第一章「風の声①」
プラスコリア士官学校。
朝から会議室の掃除を任されたアランとフェルディナンは、バケツにモップを突っ込み、面倒くさそうにバシャリと飛沫を上げた。
「ヴァン王子と2人で駐屯地に行った?!」
フェルディナンの声に、アランはこくりと頷いた。
「正確にはファングと3人だったけれども」
「何人だろうが関係ない」
モップで乱暴に床を濡らし、フェルディナンは不機嫌そうに眉根を寄せた。
「またオレに黙って勝手なことを。お前はなんでそうムチャなことばかりするんだ」
「言ったら止めただろう?」
「当たり前だ。なにかあったらどうする気だ! しかも王子の前で全裸になっただなんて、正気の沙汰じゃない」
「ほかに方法がなかったんだ」
アランは、珍しく殊勝な面持ちで息をついた。
――今、女だと疑われたら、この先やっていけない。
あらぬ誤解を招き、疑われてしどろもどろに説明するよりは、一番手っ取り早い方法を取っただけの話だ。
「私たちは冗談で敵討ちを画策してるわけじゃないんだから。恥じらいだの自尊心だのは、さっさとドブに捨ててしかるべき」
「…実に男らしいことだな」
皮肉を含んだフェルディナンの物言いを、アランは聞かなかったことにした。
「そんなことより。私の左腕が女軍人の身体についていた件だけど。どう思う?」
「どうって言われてもなぁ。よく分からないよ。…それ返してもらえないのか?」
聞きたいのはそういう事じゃないんだけど、と拍子抜けして、アランは肩をすくめた。
「今さら返してもらっても、私には不要なものだから。それは別にいいんだけど」
「確かにな。それに、その女軍人に恩を売っておけば、いつか国王暗殺計画に協力してくれるかもしれないしな」
「…浅ましいな」
「お前がプライドは捨てろって言ったんだろ」
フェルディナンはムッとしてアランを睨みつけた。
「ようするに、現実には起こりえないことが起こってるってことだ。もしかしたら、お前の左足も別のヤツにくっついているかもしれないぞ」
「そう! それだよ、それ!」
アランは掃除をそっちのけでモップを放り出した。
「どうしてこんな事になってるのか、ワケがわからないんだけど! どうなってるんだと思う?!」
「悪用されてなきゃいいけどな。もしどっかの変態オヤジに拾われて愛でられてたらシャレにならないぞ」
「うっ」
――本当に笑えない冗談だ。
いつまでも街のはずれに身を潜めている場合じゃないのに。
あまりにも情報が足らなさすぎて。
2人で考えていても、結論には至らない。
これでは大義をまっとうするのはいつになるやら…
と頭が痛くなってくる。
「冷静になろうぜ、アラン。必ずいつか国王を殺せるチャンスが来るから」
フェルディナンの手が、なだめるようにアランの肩に乗った。
「その女軍人についても勝手にかぎ回るなよ。気になるのは分かるけど、へたに軍部と関わって、あらぬ嫌疑をかけられたら困るのはオレたちの方だ」
「…うん」
子供をあやすように諭されて、こくりと頷くしかなかった。
その時。
窓から流れ込んできた空気が、ざわりと震えた。
はっとしたアランが、遠く空の向こうに視線を這わす。
「…アラン、どうした?」
「ファミリアたちが騒いでいる」
「え?」
「街のほうで何かあったらしい」
風に乗って、ファミリアたちの感情が吹き込んできた。
驚きと、不安と、戸惑い…
ざわざわした胸騒ぎが周囲を取り囲み、アランは眉をひそめて遠くの景色を見つめた。
■□■□
12年前。
バフィト王国が建国されて以来、街中は軍服姿の兵士で溢れるようになった。
すでに市民にとっては見慣れた光景であり、行き交う人々はヴァン王太子の存在に気づくと当然のように道を譲った。
「殿下、どうぞ」
小さな子供にリンゴを差し出され、彼は礼を言ってそれを受け取った。
軍服の袖でリンゴを磨き、
「食べるか?」
と傍らのファングに声をかける。が、まじめな護衛士は即座に首を振った。
久しぶりに外でランチをという話になり市井に出てきたのだが、こう人が多くては昼食にありつけそうもない。
ヴァンは空腹を紛らわすように、リンゴを丸かじりした。
「それで結局、逮捕された女軍人については、何も分からなかったんだろう?」
ヴァンの問いに、ファングは小さく頷いた。
「軍事病院では一切把握していないようです。移植をそそのかした男も、闇ドクターの存在も、無資格医院も、まったく裏が取れませんでした。もしかしたら、あの女のでっち上げかもしれませんよ」
「じゃあ、あの移植された腕はどう説明する? あれも狂言だと思うのか?」
「可能性はあります」
さらりと疑惑を否定するファングに、ヴァンは眉をひそめた。
「…さてはお前《ファミリア否定主義者》だな」
「王太子ともあろう者が、その発言はどうかと思いますがね」
じろりと見据えられ、あまつさえ、
「女の処分はどうしますか?」
などと話を変えられてしまい、ヴァンはやれやれと肩をすくめた。
「始末書と謹慎ってところだろうな。しばらく監視をつけておけ。なにかあれば報告を」
「了解しました」
真摯に頷いたファングが、はたと思い出したように顔を上げた。
「…それと、…アランの件ですが」
「アランがどうした?」
「彼がダリール公国の血族ではないかと疑っておられたようなので、極秘に調べてみました」
「!」
「女軍人リディナ・カーマイトの左腕の《元の持ち主》について気にしておられたようでしたから」
「へぇ。気が利く!」
ぱちくりと目を開いたヴァンの横で、ファングは口にするのも忌々しいというように唇を尖らせた。
──ファングのような反応は、別に珍しいことじゃない。
平和だったダリール公国がクーデターによって滅亡したことは、国民にとって衝撃的な事件ではあったが。
それでもわずか10数年ほどで軍事的に大国となった事実は、人々に大きな安心感を与えている。
だからこそ《ダリール公国のことは忘れるべき》という潜在的意識が高まり、バフィト王国内において《ダリール》の名を出すことは、いまや禁句に近かった。
ヴァンのささやかな期待とは裏腹に、ファングは切り捨てるように冷めた声を発した。
「しかし、こんな通りのど真ん中で報告する内容ではありません。場所を移動しましょうか」
「いや、構わない。話してみろ」
強い口調で促され、ファングは冷静に頭を巡らせて声をひそめた。
「殿下には申し訳ないのですが、やはりダリール公家の生き残りなど存在いたしませんでした」
目の前で。あからさまに落胆したような双眸が揺れたのが分かった。
「…そうか」
「あまり多大な期待はもたないほうが賢明ですよ、殿下。正確な判断を誤る原因になります。仮にダリール家の人間が生きていたとしても、それは決してアランではないと確信できます」
「根拠は?」
「年齢が合いません」
――そもそも大公一族については、すでに全員の死亡が確認されている。
アレクシア・クリスタにいたっては、戦車に轢かれたという目撃情報がある以上、生存しているとは考えにくい。
遠縁にあたる王侯侯爵3名とその家族についても、アランに該当するような歳の子供はいないという調査結果が出ている。
「それに」
と、ファングは追い討ちをかけるように呟いた。
「アランの、あの緑がかった黒髪。ダリール一族にあんな髪色の子供は存在しません」
「…でも、ファミリアの力を使えば、もしかしたら」
などとうっかり口にしてしまい、いい加減にしろとばかりにファングに睨まれてしまった。
「あなたは本当に往生際が悪い、殿下」
「分かった分かった。もう言わないから。そんなに怖い顔するなよ、ファング。…それより腹が減ったな。どこかで食料を調達しないと…、って、おっと?」
近くに適当なレストランはないかと周囲を見回した瞬間。
何者かがぐいっとヴァンの軍服の裾を引っ張った。
勢いにつられるようにバランスを崩したヴァンに驚き、ファングはとっさに懐から銃を取り出した。
だが、裾を掴んでいるのが幼い少年だと気づき、引き金に手をかけたファングの殺気が、瞬時に緩んだ。
「おい! なにをしている小僧! 殿下に対して無礼だろう!」
「落ち着けってファング。…どうした坊主。迷子か?」
ムキになる護衛士を片手で制し、ヴァンは戸惑いぎみに視線を落とした。
坊主というような歳にも見えなかったが。イタズラをする年頃にも見えない。
さては道にでも迷って助けを求めたのかと思った刹那。
少年はまっすぐにヴァンを見上げて、口を開いた。
「…あなたは、ダリール公家の生き残りですか」
「えっ!」
「アレクシア・クリスタ公女の縁者の方ではないのですか」
その言葉に、ヴァンとファングは目を見張った。
詳しく話を聞こうとヴァンが身を乗り出したとたん。
今度は短刀を取り出したファングの手が、少年へと向かう。
「こんなところでダリール公国の名を口にするなんて! ほかの軍人に聞かれたら殺されるぞ!」
「ファング。いい加減にしろ。まだ子供だろう?」
手首を掴んで短刀を下げさせると、ヴァンは片手で少年の襟首を掴み、もう一方でファングの腕を掴んで、ずるずると2人をビルの裏道へと引っ張り込んだ。