第三章「《風配師③》
どん、と強い衝撃の後。
アランは深い森に落下した。
見上げた空に、月はない。
「…ルフト?」
不安になって名前を呼んでみたものの、返事はない。
辺りが闇に染まる中、目の前に小さく灯った薄明かりが小さく明滅している。
その光景をぼんやりと見つめ、アランは手元に残されたマントと風配図を握りしめた。
そして、
その場にしゃがみ込んだまま、じっと紙面を目を凝らしたその時。
自分の手が、細く華奢になっていることにぎょっとした。
──女に戻っている!?
そう気づいた刹那。
周囲を照らしていた小さな光が、ようやくファミリアの大群だということに気付いた。
突然近づいてきたファミリアたちがアランの方に向かってきたかと思うと、一気に回りを囲っていく。
「わ、うわっ、」
短い黒髪は長く金色に変わり、男子の平らな胸が瞬く間にふくらみを帯びる。
骨ばった右手と右足が細くしなやかに変化すると、アランはメタルの腕で自分の体を抱きしめた。
「おい、ウソだろう…?」
こんなにたくさんのファミリアがいるのに、力が効いてない?
なにが起こっているのかまったく分からないでいると、
「…あらまぁ、これは…本当に…」
ふいに届いた声音に、はっと顔を上げた。
──いつの間にか、女性がそこに立っていた。
頭から真っ白なベールをかぶり、顔のほとんどが覆われている。
しかし尖った顎のライン、なめらかな肌、細い体格。
そしてその声質から、若い女だと推測できた。
その傍らには、まるで女性に付き従うようにルフトが立っている。
「…ルフト、これは」
だがルフトは、アレクシアの姿に戻ったアランを見るなり、感嘆の声を発した。
「すごい、本物だ! あなたからはファミリアの気配がしなかったのに、どうして…?! 本当にアレクシア・クリスタ公女なのですね!」
「──」
「男性の姿の時も《ガニュメイド》のようで。ギリシャ神話に登場する美少年の再来かと思いましたが、やはり女性に戻るとそれ以上だ。紅玉石の至高ピジョン・ブラン(白鳩)と言われるだけはある!」
やたらと興奮しているルフトを見つめ、アランは頭を抱えた。
「ルフト。状況を説明してくれないか」
「あぁ、ご紹介します。こちらの方が僕のお師匠様。風配師のトランスフィールド様です」
「えっ」
と目を丸くした先で。
トランスフィールドと紹介された女性が、アランの前で両膝を折った。
覆ったベールを少しだけ上げて、こちらを垣間見る。
ものすごい美人だと思ったが、それ以上にこちらに注がれる瞳の光が美しかった。
思わず見とれてしまっていると、トランスフィールドは嬉しそうににこりと笑ってみせた。
「なるほど。ファミリアの気配を感じなかったのは、男の姿になったせいでオーラが封印されていたからでしょう。…失われた公国ダリールの、アレクシア・クリスタ公女ですね。よく顔を見せてくださいませ。まさかホントに生きておられたとは」
アランの長い金髪に手を伸ばし、指でつまんで巻き付けると、クルクル回しながら弄んだ。
「…トランスフィールド」
「なんでございましょう、公女殿下」
「ここはどこだ」
「風配師だけが集まる場所。地下都市でございます」
「地下都市? いつの間にこんなものを」
「ここは、かつてダリールであった頃から風配師の住処であったところ。現バフィト国王にも知られていない秘密の場所でございます」
「…そんなの初耳だ」
「ファミリアが見える者なら、そして羅針盤を持っている風配師なら、誰でも立ち入ることができるのですよ」
そう説明されても、ちっとも理解できない。
ダリール公国が滅んだ時、アランはまだ幼く、世界のことを何も知らなかった。
しかしファミリアを有する国であるならば、風配師とそれに関わる地下都市の存在を頭から否定する気にはなれない。
──だが、それも遠い昔のこと。
国を総べる大公はすでに亡く、風を読みファミリアを追う風配師の価値すら、不要の世界だ。
そんなアランの心のすべてが、長い髪を伝ってトランスフィールドの指先に流れ込んでくる。
「バフィト国王に復讐したいとお考えなのですね、アレクシア公女」
「!」
「もちろんご協力いたしますわ。公国の復活のために」
「復活? そんなことは考えていない」
「では、お考えくださいませ、今」
「…後継者もいないのに」
「あなたがおられるではありませんか」
「女は後継にはなれない。そういうしきたりだったはずだ」
「そんな法律など、あなたが変えればよろしいのです。国王を殺して公国を取り戻したら、必然的にあなたが大公になるではありませんか」
「ずいぶん簡単に言ってくれるな」
と、苦笑した。
公国を失ったこと、ファミリアがいなくなったこと。そして大切な家族を亡くしたことは、幼いアレクシアにとって大きな衝撃だった。
二度と手に入らない幸せな時間──
もう戻らないからこそ、無念で死んだ両親や、巻き込まれた国民たちのために、バフィト国王だけは倒したいと心に決めて生きてきたのだ。
すると、
「アレクシア・クリスタ公女殿下」
ふいにルフトが跪いた。
頭を垂れた少年の声が、うやうやしくアランの耳に届いた。
「今のバフィト王国は、全体の8割近くが軍事基地と化しています。そのためファミリアの増幅は絶望的です。…しかし公国が復活し、即位した大公の御力をもってすれば、ファミリアが勢力を吹き返して、再び以前のような美しい山野の豊かな国が取り戻せるのです。過ぎ去った過去の幻が、再び現実となるのです」
「…そのためには、また無駄な血が流れるのだろう?」
「まぁおかしなことをおっしゃるのね」
トランスフィールドが、けらけらと笑った。
容姿だけでなく、その声も美しい。
小さな鈴が転がるような音色は、言葉とは裏腹に心地よく耳に響いた。
「復讐のために国王を殺害するのは、正義ではないのですか? 正しいことをするのであれば、命の数は問題ではございません。公女殿下…すべてはあなたの恣意ひとつ。われわれ風配師一族は、命も惜しまない覚悟でございます」
「…死活問題なのだな」
アランは、彼らを気の毒に思った。
昨今、バフィトの軍閥政治のせいで、風配師の立場は窮地に追いやられているのだろう。
豊穣な土地に意味はなく、ファミリアに世界をゆだねないバフィト王は、軍事と財をもって何事にも揺るがない強国を作ろうとしている。
いずれ風配師は、滅びの一歩を辿ることは目に見えていた。
…救いたいという気持ちが、ないわけではない。
けれど、そこまでの大義を、アランは持ち合わせてはいなかった。
「公国を取り戻すことは考えていない。…たとえ国王を抹殺したとしても、次の国王が《正しき人》であれば、軍事国といえども、光ある国として進んでいけると思うからだ」
「しかし!」
と、ルフトが言い返した。
納得できないという表情で、身を乗り出して訴えてくる。
「それを言うなら、現・国王も、《まっすぐな信念を貫いた》と思っているかもしれませんよ。何が正しいのかなんて、他人には計れないものです」
「それは、そうかもしれないけど」
「あなたが国王に刃を向ける理由を、今一度よくお考えください! 世界が乱れていることを、よく自覚なさってください」
「――」
「正しきものを正しき場所へ。それがファミリアの信念です。われら風配師は、ファミリアとともに。そして公家とともに」
そう呟いたのは、風配師トランスフィールドだった。
…思想は分からないでもない。
だが、復讐を遂げればそれで終わりだと思っていたアランにとって、その先の未来など考えたこともなかった。
自分はどうせ死刑になって終わり…のはずだったのに。
ダリール公国の復活。
新たなる大公殿下の誕生と、国づくり。
改めて聞く話に、ただ戸惑うばかりだった。
「さて、今日のところはこの辺にしておきましょう。今ごろ士官学校の庭園は大騒ぎでしょうから、そろそろ元の場所にお送りしなければね」
そう言って立ち上がったトランスフィールドが、ふと思い出したように振り返った。
「あぁ、ひとつ言い忘れておりました。──とてもお美しく成長なされたのですね、アレクシア・クリスタ公女殿下。感無量でございます」
にこりと笑ったトランスフィールドは、アランの手から羅針盤を取り戻すと、ここに飛ばされた時と同様、頭にふわりとベールをかぶせた。
再びさっきの庭に戻されるのだと知り、アランは慌ててトランスフィールドの服を鷲掴んだ。
「待て。ひとつ聞きたい」
「なんでございましょう」
「ジョーカーを知っているか? 12年前に失われた私の腕を、勝手に女軍人に移植にした人物だ。もし心当たりがあるのなら教えて欲しい」
「ジョーカーという名前は存じません。…しかし公家の人間の腕を移植できるなら、ファミリアの使い手であることに間違いないでしょう」
「えと、つまり、ジョーカーはダリール公家の血筋であると?」
「そうとは限りません。私たちと同じ、羅針盤を操る風配師かも知れませんよ」
「どちらにしても、捜索は限定されるのだな」
「──さぁ、お行きなさい、殿下。いずれまたお会いいたしましょう」
その言葉と共に、風配師の姿が次第に薄れていく。
ルフトに抱きかかえられ、ゆっくりと世界が歪んでいく視界の中で。
アランもまた、深い意識の淵に落ちていった。




