元彼の合鍵
ラブくない上に後味の悪い話です。
最後にちゃんと会ったのっていつだったっけ。好きだよとか俺もとか、そんな会話をしたのは。ラブラブな自撮りしたのは。
彼(元彼と言うべき?)の家に置きっぱなしだった少女漫画の続きの最新刊が出て、そしたらどうしても一巻から読み返したくなった。
でも、今更連絡取るのもめんどいし、そもそもつながるかも怪しい。かと言って顔合わすのも気まずいから、いない時間帯を見計らって、返しそびれてた合鍵でこっそり侵入することにした。
平日の昼間、わざわざ有休をとってその部屋に向かう。駅からアパートまでの間に、この半年余りの恋のダイジェストをざっとおさらいする。
最初の方、たぶん二股かけられてたなあ。自分のじゃない飲みさしのペットボトル(私はぜったいバジルシード入りは飲まない)とか普通にあったもんなあ。
それでもって、二ヶ月前ももう二股かけられてたなあ。観てない映画を一緒に観に行ってた設定でメッセージがきて、『ああ、そういうことですか』って思ったの覚えてる。それで、こっちからマメに連絡をしないでいたら、向こうからも来なくなってた。
いいんだけどさあ、終わるなら終わるって言ってほしかった。ちゃんと『ごめん、好きな人がいる』って言ってくれたら私だってここまで引っ張らなかったよ。
お気に入りなのに向こうの部屋に置いといた漫画を、ほんとうはまた訪れる理由にしたかった。理由に出来る賞味期限が切れて、こうしてこそこそ取りに行く羽目になったけど。あーあ。
ため息吐きながら合鍵をノブに差す――奥まで入りきらない。
え? どういうこと? 私、鍵壊しちゃった?
ガチャガチャ音を立ててノブを動かす。けど、運良くあいてるなんてこともなくって、ほんの少ししか回らない。
差しっぱなしだった鍵をそっと引き抜いて、もういちどそろそろと入れてみる。でも、やっぱり鍵は最後まで入らないで止まってしまった。って、ことは。
鍵、交換したんだ。――あの漫画、また一から買い直しかあ。まいったな。
そんな、間の抜けた感想しか出てこない。というか、切り捨てられたってことをあまり考えないようにした。だってそんなの惨めすぎる。
いいや、もう帰ろう。途中で何かおいしいものでも食べてこう。そう思って踵を返すと、ぎいってドアが開く音がした。
会いたいのか会いたくないのか分からないまま、心の準備が整わないまま、振り向いて見つめる。
あれ?
なんか、着てるシャツ、らしくなくない? てか、身体のライン、ちがくない?
てか、身長、
と、違和感だらけの姿が少しずつドアの陰から半身現れてみれば、なんと顔も違う――つまり、元彼じゃなく全くの他人だった。
その人は、瞬きもしないでこちらをじ――っと見たあと、「うちになにかご用ですか」って静かに、でもどこか探るように聞いてきた。
「あ、はい、あの、ここって――さんのおうちですよね?」
元彼の名を出すと、その人は『ああ』って顔をした。
「その人なら、もう引っ越したみたいですよ」
「引っ越した?」
「ええ、なんか急だったらしくて」
そう言われたものの、にわかには信じがたい。だって、と目についたものを例に挙げてみた。
「でも、傘とか置いてあるんですけど!」
外に立てかけてあったビニール傘数本と、自分が向こうの誕生日に送った、ちょっといい傘。
私にそれを指摘されても、その人は普通にまた『ああ』って顔をした。
「そうなんですよ、なんか夜逃げだったっぽくって、私物が結構残ってて」
「……そうですか……」
確かに、お金にもだらしなさそうだったもんな。夜逃げするほどかどうかは分からないけど、借金してても不思議ではない、と思ったところで今日の訪問目的を思い出した。
「あ、じゃあもしかして部屋に少女漫画残ってませんでした? 一四巻までの、ドラマにもなってた……」
その人はみたび『ああ』って顔をした。
「あるある、待っててください、今持ってきますから」
そう言うと、ドアはパタンと閉じた。みし、みし、と部屋の中に戻る足音が聞こえる。ここ、壁薄いんだよね。それで何度も困ったっけ。
かつては甘かった、今では苦いだけの思い出をリプレイしている間にまたみし、みし、と足音がして、ドアが再びぎいって開いて、さっきと同じように半身だけが姿を現した。
「これで合ってます?」
にゅっと差し出された手から受け取った見覚えのある紙袋と、欠けることなく揃っていた一巻~一四巻。
「合ってます合ってます! よかったー、もう読めないかと思ってた」
「ならよかった」
知らない同士なのに、その時ほんわかと笑みをこぼし合った。そして。
「……さっきあなたが使った鍵は、捨てたほうがいいでしょうね」
「……そう、ですね」
「よかったら、こっちで大家さんに返却しておきますけど」
「ああ、そうしてもらえると助かります。お願い出来ますか」
「はい」
かろうじて二桁は使ったけど、三桁に到達するほどには使われなかったスペアキーを、差し出されたままのその人の手に預ければ、もうここに残っている理由はひとつもない。
「……漫画ありがとうございました! じゃあ、失礼します」
「はい、ご苦労様です」
そんな言葉を交わして、ドアがぱたんと閉まる。
鍵がかかる。チェーンも。
みし、みし、と遠ざかる足音。
帰り道、なんだか頭がふわふわしてた。
夜逃げか。夜逃げね。
でもよかった。漫画取り戻せたから。
よかったことにしよう。
――考えちゃだめ。
あの時。
元彼の部屋から出てきたあの人から、鉄みたいなレバーみたいな匂いがしてたこととか。
漫画を受け取る時にちらっと見えてしまった、あの人のドアに半分隠れてた側、シャツがところどころ赤く染まっていたことだとか。
外廊下で漫画を待っている間、薄い壁の向こう、寝室のある方から『たすけて』って元彼のようなくぐもった声が聞こえたのも。
忘れよう。
「――最新刊買って帰ろーっと」
あの部屋の中で何が起きていようと、もう自分には関係のないことなんだから。