君は悪趣味
君は俺が嫌がる事をすすんでする。『人が嫌がる事を喜んでします』と云う奉仕の精神とは真逆の意味で。
眠っている俺の眉毛の先を、君の長い爪の先で目が覚めるまでこしょこしょしたり。
肩をがじがじ齧ったり。
Tシャツの襟をひっぱったり。
他の男と仲良く喋っているところを、わざと見せつけたり。
『第一食堂にいるから来て。窓際席』
とそれだけのそっけないメールをもらって、俺は第一食堂へ向かう。行けるのに行かないと云う選択肢はない。そんな真似したら報復がまたひどいし、好きな彼女とはやっぱり会っていたいから。
そのメールを受け取る直前まで講義を受けていた教室棟から、呼び出された食堂の入っている棟はずらりと横に並んでいる建物の端と端だ。それを分かっていてのチョイスだろうな。俺を甚振る事にかけては、素晴らしく、頭の回る彼女だから。
俺が嫌がる顔を見ている時の彼女の顔は、悦びに満ちている。輝いていると云ってもいい。
でも、本当の本当に酷い事はしない。たとえば、痛い行為を強いるとか、尊厳をひどく損なうとか。――ただ時に、そのジャッジはとても際どい。
今日のこれは、ギリアウトじゃないのか。
彼女が親しげに話しているのは、俺の前に彼女と付き合っていた男だ。『自分と同じタイプだから、気は合ったんだけど付き合うとなるとちょっとね』と、いつか別れた原因を教えてくれた。どちらかが浮気しただのと云ったきな臭い事が別れの原因ではなく、あくまで友好的に別れて、なお友達づきあいがある、とは聞いている。一方的に顔は知っていたけれど、こうしてじかに顔を合わせるのはこれが初めてだった。
男の方が先に俺に気付いた。俺の方を見たまま、横並びに座った彼女の肩を抱き寄せる。
彼女は大して嫌がるそぶりも見せずに、笑ってそいつの肩に軽いパンチをした。
それを見せつけられて、頭から黒いペンキをかけられたような気持ちになる。
彼女にとって、ちょっと嫌だなあって思うようなスキンシップは屈折した愛の形だ。素直に好きって云えない、でも好きって云う気持ちが高まった時に発露するカタチ。
それと、苛められている時の俺の顔が、たまらなくセクシー、なんだそうだ。まったく、ほんとに趣味悪い。てか、性格悪い。
これはただの彼女の遊び。猫が虫を甚振って遊ぶのとおんなじ。分かってる。でも。
完璧じゃない彼女は、たまにエスカレートするとラインを読み違える。
このところ、彼女の仕掛けてくる嫌がらせにさすがに慣れたのか、前ほど彼女の望むようなリアクションを出来ていなかったらしい。忙しさもあって存分に構えていない自覚もあった。――でも。
俺は、ようやく目が合った彼女を見たまま携帯の電源を落とし、そして踵を返して食堂を出た。
いつもは彼女に合わせてゆっくり歩きだけど、とてもそんな気にはなれない。そもそも追って来るかどうかすら分からない。
まだ午後の講義が残っていたけれど、もう大学に居たくなくて、バスターミナルへと足を向けた。あと一回くらいはサボってもそれで単位を落とすような事にはならないと頭の中で確認済みだ。既に停車していたバスに乗ると、タイミングよく待たずに発車した。
窓の外は見なかった。
ウォークマンで音楽を聞いていたので、イヤホンの外の音は何も聞かなかった。
期待している何かがそこにいないのを見たり、欲しい声が聞こえないのが堪らなく嫌だった。
彼女からはメールと電話をいくつかもらっていたけど、とてもやり取りする気にはなれなくてそのまま放置させてもらった。
俺の態度から何かを感じ取ったのか、メールでごめんと殊勝にも謝る言葉を一粒。それからためらいがちなテンポで掛けてくる電話が、何本か。それも日を跨ぐ頃にはぱたりと止んだ。
でも今は出られないよ、いいよなんて心にもない言葉、君に云えない。
悲しいし悔しいし怒ってる。あんな事されてへらへらしてる奴はバカだ、と、笑って許す度量のない自分を棚に上げる。
ほんとは、今週末一緒に過ごそうと誘うつもりだった。日曜日は彼女の誕生日だから。
都合を聞いて、彼女の好きなお店を予約して、それからプレゼントの為に指のサイズを聞いて。
そんなのが、全部吹っ飛ばされた。
――もう、いい。
ちょっとだけ、そう思った。
家に帰って落ち着き、一応謝罪のメールも受け取ると少し頭が冷えたから、発作的に別れを告げる気持ちはとりあえず失せた。けど、煙草の煙みたいに心の中でいつまでも漂っていて、煙が消えても匂いだけがいつまでも消えないみたいに嫌な気持ちが消えない。
こんなのは初めてじゃない、もう何度か繰り返してきた。
今までも大丈夫だったんだから、今回も大丈夫。
そう思う気持ちと、真反対に心は振れる。またこんな事があれば次はもう駄目だ、と思ってる時点で今はまだ駄目だ。
ぐらぐらと揺れる天秤。
今会ったらちょっと何云うか分かんない。日頃大人しいからって、俺は別に感情が枯れてるわけじゃない。氷の張った川の、その氷の下に水は流れているし、百何十年も噴火してなくたって富士山にマグマは存在する。
意地悪で気まぐれで素直な君は、魅力的だけどたまにすごく一緒にいるのが辛い。
それから三日経って、ようやく気持ちが落ち着いた。
付き合うようになってから三日も顔を合わせないどころかメールも電話もやり取りしないのは初めてで、『一抜け』した自分の方が先に音を上げてしまいそうになる。
会いたい。会って、顔を見たい。
……謝りたいとは思わない。先にやり過ぎたのは向こうだ。まあ、こっそりと顔を見る位はいいんじゃないかと思ってるあたり、俺の方が負けてると云う自覚はある。
でも、そんな時に限って用事が重なりばたばたとしていて、彼女を見に行くどころではなくなってしまった。
昼になってようやく体が空いた。学食へ彼女を探しに行こうと思っていたら、一緒にゼミのイベント事を担当している女子からゼミ旅行の打ち合わせがてら昼を食べようと誘われた。来月に迫ったそれの宿の手配なども差し迫っているので、探しに行くのは一旦やめて一緒にゼミ室の最寄りの第二食堂で食事する事になった。
「日程表作んないとだな。それと印刷」
「印刷って印刷機? コピー?」
「三〇枚越えたら印刷機だって事務課の人が云ってた。だからコピーで」
「了解。それから宿の部屋割りなんだけどさ……」
お行儀悪く、ばくばくと食べてメモを取りながらしゃべっていた。パワーランチってこんな感じだろうか。
「あ、ここの資料館て予約いるかなあ」
ちっちゃな手のひらサイズのガイドブックの地図をちょんと示されて、よく見えなかったので身を乗り出して覗き込む。
「え、どこ? 全然分かんないんだけど」
「ここだよ、ここ!」
教えてくれる方の女子も、身を乗り出している。彼女の爪がちょんちょんと指し示してくれたおかげでようやくその場所が見つけられた。
「あー! ようやくわかった、ありがと」
「どういたしまして」
顔を上げると、案外近くに互いがいて、あは、と笑い合ってから離れた。彼女なら学食だろうと俺の部屋だろうと構わずキスするタイミングだよな、なんて、不埒な事を考える。
「そう云えば、まだ全然早いけど只野ゼミとの野球大会って教授に日にち聞いた?」
思い出したのでついでにと話しかけていたので、気付かなかった。
広げたノートに影が差した。
学食の蛍光灯が切れたのかと上を見ようとして、途中で目線が止まった。
俺たちのテーブルのすぐ横に、彼女が立っていた。
「……久しぶり」
たかだか三日会わないだけで何抜かす、という思いと、最後に会ってた時が会ってた時なだけに気まずい気持ちと、探しに行こうと思っていたのに向こうから来てくれて、照れ臭いような嬉しいような思いと、全部ごた混ぜになって、素っ気ない態度になってしまった。
彼女の顔をしっかり見ないまま、ノートにペンを走らせて、忘れないうちに打ち合わせ内容をメモする。
「今日はこっちでご飯? Aランチ、おいしかったよ、君の好きな豚の生姜焼きだった」
「……」
返事なし。
「そっちは、日替わり定食だっけ?」
無視してないよと云う意味合いも込めて、目の前の女子にも話題を振ってみた。急にごめん。
「え?! あ、うん、そう。今日は、あじフライ。おいしかったよ!」
「……」
やっぱり返事なし。
俺はこんなの慣れてるけどゼミの子に彼女が態度の悪い人だと誤解されたら不本意だなぁなんて思ってたら、さっきまで話し込んでいたその向かい側の子ががちゃがちゃとテーブルの上に広げていたリストやら何やらを慌ただしく片付けて、「じゃあ、あたしはこれで、話はまたゼミでねー!」と席を立とうとする。え、まだ全然話途中なのにと思っていたら、気遣わしそうな目で彼女をちらりと見て、「じゃあね」と行ってしまった。
ピークは過ぎてもまだ喧騒の残る食堂。人の往来もあるので、いつまでも通路に立っているのは他の人の邪魔だろうと、「……座って」と促せば、彼女は向かいの席に大人しく座ってくれた。
「お昼は?」
トントンとゼミ旅行関連の書類を整えて片付けながら問えば、ふるりと一回だけ、横に頭が振られた。
胸に流れ落ちる黒髪。そして未だ開かない彼女の唇と、聞かせてもらえないその声。
だんまりをこちらもと云うのは、大人げない気がして、謝らなくちゃいけないポイントだけ謝った。
「メールと電話ありがとう。返せなくてごめん。でも」
続きは、云わない。
俺が何に怒ってて何に傷ついたか分かるだろ? 君の描いたプラン通りだろ?
テーブルの上に、無造作に置いてた手の指先にクッと一瞬力を込める。それだけで、びくっと体を震わせるくらいに俺の事好きなくせに。
「ミサ」
彼女の名前を呼べば、ようやく目が合った。
いつもの、威嚇するような目じゃない。彼女の方が傷ついてるみたいに。
「俺を試すのはもうやめて。何されても、嫌いになんかなれないから」
苦しいけど、ほんと毎回打ちのめされるけど。
怖がりのミサは、俺の気持ちを試す。
こんな事したら、さすがに怒るでしょう?
こんな事しても、まだ好きでいてくれる?――バカみたいに彼女の事が好きな俺に、随分な仕打ちだ。
一人で間違った方、間違った方に考え込んでないで俺に云えよ、って話だ。
云えないで頭の中で何やらこじらすと、こんな風になる。
「何が不安? 何が嫌なの。全部は変えられなくても云ってみてよ」
「……だって」
第一声からもう泣いてた。
叱られた子供みたいに、彼女はぼろぼろと泣く。涙を堪えて平気な振りなんかしないで、アイメイクが流れるのもお構いなしで。
「ずっと、こわいかお、してた」
「そりゃあするでしょ、バイトと学校が両方忙しい時期なのに、彼女が神経に直接触るような真似ばっかりするから」
『食堂で彼女と彼女の元カレの仲良しな様子』の前にもちょいちょいやられてた。
三連休に入れた夜勤のバイトがやっと終わって、ああようやく彼女に会えると思ったらドタキャンされたり。
がっかりする気持ちで理由を聞いたら、『ごめーん、人数合わせで合コン出る事になっちゃって』と悪びれずに云われたり。
「だって、そうしないとあたしを見て、くれなかった」
「そんな事ないし、見てなくてもいつだって気にかけてる。……今日、わざわざこっち来てくれたの?」
確か火曜のこの時間は、彼女の方はこの食堂には来ない筈だ。
こくりと小さく頷いた。
「連絡、付かないから、どうしても巧に会いたかった」
彼女が、舌足らずにたくみ、と俺の名前を呼ぶのが好きだ。
「ごめん。頭冷やしてた」
俺のその一言で、こっちが最悪のパターンも考えていた事が伝わったらしい。
震える拳が、涙をぐいぐいぬぐう。
「あたしがまた、間違えたから。もう、巧に嫌われたと、思って……」
「嫌わない。知ってるだろ」
「だってさっき、他の人と、笑って、た」
泣きすぎてしゃくり上げるとか、ほんとに子供だ。
「ゼミ仲間なんだから、笑うくらいするよ」
「あたしには、笑って、くれなかった」
「そりゃあ、元彼と楽しく笑ってるとこにわざわざ俺を呼び出したりする君が悪いんでしょ」
「そうだけど、さびしかった」
「じゃあどうするの」
「……」
「俺に、どうして欲しいの」
「……」
「ミサ」
「……なさ……」
「もう一回。ちゃんと聞こえなきゃ、云った事にならないよ」
「ごめんなさい……」
「ん」
テーブル越しに俯いた頭を撫でる。
縮毛矯正とやらでつやつやな髪。でも、それしてない時のくせ毛の手触りも好きだ。ここが食堂でなく家ならと思う。そしたら、もう俺の手の中に入れて離さないのに。でもここは食堂で俺は彼女じゃないから、それをしたらどうなるかの後先を考えずに行動は出来ない。
「ミサ、今日バイトは」
「……お休みにしてもらった。昨日、全然戦力にならなくて、心配してくれたチーフに相談したら、『ちゃんと謝って話してきなさい』って云われた」
バイト先にも迷惑かけるとか、本当に困ったひとだ。こつんと頭に拳骨を落とした。
「明日チーフと、今日のシフトの人達に謝りな。それで、こう云うんだ」
彼女の耳に、囁く。
「『ご心配お掛けしました。あたしたちはもう大丈夫です』って」
そう告げたら、見る見るうちにまた大粒の涙を浮かべた。そして、まだ人の多いそこでガタン! と大きな音を立てて立ち上がり十分に衆目を集めながらこっちへ来ると、座ってる俺の首根っこにしがみついてきた。
あーあ。
俺は苦笑して彼女の背中をポンポンとするしかない。知らない奴にまで携帯やスマホで写真を撮られているけど、きっと週明けのゼミで『ちょっとー! 私がいなくなった後、彼女と食堂でラブラブだったんだって!?』って食い付かれてしまうけど、君の隣にいるって事は、こんな事態もよくあるからもう慣れた。
多分、大丈夫なのはほんの一時だけで、間違えやすい彼女はまたきっと時々間違える。
それをいつか笑っていなしてやれる男になりたい。いちいちこんな風に返す刀で傷つけない奴に。――まだまだ自分も駄目だなぁと反省した。
泣き止んだかなと云うタイミングでミサに声を掛けた。
「バイトがないなら、今日うちに来る?」
そう聞けば、俺の肩にすり寄せられていた頭が勢いよく上がり、ようやく赤い目が笑った。
「うん!」
いいお返事だ。思わずこちらの頬も緩む。
それだけで彼女にされた何もかもを赦したくなるんだから、本当に俺は悪趣味だ。