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08 怪しい四人組

 ゼーンがアリサが階上に上がるのを防げなかった理由は簡単である。


 四度目の衝撃を受けた宿、その食堂で、怪我人を手当てしていた女がすっくと立ち上がった。


 女は四人連れで、彼女自身はかなり怪しい風体である。暗褐色の長い外套を羽織り、フードまでしっかりと被っているため、顔も見えなければ年齢も分からない。

 ただ、怪我人を手当てしたときに垣間見えたほっそりした指や、怪我人に掛けた声から、若い女であろうということを察することが出来たまでだ。


 連れの二人は男性で、もう一人は少女だ。こちらの三人はよく見掛ける旅人の服装をしており、特に怪しいところは無い。

 男性のうち、一人は三十代後半と見え、華やかな金髪に新緑の目の、男から見ても美形の部類に入る容姿をしていたが、まるで存在を憚るように身を縮め――といっても身長は高かったが――他の三人に対してもどことなくぺこぺこしている。

 もう一人は後頭部で一つに束ねた黒髪に青い目の、傭兵風の若い男だ。旅人の装束は平凡なのだが、もう一人の男と揃いの長剣を腰に差しているのみならず、大刀を背負っているため威圧感が半端ではない。


 少女は十六、七か。小麦色の髪を両耳の上で二つに束ね、洒落た組紐で飾っている。勝気そうに煌めく猫目は鳶色。この少女に対しての三十代後半の男の態度が、最も腰の低いものだった。


 アリサが階段に向かうのを見て、止めなくてはと何か用事を言い付けようとしたゼーンだったが、彼が動くよりも遥かに早く怪しい女が地を這うように低い声を出していた。その気迫たるや、近くにいたゼーンも含む全員の動きが一瞬止まったほどだった。


「一般人に被害を及ぼすとは言語道断……」


 三十代後半の男がううっと身を縮め、傭兵風の男が顔を強張らせる。そして少女が目をきらきらさせた。

 フードを被ったままの女が深呼吸をする。そして、がばりと顔を上げると(それでもなお、顔は見えない)、はっきりときっぱりと言った。


「相手になろう」

「まずいって!」


 喰い気味で叫んだ傭兵風の男が、自分よりもやや背の低い女の肩を後ろから掴んだ。


「目立つって! せっかくの休暇が潰れるって! 頼むからやめ――」


「やかましい!」

 女が怒鳴りつけた。そして何を思ったか、近くに立つゼーンの腕をがっしりと掴んだのだ。

「あなた、どう思う。こんな合法的かつ平和的に一般人が経営する、何の落ち度もない宿が、謂れもなく被害を受けているこの状況を。ここで立たねば人ではない。そう思わないか」


「え?」


 ゼーンはアリサを追おうとしたのだが、彼の直感がそれを押し留めた。

 この女は相当腕が立つ。魔術師として相当な腕前である、そんな気配がする。ここで変に会話を打ち切る方が面倒になると踏んだのだ。

 すまんアトル、と内心で断りを入れてから、ゼーンはにへらと笑ってみせる。


「いやあ、何とか出来ればいいとは思いますけどね。如何せん俺にはどうにも出来ませんで、何とか出来るんならしてほしいと思いますぜ」


 フードの奥の、窺い知ることの出来ない女の表情がどんなものだったか。

 とにかくも女は勝ち誇ったように頭を振り立て、傭兵風の男を振り返って、なぜかゼーンの腕を掴んだまま横柄な態度でのたまった。


「だ、そうだ。これを聞いてまだ反対するか」


「そりゃするわ!」

 傭兵風の男が魂を振り絞るような叫びを上げた。

「まずいだろ! ここシャッハレイだぞ! まずいだろ!」


「アジャットぉ」

 少女が口を挟み、女の、ゼーンの腕を掴んでいない方の腕にもたれ掛った。

「あたしはさぁ、別にぃどっちでもぉいいんだけどー。面白いぃことは大歓迎」


 女は両手が塞がった状態ながらも満足そうだった。


「やはりミルティアはいい子だな」


 しかし、少女は表情を変えずに言った。


「けどぉ、出世の道のぉ妨げは大嫌い」


「よく言った!」


 傭兵風の男は少女の頭を撫で、その手を邪険に振り払われたもののそれをまるで気にした様子もなく、改めて女に向かって言った。


「出世だよ、昇給だよ! そういった諸々を吹っ飛ばすような行為はやめてくれ!」


 魂の叫びだったが、女は怯む様子もない。


「何を言う。出世も昇給も、それは功績に対する報酬に他ならない。功績を求めず安穏とした判断を下すならば、そもそもそんなものは有り得ない!」


 言い切った女に、食堂中から「おお……」と感嘆の声が上がる。

 事情はさっぱり分からないが、何だかこの人は凄いことを言ったぞ、という雰囲気なのだ。女は女で、声が上がった方を見て、律儀に「ありがとう」などと言っている。


「ありがとう、じゃねえだろ!」


 傭兵風の男、そろそろ声が枯れないか心配である。


「おい、おいこらグラッド! 何とか言え!」


 話を振られたのは、必死に縮こまっている男だった。


「ほお。グラッド、何だ。言ってみなさい」


 女がその男の方を見て言った。傭兵風の男は祈るように、少女は面白そうにそちらを見る。


 三者の、いやそれどころか食堂中の視線を浴びた男はひいっと喉の奥で声を立て、硬直した。

 一分、二分、沈黙が流れた。

 食堂の観客たちは一時、ここが襲撃を受けているということも忘れ、さああの男はどう言うか、ということを興味津々に窺った。〈インケルタ〉の連中も同じである。

 さすがに気の毒になったゼーンが、もうそろそろ許してやれば、と提案しようとしたとき、男は絞り出すように言っていた。


「……じ、自分は……総意に従います……」


 何だこの男は。


 食堂中の目がそう言っていた。


 何という意気地なし。弱気。あれだけ間を取って期待させてこれか。そんな、理不尽な無言の抗議の嵐が男に容赦なく突き刺さる。敏感にもそれを察したのか、男はますます小さくなった。


 女が真面目に話を続けた。どうやら彼女は食堂に吹き荒れる無音の嵐に気付かないようだ。


「総意、か。ならば皆さんにも協力を頼み、決を採ろうか」


「何でそうなるっ」

 傭兵風の男が叫んだ。

「この四人だけでいいだろ!」


 む、と声を漏らした女は、「まあいいだろう」と譲歩の姿勢を見せ、「では――」と言い差した。その瞬間、五度目の衝撃に宿が傾いた。


 傭兵風の男ががくりと項垂れた。


「ああ、終わった。休暇が終わった。まただ、また無限の追跡劇だ……」


「そろそろ逃避行に移りたいもんだネ」


 少女が言い、猫のように目を煌めかせた。


「まったくだ」

 女が落ち着いて言い、やっとゼーンの腕を放すと、三人を振り返った。

「五度にわたる魔術攻撃。一般人に被害が出ることも厭わぬ暴挙。ここは無念だが、我々よりも遥かに優れた連中の探知能力に賭けて間違いあるまい」


「ん、そう思ぉう」


 独特な抑揚で少女が答え、女は傭兵風の男に確認するように言った。


「リーゼガルト。もう文句はないな」


 傭兵風の男は先程までの勢いはどこへやら、すっかりしょげ切っていた。


「あ、はい。もう、いいです……」


「そうか、では――」

 女は言い、周囲を見渡して高らかに警告した。

「皆さん。耳を塞ぐことをお勧めする」


 食堂が面食らった雰囲気に包まれる中、早速耳を覆った女の連れの三人が、ぴたりと声を揃えて数え始めた。


「はーい。ご、よん、さん、にぃ、いちぃっ!」


 女がぱんっと掌を合わせる。それを中心として、白い光球が見る見るうちに膨れ上がった。慌てふためいた周りの人間が耳を覆い始める。女が光球を高く掲げた。

 三人の声が揃って響く。


「撃ーてー」


 どおん。


 低い轟音が響き、窓枠ががたがたと鳴った。室内に目立った変化はないが、四人の雰囲気からして何かが起こったことは確実。


「ふうう」


 女が満足げに溜息を吐き、傭兵風の男が項垂れる。


 今のは何だったのか、もしかしてこの四人は相当危ない連中なのではないのか、そんな思いに囚われた、いっそ白々しいほどの沈黙が満ちる。異常なことが起こったと分かってはいるのだが、事態が上手く把握できないがために、気まずさのみが蔓延する。


 そんな中、女がさばさばとした口調で言い放った。


「引き続き襲撃があると思う。守って差し上げたいのだが、我々は少々忙しくなるので、どうか身を守ることに留意してほしい。では」


 何か主張が変わっていないか、という視線をひしひしと受けながらも、それを一切感じないらしい女は、傭兵風の男を振り返った。


「間違いない。この宿だ。我々がここにいるということも、もう露見した。構わないから捜せ」


 はあ、と気の抜けた声とは裏腹に、精悍な顔で目を閉じ、束の間精神を集中させた傭兵風の男は、舌打ちと共に目を開けた。


「隠すつもりもないぜ、こりゃ。魔力がダダ漏れだ」


 四人の雰囲気が一気に険しくなった。


「どこだ」


 ただ一言問うた女の声に、傭兵風の男は顎で階段を示しながら答えた。


「上だ」





************





 アトルは何とかしてアリサを部屋から出そうとしていた。このままではレーシアが窒息する。


「あー、あのさ、アリサ。食堂で何が起こったか見て来てくれねえか?」


 アリサはあからさまに「げっ」という顔をした。


「え、あんな得体の知れない音がした所に一人で行けっての」

「しょうがねえだろ、俺はここの見張りなんだから」


 あーもうほんと有り得ない、などと零しながらもアリサが部屋を出たのは、見張りの重要性を理解しているからだ。

 扉が閉じられると同時に、アトルはさっと時計から下りて蓋を開けた。


「おい、大丈夫か?」


 中のレーシアは恨みがましい目でアトルを睨み上げる。


「大丈夫かって訊くくらいなら蹴らないでよ……」


 アトルは鼻白んだ。


「おまえが声を出すからだろう。かくれんぼとか言いながら」


 うっと詰まったレーシアは、しょんぼりとした風情で呟いた。


「ごめんなさい……」


 アトルは肩を落とした彼女にまたしても狼狽え、結局時計から脱出するのに手を貸すようにして手を差し出し、誤魔化した。

 レーシアは上品にその手に縋り、軽い手応えと共に立ち上がった。

 時計の蓋を閉め、アトルは溜息を吐く。


「さて……どうすっか。明後日まで誤魔化すにしても無茶があるしな……」


 レーシアは時計の上に先程のアトルと同じように座り、年の割には幼い仕草でアトルを隣に招いた。招かれるまま隣に腰掛けたアトルは、しかしすぐに跳ねるように立ち上がった。


 というのも、廊下からアリサの、かなり切羽詰まった声が聞こえてきたからだ。


 アトルとアリサの付き合いは長い。それこそ物心ついた時から顔見知りである。だからこそ、アリサのこの焦った声が本気のものであると分かる。


「ちょっ――ちょっと何なんですか、あなたたち! そこは私たちが泊まっている部屋で――勝手に何するんですか!」


 アトルは咄嗟に扉に飛び付いて鍵を閉めた。そして声を潜めてレーシアに隠れるよう指示したが、同時にノブががちゃがちゃと揺すられたため、潜めた声が届かなかったらしい、レーシアが「なに?」と訊き返してくる。


「む。鍵が掛かっているな」


 若い女の声が扉の向こうからした。


 アトルは問答無用でレーシアを時計の中に突っ込もうとしたが、レーシアを立たせて蓋を開けようとしたところで、がちゃっという、今一番耳にしたくない音がして固まった。レーシアも同じで、今度は何が来たのかと、完全にアトルの後ろに隠れている。


 廊下に設置された照明の光が、部屋の中に差し込んでくる。部屋の中にも照明はあるが、どうやらそれでは不足だと言いたいらしい。侵入者が真っ白な光球を部屋の中に浮かべた。

 つんとした清涼な香りをアトルの鼻が捉えた。


 侵入者はアリサを除いて四人いた。


 先頭に立つのは怪しい風体の女。暗褐色の外套とフードにすっぽりと包まれている。

 そしてその右斜め後ろには十六、七の、旅装束で小麦色の髪を二つに結った少女。

 その少女の隣には、黒髪に青い目の、大刀を背負い腰には長剣を差した若い、やはり旅装束に身を包んだ傭兵風の男。

 そして後ろ、アリサが抗議の叫びを上げるのを身を縮めながら聞いている、華やかな金髪に新緑の目の、腰に長剣を差した旅装束の三十代後半の男。


 先頭の女は固まったアトルを見て、険しい声を上げた。


「貴様、何をしている」


 こいつを隠そうとしていました、とはまさか言えない雰囲気に、アトルはぎぎぎと油の切れたからくり人形の如くレーシアを振り返った。レーシアはぽかんとしており、危機感はなかったが竦んでいた。しっかりアトルに隠れている。


「ええと……」


 ここではっと我に返り、答えの分かり切っている質問で時間を稼ぐことにした。


「ていうか何で鍵が開くんだよ! あんたたち宿の人間じゃねえよな!?」


 魔術ですよね、と思いながらも発した質問に、女は真面目に答えてくれた。


「魔術だ。念動系の魔術で、このくらいならば問題なく解錠できる。値は張るが対魔術用の鍵も、シャッハレイには売っているぞ」


「あ、そうなんですか」


 勢いを削がれて目を瞬かせるアトルを見て、傭兵風の男が小さく笑った。そこでアトルは当たり障りのない切り返しを実行する。


「ここの宿が鍵に金を割いてないのは分かったけどさ、人の部屋の鍵を断りもなく開けるって褒められたことじゃねえよな」


 すると、女は意外な行動に出た。手を重ねて鳩尾に当て、綺麗な姿勢で腰を軽く折ったのだ。


「非礼は詫びよう。しかし我々としては、この部屋にあなたがいるとは思わなかったのだ」


 顔を上げて言ったことに、アリサが訝しげな声を上げる。


「は? いやあの、あなたたち、わざわざ荷物のためだけにここまで乗り込んで来たわけですか?」


 すると傭兵風の男がアリサを振り返り、訝しげに言った。


「お嬢ちゃん、なに言ってんの。用がある人がいるから来たんだけど。ま、予想とは違う姿だけどな」


 ――あ、まずい。

 ――なに言ってくれてるんだこの傭兵。


 そんな二種類の心の声が噴出した。


 え、という訝しげなアリサの声。


「ちょっとおじさん、退いて」


「あ、はい」


 退くなよ、というアトルの心の声も空しく、三十代後半の男がアリサに道を開けてしまい、アリサがフードの女に並んだ。そして絶句している。


「うぅん、てっきりぃ仮死状態かぁ休眠状態にぃあると思ってたんだけどなぁ」


 少女が二房の髪を揺らしながら言い、そのときになってようやく気付いたらしきレーシアが、天変地異を目の当たりにしたかのような表情でアトルにこっそりと囁いた。


「私のこと? この人たち、あなたに用があるんじゃないの?」


「何で俺に用があるって思えるんだよ」


 アトルが歯軋りしながら言ったとき、アリサがにっこり笑いながら言い出した。


「ちょーっと確認したいんだけど、よろしい?」


「ううっ」


 アトルは呻いた。アリサの顔が怖い。


「修羅場?」


 少女がこそっと囁いたが、違う。


「これどういうことよ! まさかあんた、どっかから攫って来たの!? そんなのオヤジたちにばれたらどうなるか分かってる!?」

「あ、アリサ聞いてくれ、違うんだ、俺は一切何も犯罪行為はしていない!」

「これまで散々オヤジたちの世話になっておきながら!」

「いやだから違うって!」


 とここで、腰が引けながらもレーシアが口を挟んだ。


「あっ、あのっ」


「ん? なに?」


 アリサは表情を切り替え、普段通りの笑顔でレーシアに視線を向けた。レーシアはアトルに隠れながらアトルを庇うという、ちぐはぐなことをしようとしていた。


「彼は私を誘拐していません。諸事情あってここにいるものの、彼が責められることは一切ないと断言できます」


「よく言ってくれた」


 アトルは言って、レーシアがほっとした顔をするのを見て心ならずも少々和んだ。


「その諸事情を聞きたいものだな」


 女の声が言い、レーシアはたちまちアトルの後ろに完全に引っ込んだ。


「え……っと」


 アトルが視線を泳がせると、女は溜息を吐き、問いを重ねた。


「まず訊こう。そこにいるのはサラリス・エンデリアルザかレーシア・エンデリアルザか、どちらだ」


 エンデリアルザ――あの手紙の最後、サラリスという人物の署名にあった名前だ。察するに家名だろう。

 ということは、レーシアとサラリスは姉妹か親子ということになるのか、と思い、振り返ったアトルは驚いた。


 レーシアはサラリスの名を聞いて喜んだり、相手に興味を示すどころか、むしろいっそうアトルの陰に引っ込み、嫌悪感さえ露わにしている。


「お、おい。どうした」


 慌てて訊けば、レーシアはふるふると首を振り、アトルに囁いた。


「どっちでもないの。どっちでもないって伝えて」

「え、でも――」

「本当に、私はそのどちらでもないの」


 戸惑ったアトルだったが、レーシアの希望を聞き入れて、四人とアリサに向き合うと伝えた。


「どっちでもないってさ」


「そんなはずねえだろ」

 傭兵風の男が言った。どこかアトルを馬鹿にしたような笑みを浮かべている。

「その二人以外で、そんな凄まじい魔力量の奴はいねえよ」


「まあ、いい」

 女が傭兵風の男を遮るようにして言い、アトルを――というよりは、その後ろのレーシアを見た。

「では、そこのお嬢様。何とお呼びすれば?」


「レーシア」

 レーシアが固い顔で言った。

「ただのレーシア。エンデリアルザの名は私には付かない」


「では、レーシアさん」

 女は言い、一歩レーシアに近付いた。

「あなたをお連れしに来た。こちらへ。ここは危険だ」


 レーシアは近付かれたことで怯えてしまい、アトルの背中に張り付いた。アトルは溜息を吐き、呆れた目で女を見遣る。


「あのさあ、こいつ何かものすげえ臆病みたいだからさ、無闇に近付かねえ方がいいぜ」


 手紙の内容を頭の中で浚う。



 ――貴方はこの子のことを知らない方ですから、どうかこのままこの子の傍についてやっていてほしい。

 ――何も知らないままでこの子の人柄に触れてほしい。



 どうやら「サラリス」は、事情を知っている、あるいはレーシアとサラリスのことを知っている者がレーシアに近付くのを嫌ったようだ。――いや、全力で回避しようとしている。

 半ば騙し討ちのような流れではあったが、アトルが「サラリス」の声を聞き、手紙を読み、このレーシアの目を覚まさせてしまったからには、「サラリス」の頼みには応えるのが道理だろう。――ずっとついていてやれるかは別として。

 ただし問題は、手紙の存在を匂わせずにレーシアをこちらに引き止める方法だ。レーシアの立場になって考えれば、少しでも自分のことを知っている方に付いて行きたがるだろう。


 さてどうするか――と考え込んだアトルは、レーシアが全く動かないことに気付いた。


「どうした?」


 訊くと、レーシアはぼそりと呟いた。


「あの人たち、サラリスのことを知らない」

「え?」

「知ってたら私のことをあんな風に呼ばないもの」


 レーシアは不安そうに瞳を揺らした。


「どうしよう。どうしたらいいのか分からない。サラリスがどこにいるのか、全く分からない」


 アトルは一瞬詰まったものの、余りにもレーシアが哀れなので、よしよしとばかりに頭を撫でた。


「ゆっくり考えろ。何かこの騒動であれこれ予定が狂いそうだし」


 うん、と頷いたレーシアは、首を傾げてアトルを見た。


「なんだよ」


 アトルが訊くと、レーシアは首を振り、中途半端に近付いた女の方に視線を移した。女は二人がこそこそと喋っていたことが気に食わないらしく、腕を組んで不機嫌な声を出した。


「すまないが、レーシアさん……」


 その声で名前を呼ばれ、レーシアはううっと呻いてアトルの後ろで身を縮めた。


「……我々はあなたの回収――いや、同行を求めるよう命令されている。申し訳ないが来ていただく」


「おいあんた」

 アトルが喧嘩腰で言った。

「今、回収って言ったか。こいつは荷物じゃねえぞ」


「待って」


 レーシアが初めて身を乗り出した。しかしそれは女やその態度を歓迎するためではない。綺麗な薄青の目には疑念がある。


「回収――私じゃない、あなたたち知ってるの?」


 一瞬の躊躇いの後、女は静かに頷いた。


「直接的に我々が命じられたのは、宝具の回収ということで、間違いはない」


 レーシアはなぜか混乱したようだった。


「そ、それだけ?」


 女は逡巡もなく頷く。


「はい。言い方は悪いが、あなたは付随しているに過ぎない」


「こ――この分からずや!」

 いきなりレーシアが叫び、アトルの後ろに戻りながら更に声を張り上げた。

「やだやだやだやだ! 絶対について行かない!」


 ホウグ? と首を傾げながらも、アトルは大人しくレーシアの盾になる。

 目が覚めてから会った人間の中で、アトルだけがレーシアにとって怖くもなく、有害でもなかったらしい。今は取り敢えず信頼されているようだ。


「そう言われても、あなたの意思を尊重できない。許してほしい」


 女はそう言った。言っていることは酷いことだが、口調は真摯で、本心からそう思っていることが分かった。しかし、レーシアは「やだ!」と繰り返す。


「困ったな……。時間もないし仕方がない。――ミルティア、リーゼガルト。三人でやるぞ」


 女が言い、少女と傭兵風の男が女に並んだ。三人が両手を前に出す。


「はぁい、せぇーのっ!」


 少女が掛け声を掛けた瞬間、三人の両手を淡く光る幻想の鎖が流れた。その鎖が一気にレーシアの方に伸びる。金臭いような匂いを実際に感じたアトルは、鼻に皺を寄せた。


 幻影を伴う念動系の魔術は、かなり高位の魔術師でないと使えない。こいつらそんなに凄かったの、と舌を巻くアトルは、咄嗟にレーシアを押し遣ろうとしたが、彼はすっかり忘れていた。


 レーシアがどんなに怯えやすいかということを。


 レーシアは鎖を見るやアトルから離れて後退り、箱に当たって下がれなくなると、なりふり構わず叫んだのだった。


「私に触らないで――!」


 金属が擦れるような大音響が響き、鎖が一瞬で消滅した。

 魔術を行使した三人ともがその余波を喰らい、少女がたたらを踏んで後ろに倒れ、他の二人が体勢を崩した。傭兵風の男の顔色が僅かに白くなる。


 レーシアの周囲を、白く波立つ空気がばちばちと音を立てながら囲んでいる。これにはアトルも含む六人が息を呑んだ。


「話には聞いてたけどよ、マジかよこれ」

 傭兵風の男が唖然とした声音で言った。

「三大禁忌が引っ繰り返ってるぜ……」


「圧倒的魔力量、彼女で間違いないということだ」

 女が落ち着いた声音で言い、ちらと窓に目を遣った。

「もう本当に時間がない。拘束魔術が効かないのなら、原始的に、引き摺ってでも同行してもらう」


「――おい!」


 さすがにアトルが抗議の声を上げるも、傭兵風の男がアトルに向き直って牽制し、アトルとレーシアを近づけまいとする。

 今まで口も開かずじっとしていた三十代後半の男が前に出、レーシアに手を伸ばした。


 ばりばりと凄まじい音がした。レーシアの周囲に漲る魔力がその手を拒絶し、男は驚いたように自分の手を見る。赤く爛れたその手は、見ているだけで激痛が想像できるほどだ。


 レーシアも驚いた顔をしていることから察するに、どうやら意識してやっているわけではないらしい。


「うっそぉ、グラッドの障壁全部消しちゃったのぉ?」


 独特の抑揚で少女が言い、同時に傭兵風の男が何かに気付いて声を上げた。


「おいみんな! やべえぞ、何か来る!」


「何かって何だよ!」


 至極真っ当なことをアトルが叫んだ瞬間、部屋の壁が崩れ落ちた。





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