Monologue-06 This Is a Story For Confess a Girl's Guilt
サラリスが手を引くその女の子に異変が現われたのは、二人の幼い足が山道を登ることに随分と疲れた頃だった。
サラリスとしては、宝士たちと別れた所まで戻っているつもりだったのだが、如何に早熟といえどまだ七歳。箱入りで育ったこともあって、方向感覚などないようなものだった。
――つまり、二人は盛大に遭難し掛けていたのである。
女の子は文句一つ言わずに、サラリスに手を引かれるままに歩いていたのだが、唐突に足を止めた。くい、と手を後ろから引かれる形になって、サラリスは慌てて振り返る。
「どうし――」
たの、まで言わないうちに、女の子の膝から力が抜けた。がくり、と前のめりに倒れるその身体。ふらり、と頭部が後ろに傾き、前のめりの姿勢から一転、地面に膝を突いた女の子が、後ろ向きに倒れそうになる。
サラリスは咄嗟に女の子の手を強く引き、そのせいでまたしても前のめりの姿勢になった女の子を、地面を膝で滑って抱き留めた。小石に擦れた膝が、かっと燃えるように痛くなったが、サラリスは顔を顰めはしたもののそれを声に出して訴えることはしなかった。
ただ、胸の中に抱き留めた女の子の濃紺の髪を掻き上げてその顔を窺い、片手で肩を揺らして呼び掛ける。
「だいじょうぶ? ねえ、どうしたの? 大丈夫なの?」
女の子の顔色は随分と悪い。死んじゃったらどうしよう、と思って、サラリスは幼いながらも整った顔を歪めた。
あの人の言い付けを守れず、叱責されたらどうしようという恐怖は無論感じた。だがそれよりも、ただひたすらに、この子が失われてしまう可能性が怖かった。
「ねえ、ねえ、どうしたの? どうしたの?」
「大丈夫ですよ、サラリスさま」
声が後ろから聞こえて、サラリスは女の子を抱き締めたままで振り返った。
宝士たちがこちらに向かって歩いて来ているのを認め、彼女はその緑の目を細める。
「――この子に何したの?」
呟かれた問いに答えず――あるいは、聞こえなかったのかも知れない――、宝士たちはサラリスの傍に立って腰を折り、濃紺の髪の女の子を見下ろした。興味津々――というには冷めた、物を見る眼差しで。
そのことがやけに不愉快だった。んんっ、と咳払いじみたものを漏らし、サラリスは女の子を抱きかかえた身体を、宝士たちから彼女を遠ざけるように捻った。
サラリスの控えめな意思表示に気付いた様子もなく、宝士たちは慎重に尋ねてきた。
「それが――〈器〉ですか」
サラリスは唇を尖らせた。
「この子が〈器〉よ。わたしと同じ。この子しかいなかったもの、間違いないわ」
ねえ? と同意を求めようとすれば、頭上から鳥のものよりも随分と重々しく荘厳な羽音を立て、山の木の枝葉を器用に避けながら、三人の空人が舞い降りて来た。着地した彼らに、宝士たちが半歩退く。
空人の先頭の一人が丈高いその身を屈めて女の子の額を撫でて、その手付きは慈しみに満ちたものだった。だから、サラリスも気前よく女の子を貸してあげられる。
女の子の額に触れた空人の指先が、仄かに青く輝く。何を言われずとも、それが女の子の魔力を「覚える」ためだとサラリスには分かっていた。
空人も雷兵も、魔力にとても敏感だ。〈器〉――つまり、エンデリアルザの名を継ぐ資格のある者の魔力は覚えて、そしてその子を愛い子と呼ぶのだ。
膨大な魔力を身の内に宿して生まれて来て、そしてその魔力を空人と雷兵が覚えたとき、サラリスも彼らの「愛い子」になったのだ。決して、彼らは彼女の人柄に惹かれているのではない。そのことを、サラリスはきちんと理解していた。
彼らは、彼らの愛い子を慈しむ。大切なお姫さまと呼ぶ。ただ一人の大事な、可愛いおちびさんであると。
〔ええ――ええ、〈器〉ですよ、サラリス〕
そう言った空人は、少しだけ苦笑に似た表情を面に載せて、サラリスの額をもつんつんとつついた。勿論、その指先は光らない。
〔離れた方がいいかも知れません。この子にはまだ封具の作用が働いているからいいけれど、それが切れたらきっと魔力を垂れ流し始めるよ〕
サラリスは唇を引き結んで女の子を抱え直した。それを見て、先頭の空人の、斜め後ろに立つ空人が笑い声を立てる。
〔強情なこと! 珍しいね、サラリス〕
むう、と膨れて、サラリスは主張した。
「一緒にいるもん」
〔はいはい〕
三人の空人がさざめくように笑う一方、宝士たちが咳払いをして割り込んできた。先程のサラリスの咳払いもどきと違って、万人に通じるであろう咳払いであった。
「サラリスさま、それを――〈器〉を、主上の下へ連れて行かねばなりません」
少し考えて、サラリスははたと思い出した。確かに目的はそれだった。思い出しながらも、サラリスは意地になって訂正する。
「この子を、ね」
宝士たちはそれを聞いておらず、互いに顔を見合わせて話し合いを始めていた。
「――どうする? あれほど激烈な魔力だ、意識を取り戻されれば厄介だぞ」
「いや、意識がないからといって安全とは言えまい。無意識に垂れ流すことも有り得る魔力量だぞ、あれは」
サラリスは女の子を抱えて座り込んだままで、頭上で交わされる遣り取りをぽかんとしながら聞いていたが、その宝士の言葉には思わず口を挟んだ。
「空人が、そう言ってたわ。封具の作用が切れたら魔力が垂れ流されるって」
宝士たちは半ば義理のようにサラリスに顔を向けて、「左様ですか」と。真面目に聴かれていないことを察して、拗ねたサラリスが顔を背ける。
「ふん、だ」
ぼそり、と零した声を拾って、三人の空人が、サラリスの前に丈高いその身を折って座り込んだ。ふわ、と自らの周囲に広がるトーガを整えて、各々その金色の目に悪戯っぽい光を宿してサラリスに声を掛ける。
〔可愛いお姫様、怒ってるの?〕
「別に?」
あからさまに語尾を上げたサラリスの頭をくしゃくしゃと撫でて、先頭の空人が鮮やかに話題を変える。
〔この子も可愛いね、可愛いおちびちゃんだ〕
サラリスの唇が、ふにゃあ、と緩んだ。
もう一人の空人が身を乗り出して、先頭の空人の手を払い除けてから女の子の前髪を軽く掻き上げる。
〔髪の色は黒――ん、濃い紺色だね、変わっている。目の色は?〕
女の子が目を開けているところを見たことがあるのは、今のところサラリスだけだった。なので、サラリスはやや自慢げに答える。
「青色よ。薄い青色」
女の子の前髪を掻き上げる空人の肩に肘を突いて、上から女の子の顔をまじまじと見ながら、最後の空人が真面目くさって言った。
〔将来は美人になるね、きっと〕
払い除けられた手を宙に泳がせたまま、最初の空人が他の二人を振り返る。
〔そう言えば今回は二人とも女の子なんだね〕
〔ん、そう言えば。珍しいね〕
〔珍しいと言うより初めてなんじゃない?〕
サラリスは首を傾げる。銀色の髪がさらりと流れて肩から零れ、抱えた女の子の頭に触れた。
「今回?」
〔ん、ああ。〈器〉はこれまでにも何人かいたんだよ〕
サラリスの疑問の声に答えて、空人が懐かしげに目を細める。
〔エンディにドリトスにリリノ、ファリシャとロジアン、ティニスにフェレアーナ――七人か〕
サラリスは顔を曇らせた。
「そんなにいるの――」
彼女の憂い顔に気付き、空人たちが声を上げて笑った。
〔そんな顔しないで、サラリス。〈器〉は二人ずつ生まれてくるのが慣わしなんだ。ずっと昔には例外もあったけれど、そのずっと昔に決め事があってね。だから今回はきみとこの子、二人しか〈器〉はいないと思うよ。――きっとね〕
神妙に最後の一言を付け加え、空人が悪戯っぽくにっと笑う。
〔それより、きみの役立たずの連れが何か決めたみたいだよ〕
え、と声を上げてサラリスが宝士たちを振り仰ぐと、ちょうど彼らもサラリスを見下ろしたところだった。
「サラリスさま、〈器〉を連れて行きましょう。私が運びますゆえ、こちらに預けていただけますか」
宝士の一人がそう言うのを、サラリスは幼い眉間に皺を寄せて胡散臭げに見上げた。
「……この子の目が覚めたら、一緒に歩いて行けるわ」
宝士は困ったように眦を下げた。
「目を覚まさせる訳には参りません」
不信感の塊と化して、サラリスはぎゅっと女の子を抱き締めた。
「この子に何したの……?」
「サラリスさま」
思いの外厳しい声を出し、宝士はサラリスの前に膝を突いた。
「我々は主上からこの件を預かっています。サラリスさまは我々の手助けのためにここにいる、と主上から言付かっているのですが、違うのですか」
サラリスは息を呑んだ。
「――ゼティスさまから……?」
あの人の言葉を否定する訳にはいかない。そんなことをしたらどうなることか。怒られるかも知れない。嫌われるかも知れない。もっと悪くすれば失望され、要らないと放り出されてしまうかも知れない。
もう、〈器〉はサラリス一人ではないのだから。
項垂れて反論の言葉を失くしたサラリスに頷き掛けて、宝士は手を伸ばした。
「さ、サラリスさま。こちらに」
その動作に、空人たちが威嚇するように唸り声を上げて掌に魔術の煌めきを宿したが、サラリスがそれを弱々しく制止した。
「だめ――だめだよ」
しゅうう、と音を立てて術式が破棄され、空人たちは明らかに舌打ちを堪える顔をした。だがそれでも、彼らは幼い少女に頭を下げる。
〔あなたが、そう言うのなら――エンデリアルザ〕
サラリスは頷き、宝士を緑の目でじっと見た。相手がたじろく程に真っ直ぐな眼差しだった。
「……大事に、抱えてね」
宝士は一瞬息を呑み、それから重々しく頷いた。
「ええ、勿論ですとも」
○○○○○○○○○○○○
女の子は眠ったままで運ばれ、一度たりとも目を覚ますことを許されないままゼティスと面会することとなった。女の子の持つ、膨大すぎる魔力を宝士たちが恐れたためである。食事すらも意識朦朧としている女の子の口に流動食を押し込むことで済ませてしまったので、三月の間に女の子はいっそう痩せてしまった。
サラリスとしては、女の子が心配やら宝士に怒りを覚えるやらで忙しく、また、まだ女の子の魔力がどれ程のものなのか実感としては分かっていなかったため、内心では宝士たちの臆病さを幼いながらに馬鹿にしていた。
女の子の魔力は潤沢に溢れてはいたが、眠っているため女の子の感情が大きく動くことはない。だからか、危うい均衡の上ではあったが、爆発は起きなかった。宝士たちは随分と怯えているようで、常に険しい顔をしていた。
宝国首都レンヴェルトの王宮の一室において、念願の〈器〉と対面を果たした彼もまた、呆れ返って溜息を漏らしたものである。
「まったく、膨大な魔力といってもそう恐れるものではないというのに」
宝士たちは気まずげにしていた。その彼らを強い眼差しで見据えて――彼がそのような目をすることは珍しいことだった――、彼は言葉を重ねた。
「如何に勁烈な魔力の主であるとはいえ、対話して理解を得られれば何も問題はないはずだ。それを、ただ恐ろしかったからといって意識を奪って運ぶなど、失礼にも程があるということ、きちんと弁えているかい。こんなに痩せて――まだ小さいこの子に、一体何の恨みがあったという」
寝台に寝かされた女の子の隣で、足をぷらぷらと揺らしながらそれを聞いているサラリスは、やっぱりこの人はいい人だなぁ、と思っている。
宝士たちは全員、部屋の入り口側に追い遣られていて、彼はサラリスと女の子に背を向ける形で宝士たちに説教していた。別にサラリスが宝士たちを懲らしめた訳ではないのだが、してやったり、という気分になるサラリスであった。
そのサラリスは帰って来てからこちら、一度たりとも女の子の傍を離れていない。この部屋に彼が訪ねて来たとき、その瞬間にも彼に飛び付いて抱き付きたい気持ちも、寸でのところで押し留めたのだ。
宝士たちに一通り、淡々と、しかし厳しく説教した彼は、ほう、と息を吐いて手を払う。
「――もういい。行きなさい」
宝士たちは僅かに震えながらも頭を下げ、言葉も出ない様子で部屋を出て行った。
彼がこちらに向き直る。サラリスはそわそわと身動ぎした。
「あ、あのっ」
「うん、なんだい?」
サラリスの隣に腰掛け、腰を捻って女の子の様子を窺いながら、どこか上の空で彼が答えた。サラリスはそちらに身体ごと向き直り、おずおずと、だがその実は期待ではち切れそうになりながら訊いた。
「私、ちゃんと出来ましたか? ご期待に、応えられましたか……?」
いつものように頭を撫でてくれるかと思いきや、彼の反応は素っ気ないものだった。女の子を見る目を、こちらに向けることもない。
「うん、サラリスは偉いよ」
「…………」
サラリスの顔から期待の笑みが徐々に薄れ、その表情が曇っていく。俯いたサラリスに、彼がやはり上の空で声を掛けた。
「――宝士たちにはああ言ったけれど、ここで私の顔を見られるのはまずいかな……」
「…………」
「サラリスも、私のことをこの子に言ってはいけないよ」
「…………」
「サラリス?」
黙りこんでいるサラリスに、彼がようやく目を向けた。消沈した顔を俯けるサラリスの姿に、その褐色の目が見開かれる。
「どうしたんだい、サラリス? やけに元気がないね」
サラリスはふるふると首を振り、重い口を開いた。
「この子に、ゼティスさまのことは言いません」
「うん、それも大事なことだけれど」
彼はそう言って、手を伸ばしてサラリスの頭をくしゃくしゃと掻き回した。
「どうしたんだい。疲れたのかな?」
サラリスはいっそう項垂れる。
「そう……だと思います……」
「大したことがないならいいけれど」
そうとだけ言って、彼はまた女の子の方に視線を移し、何やら考え事をしている様子で顎に手を当てた。
そうしながら、彼が顎に当てていない方の手の指先をくるくると回すと、何やら彼の目の前に白い幾何学的な模様が浮かび上がり始めた。――魔法陣だ。
彼はそれを指でつつき、女の子の方へと落とし込む。途端、女の子の身体がふわりと浮き上がって、サラリスは思わず落ち込んでいることを忘れ、寝台からずり落ち掛けた。それを堪えて彼を見ると、彼が声を殺して笑っているのが見えた。
サラリスに向ける、どこか遠くを見るような眼差しではない目で女の子を見ながら。
「少し術式をきちんとしたものにし過ぎたか……。もう少しざっくばらんでいいのかな? まったくとんでもない魔力だな」
そんなことをぶつぶつと呟く彼が、今までサラリスといたどんな時よりも活き活きしているように見えて、サラリスは再び落ち込んで顔を伏せた。
やっぱり、この女の子の方を気に入ったのだろうか――と考えて、サラリスは切なくなった。そのような事態は警戒していたところであり、そしてそうなれば、新しい〈器〉を何とかしなければならないと思っていたけれど。
助けて、と自分に縋ったあの様子を思い返せば、そんな気も失せてしまうから困る。
一体どうすればいいというのか。
心配ないはずだ、と自分に言い聞かせる。放り出されたりしない。ここから追い出されたりしない。彼はいい人だ。さっきだって、分からず屋にもこの子を寝かせたままにした、宝士たちを叱ってくれたではないか、と。
――サラリスは考えていない。かつて、自分の身柄が金銭によってこの国に買われてきたと聞いたことを。片や対話して分かり合えるはずだと言われた目の前にいる女の子と、片や品物のように買われたサラリスと。
その点において既に両者の扱いが異なっていることに、サラリスは考えを及ぼせていない。
ただひたすらに、大丈夫だ、大丈夫であるはずだと自分自身に言い聞かせている。
サラリスが必死になってそうしている間に、魔法陣を調整し続けていた彼の作業は実を結んだらしい。よし、と頷いた彼がサラリスに向かって――但しサラリスの方は見ずに――言った。
「この子の魔力に、取り敢えず念動属性を付与しておいたから。ものすごく目方が軽く感じられると思うよ」
サラリスは俯いたままでこくんと頷く。彼はやはりサラリスを見ず、ただ掌を差し出した。
「きみの魔力をこの子の魔力に覚えさせるね」
従順に手を差し出して彼の大きな手を握りながら、サラリスはそろり、と視線だけを上げて呟いた。
「覚えさせる……?」
「何て言えば分かりやすいだろうね」
彼は言葉を選ぶ間にそう言って、しばしの沈黙の後に言った。
「この子の魔力が万一爆発したとするだろう。すると多分、きみも含めてこの世の一切がこの子に触れられなくなる。それで困ることも、あるかも知れないだろう?」
こくり、と頷いて、サラリスは呟く。
「はい……」
「そういうときのためにね、この子の魔力にとってきみの魔力が――いわば、『例外』になるようにしておくんだよ」
サラリスは銀髪を揺らして頷いた。はい、とまた囁くと、彼は笑顔になった。――いつものような、遠い目をした微笑みだった。
その目は女の子に向けられたままだったが、笑みはサラリスのためのものだった。
つきん、と胸の奥が痛んで、サラリスは唇を噛む。
どれくらいサラリスの手が握られたままだっただろう。
ふい、と彼がサラリスの手を離し、「終わったよ」と告げたとき、サラリスは思わずもぞもぞと動いて滞った血を流そうとしてしまった。
はしたなく思われたかな? とどきりとして彼を見上げると、彼は腕を組んで顎に手を宛がって女の子を見ており、サラリスは再び項垂れることとなった。
「――そうだ、そうしよう」
ふと彼が独り言を漏らして、サラリスは思わずぴょこんと顔を上げる。その様子を見て苦笑して、彼がサラリスに向けて言った。
「まず、これからこの子をどうするか、だね。ここで育てるという手もあるのだけれど、私の都合からして、それは余り望ましくない」
「望ましくない……」
呆然と呟いたサラリスは女の子の頬につんつんと触れて囁いた。
「お別れだねぇ……」
幾許かの寂しさを滲ませたその言葉は、サラリスが既に目の前の女の子に対して、少なくない情を覚えていることを示している。
「いや、そうではないんだ」
サラリスの言葉を打ち消して、彼はにこりと笑って言った。
「サラリス。きみはこの子を連れて、世界中のあちこちを回って来なさい」
え、と凍り付いたサラリスを見ながら、彼が言葉を続ける。
「勿論、軍資金はこちらで用意するよ。最初のうちは宝士の誰かを影ながら見守らせに行こう。分からないことだらけだろうから、何かあったらその者に言うといい。この子に見えるところで遣り取りするのは、余り望ましくないけれど」
サラリスはぽかんと口を開けた。
「ほんとに二人だけ……ってことですか」
「まあ、大体はね。こちらからきみたちにお願いしたいことがあったら、その都度伝えさせるよ」
混乱の極地にあるサラリスは、咄嗟に分からないことを尋ねていた。
「グンシキン――って何ですか……?」
「ああ、きみたちが必要とするお金のことだよ。お金が何かは、知っているね?」
使ったことはなかったが、サラリスは慌てて胸を張る。
「はい、ええと、お外で何かが欲しいときに、それを譲ってくれる人に渡すお礼です!」
彼はなぜか首を捻った。
「……説明不足の感もあるが、まあよしとしよう」
二人旅のことについては追々話そう、と彼は言った。
「この子の目が覚める前に出発してほしいから――そうだね、明日にでも」
「明日……!?」
サラリスは瞠目し、慌てて彼に縋り付いた。
なんということだろう、追い出されたりしないと思った直後に追い出されそうになっている。
「お別れですか? 会えなくなるんですか? いけないことをしましたか?」
たどたどしい必死の問い掛けに、彼はくすり、と微笑んだ。
「まさか。――お別れじゃないよ。また会える。いけないことをしたかって? とんでもない。サラリスはいつでも私の期待に応えてくれる、優秀な、とてもいい子だ」
その答えに取り敢えずはほっとして縋り付いた手を緩める。頭に彼の掌を感じ、サラリスは潤みそうになる目許に力を籠めて、涙を流すまいとした。
その健気な様子に目を細め、彼が訥々と言う。
「きみにお願いしたいことはね、サラリス。この子が沢山の場所や人を見て、情緒豊かに育つようにして欲しいんだ。楽しいことがあればあるほどいい。嬉しいことがあればあるほどいい」
サラリスは眉を寄せる。
「じょうちょゆたか……?」
「色んなことを感じて心を動かすということだよ」
サラリスは大きく頷いた。つまるところこれも彼のお願いなのである。
分からず屋の宝士たちは、この子を眠らせてしまった時点で随分と嫌いになったが、彼は別格の格別である。
期待に応えねばならない。
「はい! ええと、この子といっぱい色んな所に行って、この子がじょうちょゆたかするようにします!」
言い回しの奇天烈さに彼が噴き出したが、自分の発言の文法上の誤りに気付かないサラリスはそれをぽかんと見上げるのみ。
「ああ、そうだ、決めなくてはならないこともあるね」
肩を震わせていた彼がはたと手を打ってそう言い、殊更に鹿爪らしくサラリスを見た。
「この子の名前。この子の目が覚めて、名前がもうあるようだったらそのように呼んであげなさい。
それで、もしも無いようだったら――そうだね……」
目を泳がせて考えること数秒。ふ、と微笑んだ彼が優しく言った。
「レーシア。レーシアと呼んであげなさい。それがこの子の名前だ」




