23 「私は知ってる」
ずっと考えていたことがある。
なぜレーシアは百年以上もの間眠らされていたのか。なぜ、手紙を彼女に読ませないよう、「サラリス」は指示しているのか。
どちらも、いまいちよく分かっていない。
「サラリス」が何を望んだのか、何をしようとしたのか、アトルには推測することしか出来ず、その推測すらも満足に出来ない。
レーシアを初めて見付けたとき、状況の不可解さから、アトルは咄嗟に手紙の指示に従った。
それからレーシアに真実を言う機会を逸し続け、レーシアがどんなに「サラリス」に会いたがっているのかを知らしめられ続け、――何も言えないまま今に至る。
レーシアに事実を告げることが正しいのか、アトルには分からない。
だが今のままだと、レーシアは延々と「サラリス」の真意について悩み続けることになる。
彼女にどう思われていたのかを自問し続け、そしてその限り、レーシアは「サラリス」への依存心から抜け出せない。
アトルはそれを望まない。
自分本位で自己中心的。
だがアトルは、いつか到来るかも知れない痛みを恐れてレーシアをそれから守るよりも、彼女にそれを迎え撃ってほしいと思ってしまう。
レーシアに惚れたあのときに、彼女を真綿に包むようにして守る対象ではないと自覚した、その帰結がこの決断だ。
不意のことに凍り付いていたレーシアが、鬼気迫る形相になってアトルの腕を掴んだ。
身を乗り出して、指に非常な力を籠めて、問い質す声を高くする。
「――誰? 誰なの!? まだ生きてる人よね!? 教えて。早く。早く!
殺してやる――殺してやる!」
彼女の瞳で火花が散った。アトルに触れる掌から無数の小さな稲光が煌めき始め、それは間違いなく魔力爆発の予兆。
本来ならばアトルは痛みに苛まれて失神してもおかしくない状況だったが――なにせ、純粋な魔力が傍で爆発しようとしているのである――、いつものように、なぜだか平気でそこにいられた。
レーシアの二の腕を掴み、軽く揺らす。
「落ち着け。レーシア。興奮してちゃ話も出来ない」
レーシアの濃紺の髪に火花が絡み、ふわりと舞い上がるその様は、もうひとつの夜空を間近で見ているようでさえある。
「アトル! 教えて! そいつは誰なの!
殺してやる――絶対に、八つ裂きにして殺してやる!」
アトルはもう一度レーシアの身体を揺らした。レーシアはそれを振り払い、一転して囁くような声音で言った。
「――ねえ、目が覚めて百年経ってるって、世の中が全部変わってるって、すごく、すごく理不尽なことなんだよ」
俺はその理不尽に感謝してる――そう言い掛けて呑み込み、アトルはレーシアと目を合わせた。
薄青い瞳が激情に燃えている。
アトルの中にその仇敵の姿を捜そうとしているかのように、憤怒と弾劾に満ちてアトルの視線を反射している。
「――おまえを見付けたときのことで、俺はおまえに嘘を吐いてる」
一呼吸置いてそう言ったアトルに、レーシアは首を振った。
「そんなことどうだっていいの。誰なのか教えて!」
「ここから話さないと、多分おまえ倒れるから」
アトルはあながち冗談でもなく言った。実際、いきなり事実を告げては、混乱と悲哀にレーシアの胸が裂けるだろう。
レーシアが滅多にないほど苛立った顔をして舌打ちする。しかし、それでも頷いた辺りに、彼女の理性が飛んでいないことが窺えた。
「――おまえを見付けたのは、荷物を検めたからじゃない。そんなことは〈インケルタ〉ではしない」
もう随分前に吐いた嘘だ。
レーシアは眉を寄せて黙っている。殆ど無表情に近かった。しかし引き結んだ唇と、アトルを離して握り合わせた手は震えており、特に握り合わせた手は、指関節が白くなってさえいるのが月明かりで分かった。
「おまえ、時計から出て来ただろ? 俺はあの部屋で荷物の番をしてて、その時計に座ってて、」
準シャッハレイのあの宿屋でのことが、不意に鮮やかに思い出された。
レーシアのことも宝具のことも封具のことも、何一つとして知らなかったあのときのことが。
「それで、振り子のところに、手紙が入ってるのを見付けたんだ」
レーシアの形のいい眉が、ぴくりと動いた。
「――手紙?」
「ああ」
低く尋ねられたことに頷いて答えて、アトルは息を吸い込んだ。
「ここに女の子が入ってるから、見付けて面倒見てくれって」
レーシアは無表情で首を傾げた。
「――その手紙の人が、私をあんな目に遭わせた人ね?」
アトルはもう一度頷く。その点についての異論はなかった。
「多分な」
「差出人は?」
間髪入れず、端的に発せられたその問いに、アトルは一瞬だけ瞑目した。
顔も知らない、声も知らないその人に、ただ漠然とした謝罪を心で思い浮かべ、――その答えを。
レーシアが何度も何度も否定した、否定することに縋った、――その答えを。
「サラリス・エンデリアルザだ」
レーシアの顔から表情が抜け落ちて、彼女が脱力して上体を泳がせた。
************
覚えているのは、混乱と喪失感。
誰もかれもが慌ただしく動いていて、珍しく誰も自分のことを気に掛けていないようだった。誰かを捕まえて、何が起こっているのか訊いて、サラリスの身の安全についても確認しようとしていたのだけれど。
聞こえていたのは、怒号。
辺りに、常には聞こえない悲鳴と怒号が行き交っている。
いつもは典雅に廊下を行き交っている人たちが、混乱と恐怖に顔を引き攣らせながら走り回っている。口々に色んなことを叫んだり話したりしているのだが、窓の外で大きな音がしていてなかなか聞き取れない。
廊下に立ってあちこちを見回す。動き回るのは良くないのかも知れないけれど、サラリスの身の安全だけはどうしても確認しておきたかったのだ。
記憶が途切れ途切れになる。さながら頁の半ば辺りから空白になっている本のように。
灯りが点いたり消えたりする。誰かが自分の手を引いている。きっと自分の世話を任された彼だ。けれど彼にしては珍しく、力が強すぎて痛い。
痛いのは嫌だ。サラリスに会う前のことを思い出すから。水が嫌いなのと全く同じ理由だ。サラリスがいれば水も怖くないけれど。
ある廊下に差し掛かったところで、前に進もうとしても進めなくなった。誰もいないのに、確かに誰かが進路を妨害しているのだ。その不可視の力に追い込まれるようにして、暗い部屋に入る。もう何が何だか分からず、涙が出てくる。
その部屋の中で、目に入ったのは真っ赤な水溜り。点々と落ちている赤い痕。そして聞こえる、彼の混乱したような誰何の声。襲ってくるのは眩暈。
そのぐるぐると回る視界に映る影。あってはならないその姿。
そして、身の内に封じたはずのものが抉り出される感覚。
それと、左の二の腕に走る激痛。
微かな、しかし確かなぬくもりが、頬を拭うように撫でていく。
そして暗転する視界。
そこに最後まで映っていたのは、ここにいるはずのない、あのひと――サラリスの、初めて見るその表情。
――まるで、今にも泣きそうな。
今日からここに住む、と言われた日のことを覚えている。たくさんの場所を巡って来たけれど、初めて訪れる国だった。
人々は柔らかい笑顔で会釈をしてくれて、この国を気に入っていただけるなら嬉しいことだけれど、と言った。そんな風に歓迎されるのは初めてだったけれど、サラリスがしみじみと、この国ではこれが当然なんだと言って、そういうものかと納得したものだ。
王宮は見上げるような丘の上にあって、登らなければならない階段の段数には顔が強張ったけれど、王宮からのお迎えの人たちが、輿を二つ持ってきていて、それに乗るように言われた。
溢れる魔力が重さを相殺してくれているからということもあって、何の気兼ねもなく乗り込んだ。
輿は案外揺れて、サラリスが落っこちないか心配しているようにじっとこちらを見ているのが見えた。
見えてきた王宮は大きく、豪華で綺麗で、小さな国なのにこんなに王宮が大きいなんてと思って、わくわくしながら探険したいと言った。
サラリスは少し考えてから、いつものように笑った。――じゃあ、一緒に行こうか。
あちこちにサラリスを引っ張り回し、厨房や使用人の部屋まで覗こうとするとさすがに止められた。サラリスは自分を軽く小突き、こら、ちょっとは考えなさい、とお道化た口調で叱った。
誰かに怒られるの、と自分が訊けば、サラリスはくすくす笑って答えてくれた。――怒られるのなら、一緒にね。
そう、いつも一緒だった。
片時たりとも離れず、二人で一人の人間であるかのように扱われ、そのことが堪らなく嬉しく、誇らしかった。
だから、置いて行かれるなんて思っていなくて、そう告げられた時には随分拗ねて、冗談だと固く信じようとしたのだ。
実際にサラリスが行ってしまってから、二、三日は拗ねて不貞腐れていた。サラリスがいないことが不安だったし、いくら宝士がいたって、独りだという感情は拭えなかった。
私とサラリスは、この世界で二人きりの「化け物」なのだから。
私は、置いて行かれた。だからサラリスが、あの場にいたはずがない。
何かの見間違いに違いない。そうに違いない。見間違いでなければならない。
もしも見間違いでないとすれば、それは。
それは、サラリスがレーシアを嫌っているということに違いないから。
************
ふらり、と上体を泳がせたレーシアを慌てて支えて、アトルは「大丈夫か」という言葉を呑み込んだ。
「大丈夫」であるはずがない。レーシアがこの短い時間で受けた衝撃がどれ程のものであったのか、アトルには想像することすら難しいのだ。
なんとか倒れず持ち堪えたレーシアは、口元に手を当てて必死に嘔吐感を堪えている。彼女からそっと手を離して、アトルは自分自身の行いの結果に唇を噛んだ。
やはりもう少し穏やかに、また別の日に伝えるべきだったかと、後悔が一気に押し寄せてくる。
謝罪を口にするべきか逡巡した数瞬に、先んじてレーシアが掠れた声を上げていた。
「――アトルは、こんな嘘を吐く人じゃないよ……ね」
「…………」
アトルの沈黙に、レーシアはいっそ笑いが込み上げてくるのを感じた。
「うん――うん、そっかぁ。そっか……サラリスは――」
喉下に熱い塊が迫り上がってきて声が掠れる。目の奥がつんとした。
「サラリスは、私のこと、」
次の一言を発することを喉が拒絶したので、レーシアは首を振って言葉を変える。
「――どこが、いけなかったんだろう……」
「レーシア」
アトルが断固とした声で名前を呼んだので、レーシアはのろのろと顔を上げた。
顔を上げている途中で重要なことに気が付き、はたと声を出す。
「あ、どうしよう。サラリスが――きっと迷惑に思うから、ああ、会いに行っちゃ、駄目ってことかぁ。どうしよう、どうしようか」
アトルは険しい顔でレーシアを見据え、低い声で言った。
「俺はサラリスって人を知らない。どんな人だったのかとか、――おまえを、どう思ってたのかとか」
レーシアは思わず、乾いた笑いを上げた。
「嫌ってるんだよ。決まってる。嫌いなんだよ」
いっそ明るい、疑いすらない絶望を映したその声にアトルは唇を噛んだ。
腰の道具箱に手を突っ込み、苛立たしげに一枚の紙を引っ張り出すその動作には、一種の焦りがあった。
全ての情報を提示してしまわなければならない、下手な確信を抱かせてはならないという。
道具箱から引っ張り出した紙を、アトルがレーシアに突き付ける。
「読め」
「は?」
本気で訝しげに眉を寄せたレーシアに、アトルは頑なにその紙を押し付けた。
レーシアは勢いに押されて受け取ったものの、それを読もうという気力すら失せたらしく、ただ持っているだけだ。
「いいから読め」
急かすように言いながらアトルが魔術を行使し、レーシアの頭上で橙色の光を灯す光球がふわりと浮かんだ。
それを茫漠とした瞳で見上げてから、レーシアが渋々と手紙に視線を落とす。
落とされたその視線が凍り付き、目が見開かれる。
レーシアが絶句していた。
「――――っ!」
流麗な筆跡。
懐かしい、見慣れた、愛おしい。
その筆跡を、彼女はよく知っている。
彼女を育て、彼女に文字を教えた人の――慕わしいサラリスの文字なのだから、見間違えるはずもなかった。
この部屋を見付けてくださつた方へ
この部屋を見付けてくださり、又この時計を、そしてこの手紙を見付けてくださつた方。
どうかこの子をお救ひください。
貴方がいつの時代に生きていらつしやる方か、わたくしには知るすべがございませぬ。
ですけれど貴方はわたくしたちのことを知らない方でございませうから、きつとわたくしの罪の及ばない方でございませう。
どうか慈悲の心ある方でありますやう。
この子の名前はレーシアと云ひます。
この子が己の利益のことしか考えないやうな、そんな心無い人に懐いてしまふことが今のわたくしには一番恐ろしい。
貴方はこの子のことを知らない方ですから、どうかこのままこの子の傍についてやつてゐてほしい。
勝手を申し上げて申し訳ありませぬ。
レーシアは今眠つております。ですがずつとそのままでは、この子は緩やかに死んでしまふでせうから、目を覚まさせてやつてください。
レーシアはこの時計の中にゐます。
その限りでこの子の時は止まつてゐます。
わたくしが最後まで守つてあげられたならば、それに勝ることはなかつたのですが、わたくしにはもうこの子の傍にゐられる時間が残されておりませんから、貴方にお願ひいたします。
厚かましいお願ひだと存じます。
理由をお知りになりたいだらうと思ひます。
ですけれどどうか、何も知らないままでこの子の人柄に触れてほしい。
お詫びに、この部屋にあるものを全て差し上げます。どのくらいの価値があるかは分かりませぬが、セゼレラのものだと謂へば価値が付加されるでせう。
この子を助けてください。
さうしてくださるならば、叶ふならば命すら差し上げても良いと思つてゐるのです。
そしてどうか、目を覚ましたこの子に、この手紙を見せないでくださいますやうお願ひ申し上げます。
わたくしのことを、この子が必要以上に慕うこと、それはとても悪いことでございます。悪し様に謂つてくださるやうお願いしたいところでございますが、貴方はわたくしたちのことを知らない方でございます。また、そのやうなお願いは厚顔であらうと存じます。
元より厚かましいお願いを申し上げてゐる中で、今更何の気遣いあらむと、笑はれることとは存じますが、どうかこの子をお助けください。
きつとこの手紙は読みにくうございませう。
最近の文章を綴ることの出来ない不器用さを、御寛恕ください。
サラリス・エンデリアルザ
二伸
もしもレーシアが、サラリスの名を出したとしても、知らないと応へてくださいますやう。
レーシアの手が震え、背中が震え、涙が瞳を覆って煌めいた。
「――俺は、サラリスって人を知らないから、それが本心かどうかも分からねえけどさ」
アトルが遠慮がちに言ってくる。
レーシアは顔を上げて、手紙を胸に引き寄せながら微笑んだ。
ほろほろと落ちる。
自分を眠らせた人物への恨みと憎しみと怒りが。アディエラの襲撃から、レーシアの中にほんの僅かに芽生えたサラリスへの疑念が。
ほろほろと。ほろほろと。
涙が落ちる。
「私には分かるよ」
物心ついて以来ずっと、一緒にいた人のことだから。
「サラリスはね、嘘を吐くとき、すごく大袈裟な表現を使う人なの」
鮮明に、真っ赤になって嘘を吐くサラリスの顔を思い出しながら、レーシアはくすりと笑う。
「こんな、あっさりしたお願いなんて、嘘で出来る人じゃないわ」
頬を転がる涙は、先程の涙と比べると、胸の中に全ての温かさを置いてきたかのように冷たい。
その分、胸が温かい。
「この手紙でサラリスが言ってることが本当だって、私には分かる。
これが本当のことを書いてるときの文章だってこと、私は知ってる」
手紙を撫でて、涙を零しながら、レーシアが満面に笑みを浮かべた。視界が揺らいでよく見えないので、アトルの表情はよく分からない。
「ありがと、アトル。これを私に見せてくれて。
――このことでサラリスが怒ったら、私も一緒に謝るから」
そう言って、随分泣いた目元を緩めて目を伏せる。そしてどこまでも優しい手付きでそっと、手紙を恭しく折り畳んで、レーシアはそこに口づけた。
「サラリスは私のこと、大事に思ってくれてるのね」
ぐっと息を呑み、アトルは地面に拳を突いて頭を下げた。
「ごめんな、レーシア。もっと早く見せてやれば良かったよな。おまえが、ずっと――」
レーシアは右手で素早く涙を拭い、首を振った。
「ううん。――サラリスのお願いを聞いてくれてありがとう」
涙の晴れた視界で、顔を上げたアトルが驚いた顔をしているのが見えた。
そのことが無性に可笑しく、レーシアは控えめに笑い声を立てる。
「ありがとう、アトル。
あなたは本当に、どこまでも私の恩人だわ」




