12 「未然の事象を否定するもの」
妙に柔らかな、寝心地のいい場所に寝かされていた。浮上し掛けた意識が、その心地よさにまた微睡み始める。
近くで人声がしていて、その低められた声の調子がまた絶妙な子守唄となっていた。
「……きみが自分のことを話したくないのは分かった。では話を変えよう。
――治療は急がなくていいと言っていたな。どういう意味だ?」
「まだ起こっていなかったことは起こらないの」
「悪いが意味が分からん」
「だから、そのままの意味。もうあれ以上は出血しないし、傷も広がらない。きっと身体の中も傷付いただろうけれど、それも絶対に悪化しないから、今生きているから治るまで絶対に生きているわ」
「宝具じゃぁないならぁ、何なわけぇ?」
「だから――っ、きゃあ!」
いきなり、子守唄の歌い手の一人が悲鳴を上げ、なぜだかは分からないがそれで焦燥感に駆られ、彼は咄嗟に目を開けて身体を起こした。直後に襲った身体を貫くような激痛に、危うく意識が飛び掛ける。
「――――ッ!」
胸を抑えて悶絶したアトルに気付き、のほほんとした調子の声が言った。
「ああ、起きたか。案外元気そうで何よりだ」
アトルは涙目でそちらを睨みつけた。フードを被った不審な風体の女が座っていた。
「起きない方がいいと思うんだけど……」
案じるような声がして、視線をずらすと女の隣、アトルの頭に近い方にレーシアが腰かけて首を傾げていた。その背中には小麦色の髪を二つに結った少女ががっちりと抱き付いており、先程の悲鳴の原因と推察される。
慎重に胸元を探ったアトルは、自分が上半身裸で、胸に包帯を巻かれていることを確認した。止血のためというよりは、傷が空気に触れることを防ぎ、感染症を予防する目的のようだ。
それを確認してから、アトルは周囲を見渡した。
部屋の中だった。縦に長い部屋の中に、雑然と物が積まれている。
その荷物の山は衣類であったり本であったりするようだが、どうやら整理整頓の才能に恵まれた者がここにはいないらしかった。
その山々を縫うようにして通り道が確保されており、また大きな作り付けの寝台が二つ鎮座している。一つはアトルが今寝かされているもので、この部屋は長方形だが、その長い辺を成す壁の一方に沿わせるようにして設けられ、もう一つの方は向かい側、もう一方の長い方の辺を成す壁に沿わせるようにして設けられている。寝台の下は戸棚になっているようだ。
アトルから見て前方、足元側に扉がある。アトルが寝ている方の寝台があるのと同じ壁にあるのだが、扉の前には三段ほどの下りの階段があり、床が抉られて低い位置に扉が設けられていた。
二つの寝台の上と、アトルの頭側に窓があり――頭側にある窓の方が二回りほど大きい――、そこから陽光が燦々と降り注いでいる。
陽光が燦々と――。
日の光――。
「うわああああっ!」
アトルは絶叫し、レーシアが身を縮めるのにも構わずに叫んだ。
「なんでもう朝!? オヤジたちに確実に置いて行かれちまう!」
「訂正しよう」
フードの女が真面目に言った。
「今は朝ではない。昼は回っている。そして誤解を防ぐために言うが、きみは丸二日と半日寝込んでいた」
アトルは棒を呑み込んだような顔をした。
「……丸……二日……」
そこではっとして叫ぶ。
「嘘だろ!?」
女はどこまでも真面目に言った。
「いいや。きみは一昨昨日の夜に倒れた――いや、もう一昨日になっていたのかな?」
アトルは後ろに倒れ込み、呻いた。
「最悪だ」
「まぁまぁまぁ」
少女がにこにこしながら言った。
「別にぃ、いいじゃなぁい。これからぁ、あんたがなんで助かったのかぁ訊くところだしぃ」
アトルは唸った。
「二日もあったのならその間に訊いておけよ」
「そうしたかったのだが」
女が言う。
「レーシアさんは話してくれない。是非説得して欲しいと思い、こうして待っていたんだ」
アトルはレーシアを睨んだ。レーシアは身を竦めつつ、言い訳の口調で呟いた。
「だって私だってこの人たちのこと知らない」
「ああ、そりゃそうだな」
アトルは寝転んだままで言い、今度はゆっくりと起き上がった。
「あんたら誰だよ」
女はぽんと手を打った。
「そうか、自己紹介を失念していた。――ちょうど」
扉ががちゃっと開いた。
「あとの二人も帰って来たところのようだ」
女が言葉を締め括り、傭兵風の男ともう一人の男が部屋に入って来た。傭兵風の男は青い目でアトルを見て、にっと笑う。
「おう、にいちゃん。目が覚めたのかい」
もう一人はぺこぺこと頭を下げながら周囲から本を回収している。どうしてそんなことをするのかと疑問に思い、ふとレーシアたちが何に座っているのかを確認したアトルは呆れた息を漏らした。
レーシアも女も、そして今はレーシアの後ろに立ってはいるが少女も恐らく先程までは、積み上げた本の上に座っていた。
三十代後半の男が本をもう一山積み上げ、傭兵風の男に勧める。彼は大刀を背中から下ろし、身体の正面で抱えると、本の上にどんと腰を下ろした。勧めた方の男はその後ろに身を縮めて立った。
「自己紹介から始めるぞ」
女が言い、三十代後半の男がへこへこと頭を下げ、傭兵風の男が「はいよー」と答える。
「では私から」
女は言い、ごそごそと外套の中の懐を探ると、金鎖を取り出した。
じゃらじゃらと音をさせながら引いたその先端に、金色の地に深緑の紋章の刻まれた掌ほどの大きさの盤があった。紋章は羽ペンと剣が交差し、それを炎紋が囲っているもの。そして紋章の下には青字で名前が彫られていた。
「私はアジャット・レーヴァリイン。魔力法協会――ミラレークスの高等指定魔術師だ」
アトルは沈黙し、それから言った。レーシアは何を言われたのかさっぱり分からないらしい。
「あのさ……。ミラレークスでそれって、どれくらい偉いわけ」
「失礼した」
女――アジャットは気を悪くした様子もなく言い、フードの奥の顎に手を遣る。
「ミラレークスの支部に一般にいる者たちは、魔術師でないことの方が多い。ミラレークスに所属する魔術師たちは階級に分けられている。
まず、一般魔術師と指定魔術師に大別される。
一般魔術師は色で分けられ、実力が下から順に、白、黄、橙、茶、黒だ。
そして指定魔術師になるには一定以上の魔力が求められる。こちらは実力と権力が下から順に、準指定魔術師、下等指定魔術師、中等指定魔術師、高等指定魔術師、最高指定魔術師だ。そしてこの序列から外れるのが、特定の分野で並ぶものなしと認められる、特等指定魔術師だ」
アトルがぽかんとした顔をしているので、傭兵風の男が苛立った様子で口を挟む。
「一般魔術師は要するにヒラだ。指定魔術師はそれなりに偉くて権力もある。で、現在大陸中のミラレークス加盟国の中で、準指定魔術師は五百人ちょっと、下等指定魔術師は二百人ちょっと、中等指定魔術師は九十人ちょっと、高等指定魔術師は三十人ちょっと、最高指定魔術師は五人、特等指定魔術師は七人だ。偉さが分かったか」
「分かった。あんた偉いんだな」
アトルはアジャットを見ながら言い、アジャットはふふと笑う。
「我々魔術師は魔術師としての階級とは別に、他の、非魔術師と同じような階級もあってね。それでは私はミラレークス本部で、調査部の――」
「もういいだろ!」
傭兵風の男が遮った。
「ミラレークスの体系はややこしいんだから、説明してたら日が暮れるわ! ――俺はリーゼガルト。姓はない。えっと……」
傭兵風の男――リーゼガルトは自分の服をあちこち叩いて、やっとのことでアジャットと同じような身分証を取り出した。ただしこちらは、名前が青ではなく赤だ。
「ミラレークスの下等指定魔術師だ」
はあどうも、とアトルは会釈する。内心では、ミラレークスがレーシアに何の用だよと大混乱を起こしていたが。
「あたしはぁ、ミルティア。姓はなしねぇ。そんな大した家の出でもないしぃ。でぇ」
じゃらりと身分証を出す。名前の色は紫。
「ミラレークスの中等指定魔術師やってるぅ」
こっちの方がリーゼガルトよりも偉いのかよと、アトルはそこに驚いた。
「じっ、自分は――」
三十代後半の男がおずおずと言い出し、やはりおずおずと身分証を見せてきた。
「グラッド・ルオンと申します、はい……。そっ、その、ミラレークス、特等指定魔術師を仰せつかっております」
意外過ぎる名乗りにアトルは目を見開いた。彼の身分証の名前は白色。
「へえ。あんた何がそんなに恐ろしく出来るんだ?」
グラッドは口籠った。言いたくないというわけではなく、どうやら照れたらしい。代わって、ミルティアが答えた。
「グラッドの真骨頂はぁ、広域戦における殲滅だわぁね。一昨昨日の襲撃もぉ、グラッドが始末付けたのよぉ。尻尾巻いて逃げてったあいつら、ざまぁ」
人は見掛けに拠らないものだ、とアトルは深く感じ入った。
「では、そちらは――?」
アジャットが尋ね、アトルが肩を竦めて名乗った。
「アトルだ、ただのアトル。取り敢えずとっととオヤジたちを追い掛けるか、ケルティに帰るかしたいんだけど」
アトルの自己紹介がさくっと終わったため、あっさりとレーシアの番が来た。レーシアは少し迷ったようだが、名乗って終わらせようと思ったらしい。早口で言った。
「レーシア」
四人の圧倒的圧力。それで終わらないよなと、グラッドまでがまじまじとレーシアを見る。レーシアは
半泣きでアトルを見た。
「ど、どうしよう」
「うん、まだ話してほしいみたいだから」
アトルは言った。
「好きな食べ物と嫌いな食べ物と、趣味と年齢くらいは紹介したら?」
アトルは無論、からかいと冗談の意味で言ったのだが、どうやらレーシアは真面目に受け取ったらしく、言い始めた。
「ええっと、歳は十七。好きな食べ物は――甘いもの。お菓子は好き。嫌いな食べ物は辛いもの。趣味は――」
「違う! そうじゃない!」
リーゼガルトが叫んだ。
「まずあんた、エンデリアルザとどういう関係だよ?」
アトルは慌てて会話を止めた。
――何も知らないままでこの子の人柄に触れてほしい。
「待て待て! そういうのはおまえらだけで話せよ! 俺ここにいるから! 一般人がここにいるから!」
「そうは言っても」
アジャットは生真面目な声音で言った。
「レーシアさんはきみのことを最も信頼しているようだし、そもそもきみだって、どうして自分が助かったか知りたいだろう?」
知りたい、好奇心は無論ある。しかしアトルは「サラリス」の手紙を道具箱に持っている状態で――
道具箱?
「俺の持ち物はっ!?」
いきなり叫んだアトルに、アジャットたちは面食らったようだったが、すぐにグラッドが寝台の下からアトルの小刀と道具箱、小さな角灯を取り出した。
無事だったことにほっとしつつ、アトルはそれを受け取った。
それを尻目に、アジャットはレーシアに向き直る。
「きみとエンデリアルザの――」
「だからっ! そういうことはっ! 俺のいない所で話せっ!」
アトルが叫び、ミルティアが眉を寄せた。
「はーなーしーがー、進まないんだけどぉっ」
「進ませねえようにしてるんだろうが! 俺の! いない! 所で話せっ!」
リーゼガルトが頬を掻く。
「そう言われてもなあ。あんたがどう言おうが、俺たちはあんたを巻き込まざるを得ないんだぜ? 何せ奇跡の救命だ」
「さてレーシアさん、きみとエンデリアルザの関係はどういったものなのかな?」
アジャットが言い、レーシアが「どうしよう」と書いてある顔でアトルを見た。アトルは開き直って喚いた。
「訊いてくる目的くらい訊き返せ!」
レーシアが目を瞠る。「その手があったか!」と言わんばかりだ。
こいつ、大丈夫か――そんな思いがアトルの胸中に吹き荒れる。包帯がいかにきつく巻かれていようと抑え切れない憂慮の嵐だ。
何となく、「サラリス」が「レーシアのことを知らない人」に拘った理由が分かった。
――レーシアは無防備すぎるのだ。どういう手段かは知らないが、アトルの一命を取り留めたほどの力を持っているのだ、誰にどのように利用されるか分からない。そういうことだろう。
であれば、と、アトルの思考は繋がる。
別にレーシアの事情をアトルが知ったところで問題はない。この後適当に逃げ出して(ミラレークスの腕利き魔術師がいる中でそんなことができるのかは脇に置く)、完璧にレーシアのことを知らないと断言できる誰かにレーシアを預けてしまえばいいのだ(どう事情を誤魔化すかは脇に置く)。
そしてアトルはさっさとオヤジたちを追い掛けるか、ケルティに帰る。要はレーシアが誰かに利用される事態を防ぎさえすればいいのだ。
アトルがそんなことを考えている間に、レーシアは早速、馬鹿正直に直球の質問を投げていた。
「どうしてそんなこと訊くの?」
リーゼガルトとミルティア、そしてグラッドまでが、前者たちはあからさまに、後者は控えめに、「こりゃないわ」という顔をした。
ここまであからさまに訊かれて、真面目に答える気力も奪われようというものだ。
しかし、例外はいる。
「ミラレークスからの命令だ。すまないが詳しくは話せない。きみの、というよりは宝具の回収を命じられた。宝国と樹国に対抗するため、とだけ言ってよしとされている」
アジャットは真面目に答えた。
対して、レーシアは見事な間抜け面を晒した。そんな表情でさえ愛らしく映るのは美形の特権である。
「宝国? なんで?」
レーシアは呟いた。
彼女が宝国――セゼレラで眠っていたことからも分かる、彼女にとって「サラリス」と会った最後の場所はセゼレラなのだ。恐らくはセゼレラと敵対はしていなかったのだろう。
「事情が変わったんじゃないのか」
アトルは言い、少し考え込んだ。
〈インケルタ〉に宝国からレーシアを――というよりは、箱の類を――持ち出すよう依頼したのはジフィリーア王国近衛だ。ミラレークスは国に縛られず、大陸中に枝を伸ばす組織だから、また別の意図があるのだろうか。それにしても、ミラレークスは直接動いているというのに、近衛は民間人を頼ったとは、妙なことである。
レーシアは怪訝そうにしながらも頷くと、さらりと話し始めた。
「私とエンデリアルザの関係だけれど」
アトルは蟀谷を押さえた。どうあってもここにいる連中はアトルにそれを聞かせたいらしい。
「私はエンデリアルザの継承権を一応持ってはいるけれど。当代エンデリアルザはサラリスよ」
エンデリアルザが何か知らないアトルにとっては、聞いても訊かなくても同じような内容だった。しかし、ほっとしたような残念なようなアトルは、次の瞬間驚愕することになる。
「エンデリアルザってのは家名じゃねえの?」
リーゼガルトが問い掛けたのだった。
アトルも驚いたがレーシアはその比ではなかった。一瞬の硬直後、凄まじい疑念を湛えた顔でただ一音、問い返した。
「――は?」
はあ、と溜息を吐くミルティア。
「だってぇ、こっちも上司からのぉ命令を、はいはいって聞いてるだけだしぃ。はっきり言ってエンデリアルザのこともぉ、名前くらいしかぁ知らなかったりするのよねぇ。あとはぁ、宝具のことをぉ、調べてた程度」
「というか、調査部の中で宝具関連のことを調べていたのが我々だったから、今回の任務で白羽の矢が立ったのだな。他にも数十人が動いている」
「規模でけえな」
アトルが呟くと、ミルティアが右側の髪の房を弄りながらつまらなそうに言った。
「まぁねぇ。こうやってぇ、四、五人で組を作らされてぇ、駆けずり回ったわけよぉ。休暇もこの面子でその場で取るのよぉ? 最早休暇じゃないってのよねぇ」
「俺たち実際、今は休暇中だからな」
リーゼガルトが歯を食いしばって言った。
「一年、一年だ、延々と宝具を捜し回って一年。なのになんでわざわざ俺たちの泊まってた宿で目を覚ましたりするんだよ。他の連中の『宝具発見、任務終了、すぐ戻れ』の通信をどれだけ待っていたか――」
レーシアは姿勢を正し、真面目に言った。
「あなたたちの知識が不完全だっていうことはよく分かった。――エンデリアルザは家名じゃなくて、称号なの。〈器〉の責任を束ねる人のこと」
今度は意味が分かったらしい。アトルは道具箱を開けて中身の確認を始めたが、彼を除く五人はそれなりに真面目に話を続けていた。
「確認したいが――〈器〉はきみたち二人だけということでいいね?」
「今、生きているのはそうね。うん」
「それとぉ、あんた〈動〉の宝具しか持ってないんじゃないのぉ? なんでこいつのぉ怪我が、治ったりするのー? あ、治っちゃいないか」
レーシアは一瞬迷ったようだったが、問い返した。
「宝具がいくつあるかは知ってる?」
アジャットが頷く。
「四つではなかったかな?」
「〈動〉が二つに〈静〉が二つ」
リーゼガルトが補足するように言い、レーシアはこくんと頷いてから言った。
「だから封具も四つある」
「封具?」
ミラレークスの四人が声を揃えた。揃いも揃って(アジャットの顔は確認できないが)怪訝そうな顔、その単語が初耳のものであったことを窺わせる。
「なんだ、それは?」
問われたレーシアは小首を傾げ、ごく当たり前のことを述べる口調で言った。
「未然の事象を否定するもの」




