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痒い≒痛いのパート2。本日二話更新しております。

 この気持ちに名前を付けてしまわなければ、まだどこにでも行ける筈だ。

 ぱっくりと大きく口を開いて、底がどこにあるのかも知れぬ深い深い穴を覗き込んでは、躊躇って、深呼吸して。

 名を付けて心を縛ることは簡単だ。胸の動悸に理由を付けること、感情に振り回される愚かな女になることも。それら全ては恋の名のもとに許されてしまう。それを恐ろしいと感じる私は、いつしか恋愛から距離を置きがちになっていた。


 潔癖な訳じゃない。恋も人並みにこなしてきた。時々、甘くて苦いその味をもう一度味わいたい、と思うことだってある。けれど、失った時を思うとこのままでいいのではないかと臆病風が吹き荒れる。そのくせ、喫煙所でよく会う彼がかわいい後輩と親しげにしていると、勝手に寂しくなるし、焦ってしまう。

 もうずっと自分の中にはその熱源があるのに、見て見ぬふりをしている。そうすればいつかどうにかして熱が冷めてくれるのではないか、なんてこの段に来てまだそんな風にぐずぐずして。先延ばしにして物事が解決することなんてないと、仕事をやっていれば嫌という程分かっているのに。


 最初は、痒いな、と思った。彼が、私が発した他愛のない言葉なんかで、優しく笑ってくれるから。――そんなの慣れてなくて、居心地が悪くて、なのに嬉しくて。全部ごった煮になると、心はムズムズした。

 彼は私がそれを欲しがっているって知っているみたいに、望んだ分だけ煙の向こうから笑顔をくれた。


「なんでそんなににこにこしてるの」

 いつかそう聞いて見たことがある。

「かわいいから、かな」

「何が?」

「何だろうね」

 そんな風に、はぐらかされた。答えは、分かるような――分かりたくないような。

 それでも、もう一度、と何度も彼の笑顔を望む自分に、さすがに気付かされた。彼を意識しているのだと。

 それでも、恋じゃない、と唱えていればほんとうに恋でなくなるような必死さで、私はその言葉をいつも携えた。

『恋じゃない』気持ちが手で掴めるのなら、私は遠くへ放り投げてしまいたかった。

 残念ながら、それは叶わないし、痒みはちりちりと熱を孕んで、いつまで経っても冷める気配もない。かきむしってしまえば一時楽になるけれど、その後に訪れるのは、じんじんとした痛み。そうなると自覚せざるを得ない。

 好き。でも恋じゃない。

 胸の中、鼓動のテンポで反発しあう二つの言葉は、いつしか壊れたレコードプレイヤーのように二文字のものだけを繰り返していた。


 同じ職場の人との恋なんて、いい時も悪い時も望み以上のものを双方にもたらしてしまう。仕事とプライベートは分けておきたい。というか、そもそも恋なんて望んでなんかいなかった。

 頭では、そんな風に思ってる。なのに声を追ってしまう。気が付くと、彼の笑顔を見たいと思ってしまう。愚かな女になってもいい。名を付けて縛りつけたい。でもそんなの怖い。

 だから、逃げた。


 喫煙所通いをやめ、彼との接触を極力減らした。仕事での接点はなるべく後輩――例のかわいい子だ――に任せて、どうしてもというところだけ、直接やりとりして。

 飲み会でも、違うテーブルに着いた。

「こっちにいるの珍しいね」と周りの人に云われれば「そろそろ禁煙しようと思って」とあっさり信じてもらえる嘘を平気でつくくせに、それでも白い煙の向こうにいる彼を盗み見る自分の愚かさにあきれた。

 彼が煙草とお酒を持って立ち上がったのを見て、すかさずお手洗いに立つ。戻って来た時に彼が隣の席に座っていたら、今度は「やっぱり禁煙失敗したみたい」って笑って喫煙ゾーンに座ればいい。

 お手洗いから席までの細長い廊下を、ゆるゆると酔いが回った頭で歩いていると、心はやっぱり彼のことに行きついた。――最近、私に笑ってくれない。当たり前だ。避けてるんだから。

 笑顔を見れなくてさびしい。自業自得だけど。

 失うリスクを回避しただけなのに、大切なものまで失ったような、気持ち。


 角を曲がると席に戻る、その手前に誰かが立っていた。困るな、狭いからそこに立っていられると通れない。少し下がってもらおうと息を吸って、――そのまま固まった。ようやく発した言葉は。

「なんで?」

「それはこっちの台詞。――なんで避ける」

 いつもの笑顔じゃなく、何だか怒っているような彼。それだけで悲しくなるけど、こうして二人きりの状況に心のどこかは喜んでいた。

 避けてないよ。自意識過剰。

 そう返せば、きっと『そうか』で終わる。分かってるのに、彼の前でうまい嘘を吐けたことなんかない。

 助けを求めるように、彼を見上げた。

 目が合う。

 怒った様子は鳴りを潜めて、彼も静かに私を見て、そして。

「強情」

「――うん」

 ああ、やっと見れた。彼の笑顔。何でこれを手放せるだなんて思ったんだろう。 

 初めて私から近づく。もう、ただの同僚には戻れないって分かってて、新しい関係へと踏み込む。


 この気持ちに名前を付けてしまわなければ、まだどこにでも行ける。そう思っていた筈なのに。


 私はとっくに、あの穴へ飛び込む準備を済ませていた。


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