ワルツ
BLではないのですが男ふたりの話です。
「社交ダンスの人でも社交界のお金持ちでもなくワルツ踊る人って、俺ら以外にどれくらいいんのかな」
リードしながらの板屋のその問いに、俺はターンしながら「さあ?」と答えた。
「泰野おま、その塩アンサーやめろ」
「だって見当つかなすぎだろ。全くもって予想出来ないって」
「まーなー」
ナチュラルターン。俺たちが唯一踏めるステップ。
上から見たら、子どもが生み出すいたずら書きの線のように、くるくると旋回しながらどこまでも連なる緩やかなカーブが描かれていることだろう。
板屋とは何年も踊っている。
男二人で。
その心の声が聞こえたようなタイミングで、板屋も「男二人となるとなかなかレアなケースだよな」とつぶやいた。右耳にそれを聞きつつ「とりあえず男同士でなくてもワルツ踊る奴はうちの会社にはほかにいないだろうね」と、今度は塩じゃないアンサーをする。
そんな俺の心遣いも知らないで、板屋は「ウイーン支社には土地柄いるんじゃね?」などと変化球をぶん投げてきた。
「なんで拡げんの、国内限定」
「うーん、そうすっとすげえいなさそう」
「そんなの俺だって知ってるよ」
「だから俺ら踊ってるとこ動画サイトにアップしたら、めっちゃ食いつく人いそうじゃね? ほら、お前のチューターだった先輩とか」
「食いつかれてどうするんだよ……」
「んー、最後のいい記念になるんじゃない?」
そう、俺たちにはこれが最後のワルツだ。
そもそもは、新人歓迎会がきっかけだった。
当時新卒だった俺たちは『自主的に』何かしらの芸を皆さんの前で披露することになっていて、でも何をしたらいいかなんて入社一ヶ月程度で分かるはずもない。
どうする? と同じ部署に放り込まれた板屋と頭を突き合わせて悩んでいたら、自分のチューターだった三つ上の先輩に「あんたたち正装してワルツ踊んなさい」と問答無用で命じられた。
「や、俺そんなのしたことないです」
「俺も」
自分と板屋が慌ててそう言っても「私一応経験者だからまかせて。素人芸だしとりあえずいっこだけステップ覚えればいいから」とまるで聞く耳を持たない。
「てか、踊る用の服とか持ってないですって」
「知り合いに借りるから」
「でも、」
「泰野君と板屋君に、下品じゃなくて、そこそこ面白くて、場をそれなりに盛り上げられる出し物が何かほかにあるならいいんだけど?」
にっこりと笑む先輩に、それ以上反論は出来なかった。
それから、歓迎会までの約三週間、昼休みの前半に急いで飯を詰め込んで、あとの半分を練習に費やした。
雨が降らない限り、『ここだと秘密特訓が出来るから』と先輩に指定された社屋の屋上で。確かに、日よけになるようなものが何もないところに、夏の手前のこの時期わざわざ休憩しに来る人はいない。三〇分弱いただけで額やらうなじやら、露出している部位がもれなくじりじり焼かれてるのが分かる。とりたてて美容に意識が高い方ではなかったけど、屋上特訓を始めて数日で色んな人に『なんか焼けた?』と指摘されたので、板屋も俺も日焼け止めを塗らざるを得なかった(日焼けくらい自由にさせろとは思うが、人様からお預かりした資産で商売をしている会社でなおかつ営業という職業柄、チャラチャラしていると思われるよりは誠実さや清潔さがあると思われる方がいい)。
「体格的に板屋君が男性、泰野君が女性ね~」
「……ハイ」
先輩は日傘を差しながら、こちらが飲み込みにくいことをさらっと言う。けど、チューターと後輩という立場でお世話になった一ヶ月で、この人は優しそうに見えつつしっかりとした芯があり、一見ソフトにその実ゴリゴリ来る人だと分かったので、この段に来るともう反論する気も失せていた。とにかく、基本の姿勢やたったひとつのステップを頭と身体にたたき込むので精一杯だったというのもある。
覚えなければいけない業務、それに加えてワルツに関するあれこれで、俺も板屋もいっぱいいっぱいだった。
『このタイミングで熱でも出そうものなら、覚えたことをすべて忘れてしまうのではないか』と体調管理に一層気を付けたことも今では笑い種だが、当時はまじめにそう思ったものだ。
昼休みの半分だけでなく、動画を見ながら自分ちで自主練、終盤には休みの日にまでわざわざ時間貸しのスタジオに集合して――もちろん手配してくれたのは先輩――とにかく練習を重ねた。
その必死の頑張りが実を結び、俺と板屋は歓迎会で先輩が満足するだけの見世物が出来たらしい。正装した男二人が大真面目に繰り広げた一つ覚えのワルツは、『いちばん面白かったで賞』というどうしようもないネーミングの社長賞を見事にゲットした。
ちなみに、副賞でもらった食事券は、指導してくれた先輩との三人での祝いの座で使い果たした。そこで知ったところによると、あの熱の入ったワルツ指導は、先輩自身が『腐』というジャンル、いわゆる男と男の物語がお好みの人で『いちど生で見たかったんだよねー、男同士の社交ダンス!』という願望から来たらしかった。板屋と二人、『そんな超個人的な欲望のために俺らは……』と目と目で語り合ったのは、言うまでもない。
「じゃーお疲れさまー!」
若干の千鳥足で駅に向かう先輩の後ろ姿を見送って、「俺らも帰ろうか」と板屋に声をかけると「も少しいい?」と留められた。
「……別にいいけど」
二件はしごして、でもこの日は金曜で、終電にもまだまだ余裕のある時間で、じゃあ三軒目行きますか、とくるかと思いきや、板屋が向かったのは大きな公園だった。そこのシンボル的存在である噴水は稼働時間を終えて水の噴出を止め、ひっそりと眠りについている。
噴水のほとりに面した、いつもなら人通りのあるぽかんとおおきな広場の真ん中で板屋は歩を止めると振り返り、そして。
「踊ろうぜ」
「……本気で言ってる?」
「だってなんかさ、これでおしまいですお疲れさまでしたって、もったいないじゃん。こんな本気で頑張ったの俺ちょーひさしぶり。泰野は?」
「……俺も」
すっと身体の横に上げられた左手に、当たり前のようにこちらの右手を添えた。
板屋は、散々練習に使わせてもらった円舞曲を、スーツのポケットに入れたスマホで再生した。優美な曲にあわせて身体を揺らし、ステップを始める。もう、「イチ、ニ、サン」と無粋な掛け声がなくても、踏み出すタイミングが分かる。
身体を半分ずらし、密着して踊る。筆記体の『X』みたいに、一番くっつくのは胸で、互いの顔はそれなりに距離がある。とはいえ、普段の会社での距離感よりはかなり近い位置に相手の顔があることも確かで、思わず「酒臭い」と笑ってしまった。
「泰野もな! なあ、楽しいなこれ」
「うん、楽しいね」
「新しい扉開いちまったよな~」
「やらしい言い方するなよ」
そう言いながら二人とも酔っ払いテンションだったせいもあって、曲をループ再生させて気が済むまで踊った。
夜ふけの公園の小径には人がぼちぼちいて、めちゃくちゃ遠巻きに二度見(もしくは三度見)されてたけど、それでも踊り続けた。
終電間際、慌ててそれぞれの路線の駅に走るまで。
それからも、時々会社の屋上で踊った。
炎天下の昼休み。残業終わり。休日出勤の休憩時間。人がいないのを見計らって三〇分程度。
スポーツもしてないし、セックス以外でこんなに人と密着してどうこうすることってほかにない。そのせいなのか、『あ、今日こいつ機嫌悪いな』『あ、なんかいいことあったな』となんとなく分かるようになってた。多分向こうも。
でも、それも今日までだ。
がっつり踊るには、社屋の屋上は向いていない――夜はセキュリティの問題もあって長い時間は出ていられないし、警備の巡回もある――ので、あの歓迎会の日みたいに飲んだ後、同じ公園の同じ場所で、いつになくたくさん踊った。二人のスマホの音楽フォルダには、踊る用に三拍子の曲が何曲もストックしてある。それを片っ端からかけた。速いテンポのも、ゆったりとしたテンポのも。
「……なあ泰野、今日でワルツ踊んの終わりってマジでマジ?」
「マジでマジだよ」
「そんなこと言わずに、これからも頼むよ~」
「そんなに踊りたいなら奥さんになる人に踊ってもらいなよ」
「うちのはねー、『運動神経悪い芸人』レベルのアレだから。ま、そこがかわいいんだけどね」
「そのかわいい人に、俺はなんだか一方的に嫌われてるんだけど?」
「あー、踊ってること秘密にしてるからかな」
「言えよ!」
こそこそ隠し事してたら『何かある』って勘ぐられて当然だ。
でも板屋は「言わねーよ」と返しながらターンする。
「言ったら、なんか魔法が解けるみたいな気ぃすんじゃん」
そんな女の子みたいな。
そう茶化したかったけど、言えなかった。
俺も本当はそう思っていたから。
結婚するんだ、と伝えてきた板屋に、おめでとう、じゃあワルツも卒業だね、と言ったのは自分だ。
やだよなんで、と散々ごねた後、せっかくだからじゃあ最後に踊りまくろうよ、と言ってきたのは泰野だ。
どっちが結婚するのか分かんないな、と笑った。
板屋のことを、恋愛対象として好き、とかではない。同僚で一番、とか、親友、とか、そういった安っぽいタグ付けをしたくもない。
板屋はダンスのパートナーとして、とてもよかった。
とてもよかった、なんて平べったい言葉で言いたくはないくらいに。
上手く踊れない時もイライラせず、『わりー、俺覚えんの遅くって』と情けない顔で笑い、俺が自分の出来なさ具合にヘコんだ時には『とりあえず練習しようぜ、そんな急には上手くなんないだろうしさ』とさらっと言い放った。
いい奴だ。気持ちのいい男だ。
「……なあ、どうしてもだめ?」
ワルツは、踊る時互いの顔を見つめ合ったりはしないから、そう言った板屋が今どんな顔しているかは分からない。けど、きっと少しさみしげにしているんだろうな、と分かる程度には、俺たちは長く踊ってきた。たった一つのステップで。
「そういう未練がましい駄目男みたいなこと言うなよ」と俺が笑っていなせば、きっと今度はふてくされてるだろう。
普段そこまでものごとを引っ張らないはずの板屋は、それでもまだグズグズ言っている。
「俺が結婚するからって、『じゃあこれで終わりにしよう』って、やましい関係でもないのに終わらす方がどうかしてるだろ」
「馬鹿だな」
「あ?!」
「結婚式来月だっけ? いろいろ忙しくなるだろうし、結婚したらしたで家のことするだろ? 今までみたいに実家の母ちゃんが何でもやってくれるんじゃないんだから、奥さんに甘え倒さないで二人で何でもやりなよ。買い物も掃除も料理も洗濯も片付けも、子どもが出来たら育児も」
「……分かってるよ」
「分かってなかった返事っぽいよ。……ま、そういうわけだから、今後お前は自由にふらふら出来る時間はあんまないってこと。仕事終わりにのんきに踊るなんて論外だ。これからは遊びより、日々の生活を大事にしないと」
「……そっか。だよなあ」
板屋はうん、と頷いて、ホールドしていた手をきゅっと握った。
「だよなあ」
自分に言い聞かせるような声。未練を、雨粒のように地面に落とす声。
そのまま、次の曲まで黙って踊った。
「俺は結婚すっからこの先踊れねーけど、お前はどうすんの? 俺以外の誰かと踊んの?」
「いや、俺もこれが人生最後のワルツだよ」
たった一つ知っているステップだけを延々と踊ってくれるパートナーを募集しても、仕事終わりやちょっと空いた時間にすぐ付き合ってもらえるような、それも女性ではなく男性(もしくはリードしてくれる女性)、なんてそうそう現れるとは思えない。
かといって、社交ダンスの教室に通ってガチで男性側を踊りたいかと言われたらそれも違うし、となればやっぱり自分もここでワルツは踊り納めになる。
「……もったいないな」
思わず、と言った口調でしんみりこぼれた言葉に「お前もな」とこちらも同調して返す。
すると板屋はぱっと明るい曲に変わったように「あ、じゃあさ、二〇年後にまた踊ろうぜ!」と言ってきた。
「……は?」
しんみりはどこへ行った。
呆れる俺をよそに、板屋はさらに提案を重ねる。
「子育てが一段落すれば、たま~に踊るくらいいいだろ?」
「まだ婚姻届も出してないくせに……」
「うるせー。泰野もとっとと結婚してとっとと子ども育てて、二〇年後踊れるようにしとけ」
「ほんっと勝手だね!」
ああ、でもよかった。板屋の手前、平気なふりで諭しているけど、この時間を取り上げられるということに何の感慨も感じていないわけじゃない。こいつとのワルツを、今日でやめたくないのはこっちだって同じだ。
ほんとはずっとこうしてたいよ。ばかみたいな遊びをお前と延々としてたいに決まってる。
でもそれは、結婚という大きな節目に比べたら、とても些細なことだ。こんなわがまま、くらべるまでもない。
こうして一曲一曲踊りながら、おしまいを自分の中に染みこませようとした。でもうまくいかなかった。今日も気持ちいい板屋のリードで繰り返すターンは楽しかった。楽しい分だけ終わりがくるのが辛くて今日のこの最後のワルツを望んだ板屋が恨めしかった。
けど、胸の中で暴れまくっていた寂しさも未練も不満も、『二〇年後』の約束にくるまれて、今ようやくおとなしくなっている。
「言っとくけど、腹が突き出たメタボ中年と踊る気はないからな」と憎まれ口を叩く余裕さえ生まれたくらいには。
「その言葉まるっと泰野に返しとく」
「はあ?!」
「腹出んなよ。ステップ忘れんなよ」
「ドリフみたいに言うな」
「約束だかんな」
「はいはい」
「絶対だぞ」
「いーから。……曲、終わったから」
そういうと、しぶしぶ離れていく手と身体。
プレイリストは再生され尽くして、板屋のポケットからはもう何も聞こえてこない。
これで本当におしまいだ。
板屋は「じゃあ、また来週」と同僚としての挨拶の後、ニッと笑って「じゃあ、二〇年後に」と言って背を向けた。
「ああ。二〇年後に」
こちらも拒否せず素直に返すと、振り向かないままドラマか何かのように手を一振りして、地下鉄の階段へと吸い込まれていった。奴より若干終電に余裕のある俺は、のんびりと自分の路線の駅を目指す。
交わした『二〇年後』は、一九年後、一五年後、と順調にカウントダウンを重ねるだろうか。日々の生活の中で、書類や服に重ねられて紛れて、じょじょに忘れられてしまうだろうか。忘れてしまうだろうか。
でも、約束や未来なんてひどくあやふやなものだから、それでもいい、と思う。叶うのならもちろん嬉しいけど、板屋があの馬鹿げた提案を俺に言い出したことが、何より嬉しかった。これは断絶ではなくて、小休止だと言ってもらえたようで。まあ、二〇年は長いけどな。
記憶や感情はきっと、経年劣化で端っこの方からぽろぽろと欠けていく。それでも残るもの。いつか約束が消えたとしても、板屋と踊り続けた年月は、たしかに自分の中にある。
きっとそれはいつまでも、いたずら書きのような軌跡を刻み続けるんだ。




