21 地上と地下で
「アトル青年! アトル青年ッ!」
アジャットが、気の狂ったような叫び声を上げた。
「貴様――、よくも……!」
アジャットがイヴァンを睨め付け、憤怒に拳を震わせる。
その声に、彼女に支えられているディアナが、イヴァンへとぼんやりと視線を移動させる。
ミルティアとグラッドに至っては声もなく佇んでおり、そんな彼女らに先んじて、リーゼガルトが竪穴へ駆け寄ろうとした。
「リリファ! リリファ!?」
別の必死な声がその名を叫ぶのを、聞くともなしに耳に入れながら、リーゼガルトが大刀を手に走る。
アトルが穴の底まで落下せず、どこかに掴まっている可能性に賭けたのだ。
それを、飛来した衝撃波が阻んだ。
僅かにリーゼガルトの爪先を逸れて地面を抉った衝撃波、それを放った主を、リーゼガルトが壮絶な眼差しで睨み据える。
「――てめえらは……!」
リーゼガルトを見据えるベルディは涼しい顔だった。ステッキを突いて、余裕綽々といった態度。
「睨まれてもね。
――いいかね若者。今、そこの竪穴に転落したのは、我々にとっては生かしておいても何の益もない者と、明確な敵だけなのだよ。助けを阻むことに、何の不思議があるというのかね」
怒りと苛立ちに声を詰まらせたリーゼガルトに代わって、ベルディを見据えて目を細め、凄む声を出した者があった。
「ベルディ、それはどういう意味だ」
ディーンである。彼が、初めて見るほど険しい表情を浮かべて割って入った。
「あそこに落ちたのはアディエラとアトルと――リリファだぞ」
「――――」
「リリファだぞ」
繰り返されたその名前に、ベルディは溜息をひとつ落とす。
「彼女は戦力にならない」
ディーンの表情がすうっと冷えた。冷えて凍って、そこで止まった。
「彼女が戦うことが出来るなら、戦力になる。だからここへ連れて来た。しかしあの青年に、リリファを再び立たせることは出来ないという。戦力にならないというのなら、いるだけ無駄だ。どこで死のうがどうして死のうが、私はそれにどうこう言うことを断じてしないだろう。
――それがあるべき定めだ」
そうだろう? と言わんばかりにベルディが周囲を見遣る。今や樹国の全員がベルディとディーンを見ていた。
二人の間に漂う、余りにも不穏な空気を察したのだ。
イヴァンは手傷のためにその隙を突くことが出来ず、さりとて逃げ出すことも出来ていない。
アトルのために張られていたアジャットの防壁を崩したあの一撃、それを撃った隙を突かれ、勝機を完全に逸したのだ。しかしそれを悔やむ様子もなく、静かな眼差しで樹国の者たちを見据えている。
ベルディの視線を受けた樹国の者たちの反応は二種類だった。頷く者と、躊躇う者だ。
頷いた中の一人が小さく、「あるべき定めのために」と囁き、その囁きが伝播していく一方で、躊躇う者は視線を合わせ、ディーンを窺い、明らかに煮え切らない態度。
僅かばかりに顔を俯かせ、ディーンは凍て付いた声で低く問うた。
「……上騎士の一人を見捨てるというんだな? 守護職ベルディ、これは立派な背反行為だぞ」
守護職だとか上騎士だとか、そしてそのどちらが上位の立場であるのかも、リーゼガルトにとっては未知のことだった。
だからこそ、この会話の全てを無駄なものであると判断し、彼は躊躇なく大刀を振り抜いた。
微かに輝く斬撃が飛び、それを威嚇としてリーゼガルトが竪穴指して走る。だがなおもそこにベルディが妨害の衝撃波を飛ばし、大声を上げて周囲に指示を出した。
「行かせるな! 竪穴を埋めろ! シェレスの一人を殺す栄誉、欲しくはないのか!」
樹国の者たちのうち、ベルディに同調する者たちがリーゼガルトの前に走り出てその道を阻む。
そのうち更に数名が竪穴に駆け寄り、元素系魔術を行使し始めた。
グラッドが隆起させた地面、その土石が竪穴に投げ込まれていく。
「何を――!」
アジャットが歯を食いしばり、竪穴を埋めようとする魔術師たち目掛けて魔術を撃ち込んだ。
風の刃が唸り、数人を竪穴の傍から弾き飛ばす。挙げた右手の指先から、何度も何度も白い風刃が撃ち出されていく。だがなおも竪穴を埋めようとする魔術師と、状況は拮抗といったところか。
「アジャットぉ……」
ミルティアが震える声を小さく落とした。
「アトルが、アトルが……」
「落ち着け、ミルティア。大丈夫だ」
何の確信も無かったが、アジャットは強いて沈着な声を出した。風刃を繰り出しながら、穏やかな声音で続ける。
「アトル青年とて魔術師、そう簡単には死なない。落ち着いて、リーゼガルトの援護をしてくれ」
リーゼガルト一人に樹国の者たちの下へ突っ込ませるのではなく、誰かもう一人ないし二人が走り出て、リーゼガルトに向かう攻撃を分散させるのが賢いやり方ではあったが、その機会は既に逸してしまっている。
リーゼガルトとアジャットたちの間には、それこそ節操なく魔術が乱打されている。火花と魔法陣の光が断続的に上がり、乱戦模様のその中に、今更走り出てしまっては、防御だけで手一杯、リーゼガルトの援護など望むべくもなくなってしまうのである。
後衛に徹してリーゼガルトの身を守るのが賢明だった。
リーゼガルトはリーゼガルトで、暴れ回ってアジャットたちに攻撃を向かわせないようにしている。
リーゼガルト目掛けて更に衝撃波を撃ち込みながら、ベルディが声高に周囲を鼓舞した。
「シェレスを! あるべき定めを冒涜する筆頭を殺せ! シェレスを殺す栄誉の前に、一人二人の命は惜しむな!」
怒髪天を衝くというが、リーゼガルトは実際に自分の頭髪が逆立ったかと思った。それほどの激怒が背筋から脳天までを突き上げた。
「てめえらは――」
ぎり、と歯軋りし、リーゼガルトは大刀を持ち上げる。
「栄誉ひとつのために俺たちの仲間を殺そうっていうのか! いいか! 栄誉ってのは替えが効くもんだがなぁ、」
振り抜いた大刀の軌跡が輝き、殺傷能力のある光の刃が宙を飛ぶ。相手がベルディに傾いている者であるかディーンに傾いている者であるか、今の彼に気にしている余裕はなかった。
魔術師が大慌てで防壁を築いてその刃を躱し、一方で誰も捉えず地面に着弾した刃は砂埃を盛大に巻き上げた。
「――命は一個しかねえんだよ! てめえでそれを納得しやがれ!」
意訳すれば単純明快、――その意図は、「死ね」。
駆けるリーゼガルトに攻撃が殺到したが、それをミルティアとグラッドが受けた。疾駆するリーゼガルトの周囲に、花が開くように魔法陣が次々に展開される。
相殺される魔術の煌めきが、逸らされて爆発する元素の輝きが、雷霆の竜にも劣らぬ光を周囲に炸裂させた。
――そう、雷霆の竜がまだそこにある。動きこそないものの、輪郭も揺らぐことなくそこに存在している。白に金に、光り輝く雷霆の彫刻。
アディエラがまだ生きているのだ。
竪穴の周囲に容赦なく風刃を撃ち込み続け、一旦はそこから樹国の者たちを退かせることに成功したアジャットが、今度はリーゼガルトに焦燥の滲む目を向けた。
ディーンと彼に傾く樹国の者たちが、一歩を引いて手を出していないにも関わらず、リーゼガルトに向けられる攻撃の数は凄まじい。圧倒的な手数を前に、不利は否めない。
「行かせるな! 許すな! アロ・フォルトゥーナは奴らを認めぬ!」
ベルディが叫び、彼と彼に同調する者たちから、風景が霞むほどの衝撃波がリーゼガルトに叩き付けられた。まともに喰らえば恐らく死亡。しかしリーゼガルトにそれが達することを許さないアジャットが、支えるディアナを片腕に、空いている右腕を大きく振った。硬質な音が辺りに響き、衝撃波が散らされて空気がうねり、リーゼガルトは僅かによろめいたもののまだ足を進めていられる。
竪穴まであと少し、しかしその距離を進むには、余りにも妨害が多すぎる。
そして、
「――悪いが、ベルディ」
ディーンが遂に剣を抜き、それをぴたりとベルディに向けた。
「堪忍袋の緒が切れた。いいか、あるべき定めは無闇に同志を見捨てることも、宝国の連中を許さないと同様、許さん」
ベルディと視線を合わせ、ディーンは唇を曲げて嘲笑を漏らした。
「命乞いなら今しておけ。後々されたところで聞き届けるかは分からんぞ」
「守護職を手に掛けることが上騎士に許されるとでも? そのような定めは聞いたことすらなかったが?」
ベルディの皮肉の響きを乗せた糾弾に、しかしディーンは一切の怯みを見せなかった。
「上騎士リリファを救うためだ。彼女のこれまでの献身を鑑みて、これは許される行為だろうな。
――俺とやり合って勝てる見込みが万に一つもあると思うのか、ベルディ?」
言葉の最後は声を低めて、その凄みにベルディが一歩を下がる。それでいいとばかりに冷笑して、ディーンは半身で振り返り、その視線をぴたりとリーゼガルトに当てた。
肩で息をして、次から次へと降り注ぐ攻撃を凌ぐリーゼガルトは、足を止めざるを得なくなっている。
いかにアジャットやミルティアの優秀な援護があったところで、数の暴力に勝るのは並大抵のことではないのだ。
降り注ぐ攻撃を受け止める魔法陣に庇われながら、焦燥と憤激の眼差しで邪魔立てする魔術師たちを睨み据えているリーゼガルトの大刀に、真新しい血痕が光っていた。
彼を視線でなぞってから、ディーンは剣を軽く挙げた。
「助太刀しよう、ミラレークス下等指定魔術師」
リーゼガルトが訝しげな顔をし、ディーンに目を向けた。その頬に返り血が飛んでいる。
「我々の意見は二分されているらしい。言葉で語る間すら惜しく、残念ながら実力行使せざるを得ない。――その間のみの共闘だ」
ちらり、とリーゼガルトの青い目がアジャットを向く。意見を求めたのではない。その目の色が如実に、アジャットの判断を絶対のものとして待っていることを示していた。
だからディーンもそれに倣ってアジャットに視線を向ける。
現在、アジャットたちの危急の目標は、アトルを竪穴から助け出すことだ。アディエラの息の根を止めることは、今だけは二の次となっている。そしてアトルを助けることを、樹国の全員を敵に回しながら実現するのは不可能事だ。
そして今のディーンが纏う、隠しようもない本物の殺気が、彼の本気を表わしている。嘘偽りのないディーンとベルディの間の断絶を、分裂を、紛うことのない真実であると保証している。
アジャットは右手でフードを深く引き下ろしながら、凛とした声で答えた。
「受けよう、ディーン」
ディーンは口角を上げた。
「いい判断だ、高等指定魔術師――いや、アジャット」
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からん、と軽い音を立てて石が竪穴を転がり落ちていく。暗闇のせいでその様子は窺い知れなかったが、石が竪穴の底にぶつかる音が聞こえないことが、竪穴の深さを物語っていた。
「……いってぇ……」
アトルの、荒らげた息に混じった呟きが上がった。
彼は今現在、竪穴の壁の僅かな突起に掴まって二人分の全体重を支えている状態だった。言うまでもなくリリファが、アトルにしがみ付いたままなのである。
落ちる途中に打ち付けた左肩の痛みが尋常ではなく、アトルは額に脂汗を浮かべていた。
遥か上空に、竪穴の入り口がある。
「どうするの? 登れるの?」
リリファの不安げな声が上がった。アトルは殺意を籠めて自分にしがみ付くリリファを見下ろし、吐き捨てた。
「てめえが落ちれば望みはあるかもな」
「やだやだ死にたくない!」
魂の叫びを上げたリリファが、上手く力の入らない腕を、いっそうアトルに巻き付ける。アトルは辟易した。額から頬から血が伝って、それを拭えない気持ちの悪さに顔を顰める。
「つーかおまえ、なんで俺にしがみ付いてんだよ……。さっさと離れとけばこんなことには……」
「だって、」
リリファはアトルの衣服に押し付けてくぐもった声を出した。
「私を治してくれるとしたらアトルだもん。引っ付いとかなくちゃって思って」
それに、と言葉を足してリリファは微笑んだ。暗がりと姿勢のせいでアトルには見えなかったが、なかなかに無邪気な微笑みだった。
「アトル、なんだかんだで私に気を配ってくれてたでしょ? 伏せたりするの、私ごとって感じだったし。ね?」
「……見捨てて殺しときゃ良かったな」
ぼそりと呟いて、アトルは足を竪穴の壁に向かってばたつかせた。足場を探しているのだが、突起はどれも小さく、さりとて都合のいい窪みもない。
「――ああくそっ」
悪態を漏らしたアトルは目を閉じ、左肩の激烈な痛みをおして集中。
きぃっと甲高い音がして一拍、アトルが掴まっていた突起から手を離した。あわわわ、とリリファが慌てた声を上げたが、二人揃って奈落の底へ――などということにはならず、とん、と軽い動きで二人の身体はアトルが張った障壁の上に着地した。
障壁の大きさは、二人が立つのにやっとという程度である。アトルとて魔力にそこまでの余裕はないのだ。
「おっ、いいね!」
リリファが屈んで障壁をぺたぺたと触りながら言った。
アトルはそれには答えず、掌で顔を拭いながら自身の頭上に握り拳大の光球を浮かべた。竪穴内が仄かに照らし出される。
掌を衣服で拭い、難しい顔をして竪穴を覗き込むアトルを、リリファが覗き込んだ。
「――どうしたのアトル? ……わっ、顔、血だらけ」
「ここに落ちるときにあれこれぶつかったんだよ。そんなことよりアディエラがいねえ」
アトルの返答に、リリファは引き攣った笑顔。
「落ちて死んでくれた――とか、ないよねぇ……?」
「落ちる寸前、アジャットだかミルティアだか――取り敢えず誰かが、俺を助けようとしたんだ。それがへし折られた。そんとき、アディエラを見た気がする」
左肩を押さえて顔を顰めながらも、楽観的思考に走らず淡々と述べるアトルを、リリファはふんふんと頷きながら見た。その表情は芳しくはない。
「――つまり、アディエラが生きてるはずだと」
「多分な。俺たちが生き残れたんだ、あいつに出来ねえ訳がねえ」
「この竪穴のどこかにいると」
「それ以外のどこにいるんだよ」
淡々と返すアトルに、リリファは大きく息を吸い込み、
「怖いわっ!」
叫んだ。その声が竪穴内で反響する。
「アトルはいいでしょうけどねっ、アトルのせいで私は今、魔術が使えないのよっ! 身体だって碌に動かないのっ! どうしろっていうのよっ!」
「うるせえなあ」
心から迷惑そうにアトルは呟いた。
「喚くなよ。気が散る。とっととここから出てレーシアのとこに行かねえと」
リリファは半眼になった。
「はぁ――ん、どうやって出るつもり?」
「この障壁を動かせばいいだろ」
アトルが右の爪先でとんとんと障壁を蹴る。リリファは懐疑的な顔になった。
「上まで?」
「下に行きてえのか?」
あからさまに苛立ったアトルの返事に、リリファは呆れた溜息を落とす。
「確かにさ、障壁って動かせるよ。動かせるけど、二人分の体重支えた上に重力に逆らって、そんな素早く動かせるの? しかも結構な距離よ? 魔力保つ?」
アトルの眉間に皺が寄った。
〈静〉の宝具があった古い砦の前でアディエラと遭遇した際、アトルは障壁に乗る荒業を披露したが、それも爆風に煽られてみたり凍らせた地面を滑らせてみたりと、抵抗の少ない環境ゆえのことだった。
重力に逆らって、なおかつ二人分の体重を乗せて同じことをするとなると、出来たところで亀の歩みだ。
「――だぁぁぁぁっ!」
アトルが右手で髪を掻き回して絶叫した。
「なんなんだよ! なんでこんなことになった!?
さっさとレーシアと合流しねえと――レーシアが怪我でもしてたらどうすんだよ!」
リリファが目を見開いている。
アトルは竪穴の壁を思い切り蹴り付けた。
「くそが! どいつもこいつも邪魔ばっかしやがって!」
「落ち着いて!」
リリファがアトルの肩を掴んで声を張り上げた。
「落ち着いて! 大丈夫だって! 絶対、ディーンとか誰かしらが助けに――」
その言葉の最中、ばらばらと土石が降って来た。
「…………」
「…………」
沈黙。
そして、アトルとリリファ両名が、血相を変えて頭上を振り仰いだ。
降って来る土石を、アトルの魔術が火花を散らしながら防ぐ。
「あいつら――ッ、なに考えてんの!?」
「あいつら――ッ、みんなに何しやがった!?」
自分が見捨てられそうになっている現状を、嘆くでもなく相手を責めるリリファの気の強さは本物である。
一方のアトルは仲間の身を案じる。アジャットたちがアトルを見捨てようとするはずがない。見捨てる動きをただ見ているだけということも考えられない。
それゆえ、アジャットたちに何かがあったのではないかと。
樹国の者たちと、アジャットたち四人では数が違う。そうであれば――もしもアジャットたちに何かあったのだとしたら――
「……くっそ――!」
「もういいよ亀の歩みでもなんでも! 上に行かなきゃ生き埋めじゃん!」
頭上を睨み据えて低く吐き捨てたアトルの襟首を、リリファがゆさゆさと掴んで揺らし、アトルはその手を邪険に振り払った。
「分かってる! 黙ってろ!」
ここから出てアジャットたちの無事を確認しなければ。アディエラを殺さなければ。レーシアと合流してレーシアを守らなくては。
その三つが頭を廻って破裂しそうになる。そして何よりも頭に浮かぶのは恋しい少女で。
(頼むから無事でいてくれ、レーシア。ヴァルザスさん頼む、レーシアに怪我させないでくれ――!)
レーシアは少しの痛みですぐに泣いてしまう。優柔不断で臆病な子だ。それでも勇気を振り絞って盾になりにいったあの子のその想いが踏み躙られるのを、アトルは許容できない。あの子が怪我をして――痛い思いをして泣いているかも知れないことが、気が狂うほどに心配でならない。
がりがりと、障壁がゆっくりと竪穴の壁を削りながら上昇を開始する。リリファはもはや無言で、両手を組み合わせて祈っているのみだ。
このままいけば地上に出られると、アトルが確信したそのときだった。
「――あら、困りますわ。地上に出られては」
聞こえてはいけない声が聞こえた。
アトルとリリファが同時に、その声が聞こえた方へ顔を向ける。
ぴたりと、障壁の動きが止まった。
アトルが浮かべた光球が、アトルたちよりやや下の、空中を踏んで立つ少女を照らしていた。
「アディエラ……」
漏らしたアトルの呟きに、アディエラがあろうことか軽く会釈してみせた。
「そう、そうですわ。わたくしはアディエラ・シェレス」
己の胸に手を当てて微笑んで、アディエラは陶然と二人を見据えた。
「主上はわたくしに言いましたわ。役に立てとは言わないと。ただ、失敗するなと。あなた方を逃しては、わたくしが失敗したということになりますわ。それは駄目ですわ。
それに、ねぇ? あなた方を上手く殺せば、きっと主上はお褒めくださいますわ」
アディエラも竪穴を転がり落ちる中で無傷では済まなかったらしく、頬に裂傷、肩と太腿の二箇所でドレスが裂けて血が滲んでいる。
そんな彼女は空中で足踏みをして小首を傾げ、
「――やっぱり落ち着かないですわね。空中に立つのは苦手ですわ。こんな術式の操り方は、ハッセラルトの方が幾許か得意ですの」
ぼんやりとした口調でそのように零した。
足踏みをしたその空中が、仄かな光の波紋を広げて彼女の靴裏を受け止める。
障壁の上からアトルと並んで彼女を見下ろし、ふっとリリファが皮肉に笑った。
「あのねぇ、相手してる暇はないのよ。この穴が埋められそうになってんの、その足りない頭では理解できないのかなぁ?」
現在、一切の戦う手段を持たない者の科白であるとは、俄かには信じ難いあからさまな挑発である。
しかしアディエラは、激昂するでもなく微笑んだ。
「埋められそう、だからなんですの? 脱出は容易いですわ。
――ですので、どうか、ここで死んでくださいませな。わたくし、失敗する訳には参りませんの」
苛立たしげに唇を噛んだリリファを尻目に、アトルは思わず、強張った顔つきではあったが鼻で笑っていた。
「ここで死んでくれ? ふざけんな。――やらなきゃいけねえことがまだある」
竪穴で、およそ人外の力を操る少女を間近に見て、アトルの側に増援は見込めない。リリファも今は完全に戦力外。
しかし、それでも死にたくないと思うなら――そして逃げすら許されないのなら。
「何とかしてやる……くそったれ」
呻いたアトルの視線を捉えて、アディエラが悪意の欠片もなく、可憐に微笑んだ。
記念すべき1000000字突破!




