたが、根性で堪える。
「悪かった!」
レーシアが若干怯んだが、頭を下げ続けるアトルはそれに気付かない。
「本当に悪かった。それから、助けてくれてありがとう」
レーシアは完全に怯み、「えーっと」という声も出せない有様だった。そこで、未だにレーシアの後ろに立つミルティアがこそっと囁いた。
「気にしないで、とかぁ、頭を上げて、とか言うのがぁ、正解」
はっと我に返ったレーシアはそれを実践した。
「きっ、気にしないで……?」
語尾が上がってしまったのはご愛嬌である。
アトルは顔を上げ、深く息を吐いた。
「――で。もう大丈夫なのか?」
レーシアはこくこくと頷き、控えめに言った。
「きっとあなたの方が重傷なの。私は単に、呼び出したせいで力を増した封具の影響を受けただけだけど、あなたは刺されたわけだし……。まだ動けないでしょう?」
アトルは言葉に詰まった。
確かに動けない。それは実感として分かる。出血は止まり痛みもないが、胸にはしっかりと穴が開いているのだ。
沈黙したアトルを周囲が窺う。
「どうした? まさか痛むのか?」
リーゼガルトが少々焦ったように問う。アトルは力なく首を振った。アジャットが首を傾げた。
「動けないとまずいことでもあるのか?」
「オヤジたちの所に戻れねえじゃねえか!」
アトルは怒鳴り、弾みに襲って来た痛みに数秒間息を止めた。アジャットはぽんと手を打つ。
「そうだったな。――では、こうしよう。我々がきみをケルティまで送る」
アトルは怪訝な顔をした。「ケルティに帰りたい」と自己紹介で言ったことは覚えていたが、なぜそんな提案がされたのかが分からない。
「――は? なんでまた?」
「何事にも時間というものは必要だ」
アジャットは言い、軽く身を乗り出した。アジャットの隣に座るレーシアが、アジャットの反対側、左側へと重心を移動する。アジャットの勢いに、アトルも少々身を引いた。
「はあ?」
「レーシアさんは全くもって我々に打ち解けてくれない。目が覚めてからの一日半、ただの一度も自分からは口を利いてくれなかった上、きみを防波堤のようにしていた」
防波堤ってなんだ、とアトルはレーシアを見たが、レーシアはきょとんとしているのみ。
「このままでは恐らく――いや絶対に、ミラレークスまで同行してはくれないだろう」
「いやいや待て待て」
アトルは慌てて言った。
「なんで? ミラレークスの本部ってシャッハレイにあるんじゃねえの?」
「それはジフィリーア王国の本部だな」
アジャットは丁寧に言った。
「我々が向かうのはリアテード皇国のミラレークス本部だ」
「南に向かうってことか」
アトルが言うと、アジャットは頷いた。
「そうだ。少々遠回りな道を選ぶことにはなるが、ケルティを通らないこともない」
ジフィリーア王国三大都市は、王都アリーフを頂点とした歪な三角形を描く。北にアリーフ、その南東にシャッハレイ、そしてシャッハレイの南西にケルティがある。たしかに、シャッハレイからリアテードを目指そうとすれば、ケルティを通らないこともない。
「きみをケルティに送るまでの時間で、是非ともレーシアさんと親交を深めたい」
アジャットは言い切り、レーシアが多少引いた。
アトルは考え込んだ。悪い話ではない――どころか、極上だ。アトルにとって負の要素が一切ない、上手すぎる話だ。
「いや……ホントに送ってくれるんならありがたいけどさ。確認したいんだけど……俺に同行しろって言ってたの、あれ撤回ってことでいいのか?」
撤回してもらわないと、誘拐に怯えながら過ごすことになる。
アジャットは居住まいを正した。
「我々も考えたのだが、無理に同行してもらうのも得策ではない。きみにはきみの信念があって、父上たちの下に帰りたいようだし――」
「えっ、あのひとお父さんなの?」
「違う、オヤジってのは呼び方で血は繋がってないし親子じゃない」
レーシアが不意討ちで頭を殴られたような顔をし、アトルが冷静に訂正した。それを聞き、アジャットは言い直す言葉を探したようだった。
「保護者の方の下に帰りたいようだし――」
この歳で保護者って、とアトルは思わなくもなかったが、話がややこしくなると思い、黙っていた。
「下手にきみが騒いで、我々の昇給や出世に響くのも問題だ」
アトルがレーシアに視線を向けると、レーシアは何を言いたいのかと尋ねるように首を傾げた。アトルは苦笑して尋ねた。
「この四人がそんな話をしてるのを聞いたか?」
レーシアはばつの悪そうな顔をした。
「ううん。あまり近寄らなかったの。この人たちのことはよく分からないし、あなたは目を覚まさないし」
アトルはそうかと頷き、その実しっかりと四人の様子を観察していた。
レーシアに尋ねたことによる動揺も、レーシアが明確な言い方をしなかったことによる安堵もない。
――ひとまずは信頼していいだろう。どのみち怪我を何とかしなくては、動くに動けない。
アトルは笑顔で四人に向き直った。
「分かった。じゃあ、ケルティまで世話になる」
「特別給与が出る話があるぜ」
リーゼガルトが、身体の前に抱えた大刀に寄り掛かるようにして身を乗り出しながら言った。
「給与?」
アトルはぽかんとした。
「食費の請求を分割にしてくれるとか、そういうことか?」
一瞬ぽかんとした後、リーゼガルトは笑い出した。
「分割? あんた面白えな。そもそも請求したりしねえよ。俺たちは高給取りだからな、ここにいる間は衣食住は奢る」
アトルは思わず頭を下げた(そして微かに呻いた)。
けらけら笑ったリーゼガルトは、片膝に肘を突いて頬杖を突いた。
「レーシアさんと俺たちの仲を取り持ってくれたら、一昨昨日に貸した銃あるだろ? あれと同じのを無料でやる。整備の仕方も教えてやる」
「おおおおっ」
「三丁くらい」
「マジで!?」
レーシアが顔を強張らせているのだが、アトルは報酬に喰い付いた。
「レーシアと仲良くなれるようにすればいいんだな!? やる!」
「ええっ……」
レーシアが困惑の声を上げるも、〈インケルタ〉の「餓鬼」たちに武器を見せれば喰い付くのは確実なことなのだった。
「その上」
リーゼガルトは頬杖を外して指を立てた。
「あんた魔術師級の魔力持ってんだろ? あの銃が大暴れしてたしな」
アトルは戸惑って瞬きしながらも首肯した。
「え? ああ、まあ」
「勿体ないから鍛えてやる」
アトルはまじまじと相手を見た。リーゼガルトは眉を寄せる。
「何だよ。信用出来ねえってか?」
「いや、そうじゃなく……」
アトルは首を振る。
「あんたの利点が分かんねえ」
リーゼガルトは溜息を吐いた。
「これからさ、あの襲撃犯みてえな奴らはわんさか来るだろうけどよ、それ以外のときは暇なんだよな。ってことで、ちょうどいい暇潰し。ただし――」
立てた指を振る。
「オヤジさんとやらのとこに戻った後、誰かに教えたりするんじゃねえぞ」
「中途半端な奴が教えたら大惨事になるからだろ? 分かってる」
アトルはぱあっと表情を明るくした。
「やった、いいこと尽くしだ!」
肩を竦めたのはミルティア。
「まぁねぇ。あたしたちだって、民間人を延々引き留めた挙句にそいつに怪我されたらぁ、ちょっとは胸が痛むわぁ」
アジャットがそそくさと立ち上がった。
「な、何はともあれまずは食事だ。アトルくん、きみも空腹だろうし、出血した分を取り戻さないとな! ええっと、鍋は――」
「じっ、自分がやりま――あ、いえ手伝ってください……」
グラッドが言い掛けたが、空気を呼んで発言を修正する。
二人が山と積まれた荷物の中から鍋を発見し、外に出て行く。それを見ながらリーゼガルトが呟くように言った。
「――あんたたちが俺たちのことを警戒するのは尤もだよ。しねえ方がどうかと思う。けどさ……」
アジャットが閉めた扉の方を見たまま、彼は続けた。
「俺は俺がいい奴だって断言は出来ねえし、いい奴だって保証できる知り合いもあんまりいねえけど、あの人は――アジャットは善人だよ。それは断言できる」
ミルティアが肩を竦めたが、反対はしない。アトルとレーシアはリーゼガルトの方を見つつ、黙っていた。
「レーシアさんがどうしたいかっていう意思を重視できないのは申し訳ない。でも、事情は話すに話せない。アジャットは最大限、きみを厚遇させるはずだ」
レーシアはそれを聞いてから、ごく自然な態度で首を傾げた。
「あなたたちが宝具を回収したいなら、私は構わない。私の中の〈糸〉が繋がっている宝具の場所も教えてあげる。でも、あなたたちが宝具を使いたいなら、私はあなたたちの所にいられない」
ミルティアが困ったように眉を下げた。
「宝具がぁ相当やばいものってことはぁ、お偉方はみんな知ってるわぁ」
「宝具が大したものだとか、使ったらどうなるかとかじゃなくて」
レーシアは微妙にミラレークスの二人から身体を遠ざけながら言った。
「サラリスが、使わないようにって言ったの」




