第一章「風の声②」
「まったく、お前ときたら」
ヴァンは2人を路地裏に引き入れると、信じられない思いで護衛士を睨みつけた。
「さっきから自分のことは棚に上げて、よく人を責められるな。よほどダリール公国に個人的な恨みでもあるのか」
ヴァンに叱責されて、ファングは驚いた顔で目を開いた。
「そういうワケではありません。ただ殿下の立場上、ダリール公国に好意的な意見を持つのは、周囲から反感を買うのではないかと
心配しているのです。ダリール公国に傾倒していると知れたら、あなたの将来にも関わるのですよ?!」
「好意的で当然だろう? オレの一族は、かつて大公の臣下だったんだ。今はどうあろうと、大公に忠誠を誓った事実を否めるつもりはない。あまり目くじらを立てるな」
怜悧に見据えられ、ファングは仕方なく頭を下げた。
傍らで呆然としていた少年が、2人の会話を聞いて落胆した声を放った。
「…それでは、あなた方はダリール所縁の方ではないのですね。…てっきり…僕は…」
ファングは、そら見たことかと顔をしかめた。
やはり場所を選ぶべきだったのだ。
いくらこの国が穏健な軍事主義を貫いているとはいえ、豊穣で平和的だったダリール公国を懐かしむ者もいるのだから。
そういう輩を助長する態度は避けるべきだったと、後悔が溢れた。
そんなファングの気も知らず。
ヴァンは前かがみになって、少年と視線を同じくした。
「坊主、どこから来た。名前は? 何を知りたいんだ?」
「僕はルフト。風配師見習いです。ファミリアを探しています。《風を読む》のが仕事なのです」
「…風を、読む?」
「はい」
ルフトは、大きな布カバンから風配図の書かれたコンパスを取り出した。
子供が持ち歩くには少し大きいサイズだ。
艶のある表面にはバフィト王国の地図が描かれていて、幾通りもの風向きと風速が、数分おき単位でめまぐるしく表示されている。
「このこチカチカと点滅しているのはなんだ?」
ヴァンが尋ねると、ルフトは即座に、
「ファミリアです」
と答えた。
「は?! ファミリアはとうの昔に絶滅したはずだろう?」
「ファミリアはわずかな風の動きに反応して、どこへでも飛んでいきます。クーデターの業火に焼かれたとしても、うまく逃げ延びることができたでしょう。…不思議な光を見たという目撃情報は、今でも時々耳にしますし」
「――ファミリアが、今も存在していると…?」
「ファミリアはダリール公国を守るもの。大公家の血縁が生きている証でもあります」
そう言うと、ルフトは少し落ち込んだ面持ちで微笑した。
「でも僕はまだ見習いなので。このコンパスをうまく使いこなせなくて、地図どおりに歩いてもファミリアを見つけられないのです。…このコンパスが、あなた方2人からファミリアの匂いがすると教えてくれたのですが…」
ヴァンとファングは、互いに顔を見合わせた。
「なるほど。匂い、ね」
「それでオレたちがダリールの人間だと勘違いしたのか」
苦笑するヴァンの横で、ファングは呆れ果てたように肩をすくめた。
ルフトが追ってきた《風の読み》は、あながち間違ってはいない。
ファミリアと接触した記憶があるか、と聞かれれば、迷わず『イエス』と答えただろう。
だが…
「残念ながら、オレは公家の血縁じゃない。…先日、駐屯地でファミリアに守られて腐敗を免れた体の一部を見たから…。匂いの気配が移ったのなら、おそらくそれが原因だろう」
「体の、一部…?」
ルフトは、理解できないというように怪訝な顔をした。
例の女軍人リディナ・カーマイトの左腕は、発見されるまで長らくファミリアに守られていたと聞く。
その匂いが守神のように染み付いていたとしても不思議はない。
とはいえリディナ本人ではなく、
ヴァンたちを追いかけてくるところを見ると、ルフトの風配図もたいした嗅覚力ではないらしい。
それよりヴァンは、さきほど少年が言っていた言葉の方が気になった。
「なぁルフト。…お前さっき『ファミリアは、公家の血縁が生きている証』と言ったか?」
直後。
ルフトの顔色がはっと変化した。
罪に問われて投獄されるとでも思ったのだろうか。
「ぼ、僕はっ、別に、ファミリア信奉者というわけでは、…ただ、風配師は、仕事のひとつなので…っ」
瞬く間に青ざめた少年を見て、ヴァンは慌てて首を振った。
「違う違う、そうじゃない。お前はファミリアの生態には詳しいんだろ?」
「はぁ、まぁ」
「ひとつ聞きたいのだが…たとえばダリール公家の人間が生きていたとして、性別を変えることは可能だろうか」
「え!」
「ファミリアの力を使えば、性別を偽ることは容易いだろうか」
とたんに横からファングの罵声が飛んできた。
「殿下! いい加減にしてください! その話はもう終わりと言ったでしょう?!」
しかしヴァンはそんな訴えを無視して、乞うようにルフトの前にしゃがみこんだ。
「どうだろうか、ルフト。教えてくれないか」
「…えーと、」
神妙な眼差しを注がれ、ルフトは困惑して言葉に詰まった。
「それは、さっき話してた『腐敗を免れた体』の話と繋がっているのですか」
「オレにもよく分からない」
「……」
ふむ、とルフトは拳を口元にあてて考え込んだ。
「端的に言うと、ファミリアの力で性別を変えることは可能です」
「本当に?!」
「ただ、そんなすごい能力があるのなら、離れた体を引っ付けるぐらい簡単だと思うのですが…。もしくはその体の一部を使って、体をまるごと再生するとか…できそうなものですが」
「あー、」
それはどうだろう、とヴァンは苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
アランにそんな力があるとは、とても思えない。
でなきゃ今ごろ、義手や義足に頼るような生活はしていないはずだ。
すると2人の様子を傍観していたファングが、思い立ったように会話に入ってきた。
「ファミリアの加護というのは、そんなにすごいものなのか? 幼い頃にもぎ取られた腕が、まるで生きているかのように成長して、他人の体に引っ付いたりするのか?」
その言葉に、ルフトはきょとんと目をまるくした。
「確かに、ファミリアの加護力は素晴らしいものですが、ダリールの血縁者すべてに優れた能力が備わるわけではありません。たいていの人間は、ファミリアを見たり呼び寄せたりする程度でしょう。…なにか《別の力》が働いているのかもしれませんよ」
「ほう!別の力とは!それはおもしろいな!たとえば?」
「…殿下」
興味津々で身を乗り出したヴァンに呆れ、ファングはたしなめるように彼の名を呼んだ。
くすくすと笑ったルフトが、おかしそうに2人の様子を見つめている。
「僕のお師匠さまなら詳しく知っているかもしれませんが。僕はうまく答えられません。…ひとつ言えることは《本来ファミリアは公家とその国を守るもの。しかし、そうじゃない場合もある》ってことです」
ルフトの口から吐き出された言葉に、今度はヴァンが目をまるくする番だった。
「まったく意味が分からない…」
「ですよね」
ルフトは、ようやく少年のような笑みを見せた。
そして戸惑いぎみに、ヴァンたちを見つめた。
「ところで、あの、さっきから《殿下》とおっしゃっているのは、もしかして、その、あなたは…」
その時だった。
ルフトの声を遮るように、路地裏にけたたましい音が響いた。