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19 守護こそ理由であるべきで

 アトルが両腕に薪を抱えて戻ると、既に何匹かの魚が釣り上げられていた。

 随分早いな、と思いこそしたものの、それとは別の原因でアトルの目が見開かれる。


「アトル青年、薪はその辺に」


 アジャットが淡々と言ってきたが、アトルはそれを聞くどころではなく愕然としていた。


「アジャット、アジャット、あれ――」


「ああ、すごいだろう」


 アジャットは得意げに言った。


「ヴァルザスどのの釣りの腕がたいそう良くてな。あっという間に二匹釣り上げて、更に――」


「そっちじゃねえよっ!」


 アトルは薪を放り出して叫んだ。


「なんでレーシアが――!」


 現在、誰が何をしているのか。


 リーゼガルトとアジャットはハッセラルトの番である。

 ヴァルザスとステラは仲良く並んで釣り糸を垂らしている。若干ステラが対抗意識を燃やして向きになっている気もするが、問題はない。元気が出たのならば何よりである。

 そしてミルティアは、桶は釣り上げられた魚たちのために使われているので、持ち出してきたらしき欠けた皿に餌となる虫を入れて、黙々と釣り針に付けてはステラたちに供給している。正直そんなに要らないんじゃないのか、と思われる量であるが、問題はない。

 問題は、グラッドとレーシアである。


 恐らく手近にあった大きな石を魔術で真っ二つにして作ったのであろう調理台。広げられた調理器具。その傍にグラッド。

 妥当すぎる配置に異物が混じっていた。


 包丁を握るレーシアである。


 顔つきは二人揃って真剣そのもので、アトルの大声にも反応した様子はない。

 レーシアが一生懸命であるのに対し、グラッドは果てしない心配からはらはらしているようではあるが。


 何をしているのかと言えば、魚を捌いているのである。


「ああ、レーシアな」


 リーゼガルトがさも当然と言わんばかりに頷いた。


「おまえが戻って来るの遅いんで、捌いた魚どうすりゃいいのか、俺とアジャットで話してたんだよ」


「違ぇ!」


 アトルは思わず絶叫した。やはりレーシアとグラッドはそれに見向きもせず、ミルティアが「うるさいなぁ」と言わんばかりに振り返ってきた。ヴァルザスは獲物が掛かったところだったので反応できず、ステラはヴァルザスを嫉妬の目で見つつも、アトルを振り返って微笑んでみせる。


「あいつ料理したことないんだぞ!? いきなり魚捌かせるってなんだよ!?」


 アジャットがぽんぽんとアトルの肘の辺りを叩いた。


「落ち着け、アトル青年。レーシアさんがやりたいと言ったんだ。グラッドも付いているし、大丈夫だとも」


「なんでだよ! 魚は丸焼きでいいじゃねえか!」


 落ち着けないアトルは喚いたが、最早アジャットもリーゼガルトも相手にしない。

 アジャットがアトルの放り出した薪を積み上げて、火の準備を始めている。リーゼガルトは一度馬車の中に引っ込んで、ダッチオーブンを取り出してきた。三本脚が付いていて、薪にくべやすい形である。アトルもグラッドがこれを使うのを何度も見たことがある。


 グラッドが使うのを。


 リーゼガルトはダッチオーブンをアジャットから一旦遠ざけ、念を押す口調で言った。


「アジャットは触るなよ?」


 むう、とアジャットは不満げな声を出す。


「いつもいつも、なぜなんだ。私とて料理は出来るというのに」


 リーゼガルトは絶望の映った顔になり、次に達観を湛えてゆるゆると首を振った。


「アジャット、あれは料理じゃないんだ」


 一体何を作ったことがあると言うんだ。

 いやそんなことよりも。


 アトルはとうとう大股にレーシアに向かって歩き出した。何考えてんだこの野郎、といった心境である。


 だが、それを見咎めたリーゼガルトが腕を伸ばしてアトルを引き止めた。


「おい待てよ」


「離せ!」


 アトルはもがいたが、リーゼガルトは譲らない。ついでに彼は溜息を吐いて言った。


「おまえ、なんなんだその過保護振りは」


「悪いか!」


 あのなあ、とさすがに呆れたリーゼガルトの声。


「今のレーシアにとっては掠り傷は致命傷じゃないんだよ。その辺分かってるか?」


「分かってる!」


 堂々と言ったアトルに、リーゼガルトは天を仰いだ。


「分かってねえわこいつ」


 視線を戻して、アトルの両肩に手を置くと、リーゼガルトは噛んで含めるように言い聞かせ始めた。


「あのな、落ち着け。落ち着いてよーく状況見てみ? レーシアは単に料理を習ってるだけだ。なーんも慌てることじゃない。普通だ普通。グラッドもちゃんと教える。問題なし。分かるか?」


「いやだからっていきなり魚捌かせるのは――!」


「レーシアがやりたいって言ったんだよ。それに、あれだ。いつかレーシアが自力で生きていかなきゃならんときになったら、多分料理できないと困るしな」


 アトルは言葉に詰まった。


 確かにそうだが、ここ数箇月で「レーシアに怪我をさせるべからず」ということが身体に叩き込まれてしまっている。

 ついでに言えば、


「――リーゼガルト」


「あん?」


「レーシアが自力で生活しなきゃならねえときって――ミラレークスとしては有り得ねえ事態なんじゃねえの?」


 現在、レーシアの身柄を争っている勢力の一つがミラレークスなのである。

 ミラレークスが無事レーシアを確保できたとき、レーシアをどのように遇すかは定かでないが、レーシアを自由の身にすることは考え辛い。


 指摘されたリーゼガルトは初めてそのことに気付いた様子で瞬きを繰り返したが、アジャットは悠々と言った。


「アトル青年が揚げ足を取れるようになったということは、冷静さを取り戻したということだな。良かった良かった」


 焚き火は安定して燃え始めていた。


 鼻白んだアトルがアジャットの方を向く。

 アジャットはわざとらしく腕を組んでいた。


「まあそれにしても、アトル青年の態度は異常だなあ」


 アトルは眉を寄せた。


「……異常ってなんだよ」


「異常は異常だ」


 アジャットは大変きっぱりと言い、「ふむ」と如何にも考え深げな声を出す。


「先程の餌の一件でも、普通ならばアトル青年は面白がっていてもおかしくはないはずだ。今とて、まあ勉強になるか、程度の反応が普通だろう」


 アトルはたじろいだ。心当たりは全くないが、何か悪事を働いた気分になってきたのである。


「な、なんだよ」


「察するに」


 アジャットはアトルの動揺を面白がるように、ますます滔々と語り始めた。


「きみはこれまで、なんだかんだで身寄りがあった訳だ――〈インケルタ〉という」


 アトルの眼差しが少しばかりの険を含んだ。


「ところがそこと縁が切れてしまった。きみには身寄りがない」


「――うるせえ」


 アトルは押し殺した声を漏らした。アジャットは、聞こえなかったのか無視したのか、構わず語り続ける。リーゼガルトも特に止めもせず、苦笑してそちらを見ている。


「きみに残された生活の伝手は、ミラレークスのみだ。そしてきみがミラレークスにいられるのは、ある意味ではレーシアさんのお蔭だ。レーシアさんが一言、きみを追い出せと言えば、我々は恐らくそれに従う。まあ、涙くらいは呑むけれども。そしてあるいは、レーシアさんの関心がきみではない誰かに向けば、きみは組織の中でも浮いた存在になる。あるいはそれだけで、切られる可能性もある。きみは変則的な指定魔術師だから」


「――黙れ」


 低く唸ったアトルの言葉をさらりと無視して、歌うようにアジャットは続けた。


「だからきみは、全力でレーシアさんを守らなくてはならない。

 彼女は今や、きみにとっての命綱だから」


 締め括ったアジャットに、アトルはレーシアに聞こえないよう、低い声で罵声を漏らした。


「喧嘩売ってんのか?」


 置いて来た家族のことを――置いて行かれた家族のことを口に出されたことが腹立たしい。考えるまいとしている痛みを、あっさりと抉られたことが許し難い。


 そんなことよりも、


「俺がいつそんな汚ぇ算段であいつのことを考えたって?」


 自分を睨み据えるアトルの荒んだ眼差しに、アジャットはフードの奥の唇に手を当てる。まるで怖がることのない飄々とした態度が更に腹立たしかった。


「おっと違ったか。――余計なことを言ってしまったかな」


 呟くような科白の後半を聞き取ることなしに、アトルは足早にそこを離れた。アジャットの近くに、少なくとも今は留まっていたくなかったのだ。今レーシアの傍に行くと、その行為すら論われそうだと思って、小川で釣りをする二人の傍に。



 ――今、何よりも腹が立ったのは、自分自身に対してだった。


 アジャットに言われたことを初めて考えて、確かにそうだと思ってしまった自分。


 レーシアが自分の命綱だ。生活においてだけではなく、精神的にも、アトルにとって掛け値なしに大切に出来る最早ただ一人の人だ。アトルに気を許してくれていて、ある程度は頼ってくれる。アトルは彼女を通して自分の存在意義を実感できる。だから(・・・)、彼女を守らなくてはならないと。


 違う、違うと、一歩ごとに考える。


 アトルが彼女を守る。彼女を大切にする。だから(・・・)、彼女はアトルの命綱たり得ているのだと。





 傍まで行くと、ステラがアトルを振り返って笑顔を浮かべた。随分と元気になったようで、アトルは僅かに安堵する。


「あ、アトルさん!」


 アトルは苦労して微笑を浮かべた。


「ヴァルザスさんってば上手いんですよ。私も釣ってますけどね」


 ヴァルザスは川面をじっと見ながら真剣に言った。


「ステラ。その原因は既に言っているだろう? 集中力の差だよ」


「私だって集中してます」


 くい、とヴァルザスの釣竿が引かれた。ヴァルザスが口許に微笑を浮かべると同時、ステラが憤然と声を上げる。


「また!? さすがにおかしいですよ。竿、竿交換しましょう」


「いいとも。これを釣ったらね」


 ヴァルザスの答えは悠然たるものであった。ステラは悔しげに顔を顰める。


「きっと魔術師さんの方が魚が寄り付きやすいんです……」


「ステラ、アトルに交代してごらん。それではっきりするよ」


 ヴァルザスの尤もな提案に、ステラがアトルを手招きして釣竿を押し付ける。


「お願いします」


「お、おう」


 アトルは竿を掴んで、ヴァルザスに並んだ。


 ヴァルザスは川面に飛沫を散らしながら一匹釣り上げ、桶に入れて満足そうにしている。一方のアトルは突っ立っているだけである。


「俺、釣りはあんまりしねえんだけど……」


「魔術師さんには魚が寄り付きやすいんですよ」


 ステラはかなり本気でそれを信じているらしい。


「魔術で魚って獲れねえのかな……」


 半ば冗談で呟くと、ヴァルザスがつとアトルに視線を移した。


「きみは……」


「へ?」


 アトルがヴァルザスを見上げると、彼は川面に視線を戻しながらぽつりと言った。


「見たところ、術式の扱いが苦手のようだったね」


 思ってもみなかった話題に、アトルが目を瞠る。


「え……」


「一度組み上げた術式に介入するのは、出来なくはないが得意じゃないだろう?」


 アトルは躊躇いがちに頷いた。意識したことはなかったが、ハッセラルトに技能の面で大差を付けられたのはまず間違いなくそこである。


 そして同時に、そのことを指摘してのけたヴァルザスに、有り体に言うならばびびり上がった。


 イリの町での戦闘において、ヴァルザスがアトルの魔術の行使を見たのは数回のはずだ。その間でそれを見抜いたのかと思うと、感心するよりも寒気がする。


「は――はい、まあ」


 ヴァルザスはちらりとアトルを見て、唇で弧を描いてみせた。


「そこを鍛えるといい。もっといい魔術師になれる」


 アトルは思わず頭を下げた。


「あ、ありがとうございます……」


 ヴァルザスは視線を遠くへ投げ、独り言のように零した。


「苛立って仕方のないときには、魔術の訓練をしなさい。魔術はある程度は法則に従う、理路整然として単純なものだ。とても落ち着くよ」


 アトルはどきりとした。内心を見透かされた気がしたのだ。慌てて切り返す。


「――そうやってたら、あんなに強くなったんですか?」


 ヴァルザスは苦笑した。


「まあね。――苛立つことの多い人生だった」


 この泰然とした老人が言うには余りにも意外な言葉である気がして、アトルは瞬きをする。


 そのとき、またしてもヴァルザスの竿に魚が掛かった。


「ええええ!?」


 ステラが落胆の声を上げた。


「アトルさん駄目じゃないですか。やっぱり竿です。竿交換しましょう!」


「分かった分かった。落ち着きなさい」


 あっさり駄目だと言われたアトルが唇を曲げ、もう少し粘ってやろうかと思ったものの、邪魔しては悪いとステラに場所を譲る。


「ヴァルザスさん、ちょっと釣り過ぎですよ。捌くレーシアが追い付かないですよ」


 釣り竿を受け取ったステラが笑いながら言って、ヴァルザスはその表情を受けて優しい色を顔に浮かべる。


「そうかな――そうだな」


 アトルは心配が再発して、遠目にレーシアをじっと見た。


「あいつ、ちゃんと出来てんのか……」


 ステラは僅かに躊躇うように視線を泳がせ、窺うようにアトルを見て問い掛けた。


「あの、アトルさん。レーシアってどんな育ち方してきたんですか?」


 アトルがステラに視線を向けると、そこに何の色を読み取ったのか、ステラは慌てたように手を振った。


「あの、貶している訳ではなくて。ただ、お料理もしたことがないなんて……」


「ステラ」


 ヴァルザスが不意に呼び掛け、きょとんと彼を振り仰いだステラに笑みを向けた。


「あの二人に、魚をこれ以上釣っても大丈夫か訊いて来てくれないかい?」


「……? はい」


 不思議そうな顔をしながらも、ステラが素直に頷いてレーシアたちの方へ歩き始める。


「――すまないね、遮って」


 ヴァルザスが淡々と呟く。


「きみの口から彼女のことは聞きたくないと思ったものでね」


 アトルは一瞬詰まったが、すぐに、探るように尋ねた。


「――レーシアのことが嫌いなんですか」


 ヴァルザスは顎に手を遣って考え、躊躇いなく首を振った。


「いや、嫌いと言うよりは、」


 嘘も誇張もない声音で、はっきりと。


「虫唾が走るね」


 アトルは警戒に目を細めた。

 人にどう思われている人物であろうが、アトルがレーシアを大切に思うのに変わりがあろうはずもない。

 だが、昨日から今日に掛けて、ヴァルザスが示した能力は尋常でないものだ。それゆえに、彼の少しの敵意がレーシアをどう害することになるか分からない。


 アトルはレーシアをあらゆる害悪から守らなくてはならない。なぜならば、彼女が今や唯一の――。


 アトルは頭を振って余計な考えを追い払い、ヴァルザスに剣呑な視線を向けた。


「……レーシアのことは、以前から?」


 ヴァルザスは緩く首を振る。その仕草に、諦念に似た疲れがほの見えた。そのことに、アトルは内心で首を傾げる。怒りや苛立ちといった感情が窺えなかったからだ。


 そして、そのような表情を、初対面の人間に対して浮かべる不自然さ。

 ヴァルザスの態度は、レーシアを知らない者であるにしては刺を含み過ぎているのだ。だが、知り合いであるような遣り取りも見られない。


 アトルの不審感を感じ取ったのか、川面を眺めるヴァルザスが気怠げに口を開く。


「いや、知らないよ。ただね、」


 ヴァルザスは息を漏らして呟いた。


「恐らくは自分のせいで不幸に見舞われたのだろう相手に、ただの一度も謝罪しない人間に、他のどのような感傷を抱けと言うのかな?」


 アトルは言葉に詰まり、顔を顰めて視線を背けた。


 ――それは、レーシアの人生が他と余りにも異なるせいだ。

 そう思うものの、実際にヴァルザスに言い返す言葉はない。アトルがどう贔屓目に見ようと、レーシアの態度は言語道断のものであるのは確かなことなのだから。


 そしてそれをレーシアに言えない自分に、アトルは暗澹たるものを覚える。


 今までならば言い訳が出来たのだ。


 レーシアが非常に不安定な状態であり、下手なことは口に出来なかったと。その割にはあれこれと口うるさくした覚えはあり、あろうことか喧嘩になったこともあったが。

 そして、レーシアの招いた惨事の凄惨さに、アトルもまた衝撃を受けていたことは確かであり、レーシアに注意を促す余裕がなかったということもある。


 だが、今は。


 今は、レーシアに嫌われることを恐れている自分がいることを、アトルは認めざるを得ない。レーシアに嫌われ、行き場を失うことを避けようとしていることを。


 アジャットに言われるまでもなく、アトルの中には確かに、レーシアに依存しようとする部分があったのだ。


 醜い、汚い、その自分自身を、アトルは今は見たくない。今は少しだけでいい、心を休ませたい。



 ヴァルザスの問うような視線を避けて眼差しを下に向け、アトルは深く息を吐き出した。


 吐き出した息はその大袈裟さに比べて、随分と薄い感情しか孕んでいなかった。














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