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愛の証明

 自分と同じくらいの男女が繰り広げてるそれはただ軽薄なごっこ遊びにしか見えず、生涯の伴侶を得ているものたちのそれは荷が勝つように思えた。

 人が人を愛するという事について、生まれてこの方梧堂(ごどう)はそのような感想しか持ち得ない。


 人嫌いという訳ではなく、数だけ見ればむしろ友人は多い方である。かれらの目に梧堂という男はスマートな社交家として映っている事であろう。けれども、かの男は体のぐるりに薄皮一枚分の真空でもめぐらせているのかと思う程、世界と自分とをきれいに別っていた。僅かに、しかし確かに。そしてしずかに。


 自分は、きっと人を愛することの意味を知らぬまま死んでゆく。梧堂は大した感慨も持たずにその予感を受け入れる。世界が美しかろうが穢れていようが、生れ持った境遇がよかろうが悪かろうが、自身には何ら作用しない。もしナイフで腹を刺されるような事態に見舞われたとしても、ひとごとのように『たいへんだな』などと言ってしまいそうだという自覚があった。

 神様は自分を拵える時に、こころを入れ忘れたに違いない。そんな寂しい気持ちさえ、他人事のようなかすかな痛みしか覚えない。


 梧堂の社交――精巧な作り物のような――と類まれなうつくしさに、いつだって人はふらふらと引き寄せられるけれど、誰もが長くは居つかぬまま去っていく。

「あなたは、一人でも生きていかれるのね」

 最後の一刺しなのか、はたまた去りゆく者が心より梧堂を案じて発するのか。思惑は様々あれど、皆おなじ言葉を置いてゆくのが、梧堂にはふしぎでちょっぴり面白かった。まるで、一子相伝の技のように同じ表情、同じトーン、同じ言葉で話すものだから。

 くすりと笑えば相手の顔がより悲しげになるところまで、同じであった。


「だからきみも、あまり執着しない方がよいですよ。愛の素晴らしさを理解させようなど、ぜんたい無駄な努力にすぎないのだから」

 その台詞には、どうにかして梧堂の心を動かそうと奮起する相手(こいびと)を、思い遣る温度があった。ただしそれは身を焼く炎にはならず、聞くものをまんぞくさせるほどの温もりもない。

「ええ」

 かの女はそれを受け入れたように思われた。

 けれど。


「わたくし、考えましたの」

 ある日、かの女は紅茶の椀を傾けながら微笑んだ。

「一つ、賭けをいたしませんこと?」

 梧堂はそれを聞いて微笑み返す。

「いいですね。何を賭けますか」

「いのちをもって、あなたへの愛が在ることを証明いたします」

「……何をなさるつもりなのか、僕には皆目見当がつきませんが」

 おやめになった方が。そう窘めるつもりが強いひかりを宿した目に射すくめられた。

「よいのです。ただし、あなたにも覚悟を決めていただきたいわ」

「では僕は、いったい何を?」

「わたくしと同じものを。怖ければ、何時でも降りていただいて結構よ」

「別段怖くもありませんよ。いいでしょう」

 何に対しても執着を持たない為、己の命にもさしたる未練を感じないらしい。

 女は、ゲームの盤上へあっさり乗ってきた男を「困った方」と笑った。


 高らかに賭けを宣言されてからも、梧堂と女との関係は少しばかりも変わりはしなかった。

 いつものように外で待ち合わせ、食事をし、一夜を共に過ごすだけ。てっきり、目には見えぬ愛とやらを、賢い鳥の発する言葉のように何度も繰り出されるのではないかと危惧していた梧堂は、その変わりのなさ具合に拍子抜けせざるを得なかった。それから、賭けについて幾分かは楽しみにしていたのだという事も自覚した。



 春が過ぎ。夏が過ぎ。


 ある日とつぜんかかってきた友人からの電話で、女がいのちを絶ったと聞かされた。


 その頃には、梧堂も常よりは深い情をかの女にのみ抱くようになっていた。気が付けば女はほかの誰よりもいちばんながい時間、梧堂に寄り添っていたのだった。

 かの男のこころや時間を毟り取ろうとはせず、誰かといる事にくっきりと疲れを感じる前にさりげなく離れる女は、梧堂にとって心地よい存在と言って過言ではなかった。

 外見にこころを大きく動かされることはないと自負していたが、かの女のちいさな、子供と女性のちょうど間ほどの大きさしかない、どこか頼りない手が、好きだった。一夜の逢瀬の後、背中に残される幾つもの爪痕を鏡に見ると苦笑ではなく笑みを浮かべてしまう。その理由は、梧堂当人にも分からない。

 その爪痕も消えぬうちに、女はこの世から消えてしまった。奇術のように、あざやかな幕引きで。


 友人の話によると、葬儀は既に、ひっそりと執り行われたという話だった。送る事さえ叶わなかった梧堂は、しらせのあった日、かの女との行きつけであったバーでひとり、弔いの杯をしずかに重ねた。

 女の好んだ、甘ったるい味をシガーでごまかしつつちびちびやっていると、思い出されるのは今まで交わしてきた何気ない会話。

 ――あなたはもっと、甘くない物が好みかと思っていました。

 ――これだけよ。これは、とくべつなの。

 ――おや、僕よりもですか? それはいただけないな。

 ――何をおっしゃるの。ご自分より大事なものなぞないくせに。


 落ち着いた店内に流されるジャズの音色。シガーの煙の向こうにかの女がいるかのような錯覚を覚えたが、立ちこめていた白紗がうすれ、元通りになっても、もちろんそこに女はいない。


 命を絶ったのは賭けのせいなのか、他の要因があるのか。梧堂が知る術はないが、これで終わりではないだろうということを何となく感じた。


 その晩、かの女の夢を見た。

 命が尽きたからであろうか、女の口は無声映画のようにぱくぱくと開くものの、肝心の声は一向に聞こえてこない。けれど、女と長くいた梧堂にはふしぎとなにを口にしているのかが分かった。

『はじまりますよ』

「ようやくですか。楽しみです」

 夢とはいえ、声なき死人との会話に一切のおびえを見せずにこにこと笑う梧堂を、肉体をうしなったかの女が窘める。

『後生だから逃げてくださいな』

「なぜですか?」

『このままではわたくしが、あなたの命の火を消してしまうから』

「賭けは最初から、命を掛けた遊びだったでしょう?」

 肩を竦めると、何時か聞いたのと同じ『困った方』という台詞を紡ぐ唇。痛ましいものを見るような、どうしようもないろくでなしを憐れむような、堕ちていくばかりの愛おしい男を心底突き離せないような表情まで、あの時とまるで同じだった。

『お坊さんや霊能者にたすけを求めれば、わたくしとの約束なぞかんたんに反故にできますのに』

「それでは僕がつまらない」

『……ほんとうに、よろしいのね』

「もちろん。男に二言はありませんよ」

 梧堂が力強くそう誓うと、かの女は『わかりました。それでは』と一言告げ、きれいにお辞儀をして見せた。その瞬間、夢の中に冷たい風が吹き付け、儚い幽体はあっというまに千切れて消えた。


 目を醒ました梧堂は、夢でのやりとりをはっきりと覚えていた。曖昧な箇所はふしぎと見当たらず、夢と現実とが一続きになっているような心持ち。――ふわふわと、頭のどこかが痺れたまま、身支度を始める。

 シャツを纏い、ズボンに足を通す。沓下を履かんと目線を落とすと、右足の甲に作った覚えのない小さな痣――時間が経っていたのか、暗緑色をしていた――がある。ただし、触ったり、少し強く押したりしてみてもなんら痛みはない。

 その時は気にも留めず、すぐに忘れた。


 一〇日後。

 足の甲をふと見やると、そこにはまだ痣があった。――大きくなっていた、が正しい。

 ぽつんと点のようだった暗緑色は、二寸ほどの長さになっていた。やはり痛みは感じず、ならばすぐに医者にかかる必要もなかろうと梧堂は沓下を履き、そしてまたすぐに忘れた。


 更に一〇日後。

 痣のようなものはますます伸び、そしてうんと増えた。右足だけだったものが左足にも生まれ、反対側に追いつかんばかりの勢いで日々育っていく。

 流石の梧堂も、一向に治る気配を見せないそれを訝しみ始めた。変わらず痛みはない。けれど、二掛ける二が四、四掛ける四が一六、という具合に、伸びる速さも増える速さもどんどんスピードが上がっているという実感があった。


 人の目につく箇所に増えてしまうと、言い訳が面倒だな。

 この段においても、梧堂はまだ暢気に構えている。


 そして懸念していた通り、程無く痣は梧堂の顔面や手にも出現した。それを悲痛に思う事も恐怖する事もなく、むしろ話の種になったと言わんばかりに「見てください。これ、何だと思いますか?」などと顔を指さして自ら問う始末だ。

 梧堂に話しかけられた御令嬢はきょとんとしてから、「いやですわ、なんのお芝居ですの? いつもどおりのきれいなお顔で」とコロコロと笑った。

「でも、梧堂さまがそうおっしゃるなら、わたくしにも何かそこにあるような気がしてきましたわ」


 何人に問うても答えは同じだった。そこから導き出される解答は一つ――他の人の目に蔓状の痣は見えていない。


 梧堂は己の手足、そして身体を検分する。そこにはもうびっしりと、年代物の西洋館のように痣が蔓延っている。

 人には見えぬ。梧堂の目にのみ映って見える。

 それこそが、かの女の呪い(ギフト)ではあるまいか?


 痣の織り成す文様は、かの女が好んだ夏の蔓草。

 鏡の中の姿は、まるでお経を書かれた耳なし芳一のようだ。

「けれど僕は、芳一に勝っているよ。やつは耳だけきれいなままだったけれど、僕は耳の中も耳の裏も、びっしりと生えているもの」

 鏡に向かって勝ち誇る。


 もしかしたら表面だけでなく、身体の内側も、臓物の壁にも、血管の中にさえもその蔓草はあるのかもしれない。

 そう気付いた時に、梧堂のこころに湧き上がった気持ちは恐怖ではなく、甘美なものだ。

 愛を信じない事が梧堂のモットーだった。しかし。

 誰よりも近しいところにいた女が、おわった命と愛を糧に蔓を伸ばしている。覆われていないのは胸の中心の心臓のあたりと、そして首回りだけ。それも、時間の問題だろう。

 蔓草はきっと、心臓と首に絡みつき、締め付け、やがて息骨を止める。

 いつまでこの心臓は動く? 僕を一人ころすまで、どれくらいかかる?

 梧堂が夢見心地でいる間にも、ずるり、ずるりと蔓が伸びる。


 やがて時は満ち、元はちっぽけな痣のようであった蔓草は梧堂の期待通り、梧堂を埋め尽くした。すると程なく体調を崩し、みるみる痩せていく。かつては体に見合った服もこっけいなくらいぶかぶかになり、その中で薄くなった体が泳いだ。


 嗚呼、いよいよ今夜、心臓がラストダンスを踊りくるっている。梧堂のこころは生を手放しているのに、身体が生きたい生きたいと泣いている。

 蔓の締め付けは心臓だけでなく首にも及び、ぎりぎりと千切れんばかりの強さを持ってかの男を戒める。

 


 ふいに、梧堂から一切の苦痛が遠のき、かわりに女の気配が満ちた。姿は見えぬままで、手を伸ばしても何にも触れない。けれど。

「わたくしの勝ち」

 囁く声がかの女のものであるのなら、と梧堂は笑う。

 かの女の前に跪き、許しを請うのだ。『信じます』と。



 ――A署の警察官が踏み込んだ部屋からは、部屋の持ち主である男の死体が発見された。

 周囲への聞き込みにおいて氏には自死するような動機が浮かばず、部屋には何者かが侵入した形跡も凶器もなかった為、結局は不審死として処理されることとなった。

 交友関係の広かった男の死を悼む人々は数多く、葬儀場はたくさんの花と弔問客で埋め尽くされた。

 そのうちの一人によると、棺の中の梧堂氏はひどく痩せていたものの、たいへん幸せそうに笑みを浮かべていたという話だ。



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