ゆいつの存在
猫が人の言葉でしゃべるのを、二度ほど聞いたことがある。
そんなの、猫好きではない人には笑われるか『コイツ大丈夫?』って思われるだろうから言わない。しかも、うとうとしている時のことだからなおさら。でも、確かに聞いたんだ。
まい――僕の唯一の猫だった――は、たった二回(生きている時に限れば一回)、流ちょうに話すヒト語を聞かせてくれた。
一度目は、当時付き合っていた彼女と円満とは言えない形で別れて、ひどく酔ったままベッドに入った夜。
目を閉じていてもぐるぐる回る視界と、彼女との思い出と『なんで』っていう思い。そのごった煮は自分の中でどろどろの、よくないものになる。二股かけた女なんて、僕より何倍もひどいやり方で振られちまえ。一度は結婚まで考えた相手をそんな風にまで思ってしまった。心の小さい自分が心底嫌になる。――もう寝てしまおうと無理やり目をつぶった。
現実と夢が入り混じっているような意識の中でも、愛猫の足音は聞き間違えたりしない。ざり、と舐められた頬の感触だって。
その時まいは、「元気出して。隆弘は素敵よ」と聞き覚えのありすぎる声色で言ってくれて、そのせいか悪い夢は見ないで済んだ。
翌日、「……まいさん?」とおそるおそる話しかけてみたものの、返ってくるのはいつも通りの猫語。つんとすました横顔からいつまたヒト語が飛び出すかと期待していたけれど、能ある猫のまいは、上手に上手に爪を隠した。
猫ばか覚悟で言うけれど、初めて会った時からまいはとても聡明で、気高く美しい猫だった。
雪の降る中、ひとりでうろついていたその子猫は、『帰りたいのに、帰り道が分からなくなっちゃったのよ』と言いたげに、僕に向かって一声鳴いた。
『僕のうちに来る?』とナンパしてみると、にゃーとお返事、そしてジーンズの足に頭をすりすり。
そうしてまいは、僕の猫になった。ちなみに名前は『迷子』から命名したのだけれどどうも当人は気に入らなかったらしく、最初のうちは呼ぶと子猫ながら低―い声でお返事をされてたっけね。……成猫になっても機嫌が悪いと僕の呼びかけ無視してたな。
まいは僕の生活の中心だった。
女王様で、世界で一番価値のある存在だった。
何年も、僕のそばで気まぐれに相手をしてくれた。
野良だったくせに元気なうちは一度も外に出ようとせず、小さな僕の部屋の中(と、定期的に行く動物病院)だけで満足げに暮らしていた。
自分より小さいその生き物の命が自分よりうんと短いということは、最初から分かっていた筈だった。でも実は覚悟などちっとも出来ておらず、その命のともしびが消えかかっているのを目の当たりにするようになってから、僕はよくこっそりと泣いた。むしろ彼女の方がどっしりと構えていて、目を赤くして寝室から出てきた僕を『こんなことで泣くなバカ』と言いたげに睨み、弱った体で猫パンチをくれた。
最後の方はそれも出来ないくらい衰弱してたくせに、どうやってうちから出て行ったんだろう。今でも分からない。
猫は死期を悟ると姿を消す。それも知識としては知っていた。まいは違うと、勝手にそう思いこんでいた。それを認めたくなくて、何日も、気のすむまで探した。
絶対に行かないであろう隣町まで探索に出掛けて無駄足だった帰り道、『ああ、もう帰ってこないんだな』とようやく認めることが出来た。
ぽっかりと空いてしまった穴。それをどうしたらいいのやら分からず、しばらくは最低限しなくてはいけないこと――睡眠、食事、ゴミ出し、仕事――だけを単なるルーティーンとしてこなす日々。
自分と同じような境遇の人は、どうやってこの状況から立ち直ったのか。それを知りたくて、まいがいなくなってからとんと見ることのなかったパソコンを立ち上げて、
壁紙のど真ん中に、見知らぬ文書のショートカットを見つけた。
タイトルは、『隆弘へ』。
なんだろう。気持ち悪い。そう思いながら、セキュリティソフトを立ち上げてこのパソコンがウイルスに感染していないことを確認してから、その謎文書を開いた。
隆弘へ。
わたしよ。名乗るのも忌々しいけど、まいよ。
ひどいいたずらだって思う? でもあなたは、私がバカじゃないってしってたでしょ。
――この書き出しだけで、これが本物だって、僕にはわかった。
びっくりした? あなたのパソコンやテレビを眺めてるうちにわたしも読み書きができるようになりました。もちろん、おしゃべりも出来るのよ。なのになぜ隠すかって? 実はコミュニケーションが取れるなんて人間にばれたら面倒だからです。でも、隆弘ならいいわ。
たぶん、あなたはわたしをひっしに探して、見つからなくて、ひどく悲しんでいるんでしょうね。そんなに悲しむもんじゃないわ。生き物は必ず死ぬのです。それが早いか遅いか、それだけです。
それに、わたしは隆弘に拾われて、本当に幸せだった。ゆいつ、気に入らなかったのは名前が安直過ぎたことだけ。あれはいけません。もっと、かっこよいかすてきな名前でないと、猫には嫌われます。
「それは、こまるな」
ディスプレイを眺める目から、拭っても拭っても出てくるもの。せっかくの手紙が見づらくて困るのに、止め方なんて知らない。
だって、まいが。
僕に、言葉をくれた。幸せだったと教えてくれた。
弱った体で、手紙をしたためてくれた。
まいの不在、即ち死はまだまだ悲しいけれど、きっとこの先も泣いてしまうけれど、それでも。
その手紙は、『こんなことで泣くなバカ』と僕に伝えるためのもの。万事スマートに事を運びたい猫、その中でも特にそんな気質の彼女が、わざわざこうしてくれた。
僕のかなしみを、猫の毛一本でも軽くしようという思いひとつで。
隆弘は、私にとってゆいつの人間です。でも、あなたは私をゆいつにしないで。
アパートの駐車場の横の林に、お腹の大きな野良がいます。これをあなたが見ている頃には生まれているはずです。多分私ほどは賢くないし、私ほどきれいでもないだろうけど、どうか生まれた子を次の猫にしてあげてください。そして、すてきな名前を付けてあげてください。
それが私の、この世での最後の望みです。じゃあね
まいより
ティッシュを何枚も出して、涙も鼻水も拭きまくった。それから、まいのお願いを叶えるために――まいを探すためではなく――、外に出た。
子猫は一匹だけ残されていて、そいつはまだ何とか生きてた。
数年前と同じに、動物病院へ連れて行き、数年ぶりに子猫のお世話をした。仕事のある日はクタクタのヨレヨレになりつつ。
この子はまいとは全然違う。だからこそ、救われた。なまじ似ていたら『まいならもっとこうしたのに』なんてつまらない思いにいつまでも囚われていただろうから。
季節が変わって衣替えをして、セーターについていたまいの毛にうっかり悲しくなってしまうこともあった。でも、どっぷりとその感情に飲み込まれてしまう前に、子猫、――真っ黒なので夜と名付けた――がガリガリと研いでもらっては困るところで爪を研ぎ始めたりするので、おちおち悲しんでもいられない。
名前は、まいに念押しされたことなので慎重に付けた。考えなしだった僕なら『黒いからクロ』ですませていただろう(おおよその人が僕と同じだと思うけど)。今の僕なら、まいになんて名付けるかな。クイーンかな。堂々としていたからね。
そう思いながら寝た日には、「夜って、素敵な名前ね」と夢うつつの耳元で褒めてもらえた。
夜は無邪気でかわいい。こうして引き取って一緒に暮らしている現状は、まいが『唯一の猫』ではない、ということになるのかな。でもね。
僕は君を忘れないよ。夜の名を呼ぶたび、まいと呼ばれて不機嫌だった君を思い出すよ。
君がくれた手紙をいつまでも大事に取っておくよ。君の声を、話してくれた言葉を、誰にも渡さずに僕だけの秘密にするよ。
そんな風にしていたら、いつか夢うつつの僕に『こんなことで泣くなバカ』って言ってくれるかい?